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2005年6月

2005年6月30日 (木)

“花の昭和7年生まれ”もうひと花を!

tougou

『週刊新潮』6月30日号のワイド特集“泣きたい気分”に、「元祖“オカマ候補”東郷健さんは、“ホームレス”寸前」という記事が載った。

「東郷健さん(73)が窮地に立たされている。自ら発行するゲイ雑誌が休刊に追い込まれ、目下、収入はゼロ。家賃の支払いも滞り、大家から立ち退きを迫られる始末だ。周囲の心配どおり、ホームレスになる日も近い?」

その記事の中で「いずれにせよ、齢73のご老人にとっては、辛いものがある」と書いているが、僕も東郷さんと同じ、昭和7年生まれ、同じような境遇にあるから他人事とは思えない。

アメリカでもポルノの帝王とかつて言われた人が、ネットの出現で雑誌が売れなくなって、この人は本当にホームレスになってしまたという記事を新聞で読んだことがある。古い人間が時代のあまりにも早い変化についていけない結果かもしれない。

東郷さんが最初に出した著書『隠花植物群』は、週刊誌の記者だった僕の友人が、仲間と一緒に出版社を興して出した処女出版だった。ところが単行本の作り方を知らない友人がぼくに相談してきたので、お手伝いしてあげて本にしたものだ。もちろん、東郷さんはそんなことを知る由もない。

その東郷さんには、かなりいじめられた。「ゲイでない人間がゲイを食いものにしている。」と。

もう30年以上も前の話だから、忘れてしまっているが、そうした攻撃に対して、なにくそと思って頑張っているから、今日があると今では感謝している。

東郷さんは毎回、泡沫候補と言われながらも“オカマの自立”を叫んで、参院選などに14回も立候補し続けたのだから、そのエネルギーや大変なものだった。

東郷さんの出していた「ザ・ゲイ」のグラビアの男写真は、ほとんど無修正に近いものだったが、警視庁の風紀係も恐れをなして、まったくおとがめなしだった。

それにしてもゲイ界の草分けがみんな苦境に立たされてしまって、後発のポルノ・ショップのオーナーが出しているゲイ雑誌が元気がいいというのも時代の流れだろうか。

都知事の石原さんも73歳、老人なんて言われたら石原さん怒るぜ。“花の昭和7年”元気を出して、もうひと花咲かせようではないか!

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2005年6月25日 (土)

元ヤクザのKさんに助けられて-渋谷「千雅」物語2-

bunsenga 「千雅」のオーナーKさんとぼく

ゲイホテル「千雅」のオーナーのKさんは元ヤクザだった。Kさんの奥さんのお姉さんはヤクザの親分の奥さんだった。

渋谷の宮益坂からちょっと左に路地を入ったところに、ぼくは「伊藤文学の談話室・祭」の渋谷店を経営していた。そこの店長のデメちゃんが、お客さんのヤクザを怒らしてしまったことがあった。なんで怒らせてしまったのか忘れてしまったが、そのヤクザさんから、わが家に電話がかかってきて、「店長のデメをやめさせないと、お店をぶっこわすぞ」とおどされてしまった。

話をつけに新宿のバァに出向いてこいといわれ、こわごわバァに出向いたら、誰もお客がいないカウンターの奥に、おっかない男が座っていた。そのとき何を言われたのか忘れてしまったが、帰ってきてすぐさま「千雅」のKさんに電話を入れた。

「よし、おれが話をつけてやる。」と早速、わが家にとんできてくれて、そのヤクザさんに電話を入れてくれた。最初はおだやかにしゃべっていたが、すぐにヤクザ口調になってきたと思ったら、なんと相手のヤクザさん、Kさんの組の子分にあたる男だった。なんのことはない、あっさりと話がついてしまった。

やれやれ、Kさんに助けられてしまい、怖い思いをしないで、一件落着というところ。

このKさん、ぼくよりちょっと背が低くてそう強そうに見えないけれど、これもなんでKさんを怒らせてしまったのか忘れてしまったが、呼びつけられた男にKさんがどなりつけているところに出くわしてしまった。

ぼくは73歳になるまで、怒って相手を威嚇した経験はないが、Kさんが怒っているところをそばで聞いていて、ふるえあがってしまった。さすが元ヤクザだと、感心してしまうぐらい相手をおどす手法は見事だった。

Kさんは足に牡丹の花だと思うけれど、刺青をしていてそれをだんだんに相手の男に見せつけるのだ。すごい迫力だった。

こういう風に怒るものかと、手本をしめしてくれたようなものだが、ぼくはその怒りの手法をまだためしたことはない。

しかし、大人しい人ほど、怒らせたらこわいぞ。近いうちに怒りを爆発させる事態が近いような気がしている。

そのときは師匠のKさんに負けないぞ!

