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2005年7月

2005年7月31日 (日)

心の豊かさだけは持ち続けて

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  内藤ルネさんの「内藤ルネ初公開コレクション展」が東京、根津の「弥生美術館」で7月1日から9月27日まで催されている。

  この催しと同時に小学館から「内藤ルネ自伝・すべてを失くして」(定価¥1890)が発売され話題になっている。

  この本でルネさんがゲイであること、そして本間真夫さんと一緒に住んでいることも告白している。今まで隠していたバブル期に、ルネさんがコレクションしてきた、アンティークのお人形を展示する美術館の建設用に用意してきた多額なお金を人のいいルネさんたちはだまされて、すべてをまきあげてしまったサギ師たちの話も公開している。

  「すべてを失くして」のタイトルは、今まで二人で住んでいたマンションまで失くしてしまったところから、このタイトルがつけられている。

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  修善寺に残っていた土地は、失わずにすんだことと、数千万円のお金は残っていたのでお人形の展示場と、その裏に住居も作って現在は生活している。

  1971年、昭和46年の『薔薇族』創刊の少し前の春の頃だと思う。千駄ヶ谷の駅から歩いて4、5分のところにあるマンションに、ルネさんと本間君は住んでいた。

  その頃のぼくは昭和7年に建てられた木造2階建のボロ家に住んでいたので、このマンションのいくつもの部屋は、まばゆいばかりだった。

  真っ黒な部屋に通されると、扉が開いてお茶をおぼんにのせた手だけが出てくる。その手はかなり経ってから紹介されて知ったのだが、本間君の年老いたお母さんの手だった。ぼくのおふくろも岩手県の出だったが、本間君のお母さんも東北の出身で、苦労に耐えてきたというような方だった。

  お母さんのほかにまだ人の気配をなんとなく感じていたが、その人がルネさんだったのだ。ルネさんを紹介されたのは、かなりの時間が経った頃だった。やっとお互いに気心が分かってきて、なんでも言えるようになったのは、ずっとずっと後のことだった。『薔薇族』の中身の内容がどんなに過激でポルノでも、ルネさんが描いてくれた表紙絵の青年のおかげで、『薔薇族』はさわやかさと上品さを失わない本だった。

  ルネさんの部屋でお茶を出されたときに、お茶が入っていた器、それは江戸時代に作られたそばちょこだった。なんとも魅力的なお茶碗、それをひとつ買い求めてから、ぼくのアンティーク狂いが始まってしまった。

  ぼくの心は豊かになり、ルネさん、本間君の影響で美意識も向上して、新潟の弥彦に「ロマンの泉美術館」を12年前に造ってしまったが、昨年の9月に『薔薇族』は廃刊して無収入になり、その上、美術館建設の借金だけが残ってしまった。

  ルネさんたちは、サギ師にだまされてすべてを失ってしまったけれど、銀行に借金はないから幸せだ。今の世の中、借金をかかえている人間だけが苦しんでいる。

  お金はないけれど、心の豊かさだけは、どんなことになっても失いたくないものだ。

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2005年7月30日 (土)

また少年愛者の楽しみが消えた!

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'99年11月に施行された、児童ポルノ禁止法によって、18歳未満の少年、少女の裸の写真などを誌上や、写真集などで見ることはできなくなってしまっている。

  フィクションの小説、読物なら少年が登場してきても、これは法の対象にはならない。だからぼくは廃刊前の『薔薇族』誌上では、少年の好きな人々への読物をずっと載せ続けてきた。しかし、残念ながら復刊後の『薔薇族』はぼくの主張は通らず、少年愛者向けの読物はまったくない。

  どんなに規制を強めても、少年の好きな人たちが、この世から消えてなくなるわけではない。弾圧されればされるほど、その抜け道を探して、読みたい、見たいという欲望を満たすための方法を考え出すに違いない。

  7月17日の朝日新聞にこんなショッキングな記事が載った。「児童ポルノ閲覧制限=国会図書館、納本義務で所蔵、摘発対象、指摘受け」の見出しでだ。

  これはどういうことかというと、日本の出版社が出版する本は、すべて国会図書館に発行と同時に納本する義務が課せられている。だから第二書房から過去に発行された『薔薇族』と単行本では、写真集「少年たち」単行本の「半ズボンの神話」「稚児のメルヘン」などもすべて国会書館に置いてあり、誰でも見ることができるし、コピーすることもできた。

