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2005年5月

2005年5月31日 (火)

今度は一冊残らず売るぞ!

syoten 人間、追い詰められないと、なかなか動き出さないものだ。奇蹟のような『薔薇族』復刊で、これが失敗したらもう後がない。

忙しいのは分かっているから、断られても仕方がないと、美輪明宏さんに電話をかけてぼくとの対談をお願いした。なんと美輪さん、快く引き受けてくれた。

復刊第1号と、復刊第2号と、美輪さんとの対談が目玉になった。海野弘さん、丹尾安典さん、宇野亜喜良さん、唐沢俊一さんも原稿を寄せてくれて、ゲイ雑誌では考えられないような格調高いものにすることができた。

ゲイバァにも足を運んで、マスターたちから話を聞きだしている。若い頃はあちらこちらと足を運んだが、最近はスタッフにまかせっきりで雑誌を作っていた。

本屋さんにも直接訪ねて、『薔薇族』を売ってもらうことをお願いしたことなど、ほとんどしなかったが、今度ばかりはそうは安閑としていられない。

わが家の地元の下北沢、ぼくの住んでいる南口の商店街にあった2軒の書店もなくなっている。成徳学園の通りにも2軒も書店があったが、これも廃業してしまった。一番街のもっとも古い鳥羽屋書店も5月末日で店を閉める。

あと残っているのは、北口のスーパー「ピーコック」の3Fにある三省堂書店、しかし『薔薇族』は置いていない。「ピーコック」の前にある博文堂書店下北沢店(世田谷区北沢2-24-3 TEL03-3460-1141)ここには復刊第1号が10冊入っていた。

店長の熊田さん、すごく感じのいい方で、美輪さんとぼくとが対談しているところのカラー写真を棚に貼ってくれた。残念なことに1冊売れ残ってしまったが、9冊は売れた。2号目が出た21日、お邪魔してまた、写真を『薔薇族』が並んでいる棚に貼らしてもらった。「女性にも読んでもらいたい」と書いたので、今度は1冊残らず売れるに違いない。

復刊3号目は、今、人気上昇中のテレビや雑誌でひっぱりだこの唐沢俊一さんとの対談を予定している。

◆『薔薇族』の購入はhttp://www.barazoku.co.jp/riyouhouhou11.htmからもどうぞ。

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2005年5月30日 (月)

「勝ちゃん」は心のオアシス

kattyann 復刊第2号の『薔薇族』が18日に出来上がり、新橋の特集でインタビューに応じてくれたゲイバァ「勝つちゃん」に届けに行ってきた。

一度しか行ったことがないお店だけど、特集の中に見開きで地図が入っているので、それを頼りに訪ねたが迷わずにたどりつくことができた。これなら読者もこの地図を見ながら行けば大丈夫だなと安心したものだ。

「勝ちゃん」の扉をあけると、カウンターにお客さんがいっぱい入っていて、カラオケで歌っている。

マスターは「わざわざ届けてくれて」と恐縮してビールをおごってくれた。「勝ちゃん」はフケ専のお店だから、お客さんはみんな50歳以上の人ばかりだ。次から次へとカラオケで歌うが、どの人も上手なのには驚いてしまう。インタビューのタイトルに「ゲイバァって、ゲイの人の心のオアシスですね」と付けたが、その通りだと思う。

お客さんの中には、結婚していて奥さんや子供が待っている人もいるだろうし、ひとり暮らしの人も多いだろう。ここで飲んで歌って一日の疲れをいやして帰っていく。

お酒の弱いぼくは、ビールの中ビンを2/3ほど飲んだだけでお店を後にしたが、こんな店が近くにあればちょくちょく行くだろうにと思ってしまう。

マスターは大手の新聞社で定年まで35年もつとめあげた新聞記者だった。だからお店を開業する3時間前にインタビューに応じてくれたので、お客さんが入ってくる前にゆっくりと取材ができた。

「勝ちゃん」のお店の名刺の裏には「生きて甲斐ある人生を! モットーにして汗を流しています。」と刷り込んである。

インタビューが終わって、3Fのお店から降りてきて、表通りまで見送ってくれたのには感動してしまった。

次の日のことだった。家に帰ってから、ぼくが書いた記事を読んでくれたらしい。電話をかけてくれて、記事がよかった。よく書けていると、さすがに長いこと編集長をやっていた人の文章だと。