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2005年6月21日 (火)

つわものどもの夢のあと-渋谷「千雅」物語1-

senga1 渋谷「千雅」の貴重な写真

futon ゲイ旅館は修学旅行の宿の部屋のように布団が敷かれている。

渋谷の道玄坂を登りきったところの右側に交番がある。交番の前を通り過ぎて、路地を右に曲がると、突き当りの左側に「旅荘・千雅」があった。

以前は男女の連れ込み旅館で、そこを借りてオーナーのKさんがホモ旅館としてオープンしたのは、1975年(昭和50年)の春頃だった。今から30年も前のこと、『薔薇族』を創刊して、3、4年経った頃のことだ。

「千雅」のKさんと、若いマネージャーが、わが家を訪ねてきた。その頃の『薔薇族』は広告を一切に入れてなかったので、なんとか記事にして欲しいという。お客さんがあまり来なくって困っていたからだ。早速、「千雅」を訪ねてみたら、館内はすみからすみまで清潔そのものだったので、これなら読者にすすめることができると思ったが、ただの紹介記事ではつまらない。そこで思いついたのは、ノンケの男を潜入させて記事にしようというプランだ。

エロ小説では有名な作家、清水正二郎さん、その頃はエロ小説を書くことをぷっつりとやめて、ひたすら直木賞をねらった小説ばかりを書いていた。ところがなかなか「オール読物」などの雑誌に作品を持ち込んでも載せてくれない。生活にも困っていた時代だったので、『薔薇族』に毎号小説評などを書いてもらって僅かな稿料をさしあげていた。

その清水さんに「千雅」の潜入記事を書いてほしいとお願いしたら、快く引き受けてくれた。そして掲載されたのが、1975年の11月号(No.34)「本誌特派・ノンケ紳士のゲイホテル潜入記」で、10頁も費やしている。

源氏鵜太さんの『精力絶倫物語』のモデルだと言われ、女好きでは有名な清水さんが、ゲイホテルに潜入したのだからすごい話だ。

今だったら週刊誌にこの話を持ち込んだら面白い記事になったろうが、その頃は『薔薇族』そのものが有名ではなかったので、話題にもならなかった。

「それじゃ、もし君がいやでなかったら、ぼくのおっぱいを吸ってくれないかい。できれば歯を強くたてて、ギリギリと噛むようにね。」

「あ~っ!もうだめだよ」

と、悲鳴に近い声をあげて、誰か分からぬ人の口の中に、ぼくはおびただしいものを噴き出していった。

この潜入記のおかげで「千雅」は大入り大盛況になってしまった。清水正二郎さんは、その後直木賞をを受賞して、胡桃沢耕司として大活躍することになる。

胡桃沢さんも「千雅」のKさんも、この世にいないし、「千雅」もとうの昔に廃業して、つわものどもの夢のあとになってしまった。

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2005年6月20日 (月)

全部の『薔薇族』を並べてみたい!

bunryu

この写真は、『薔薇族』を創刊号から100号までをずらりと並べて、創刊100号の記念号を出したときの写真では。

サングラスをかけたあぐらをかいているヤクザっぽい男が藤田竜君、遊び人だ。とのとなりに正座しているのがマジメ人間のぼくだ。

まったく性格の相反する二人が一緒になって作ってきた『薔薇族』。意見がまったく対立してしまうこともあったけれど、性格の違いが雑誌を面白くしたのかもしれない。

最初の25冊までの表紙絵は藤田竜君の作品。抜群のデザインセンスで、創刊号などは34年前の作品とは思えないぐらいで、ひとつも古さを感じさせない。

そのあとは大川辰次さん、三島剛さん、長谷川サダオさん、吉田カツさん、木村べんさんなどが書いている。こうしてみると『薔薇族』は表紙絵だけを見ても、ゲイの文化を作ってきたなという思いにさせられる。

吉田カツさんの作品は1点だけだったが夜なんか部屋に置いておくと怖いぐらいの顔だと言われたこともあったっけ。

長谷川君の表紙は3冊しかない。この頃の絵と、晩年の作品とでは、ずいぶん作風が変わってしまっている。

木村べんさんが表紙絵を書くようになって『薔薇族』らしさが出てきたのではないだろうか。男の匂いがプンプンで、健康的で。

創刊号から382号までの全部を並べてみたいなという気持ちにもさせられてくる。表紙というのは雑誌の顔だから、表紙を見ただけで、雑誌の性格が分かってくるというものだ。

