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2005年6月 3日 (金)

コンクリートの壁の傷跡

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  またまた第二書房の倉庫から出てきた古い写真の話を。

  もう60年も前の話だから、ぼくの記憶も定かではない。講談社発行の『昭和・2万日の全記録』(全18巻)の第7巻・昭和20年・21年・廃墟からの出発の昭和20年の5月の項を見ると、25日(金)B29約470機、東京に来襲、被害は全区に渡り、宮城内表宮殿 大宮御所が炎上するとある。

  今時の若者は、飛行機が470機も編隊を組んで、高度10000メートルの上空をきらきらと輝かせて、空をうずめつくすなんていう光景を見たことはないだろう。見ているだけなら美しいが、その飛行機が地上めがけて、爆弾や焼夷弾を落とすのだからたまったものではない。

  都心の方が空襲を受けて燃え上がるのを見ているのは美しいが、確か僕の住んでいる世田谷方面がやられたときは5月25日、終戦が8月15日だから、その数ヶ月前のことで、まさに悪夢だった。

  焼夷弾は、ハガネで何十本もたばねてあって、それが落下する途中で、バラバラになっておちてくる。その日は風が強くて、幸いなことに風に吹き飛ばされて、わが家の周辺には落ちてこなかった。回りは火の海になってしまって、空気が熱くなり息苦しいぐらいだった。

  その頃、ぼくは世田谷学園の1年生だった。翌日の朝、いつものように淡島のバスの車庫の所から坂を登り、測桟舎の前を通り、坂を下る。両側は焼け野原で、道路は焼夷弾や、爆弾の不発弾がゴロゴロしている。

  この写真は道路に面したコンクリートの壁で、その途中にパックリとあいた傷あとが残っている。これは1メートルを越す爆弾があたって傷になったものだ。その下に不発弾が落ちていたのを見たから間違いない。こんなところにコンクリートに穴があくわけはないのだから。
  なんでコンクリートの壁に穴があいているのかを覚えているのはぼくだけだろう。

  なんと学校の回りは焼けていたが、世田谷学園は焼け残っていた。寮生たちが焼夷弾を消し止めたのだそうだ。

  焼夷弾は屋根を突き破って天井にとまって燃え上がるので、世田谷学園は天井を全部取り払っていた。ずっと先の教室の話し声までつつぬけなのだから、勉強どころではなかった。

  このキズはいまも残っており、今も多聞小学校の前を通り過ぎて、右手のコンクリートの壁の傷あとを見ると、その日の朝の光景がまざまざと思い出される。

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