お世辞だとは思うけれど、新聞記者だった人の言葉だから素直にうれしかった。“文は人なり”というけれど、見たまま、思ったことをそのまま書くように心かけている。

「今度ひるまはひまだから、お食事でも」と言ってくれた。ひとりでも「勝ちゃん」もお店を訪ねてくれる読者がいるといいのだけど。

(勝ちゃん TEL03-3434-6881 定休日 日、祭)http://www.kacchan-sinbasi.com/

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2005年5月29日 (日)

時代を先取りした『ムルム』という雑誌

mulm1mulm3mulm2『MLMW・ムルム』(MY LIFE MY WAY)という雑誌をご存知だろうか。創刊は1977年・7月。『アドン』というゲイ雑誌を発行していた「砦出版」の刊行で
編集長は南定四郎さんだ。

週刊誌大の判型で、頁数は142頁、定価は1000円だ。表紙だけを見たら、なんの雑誌かまったく分からない。

編集後記には、こう書かれている。「『ムルム』は独身で過ごす人、また世帯を持ち家族と同居していても、精神は独身者でありたい人や、遊ぶときは独身者のつもりでという人々が、自分の人生や生活を工夫し、楽しむときの伴走者になりたいと考えています。」

南定四郎さんは『薔薇族』創刊(1971年)の頃、小説を書いたり、単行本も2、3冊、第二書房から出していた人だ。3年ぐらい経ってから独立して『アドン』を創刊した。

今までのゲイ雑誌にないものを出したいと思って創刊した雑誌だから、お洒落で気取っていて、都会的な雑誌だった。最初の15号までは、隔月刊で、それから月刊にふみきり、しばらくして今度は季刊になり、廃刊になってしまった。

ゲイだということを公表できない隠れゲイの著名な執筆者たちが、この雑誌ならということで登場しているので、うらやましいような人たちが名前を連ねている。

この雑誌が長く続かなかったのは、広告が取れなかったからだ。一般の業界の広告を取るまでには至らなかったこと、月刊になってから入稿した広告はゲイバァとハッテン場の広告が数軒入っているだけだ。

結局のところ購入する人は、ゲイの人、それも都会の若い人だけで、全国的には売れなかったのでは。だんだん内容が希薄になり、力が弱って行くのが目に見えるようだった。

取り上げる内容が、バレエ、モダンバレエ、演劇、映画などが多いから、これでは地方の人は買わなかっただろう。

第二書房から『褌遊』(こんゆう)という写真集を出した栗浜陽三さんの作品が『ムルム』の初期の頃にずっと載っている。栗浜さんは有名な叙情画の画家で、戦後の一時代を作った方だ。美少女を描く画家の多くがゲイだということ、これはまた改めて書くことにしよう。

表紙を描いている竹内条二さん。この素晴らしい才能の出会ったことが『ムルム』にとっても『アドン』にとっても幸せなことだったが、あまりにも使い過ぎてしまったようだ。とにかくこの時代に、こんなお洒落な雑誌を出した南定四郎さんって、すごい才能の人だなって思うが、結局は編集者のマスターベーションに終わってしまった。

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2005年5月28日 (土)

女流作家を妻に持って

sakka  1990年6月に毎日新聞社から刊行された『作家の風景」の著者は小島千加子さんだ。小島さんは新潮社でずっと文芸誌『新潮』の編集者として定年まで勤められた方だから、多くの有名作家と深いお付き合いのあった方だ。この本には川端康成、三島由紀夫、室生犀星など、17人の日本を代表する作家たちと深いお付き合いが浮き彫りにされている。

その中でとくにぼくが興味を持ったのは、女流作家の円地文子さんのことだ。ぼくは不思議なご縁で、円地さんのご主人の与四松さんと何度もお会いしていて、小島さんの知らなかったことをぼくは知っていたからだ。

銀座の数寄屋橋、現在はソニービルが建っているあたりに、大通りに面して大雅堂書店という本屋さんがあった。そこのご主人がなぜかぼくのことを気に入ってくれて、『薔薇族』創刊号から直接仕入れてくれていた。