復刊『薔薇族』は表紙に写真を使い、内容をべたべた表紙に刷り込むというぼくのもっとも嫌いな表紙になってしまったけれど、今までのイメージを変えるためには仕方がないことかも知れない。

藤田竜君は修善寺にひっこんでしまった。次から次へと、この世を去っていく仲間たち、ぼくひとり残されてしまったけれど、500冊の『薔薇族』を出し続けて並べるまでは、なんとしても頑張りたいものだ。

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2005年6月19日 (日)

高校生おいでよ!って呼びかけたら

syounennokai

『薔薇族』の創刊は、1971年(昭和46年)の7月。それから3年が経って、第二書房の社屋兼自宅、鉄筋建築3階のビルが完成した。

“高校生おいでよ!!”と呼びかけて、4、5人集まればと思ったのだが、なんと30人も集まってしまった。

大半が高3で、2年生が少々に、1年生がひとり。今、『薔薇族』誌上で活躍している南島健太郎君は、そのとき集まった高校生のひとりだ。もういいオヤジさんになっているのだから驚きだ。

柱に寄りかかっている藤田竜さんも、その横のぼくも髪の毛がふさふさしていて若いのなんのって。

事務所を片付けていたら、こんな貴重な写真がみつかったってわけ。

3Fの14畳の大広間に高校生ばかり集まって大騒ぎ。最初はおとなしかったけれど、そのうち本性丸出しで、ウブなものか、ひとことで言えばみんなやってらっしゃるのよ。

好きな男のタイプを聞いたら、加藤剛、竹脇無我、渡哲也、石坂浩二、露口茂、城みちる、野口五郎、郷ひろみ、マーク・ボランなど。時代を感じるね。なんたって30年も前の話なんだから。今じゃこの人たち老人といってもいいぐらいだけど、当時は若くて輝いていたってわけ。

第二書房の1Fの表に“午前中は高校生の座談会。一般の方は1時から”と張り紙がしてあるのに、話が長引いて1時半になってしまった。もう大人たちが外で並んでいるっていうので、高校生たちは屋上に上がってもらった。

その頃、わが家に男の人が訪ねてくると、近所のおばさんたちが家から出てきて、ジロジロのぞき見していたという時代。珍しかったんでしょうね。

150名ぐらいとおもっていたのが、下足札が163枚出たんだからびっくり。高校生は早く帰したけれど、なんで早く帰したんだと文句を言う人もいたりして。

いくら鉄筋とはいえ、つぶれるんじゃないかと心配したぐらい、どこからどこまで人でうずまってしまったんだから。

出席してくれた大阪のEさん、52歳からの手紙。
「大勢集まりましたなぁ。ひと昔前のことを思うと、まるで夢ですわ。昔は悪いことでもしているように、こそこそとしていましたわ。それがこうして大きなビルに集まって、話をするなんて考えられませんなぁ。」

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2005年6月15日 (水)

マイケル ジャクソンのこと

micel '05.6月14日東京新聞

朝日新聞の6月14日(火)の夕刊によると、「M・ジャクソン被告無罪評決の見出しで、少年に対する性的虐待などの罪に問われていた米歌手、マイケル・ジャクソン被告(46)の裁判で、カリフォルニア州サンタバーバラ群地裁の陪審は13日、起訴された10件の罪状はすべて無罪とする評決を出した。」

ぼくは当然、無罪になると思っていた。それは密室の中の出来事で、13歳の少年とマイケルと二人しかいないのだから、客観的な物的証拠が出てくるわけがないからだ。

12人の陪審員たちに少年の母親の印象が悪くうつり、金もうけのためと思われてしまった。その子供の証言だけでは、マイケルを罪にはできなかった。

これが日本の場合だったらどうだろう。日本には陪審員によって決められるという制度はない。裁判官によって判決が出されるとなると、どうしても被害者の子供に同情してしまうのではないだろうか。

神戸で起きた事件だが、銭湯の湯舟の中で、中学生のオチンチンを触ったということで留置されている青年がいる。彼は絶対に触っていないと言い張って裁判に持ち込んでいる。

この事件の結末をまだ、ぼくは知らないが恐らく、検事も、裁判長も中学生の言い分の方を本当だと思ってしまい、間違いなく有罪にされてしまうだろう。

マイケル自身は「子供好きのヒューマニスト」で少年愛者ではないと言い張っているが、ぼくはマイケルは少年愛者だろうと思う。この事件のほとぼりが冷めれば、恐らくマイケルはまた同じようなことをしてしまうのでは。この性癖は墓場に入るまで変わることがないからだ。