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  少女物のヌード写真集などは、法が施行される前は、かなりの数が発行されていたので、国会図書館には、すべて置いてあったに違いない。

  こうした少年物、少女物の本を借り出してわくわくしながら読んでいた人たちの僅かな楽しみも絶たれてしまった。

  弾圧すればするほど、地下にもぐってしまって、弱みにつけこんで高値で売ろうとするものも出てくるし、どんなに高価であっても購入しようとする人もいるだろう。

  テレビのドラマを見ていると、どれだけの人が殺されていることか。時代劇でもそうだ。これはフィクションだから許されている。フィクションの読物であれば、少年とセックスしたり、愛するがゆえに少年を殺してしまったりする描写があっても許されるだろう。

  なにもかも臭いものにふたをしてしまう世の中って、恐ろしいと思うのはぼくだけだろうか!

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2005年7月29日 (金)

戦犯の汚名を着せられた兵士たちは?

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  「巣鴨」にスガモ・プリズンなんていうものがあって、戦争を指導した東條さんのようなA級戦犯と共に、名もない普通の兵士たちが戦犯の汚名を着せられて服役されていたことを知っている若者は少ないだろう。

  親父の出版の仕事として、永遠に残るであろうものは、原爆歌集の「広島」と、戦犯歌集の「巣鴨」と、基地闘争の歌集「内灘」の3部作だ。

  8月15日の終戦記念日が近いので、小泉総理の靖国参拝の話題と、A級戦犯のことは話題にとりあげられるが、米兵の捕虜を殺害してしまったり、虐待して罪に問われて、死刑になったり、長い獄舎生活を余儀なくされた日本兵のことは話題にもならない。

  戦犯歌集「巣鴨」は、第二書房から昭和28年9月に刊行されている。ぼくが駒澤大学を卒業した頃のことだ。

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  後期に巣鴨短歌会を代表する大槻隆さんはこう記している。

「昭和20年8月、終戦以来、私たちは内外各地に於いて逮捕の上、人道の敵として連合国に裁かれ、或いは絞首台に散り、或いは長い獄舎生活を余儀なくされた。戦争中の行為をもって、その理由の如何を問わず犯罪とされ、重刑を科せられた苦悩は、時と共にいよいよ深刻さを加えるばかりであった。

  そのような生活の中にあって、短歌が生まれ育ったということは、深い意味を持っていると思う。」と書いている。

  福岡県出身の海軍大佐。昭和25年巣鴨に於いて絞首刑。享年52歳。井上乙彦さん。

囚われの久しくなりて視力薄れ日にいくたびか眼鏡拭きつつ

三年余を離りて居ればわが妻はルージュおしたる手紙おくりし

  福岡県に生まれる。米軍飛行士を処刑した罪で終身刑。冬至賢太郎さん。

わが斬りし米兵の妻子想いおり背なひえびえと壁にもたれて

着がえつつシャツやわらかに匂えれば一日を妻に会いたくなりぬ

  終身刑の罪に問われた戦犯の兵士たち、今では80、90歳になっているだろうに、まだ獄中にいるのだろうか。誰もその人たちがどうなってしまったのか語る人もいない。この人たちの苦しみはなんだったのだろうか。

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2005年7月28日 (木)

老いては子に従え!

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ネットなんて、まったく触ったこともないぼくが、昔のままの400字詰の原稿用紙に2枚か3枚書くと、息子の嫁さんがネットに入れて(?)くれるのです。

  だんだん読んでくれる人が増えて、何百人にもなっているなんて聞かされると、面白くなって書いています。その反面、こんなものをみんなが読んでいるから雑誌が売れない時代になってしまったんだと嘆きながらです。

  ぼく自身は画面上では、どんな風になっているのか、まったく知らないで書いているんですから、自分でも何がなんだか分かりません。それでも何百人かの人が読んでくれているということは、どこかいいところがあるのかと思って書き続けているのです。

  先日、上野のメディアソフト(『薔薇族』を復刊してくれた会社)で、復刊5号の編集会議に出席きてきました。お茶一杯出ないのは分かっているから、ビルの隣の店で「おーいお茶」なんかを買い求めて、ビルの9階にある編集室の椅子に座ります。みんな若いやつばかりで、70を過ぎたのはぼくひとりだから、休みなしで3時間も4時間も会議が続いたんでは、くたびれてしまって、たまったものではありません。それに夕方になってくると、会議に出ていなくたってねむくなってしまう。