いつも決まった日に、決まった時間に自分で運転する車で届けていたから、『薔薇族』が到着するのを首を長くして待っていてくれるお客さんが何人もおられた。『薔薇族』が届くとすぐさま表通りに面したウインドーの中の一番良い場所に飾ってくれるのだからうれしかった。

そこで円地文子さんのご主人の与四松さんと出会ったのだ。なんと参議院議員でもあった今東光さんともお会いして、大きな名刺を頂き「遊びにきなさい」と声をかけてもらったこともある。

与四松さんからは東海大学教授の肩書きの名刺を頂いたと覚えている。国立国会図書館の創設に力を貸した方だそうで、そこの応接までお話を何度かさせて頂いた。家を建て替えるので「君にゲイの資料をあげるから取りにきなさい」とまで言ってくれた。

小島さんは円地文子さんのことをこう記している。生活の匂いのまったくない人、それは明治の国文学者の上田万年博士のお嬢さんだったからだと。自分の手でお米をといで、ご飯を炊いたことが一度もなかったそうだ。

与四松さんは東京日日新聞のベルリン特派員で、ドイツの飛行船、ツェッペリンに同乗して日本に帰国した花形記者だった。その頃お見合いをして結婚したが、文子さんの好みには与四松さんは合わなかった。

新聞社を退職した与四松さんは、自分で事務所を持ったり、外国に出かけたりで忙しい妻文子さんに苦情一つ言わず、好きなようにさせていた“寛容の人”だったようだ。

与四松さんが亡くなったときに、文子さんは「考えてみれば、本当に可哀相な人でした。私と結婚していなければ、もっと平凡でやさしい奥さんをもらっていたら、こんな寂しい晩年を送らなくてもよかったのに、悪縁ですね。」と涙をこぼしたそうだが、与四松さんとしては、妻のためにサービスをする必要もなく“自分勝手な生活”に恵まれたと言える。

この時代のゲイの人は結婚しないわけにいかなかったので、お見合いをしてでも結婚して、努力してセックスをし、子供を作っている。

与四松さん夫婦にもひとり娘がいるそうだ。恐らく子供ができてからは、セックスはなかったに違いない。だからこそ文子さんは作家として仕事に打ち込むことができた。与四松さんは食事も自分で作ったろうし、着るものも自分で選び、なんの不自由もなかっただろう。ゲイとしての生活を自由にエンジョイできた幸せな人だったといえる。

与四松さんがぼくにくれようとしていたゲイとしてのコレクション、どんなものがあったのだろうか。恐らく亡くなられて捨てられてしまったと思うと、悲しい気持ちにさせられてしまった。

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2005年5月27日 (金)

疲れたのでやめます。

tobaya 下北沢の一番街にある鳥羽屋書店のご主人に注文してあったぼくの著書『編集長「秘話」』(文藝春秋刊・定価1500+税)5冊と、澁澤龍彦さんの未亡人、澁澤龍子さんの書き下ろしエッセイ『澁澤龍彦の日々』(白水社刊・定価¥2000+税)1冊を届けてくれた。

ぼくは留守していたが、置いていった名刺に「5月31日で閉店します。ご注文は21日までに」と書いてあった。

鳥羽屋書店は戦後すぐの昭和22年に開店し、先代は90歳、63歳の息子さんと奥さん、亡くなったおばあさんもつい数年前までお店のレジに立っていて、家族で支えてきたお店だ。

なんとわが社の第二書房も昭和22年に父が設立、2代目のぼくが後を継いでいたのだがついに廃業せざるを得なくなくなっている。

本の注文がくると、昭和の20年代は風呂敷包みを背負って、渋谷から須田町駅行きの電車に乗って、いわゆる神田村と言われていた本の取次店に届けていた。それからスクーターに乗り、自動車になっていったが、スクーターの時代は長かった。その頃は都電の線路があったから、雨が降り出すと、すべってよくひっくり返ったものだ。

鳥羽屋書店のおじいさんも若かったからオートバイで取次店の店売所(本屋さんが仕入れにいくところ)でよく出会った。

『薔薇族』が創刊200号を迎えたときに、新宿のヒルトンホテルで盛大に祝賀パーティを開いたが、そのとき鳥羽屋さんのおばあさんとお嫁さんを招待した。

ぼくはパーティを開くときは、いつも蔭の存在の人たちを招くことにしていた。そのときは取次店の返本倉庫で黙々と働いている人、印刷所の職人さんも招いて、舞台にあげてみんなに花束を贈呈したことがあった。