殆どの少年愛者は、理性で欲望を押え行動に走らないようにしているが、中には暴走してしまう人もいる。成人男子であれば、なんの問題もないが、相手が子供であるがために、子供に手を出せば犯罪になってしまう。

本人は好き好んで少年を愛するようになってしまったわけではなく、自然にそうなってしまったのだ。誰が悪いかと言えば、少年を好きになってしまうような人間を造ってしまった「神」が悪いとしかいいようがない。

先日、インタビューした横浜のゲイバァのマスターの初体験は、中学生のとき、ひとりっきりで留守番をしていたら、訪ねてきた行商のオジさんにいたずらされたのが最初だという。年配の読者に初体験を聞くと、相手は学校の先生だったり、牧師さんだったり、近所に住むオニイさんというようなことが多い。しかし、ひと昔前の人たちは親にそのことを話すということを絶対にしなかった。

そのことが心の傷になったという人も中にはいたと思うが、自分は男が好きだということを意識している子供にとっては、それほどのショックとは感じていないようだ。

少年愛の問題は、『薔薇族』を出し続けてきて、一番気になっている問題なので、みんなの意見も聞かせてほしい。bungaku@barazoku.co.jp

旧『薔薇族』のスタッフ 三上風太君がブログを始めました。http://blog.so-net.ne.jp/mikamifuta/

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2005年6月13日 (月)

一生を綱渡りしているような

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少年が好きなんだから、いつも少年と接しられる学校の先生になることは、少年愛の人にとっては当然のことと言える。他の先生よりは熱心に子供に教えるだろうし、人間、欲望がなかったら進歩はない。その欲望をうまく教育の場に発揮できれば、最高ではなかろうか。この先生の主張を続けて読んでください。

「ところで私はある田舎の中学校の教師である。教師を志願したのはもちろん自分の少年愛という性を意識してのことである。世の中で異性への関心から自分の職業を選ぶ人は稀であろう。彼らは欲望を満たすことを法律において保障されている。そうでないわれわれが、少しでも少年たちに接することのできる仕事を選ぶことを誰が非難できようか。

先生以外にもいろんな職業がある。少年スポーツサークルの指導員、児童福祉施設の職員、町の少年会の指導員等。先生になりそこねた人は極安の少年塾でもはじめたら?多分多くの少年たちが押しかけてくるだろうし、彼らの去ったあとの少年くさい匂いのこもる部屋で、マスターベーションというのも一方法。

教師仕事において種々の楽しみが生ずることは確かである。例えばスポーツクラブの顧問になることなど。水泳クラブで競泳パンツの少年たちに囲まれているのも楽しいし、レスリングクラブで彼らと汗にまみれるのはまさに、あの行為と変わらぬ興奮を与えるであろう。

また少年たちをきびしくしごくのも快感であるし、彼らの練習中、更衣室で脱ぎ捨てられたブリーフ等をこっそり取り出して匂いをかぐのも自由である。」

合宿の泊まりで一緒に風呂に入るのも楽しいし、好きなタイプの少年の側に床をとれば熟睡中の少年の体に手を触れるのも容易。とくにブリーフの前の盛り上がりの部分に少々いたずらすることも。ただし気づかれると困るからあんまりなことは自戒。

でも正直なところ私たちは教育に情熱をかけることで激しい欲望を懸命に解消している真面目な教師なのである。そして毎日、教えているクラスの好きな少年を思い浮かべながらよい授業をすべく、明日の授業の教材研究に心血をそそいでいる。」

彼の言い分はよく理解できるが、世の中でこんなに犯罪と紙一重の生活を毎日送っている人間って、他にはいまい。まさに綱渡りをしているようなもので、ちょっと足をすべらせれは犯罪者になってしまう。たまに学校の先生で生徒に手を出してしまった話が新聞で報じられることがあるが、一生を欲望と戦いながら生きている少年愛者のつらさも知って欲しいと思う。

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2005年6月12日 (日)

少年愛者の苦しみ

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学校帰りの少年に声をかけたら、少年は一目散に逃げ出してしまうだろう。少年を愛する人にとって、今の世の中、受難の時代になってしまった。