  ぼくは本当に本を必要としている、ネットなんかできない年配者に読者のターゲットをしぼるべきだと思うけれど、若い連中は若い人にターゲットをしぼって、雑誌をつくっているようです。

  「老いては子に従え」というから、若い連中に従って、あまり口を出さないようにしてはいます。

  みんな頑張り知恵を出し合っているから号を重ねるごとに活気が出てきて、誌面が充実してきていることは事実です。これで売れ行きが伸びてくれれば言うことはありません。

  廃刊前の『薔薇族』の書き手のほとんどをはぶき、新しい書き手を集めて雑誌を作っていますから、手にとって読んでくれさえすれば、『薔薇族』は変わったな、内容がよくなってきたなということをわかってもらえると思う。

  ぼくが担当しているゲイ・バァのマスターとのインタビュー記事も、オープンする3時間前くらいからじっくり話ができると、本音を聞き出せますが、オープン1時間前からではすぐにお客さんが入ってきていい話を聞けなかったり・・・。

  ネットに負けないためにも、じっくりと本音を引き出して読んでて面白い、いい記事にしたい。そう思って書き続けています。

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2005年7月27日 (水)

犬にえさをやれずに死なしてしまった悲しみって、今の人に分かるかな?

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  吉田絃二郎という作家の名前を知っている人はいないだろう。吉田さんは1886年4月21日生まれで、1959年4月21日に亡くなっている。

  戦前から戦後にかけての流行作家で、新潮社から吉田絃二郎全集も出ているぐらいの作家、小説は少ないが紀行文を得意として、センチメンタルな文章で、女性のファンが多かったようだ。歌舞伎の脚本も書いていて、「二條城の清正」「江戸最後の日」などの作品もある。

  ぼくの親父は絃二郎に心酔していて、若い頃は絃二郎ばりの文章を書いていたようだ。親父は戦前、第一書房に勤務していて、新潮社だけしか本を出版しない吉田邸に日参して第一書房でも吉田さんの著書を出せるようにした。

  戦後、親父が独立して第二書房を設立したが、処女出版は吉田さんの本で「夜や秋や日記」。これは妻想いの吉田さんの看病日記だ。

  ぼくも子供の頃、親父に連れられて吉田邸を訪ねたことがあったが、千何百坪もある豪邸で木々が生い茂って、「小鳥がくる日」というエッセイ集に書かれているとおりのたたずまいだった。

  親父の荷物を片付けていたら、吉田さんの手紙がたくさんでてきた。吉田さんは大きな犬を何頭か飼っていて、よく犬を連れて散歩をしていたようだ。

  終戦直後の食糧難の時代の手紙で、「わが犬食とぼしくて死にければ」とある。人間が食べるものもない時代で、犬にはとっても餌を與えられなかったのだろう。

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   食なくて日に日にやせてゆきつつもわれを追いては尾をふりにけり

   ひもじさを訴うこえも宵ごとに細りてゆきしあわれわが犬

   ゆるせわれもひもじさに耐えてあり骨のみとなりて死にわが犬

   多摩の川原秋は来にけり口笛を吹けどわが犬来ぬぞ悲しき

  出たくもない宴会にも出て、残ったパンを犬のためにくすねてきたという歌もある。ぼくも食糧難の戦後の時代を生き抜いてきた人間だから、犬にえさを与えられずに死なしてしまった悲しみは、切ないぐらいに伝わってくる。

  期限切れだからといって、残った弁当をぽんぽん捨ててしまうなんて、考えられない時代になってしまったものだ。

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2005年7月26日 (火)

ハーモニカとフォスターの曲が

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  ぼくの友人、カズ・タカハシ君が、すごい仕事を完成させてくれた。アメリカの58ヶ所に及ぶ国立公園を踏破して、7年間かけて写真を撮り続け、(株)学習研究社から写真集『アメリカの遺産』(定価¥2800 税別 03-3726-8188)を出版した。

  アメリカは想像を絶するぐらい広い。ぼくもロサンゼルス・サンフランシスコと。ゲイパレードに参加するために何回か渡米して、その広さを多少は実感しているが、ハワイにも2ヶ所、なんとアラスカにも7ヶ所国立公園はある。そのすべてを踏破したのだからアメリカに住むアメリカ人でもなし得なかったことだ。