鳥羽屋書店のおばあさん、『薔薇族』をお店に置くことを嫌がっていたがやっと説得して置いてもらえるようになり、最盛期には2、30冊も売れていた。

出版社をしていると問屋さんで安く本が買えるのだが、小売の書店を大事にしなければいけないと思っているので、ずっと鳥羽屋さんに注文をだしていた。そんな仲だったから鳥羽屋さんの廃業はショックだった。家賃を払っているわけでなく、家族だけでお店を支えているのだから、本が売れなくなったとは言っても、まさか廃業するとは思わなかった。

早速、お店を訪ねてみたら、ご主人は「もう疲れたから」ということだった。ぼくよりも10歳も若いというのに。ぼくも疲れているけれど、やめるわけにはいかないのだ。

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2005年5月26日 (木)

雑誌を手に持ったとき、ほっとするような

2005-7 下北沢の北口駅前の博文堂書店、『薔薇族』復刊第1号が10冊入って9冊売れていた。2号が出るまでには、完売するかもしれない。

ポルノショップでは、バラツキがあるようだが、追加注文を出してくれた店が多かったので売れ行きはいいようだ。全国の書店ではどうなのかはまだ分からないが、よく売れていると信じたい。

とにもかくにも美輪明宏さんの友情のおかげといっていいだろう。美輪さんとぼくとの対談がなかったら、と思うとぞっとしてくる。

八王子にすむHさんは、こんなことを書いてきた。

『薔薇族』復刊おめでとうございます。『薔薇族』は私が男に興味をもってから、毎月買わせて頂いています。
『薔薇族』がなくなったときは、とてもさみしくなりました。私は10年近く毎月買っていたからです。今後もずっと続けてくださいね。

大方の読者は、復刊したことを素直によろこんでくれたようです。いままでずっとあったものが、急になくなってしまったら、妙にさびしくなってくるものです。

人間だって同じことで、亡くなってみて、初めてその人の存在を感じるのでは。さて、これから先、ずっと『薔薇族』を出し続けて行くのは至難の技です。これからますます活字ばなれは進んでいくでしょうし、ネットや携帯電話にはない魅力を雑誌が持たなければ、続けてはいけないでしょう。

上野、新宿、新橋と何軒ものゲイバァのマスターにインタビューしてきましたが、やはり繁盛しているお店というのは、その店のマスターの人間的魅力で、多くのお客さんが心の安らぎを求めて通ってくるのでは。

お店の内装とか、ムードのいい悪いもあるでしょうが、最後はマスターの人となりではないでしょうか。

新橋の「勝ちゃん」というお店のマスターは、ぼくより年上の76歳ですが、大手の新聞社の貴社生活を勤め上げた人。人から話を聞きだすのが上手なのは、新聞記者を長いことやってきて、その体験から身についたものでしょう。

インタビューが終わって、別れをつげた後、3階のお店から狭い階段を降りてきて、出口まで見送ってくれたこと、これはなかなかできないことです。ぼくですら、また立ち寄ってみたいなと思ったぐらいでした。

雑誌だって同じこと、また読んでみたいなとも思い、何かほっとさせられるものがある、それが一番大事なことなのでは。

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2005年5月25日 (水)

景気がよくなってきたというのは嘘

不払い、減っていない。NHKの会長は、12日の定例会見で、不祥事を理由にした受信料の不払いについて“減っていない”との認識を示した

確かに次々とNHKの職員の不祥事が暴露されて、それに怒って、受信料を払わないという視聴者がどんどん増え続けている。
NHK側でも人事を一新して、会長も変わり、信頼回復に全力をつくしているけれど、それでも不払いの視聴者が増え続けているという。
『薔薇族』の復刊第2号の7月号で、先月号に続いての美輪明宏さんとの対談の中で、NHKの問題も話もあった。

ぼくがNHKのことを悪く言う人もいるけれども、やはりNHKの番組は立派ですよね。と切り出したら、美輪さんは「立派ですよ。だから私は受信料を払わない人たちに、“あなた見ているしょう?”と言うの。“地震のときだ何とかって、必ずNHK見ているでしょう?って。
ねえ、あれは払いたくないから、難癖つけて詭弁を設けて払わないだけなんですよ。払わない人はずるいの。
“じゃあ、あんたたちNHKだけ外して持っていってくださいと言いなさい”と言うの。それぐらいすることできるんでしょう。NHKを見なきゃいいんですよ。」