好き好んで少年愛者になったわけではない。趣味で少年が好きになったわけでもなく、持って生まれたものなのだ。これは墓場に入るまで変わるものではないというのに。

美輪明宏さんと『薔薇族』誌上で対談した折りに少年愛の話を持ち出したら、少年の好きな人は、学校の先生とか、塾の先生とか、少年が身近にいる職業にはつくなと、はっきり言われてしまった。しかし、現実には学校の先生とか塾の先生とかの職業とかについている少年愛者が多いことは間違いない。

田舎の中学校の教師の告白を聞いてみよう。

「私は少年愛である。小学校5、6年から高校3年ぐらいまでの童顔の少年に、激しい欲望を感じ、それが日に日につのるばかりで、正直言って大変苦しい。その点、その気さえあれば機会はないこともない普通のホモたちがうらやましいほどだ。

少年愛は相手が未成年者であるだけに実行は絶対に不可能である。倫理的にも許されるものではない。生涯この苦しみに、じっと耐えていく他はないようだ。われわれが少年愛であることは、神のなせるわざであって、われわれ自信の罪であろうはずはない。しかし、これを口にしたり、実行に移そうとしたりすれば、たちまち犯罪者のらく印を押されるし、社会的対面が失われる。従って誰もが生涯、人に打ち明けずに耐え続けているのである。

巷にあふれる少年たちをまぶしく見やりながら、また女好きが、その欲望を思う存分開放させている姿に激しく嫉妬しながら、考えてみればこれほどの悲劇もなかろう。

少年愛にも何らかの方法が公に認められるという、素晴らしく開放された社会というようなものは考えられないだろうか。せめて少年のポルノ写真は大目に見るというような時代になって、少年たちのとてもエロティックな写真や、映画がたやすく手に入るということになれば、多くの人たちが相当慰められるのだが。

ポルノ解禁は欲望の解放になりこそすれ、決して犯罪を増やすものではあるまい。しかし、これもいささか絶望的である。」

少年愛者としてのご自分を冷静にみつめている先生だ。マイケル・ジャクソンのこともあり、世界的に少年愛者はつらい立場に立たされている。このあとつづく文章もぜひ読んでもらいたい。ひとりでも、ふたりでも少年愛というものを知っていただければ幸いだ。

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2005年6月 9日 (木)

刑務所の中での同性愛

ADNIS2 「アドニス」46号 昭和35年頃

  精液が飛び散ってシミになった『ADNIS』の46号にこんな記事が載っていた。
「2月22日付の『週刊サンケイ』を見ると、“男色に狂った殺人事件”として、去る1月26日、新潟刑務所の事件を次のように報じている。

“刑務所に服役中の男が同囚の男をあっという間に、日本カミソリで殺してしまった。始め何が原因だろうと、報道陣を迷わしたが、調べがついてみれば、“男色のもつれ”とういう大変な幕切れだった」とあるが、刑務所内の事件、ことに傷害という場合は、必ず囚人同士の同性愛のもつれから生じるもので、これは洋の東西を問わず、少しモノを知った人ならば常識のようなものだ。

  女ッ気の全くない刑務所では、シャバで女房子供を持って普通の生活をしていた中年男でも、いつか同性に対して、特別な感情を抱くようになり、はては若い新入りでもあれば自分の所有物(アンコと呼ぶ)にするために、囚人の争いは絶えない。これはどこの刑務所でも悩みのタネで、担当さんと呼ばれる監視さえも愛情の対象にされることもあるということだ。

  これはその担当さんに実際に聞いた話であるが、“事件にならないように極力抑えてはいますが、そういう感情を持ってはいけないと言ったって、どうすることもできません”ともらしていた。

  閉ざされた世界で考えることといったら、食欲と性欲のことしかないとしたら、ただひとつの愛情のためにお互いに命をかけるということはあり得ることだし、その愛情のかたちは、考えようによったら世間の人間よりももっと純粋なものだと言えるかも知れない。」

  現在の刑務所ではどうなのだろうか。人間が収容されている以上は、今も昔もないのでは。同じ頁にS刑務所の囚人で43歳の男の短歌が載っていてなまなましい。

  タイトルが「目交」とある。凡てに自由がない束縛されている見だから、相手の目を見て目配せして、思いを伝えるという意味だろうか。
 
  男だけの世界にありてかつて女にささやけると同じ愛のリフレーン

  汝もわれも愛に渇けるもの同士より合えばいつかソドムめきゆく

  同囚の多くの前にてさりげなき目交に愛の胸痛くなる

  悲しいむくわれない愛に胸を打たれるものがあり、フィクションではない本物の言葉は強いと思い知らされたようだ。

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2005年6月 8日 (水)

