疲れたのでやめます。
下北沢の一番街にある鳥羽屋書店のご主人に注文してあったぼくの著書『編集長「秘話」』(文藝春秋刊・定価1500+税)5冊と、澁澤龍彦さんの未亡人、澁澤龍子さんの書き下ろしエッセイ『澁澤龍彦の日々』(白水社刊・定価¥2000+税)1冊を届けてくれた。
ぼくは留守していたが、置いていった名刺に「5月31日で閉店します。ご注文は21日までに」と書いてあった。
鳥羽屋書店は戦後すぐの昭和22年に開店し、先代は90歳、63歳の息子さんと奥さん、亡くなったおばあさんもつい数年前までお店のレジに立っていて、家族で支えてきたお店だ。
なんとわが社の第二書房も昭和22年に父が設立、2代目のぼくが後を継いでいたのだがついに廃業せざるを得なくなくなっている。
本の注文がくると、昭和の20年代は風呂敷包みを背負って、渋谷から須田町駅行きの電車に乗って、いわゆる神田村と言われていた本の取次店に届けていた。それからスクーターに乗り、自動車になっていったが、スクーターの時代は長かった。その頃は都電の線路があったから、雨が降り出すと、すべってよくひっくり返ったものだ。
鳥羽屋書店のおじいさんも若かったからオートバイで取次店の店売所(本屋さんが仕入れにいくところ)でよく出会った。
『薔薇族』が創刊200号を迎えたときに、新宿のヒルトンホテルで盛大に祝賀パーティを開いたが、そのとき鳥羽屋さんのおばあさんとお嫁さんを招待した。
ぼくはパーティを開くときは、いつも蔭の存在の人たちを招くことにしていた。そのときは取次店の返本倉庫で黙々と働いている人、印刷所の職人さんも招いて、舞台にあげてみんなに花束を贈呈したことがあった。
鳥羽屋書店のおばあさん、『薔薇族』をお店に置くことを嫌がっていたがやっと説得して置いてもらえるようになり、最盛期には2、30冊も売れていた。
出版社をしていると問屋さんで安く本が買えるのだが、小売の書店を大事にしなければいけないと思っているので、ずっと鳥羽屋さんに注文をだしていた。そんな仲だったから鳥羽屋さんの廃業はショックだった。家賃を払っているわけでなく、家族だけでお店を支えているのだから、本が売れなくなったとは言っても、まさか廃業するとは思わなかった。
早速、お店を訪ねてみたら、ご主人は「もう疲れたから」ということだった。ぼくよりも10歳も若いというのに。ぼくも疲れているけれど、やめるわけにはいかないのだ。
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