NHKの3チャンネルの教養番組の素晴らしさを褒め、じつに役に立つ番組だと強調している。それに比べて民法の番組はひどすぎる。今も日曜洋画劇場をみてしまったけれど、あまりにもCMが多くて長すぎる。5分おきぐらいに入るのだからたまったものじゃない。保険会社のCM、あんなのべつ幕なしにやられたら、かえって反発したくなくなってくる。

民法は広告料で経営が成り立っているのだから仕方がないと思うけれど、視聴率ばかり気にして同じタレントばかりを使っているのだから、いい加減に嫌になってくる。

受信料の不払いが増え続けているということ、これはNHKの不祥事を理由にしての不払いは最初だけで、それから続いている不払いは不景気のせいだとぼくは断言する。

トヨタが一兆円を超える利益をだしたというけれど景気がよくなった会社は一部だけでほとんどの中・小企業は年々悪くなるばかりだ。だからたとえ受信料は僅かな金額かも知れないが、少しでも経費を切り詰めようとしているからではないだろうか。

ぼくは税務署の協力団体である法人会の役員をやっているが、法人会の僅かな会費を払いたくなくて、脱会する会社が増え続けている。

景気がよくなったというのは、政府の嘘っぱちだと言いたい。

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2005年5月24日 (火)

少年愛の人は先生になるなと言うけれど。

shounenn 5月13日付の朝日新聞の朝刊にこんな記事が載っていた。

受け持ち男児にわいせつな行為=都教委、教員を懲戒免職

ああまたかとつらい気持ちにさせられてしまう。それは教え子の女の子であったり、男の子であったり、こういう記事はそう珍しいことではなくなっている。

「都教育委員会は12日、区部の男性小学校教員(24)が男子児童にわいせつな行為を繰り返したとして懲戒免職にしたと発表した。

都教委によると、この教員は小学3~4年生を担当していた03年9月から04年9月頃にかけて、児童数人を自宅に招いた際、受け持っていた男子児童の陰部を直接触ったという。保護者からの訴えで発覚した。教員は“子供たちと、とっくみあいなどをして遊んでいるときに、してしまった”と行為を認めているという。」

『薔薇族』の復刊第1号の美輪明宏さんとの対談の中で、少年愛の話を持ち出したのですが、個人の趣味嗜好の問題だからと軽くあしらわれてしまった上に、子供が目の前にいる職業につくからいけないと、言われてしまった。

しかし、現実には少年の好きな人は、学校の先生や、塾の先生など、子供と近くで接しられる職業についている人が多いということは間違いない。

美輪さんにさからうわけではないけれど、ゲイの人は女ばかりが働いている職業につけということになってしまうではないか。

復刊第1号にも少年愛の人たち向けの読物、イラストを用意していたが、ことごとくボツにされてしまった。仕方がないことだけど、お飾りだけの編集長って悲しいものだが、これは読者のために我慢するしかない。
少女の首に犬の鎖をつけて、少女に「ご主人さま」と呼ばして監禁していた男が逮捕され、世間の人はびっくりしているが、SM雑誌を読んでいる人にとっては、驚くほどのことはない。相手の女性を選びそこなってしまったということだろう。マゾッけの強い女性だったら鎖でつながれることがよろこびなのだから。

少年愛の人たちの問題は、誰に責任を押し付けるわけにいかない。最後は神様に判断してもらうしかないのでは。

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2005年5月13日 (金)

40歳を過ぎてもフリーター

夜中の12時頃、電話のベルがなった。受話器をとったら読者からだった。『薔薇族』の復刊第1号を買うべく、新宿2丁目のポルノショップに行った。雑誌を買ってお金を払い、外に出て別のお店に立ち寄って買い物しようとしたら財布がない。最初のポルノショップの店内が混んでいたので、そこでスラれたのではないかという。

鞄があいていたので抜き取られたのではと交番に届けはしたが。自動車の免許証、銀行のカード、これは残高ゼロだそうだ。家賃を振り込もうと思って、7、8万の現金。もう出てくる可能性はない。