40年前の精液の飛び散った雑誌

ADNIS1 「ADNS」1号

『薔薇族』の創刊は商業誌として、トーハンや、日販などの取次店を通して、日本全国の書店に配本するという点では、日本初ということになるが、正規のルートを通さない、小部数の同人誌のような雑誌は存在していた。

『ADNIS』という雑誌の第1号は、昭和27年9月10日に「アドニス会」から刊行されている。会員制で非売品となっており32頁しかない。第1号の目次を見ると、難しい読み物ばかりが並んでいる。この時代に同性愛の雑誌を出すとなると、医者が書いた読み物とか、江戸時代の衆道の文献「男色十寸鏡」の研究記事、高橋鐵さんの「老男根への憧憬」というような記事でも、当時の読者は興奮して読みふけっていたのだろう。

  読者の投稿の頁に、こんな文章が載っている。『薔薇族』が創刊される19年も前の話だから、どんなに読者が待ち望んでいたことか。

「逃げられぬ深い孤独もいくぶんでも慰められるなら、どんなに難しい条件にさからっても入会したいと思います。(石巻S・H)」
「アドニス会、私はこの会の出来たことが、うれしくて、うれしくて夜もねむれないぐらいです。(熊本S・M)」

  戦後発行されたカストリ雑誌などに、ゲイの読み物が少しでも載ると、むさぼるように読んでいた時代だった。

  この『ADNIS』には、その後、三島由紀夫さんが文体を変えて載せたという「愛の処刑」、推理小説の作家の中井英夫さん、この人は「短歌研究」の編集長もやっておられて、寺山修司君や、春日井健君を世に送り出した人なども書いている。他にも歌人の塚本邦雄さんもペンネームで書いていたと言われている。この雑誌は最後は取締当局の手によって発売禁止になってしまった。

  昭和46年に創刊された『薔薇族』の編集後記にぼくはこんなことを書いている。
「ADNIS」という雑誌を参考にとわけてくれた読者がいた。何人もの人たちの手で回し読みしたらしくて、精液のシミのついたなまなましいものだった。大変参考になったし、10年も前にこうした雑誌を作っていたことには驚きを感じている。」と。

ADNIS4
  No.46とある、この号は創刊から8年経っていると編集後記にあるが、頁数も44頁になって小説が何篇か載っている。その小説を読んで、ヌイたものに違いない。

  40年以上も前の誰のものか知らない精液のついた雑誌は、僕の宝物だと思っている。

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2005年6月 5日 (日)

なぜ叙情画の画家にゲイが多いの?

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  かわいい少女の絵を描く叙情画家のほとんどがゲイだということ。なぜ、男の好きな人が少女を描くの?と不思議に思うかも知れない。

『薔薇族』の表紙を長いこと書いてくれた内藤ルネさん。ルネさんは中原淳一のお弟子さんで、『ジュニア・それいゆ』などで活躍されていた。もちろん先生の中原淳一さんもゲイだった。

『薔薇族』を発行していた第二書房から昭和48年(1973年)に発行した、栗浜陽三写真集『褌遊』(こんゆう)の著者、栗浜陽三さんは抒情画家として有名だった藤井千秋さんだ。
  京都に住んでいた栗浜陽三さんは、ご自分でもボディビルをやっていたから、関西に住むビルダーや、大学のスポーツマンをモデルにして、京都の美しい風景をバックにして、ふんどし姿の男たちを撮っている。画家でもあったから、逞しい男たちの写真は、一枚の絵を見るようで構図もバッチリと写し出している。

  高畠華宵さんは、美しい少女も描いているが、少年たちも描いている。
  女性のファッションデザイナーも、フランスでも、イタリアでも有名なデザイナーはゲイだ。もちろん日本でも。

  ゲイの人は女性の要素を内面に多く持っている人たちだから、自分が女になったら、こんな美しい洋服を着たい、女性になったらこんな美しい少女になりたいと考えている人たちだ。  女の好きな男が、女性の洋服のデザインなど考えられるわけがないのだから・・・。

  竹久夢二さん何回も結婚しているから、女好きだと思うかもしれないが、僕は絶対ゲイだと確信している。竹久夢二さんのことは、もう少し勉強してから書こうと思っている。

  男であっても繊細な女性的な神経の持ち主だからこそ芸術家になりうるのだと思う。ゲイだから、すばらしいファッションデザイナーになれるわけだし、抒情画家にもなれるというものだ。

『内藤ルネ展』は、7月1日から本郷の弥生美術館で開催され、恐らく『薔薇族』の表紙も展示されるに違いない。

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2005年6月 4日 (土)

詩人・寺山修司君の妄想?