  タカハシ君は、1948年の鹿児島生まれ。陸上自衛隊の勤務301写真中隊で写真を習う。日本でスポーツ新聞社に勤務。その頃、タカハシ君と知り合う。1983年に渡米、米国のスポーツを取材して、東京のスポーツ新聞社に写真と記事を送っている。

  あとがきにこう記している。

  「ボクにとってアメリカを探す旅は、鹿児島県の小さな島で過ごした小学生の頃にさかのぼる。
  ある時、父の鞄の中から古いハーモニカとフォスターの歌曲集を見つけ出したボクは夢中になって練習した。
  家から学校までは山道を片道4キロ近くあるかなければならなかったから、通学の行き帰りはいつもハーモニカと一緒だった。そしてフォスターの曲はボクをまだ見ぬ遥か彼方のアメリカへと誘った。」

  タカハシ君のお父さんは貧しくて、彼を上の学校へ行かせられなかったが、彼のハーモニカは“ボク”をアメリカに誘い、そしてこんな素晴らしい旅をさせてくれたと、父に感謝している。

  お父さんはすでに亡くなっているが、お母さんは94歳で元気、「自分がここまでこれたのは、丈夫な身体と忍耐力を授けてくれた彼女のおかげ」とタカハシ君は言う。

  写真集の刊行を機に帰国して、故郷の鹿児島の母に報告するために帰ったが、町をあげて歓迎してくれたそうだ。

  すばらしい序文を書いている歴史学者でコネチカット州立大学名誉教授のウイリアム・ボグランドさん、彼の存在も、彼を落ち着いていい仕事を成し遂げることができた原動力になっているのでは。

  これまで多くの画家や写真家、モノ書きにめぐりあったが、脚光をあびたり、売れてくると、別人のように人が変わってしまうのを沢山見てきました。
  「日本にいたとき、伊藤さんにお世話になったこと、ボクは今でもご恩を感じ、感謝の気持ちを忘れてはいないのです。」と言って帰国するたびに会いに来てくれる、そんなタカハシ君の心根がぼくはとてもうれしいのです。

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2005年7月25日 (月)

「オスギの悪口劇場」が本になった!

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  長い間、『薔薇族』誌上に目玉として連載されていた「オスギの悪口劇場」が一冊の本になってしまった。

  そのタイトルは『バカバカバカ!』((株)ぺんぎん書房・定価¥1380+税 03-3217-3801)だからおどろき!「さよなら さよなら さよなら」ならまだしも、バカと3回も続けて言われたら、言われた方はたまったものではない。それも毒舌と痛快の初エッセイ集というのだから。

  これは暑い夏を乗り切る暑気払いになる本だろう。おすぎさんも序文で「『薔薇族』に15年近く連載していたエッセイをまとめて1冊の本にする、などということを考えてもいませんでしたし、するつもりはあるませんでした。」と書いているが、ぼくもまさか本になるとは思いもしませんでした。そのときどきの出来事を毒舌で書いているところは面白かったけれど、あとの部分はその頃、封切りされる映画評だから、古い映画のことなど書いても、フランス映画の名作ならまだしも、すぐに忘れられてしまう映画のことなど読もうとはしないだろうから。

  ぺんぎん書房の若い編集部の圓尾公佑君が尋ねてきたのは、いつの頃だったろうか。線の細い、やさしい、ぼくの若かりし日の頃を思い出させる青年だった。

  悪口劇場が載っている『薔薇族』を全部ダンボールに積めて、車で編集部に持ち帰り、コピーして読んだようだ。そのうち「本になりそうです。」と電話があった。「おすぎさんも承諾しました。」と報告してくれた。おすぎさんもかなり加筆してくれたそうで、出来上がった本は読みごたえがあり、面白い。これは売れそうな本だ。

  圓尾君は、この前も読売新聞社のオーナーのナベツネさんを取り上げた本を出してヒットさせているから、この本がまたヒットしたらボーナスをいっぱいもらって、奥さんや、小さい子供さんに喜ばれるかも。

  いつもわが家を訪ねるとき、ケーキを2、3個入ったおみやげをもってきてくれるが、今度は大きなケーキをもってきてくれるかも。

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2005年7月13日 (水)

あっちを見て、こっちを見て。

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1957年の3月17号の『週刊読売』が「性の崩壊・実態調査『男の同性愛』」という特集を組んでいる。48年も前の話だ。

「戦後の性道徳の乱倫はいろいろとりざたされてきたが、しかし、どうやら健康な愛情が平和とともによみがえってきていると、われわれはみたい。が、その反面、ここにとりあげたような不健康な愛情が、地下にひろがりつつある。」と同性愛は不健康な愛情とのっけから決めつけている。