「あきらめるしかないよ。」と答えはしたが、免許証をとられたのは、彼にとって痛かったようだ。

いろいろ話を聞いてみたら、父親は子供の頃からいない。母親が彼を育てたそうだが、甘やかして育てたに違いない。職を転々として未だにフリーターだという。「年は?」と聞いたら、答えにくかったようだが、40歳をとうに過ぎている。

次の日も電話がかかってきた。誰かにしゃべらずにいられなかったのだろう。定職につこうと思って会社を歩き回っても、どこもお断りだそうだ。それにすでに自己破産もしているから、ガードマンにもなれない。

現在失業中で年金暮らしをしている母親のわずかな仕送りで生活をしている。

5月10日の毎日新聞の朝刊にこんな記事が載っていた。

増える”中高年フリーター”30代になると脱出困難

この新聞記事を読んで彼のことがすぐ頭に浮かんできた。フリーターって若い人だけかと思っていたら30代以上のフリーターがどんどん増え続けて2、3百万人を超すのではと。

こうなると結婚もできないから、子供は減るばかり。50代過ぎても年収は2百万ぐらいにしかならないから、国の税収も減ってしまう。

「フリーターが国を滅ぼす」ということになってしまう。なんにもやる気がなくて、働かない若者も増えているというし・・・。

これらの人がみんな生活保護を受けることになってしまったら、いったい日本はどうなっていくのだろうか。

ゲイの人は一人で暮らす人が多いのだから、若いうちから生活設計を立てて、きちんと生活してほしいと願うばかりだ。

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2005年5月11日 (水)

ぼくは女好きです!

tirasi どうしても復刊第1号の『薔薇族』が売れないことには、2号、3号と出し続けられないと、こんなチラシを作成して、200人もの友人知人に送った。
一万円札をポンと入れて、カンパしてくれる友人も何人かいたし、郵便切手で1300円分送ってくれる友人も、かなりの数だった。
書店で買い求めてくれた友人、知人もいたに違いない。多くの友人の友情に、胸があつくなる思いだった。
ところが添えられてきた手紙を読むと、「復刊おめでとう」の言葉のあとに、「ぼくはゲイではないけれど」というただし書きが必ずと言っていいほどつけられている。
そんなこといちいち書かなくてもいいのにと思うけれど、やはりそう書かざるを得ないのだろう。同性愛者だと思われたくないという気持ちの現れが心の奥底にあるから、そういう言葉が出てしまうのでは。
誰もがそんな事を言わなくてもいいような世の中にしなければいけないのだけど、まだまだ人々の心の中に潜在的に同性愛はよくないことだという気持ちがひそんでいるからだろう。
同じことはゲイの人にも言える。寺山修司君が元気な頃、京都大学の大学祭に同性愛をテーマにした講演会があって、ぼくも招かれたことがある。
寺山君は舞台にあがって、最初に言った言葉は「ぼくは女が好きです。」だった。この第一声を聞いたとき、寺山君は完全にゲイだなと確信した。
この人も亡くなられてしまったが、一橋大学の名誉教授だった著名な心理学のM先生、ぼくのゲイに関する著書の出版記念会に出席してくれた。そころがスピーチにあがった壇上の第一声は、寺山君と同じ様に「ぼくは女好きです。」だった。
同性愛は当たり前のことだから、当たり前のことにしたい。ただそれだけのために33年間、叫び続けてきたが、まだまだ世間一般の人たちの意識を変えさせるということは至難の技だ。これは時間をかけて、少しずつ、少しずつ訴えていくしかないのでは。

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2005年5月 8日 (日)

