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2005年5月 8日 (日)

樋口清之先生の思い出

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考古学の権威であり、国学院大学の名物教授でもあった樋口清之先生のお名前を知っている若い方は少ないだろう。
1974年(昭和49年)には、小学館発行の「NON・BOOKS」から「梅干と日本刀」を出版し、ベスト・セラーになっている。静岡県の登呂遺跡を始め、考古学の創成期に多大の業績を残した方だ。
僕が私立の世田谷学園に入学したのが、太平洋戦争で日本が配色の色が濃くなっていた昭和19年の4月だった。
樋口先生がまだお若い頃、講師として世田谷学園に赴任されていて、歴史を教えてくれていた。
今、思い出してみても、学校で習ったことなど、何一つ覚えていない。みんな忘れてしまっている。しかし、樋口先生の授業で先生が話されたことは不思議と脳裏に残っている。
大阪城の石垣のでっかい石をどうやって運んだのかとか、ピラミッドの石をどうやって積み重ねたのかとか。一番真剣に聞いた話は、日本は戦争に負けるという話だ。マッチ箱ひとつの大きさで、大都市がふっとんでしまうという原子爆弾の話は目を輝かせて聞いたものだ。
中学2年生になったときには、終戦になり、先生は世田谷学園をやめておられた。
1971年(昭和46年)に『薔薇族』を創刊してからだったと思うが、同期会で先生をお招きしたこともあった。その頃、先生はベストセラーを連発して“時の人”でもあったので、フジテレビに番組を持っておられた。どんな番組だったか、まったく思い出せないが、ぼくを出演させてくれたのだからやはり同性愛をテーマにしたものだったに違いない。
senseito1   事務所を明け渡すので荷物を整理していたら、2枚の写真がでてきた。ぼくも髪がふさふさだし、先生も若かった。なにやら打ち合わせをしているシーンだと思うが、緊張した空気がスタジオにあふれているいい写真だ。
先生の教え子はたくさんいたと思うが、テレビに一緒に出演したのはぼくだけだろう。
せんせいはなぜかぼくのことをかわいがってくれた。お宅も近くだったので何度かお邪魔したことがあったが、古い女性の櫛(くし)のコレクションをみせてくれた。
ぼくが『薔薇族』のモデルを見付けるのが大変だと話したら、気軽に「よし、ぼくが見つけてあげよう」とまで言ってくれた。
樋口先生は、もうこの世におられないが、先生に出会えたことは幸せだったと今でも思っている。

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コメント

戦争中のことです。
私の母のいとこ(当時、神戸の女学校に在学)が祖母にたいして「この戦争は負ける」と言っていたそうです。
祖母も否定せず「壁に耳あり障子に目ありやで、黙っときなさい」と言っていたそうですから、暗黙の了解で皆さんは日本が戦争に負けると思っていたのではないんですか。

ちなみに母親は当時14歳で、絶対に日本は負けない神風は吹くと思っていたそうで・・・
今も無邪気なところがあり、あんまり進歩がない人だなと思っております。

投稿: 若造です | 2011年2月 5日 (土) 00時07分

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