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  今から37年前の『平凡パンチ』7月15日号。定価が65円だ。特集記事は「告白・オトコの〔性〕体験=女のコにはぜったいに読ませるな」で、五味康祐、寺山修司、花岡太郎、東海林さだお。栗田勇の5人が告白している。

  37年前の有名人だから、今時の若者は、そのうち何人を知っているか疑問だが、寺山修司君の名前は誰でも知っているのでは。今年、寺山君は生誕70年ということで、いろいろと話題になっていることだし。さて寺山君の告白を紹介してみよう。

<初めてのエレクト>生まれるとき、エレクトして出てきた。産声が「女がほしい!女がほしい!」というのであった。
<初めての夢精>少年時代、太平洋のごとし。
<初めてのオナニー>はじめてしたのは5歳のときであった。マリア・モンテスを思いうかべながら。
<初めてのキス>7歳のとき。相手は熊のごとき女中!
<姦したオンナの数>夜空の星を数えるようなものである。
<よかったオンナ>ぜんぶよかった。とくによかったのは中学校の栗林先生。
<よくなかったオンナ>ない。
<異常な体験>無人島で暮らした時。       などなどと続き、

<一生のあいだにできる回数>天の川の星の数ぐらいやりたいと思っている。相手がいさえすればの話だが。

  ああ、この門答は、詩人寺山修司の悲しい妄想ではないだろうか。
  寺山君が亡くなる少し前、京都大学の大学祭でゲイに関する催物があって、ぼくも招かれて出席したことがあった。寺山君も講師として招かれていて、壇上に上った第一声が、
「ぼくは女好きです。」だった。それを聞いたとき、ぼくは寺山君は男の好きな人だなと思った。寺山君はひとりっ子で、お父さんを早く亡くして、お母さんにかわいがられて育った人だ。あの秀れた才能はゲイだからこそとぼくは思う。

  隠れているゲイたち。みんな演技をして生活している。演技をすることが当たり前になっているから苦痛でなく、自然にでてきてしまうのだろう。

  天国にいる寺山君、ぼくの言っていることが間違っていたらごめんなさい。君が『薔薇族』のために贈ってくれた詩。これは本音で書いてくれた、ゲイでなければ書けない、すばらしい詩だと。

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2005年6月 3日 (金)

コンクリートの壁の傷跡

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  またまた第二書房の倉庫から出てきた古い写真の話を。

  もう60年も前の話だから、ぼくの記憶も定かではない。講談社発行の『昭和・2万日の全記録』(全18巻)の第7巻・昭和20年・21年・廃墟からの出発の昭和20年の5月の項を見ると、25日(金)B29約470機、東京に来襲、被害は全区に渡り、宮城内表宮殿 大宮御所が炎上するとある。

  今時の若者は、飛行機が470機も編隊を組んで、高度10000メートルの上空をきらきらと輝かせて、空をうずめつくすなんていう光景を見たことはないだろう。見ているだけなら美しいが、その飛行機が地上めがけて、爆弾や焼夷弾を落とすのだからたまったものではない。

  都心の方が空襲を受けて燃え上がるのを見ているのは美しいが、確か僕の住んでいる世田谷方面がやられたときは5月25日、終戦が8月15日だから、その数ヶ月前のことで、まさに悪夢だった。

  焼夷弾は、ハガネで何十本もたばねてあって、それが落下する途中で、バラバラになっておちてくる。その日は風が強くて、幸いなことに風に吹き飛ばされて、わが家の周辺には落ちてこなかった。回りは火の海になってしまって、空気が熱くなり息苦しいぐらいだった。

  その頃、ぼくは世田谷学園の1年生だった。翌日の朝、いつものように淡島のバスの車庫の所から坂を登り、測桟舎の前を通り、坂を下る。両側は焼け野原で、道路は焼夷弾や、爆弾の不発弾がゴロゴロしている。

  この写真は道路に面したコンクリートの壁で、その途中にパックリとあいた傷あとが残っている。これは1メートルを越す爆弾があたって傷になったものだ。その下に不発弾が落ちていたのを見たから間違いない。こんなところにコンクリートに穴があくわけはないのだから。
  なんでコンクリートの壁に穴があいているのかを覚えているのはぼくだけだろう。

  なんと学校の回りは焼けていたが、世田谷学園は焼け残っていた。寮生たちが焼夷弾を消し止めたのだそうだ。

  焼夷弾は屋根を突き破って天井にとまって燃え上がるので、世田谷学園は天井を全部取り払っていた。ずっと先の教室の話し声までつつぬけなのだから、勉強どころではなかった。

  このキズはいまも残っており、今も多聞小学校の前を通り過ぎて、右手のコンクリートの壁の傷あとを見ると、その日の朝の光景がまざまざと思い出される。

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2005年6月 2日 (木)

背中が凡てを物語る!