樋口清之先生の思い出

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考古学の権威であり、国学院大学の名物教授でもあった樋口清之先生のお名前を知っている若い方は少ないだろう。
1974年(昭和49年)には、小学館発行の「NON・BOOKS」から「梅干と日本刀」を出版し、ベスト・セラーになっている。静岡県の登呂遺跡を始め、考古学の創成期に多大の業績を残した方だ。
僕が私立の世田谷学園に入学したのが、太平洋戦争で日本が配色の色が濃くなっていた昭和19年の4月だった。
樋口先生がまだお若い頃、講師として世田谷学園に赴任されていて、歴史を教えてくれていた。
今、思い出してみても、学校で習ったことなど、何一つ覚えていない。みんな忘れてしまっている。しかし、樋口先生の授業で先生が話されたことは不思議と脳裏に残っている。
大阪城の石垣のでっかい石をどうやって運んだのかとか、ピラミッドの石をどうやって積み重ねたのかとか。一番真剣に聞いた話は、日本は戦争に負けるという話だ。マッチ箱ひとつの大きさで、大都市がふっとんでしまうという原子爆弾の話は目を輝かせて聞いたものだ。
中学2年生になったときには、終戦になり、先生は世田谷学園をやめておられた。
1971年(昭和46年)に『薔薇族』を創刊してからだったと思うが、同期会で先生をお招きしたこともあった。その頃、先生はベストセラーを連発して“時の人”でもあったので、フジテレビに番組を持っておられた。どんな番組だったか、まったく思い出せないが、ぼくを出演させてくれたのだからやはり同性愛をテーマにしたものだったに違いない。
senseito1   事務所を明け渡すので荷物を整理していたら、2枚の写真がでてきた。ぼくも髪がふさふさだし、先生も若かった。なにやら打ち合わせをしているシーンだと思うが、緊張した空気がスタジオにあふれているいい写真だ。
先生の教え子はたくさんいたと思うが、テレビに一緒に出演したのはぼくだけだろう。
せんせいはなぜかぼくのことをかわいがってくれた。お宅も近くだったので何度かお邪魔したことがあったが、古い女性の櫛(くし)のコレクションをみせてくれた。
ぼくが『薔薇族』のモデルを見付けるのが大変だと話したら、気軽に「よし、ぼくが見つけてあげよう」とまで言ってくれた。
樋口先生は、もうこの世におられないが、先生に出会えたことは幸せだったと今でも思っている。

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2005年5月 2日 (月)

桜は春になれば咲くけど

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わが家から歩いて3、4分のところに(株)第二書房の事務所がある。淡島から環7へ抜ける梅ヶ丘通りに面しているので交通量の多いところだ。4階建てのビルの1階、2階を借りて仕事場にしているが、10数年は経つだろうか。
この事務所を明け渡さなければならないので、今年に入ってからずっと片付けているが、4月が終ろうとしているのに、まだ片付かない。
わが家は昭和7年に建てられた木造の2階屋で、子供の頃から戦後の昭和40年くらいまで、鉄筋の建物に立て替えるまでそこで育った。
6畳ほどの応接間には、戦前、父が建具屋に注文して作らせた、がっちりとした本箱があり、その中には父が戦前勤めていた第一書房の豪華本がずらりと並んでいた。
革の背表紙の近代劇全集、吉田絃二郎全集、西条八十、萩原朔太郎、堀口大学の詩集などだ。
中学生の頃、これらの本を読みたいと思ったが、いつもカギがかけられていて開けることができない。その頃からぼくは本なんて読んでやるものかと本嫌いになってしまた。
この本箱は事務所に移されていたのだが、こんな大きな本箱を移して置くところがない。他にも本箱はいくつもあったが、リサイクル屋に持っていってもらった。リサイクル屋の親父さん、ぼくの手に5万円を握らせて。
子供の頃からずっと見続けていた本箱が持ち去られていくとき、「第二書房は、これで終わりだな」と思った。
父が(株)第二書房を設立したのが、戦後すぐの昭和22年。それから60年近い歳月が流れている。その間にたまりにたまったものをいちいち確かめながら捨てていくのだから、その作業は大変。その価値はぼくしか分からないのだから、他人まかせにはできない。
有名な詩人や、作家の原稿もある。島崎藤村のサイン入りの写真も見つけ出した。
『薔薇族』も創刊してから33年。この間の資料も山のよう。まだまだ作業は終りそうにない。
桜が満開の鎌倉橋の上で、長谷川サダオ君、木村べん君、間宮浩さんと3人で並んでいる珍しい写真をみつけだした。
20年ぐらい前の写真だろうが、おいおい3人ともこの世の人ではない。みんなぼくを置いてあの世に旅立ってしまっている。
長谷川君、木村君は50代、間宮さんは70を越したぐらい。
桜は春になれば花を咲かせるけれど、君らはもう永久に帰ってこない。後に残されたぼくはこれからどう生きていけばいいのだろうか。

木村君と長谷川君が描いてくれた『薔薇族』の表紙

kim2kim 

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