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  『薔薇族』復刊第1号は、上野のゲイタウンを特集、2号目は新橋、3号目には横浜と足を運んで調べている。

  ぼくも5、6人のゲイバァのマスターにインタビューをして記事を書いてきた。そこで驚いたことは、半数のマスターは写真掲載はごかんべんをということだ。その理由は親、兄弟にゲイバァという仕事を隠しているからだ。仕事だけでなく、ゲイであるということもカミングアウトしていない。

  なかには奥さんがおられるマスターもいて、奥さんがときたま開店前にお店にやってきてお店の掃除をしてくれる。しかし営業時間中に訪れるということはないから、奥さんは普通のバァだと思っているのだろう。

  店内に男のヌード写真を飾っているわけでなし、花を描いた額が飾ってあるのだから、奥さんはなんの疑問ももたない。

  横浜のバァのマスターも、親、兄弟にはゲイだということを打ち明けてはいない。お姉さんは東京に住んでいるので、親しくお付きあいはしているそうだ。

  もう10年以上もお見せをやっているから、若いお客さんの意識は、かなり変わってきていて友人にゲイだということを平気でしゃべっているお客さんが増えてきているようだ。

  中年以上のお客さんには、なんの職業なのかも聞かないし、まして本名をあかさない人がほどんどだ。

  ゲイバァでこんな状態のなのだから、それも大都市のお店で。地方都市や農村地帯に行ったら、オープンにしている人は数少ないだろう。息をひそめて暮らしているに違いない。

「写真を撮らせてください」と言ったら、顔が移ると困るからと、後ろ向きで。ぼくの顔だけが表面を向いているというパターン。

  背中が凡てを物語るということだろうか。

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2005年6月 1日 (水)

30年の思いがつまっている本

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『薔薇ひらく日を=薔薇族と共に歩んだ30年』は、今から4年前、2001年の6月に河出書房新社から刊行されたぼくの著書だ。

  カバァを飾る絵は、ぼくが発掘した甲秀樹君の作品で、3年間ほど『薔薇族』の表紙を飾ってくれた。甲君は動物、鳥、虫などを描くのも得意で、少年の手の中で、目をつぶっている小猫はかわいらしくて、大好きな絵なので、カバァに使わせてもらった。

  もう、この本も絶版になっていたのだが、製本所の倉庫の片隅にひっそりと4年間も眠っていたものを見つけ出した。200冊ぐらいはあるだろうか。

  この本を読んでくれた人は女性が多かったと思うが、目の見えない人にも耳で聞けるように長い時間を費やして、朗読してテープに吹き込んでくれた方がいた、これは全国の図書館で借りることができる。

  この本の序文は美輪明宏さんが寄せてくれている。『薔薇族』の200号の記念号を出したときに「自殺した友よ、いま一緒に乾杯しよう。」と書いたものを使わせて頂いた。

  美輪さんは序文の中に、こんなことを書いている。

  「昭和32年にマスコミの脚光を浴びた私は長年温めてきた言葉をインタビューで答えた。“私は男が好きです”と。未だに忘れもしない『アサヒ芸能』であった。すると、その記者は親切にも言った。“駄目ですよ、そんなこと言っちゃ。世間から葬られますよ。芸能界の人々は皆さん隠してるんだから。あなたもそうしなくちゃ。”
しかし、私は答えた。“いいんです、それで。ほんとうのことですから、書いて下さい。そんなことで私の歌は駄目になりませんから。」

  この勇気と強い決意と自信が今日の美輪明宏さんの栄光を生み出したのだろう。

  ゲイの人は、自分のことをあまり深く知ろうとしない、知りたくないと思うだろうからこの本を読んでくれるのは女性だろう。あと200冊残っている本を女性に購入して読んでほしいと思う。

◆定価¥1500(税別)ですが、¥1000でおわけします。〒155-0032 東京都世田谷区代沢5-2-11 伊藤 文学まで現金書留または¥1000分の切手をお送りください。送料はサービスします。

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