同性愛を変態か否か、この問いに対して、

変態と思う 40 変態ではない49

となっているが「他人には知られたくない」というのが圧倒的に多いところからみると異常だという自覚があるためと解釈できる。もっとも、これは今の社会が、これを異常扱いしているからひけめを感じて知られたくないのであるが、変態と思うのも、社会がそう見るから、そう思っているのであろう。

yomiuri1

調査に当たった太田典礼さんは、こんなことを言っている。

「同性愛とくに男性の同性愛の増加は、戦後の性文化の一つの特徴ということもできよう。もちろん信用できる調査もなく、その実数をつかむことはできないが、同性愛に関心をもっている人たちは、みな増えたと言っているし、それを推測するに足る材料も少なくない。」

戦時中は同性愛のことなど関心を持つはずはなく、戦後になって目立ってきたので増えたように思ったのだろう。

ゲイバァの扉を開くのだって、あっちみて、こっちっみて人がいないのを確かめてすーっと扉を開ける。そんな時代は『薔薇族』が創刊される時代になっても、まだまだ続いたに違いない。

世の中あっという間に変わってしまうものもあるが、同性愛の問題は少しずつ、少しずつ、いい方向に向かって変わっているのだろう。

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2005年7月12日 (火)

なんで伊藤文學に『文學界』が送られてくるの?

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  3ヶ月ぐらい前から文藝春秋から純文学の雑誌『文學界』が毎月送られてくる。最初はなにか『薔薇族』に関連する記事でも載っているのかも知れないと思って隅から隅まで目を通してみたが、それらしい記事は見当たらない。

  ぼくの名前が「文學」という名前だから、敬意を表して送られてくるのかとも思ってはみたが、そんなこともあるまい。

  純文学の雑誌は大手の出版社から何誌か出ているが凡て赤字で数千部しか売れていないという話も聞く。赤字であっても続けているということは、作家を育てるためということらしい。

  送られてきたのは8月号で定価900円。以前はひとつの小説の中に、挿絵が何枚も入っていたが、今は題字のところに一枚だけしか入っていない。宇野亜喜良さんもこぼしていたが、イラストレーターの仕事が減ってしまっている。ほとんどの頁が文字だけということだからだ。

  アメリカでも純文学の雑誌を読む人はゲイの人が多いという話を聞いたことがある。ゲイが純文学を支えているということだ。おそらく日本でもそうではないだろうか。もしかしたら編集者がそのことを知っていて、『薔薇族』の読者に紹介してほしいと思って送ってくれているのかも。そうでなければ編集者の中にゲイの方がおられて、送ってくれていることも考えられる。

  今月号から東京都知事の石原慎太郎さんの「火の島」という小説の連載が始まった。役所に2、3日しか顔をださないという石原さん、小説を書いていて役所に行けないのかと。そんなこともないだろうが。これからじっくり読んでみようと思っている。「太陽の季節」しか石原さんの作品って読んだことはない。

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  8月号には著者インタビューが載っていて澁澤龍子さんの『澁澤龍彦との日々』(白水社刊・定価2000円+税)がとりあげられている。「夫と過ごした18年の日々を静かにふりかえる感動の書き下ろしエッセイ」だ。ぼくも購入して読み始めている。

  龍子さんとは四谷シモン君の出版記念会の席でおめにかかって記念写真を撮らせて頂いた。澁澤さんは、亡くなった女房が「オー嬢の物語」を舞踏化したときに大変お世話になったことがある。

  鎌倉の澁澤さんのお宅に是非伺ってみたいと前から思っている。お部屋が澁澤さんが生前暮らしていた、そのままになっているそうだから。

  僕のブログを見てくれている人はインテリばかりと信じているので、『文學界』、是非読んでみてください。

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2005年7月11日 (月)

まじめでいい人が、みんな悪い人になってしまう狂った時代!

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  不況が10年以上も続いて、それがまだまだ終わりのないままに悪化の一途をたどっている。こうなってくると、人間の心は荒むばかりで、あのまじめな人がなぜというような犯罪が連日、日本のどこかで起こっている。

  まじめで、いい人だとばかり思っていた人が、世の中、荒んで悪くなるばかりで、いい人がみんな悪い人にならされてしまう。

  わが家から歩いて4、5分のところに第二書房の事務所を借りていて、もう20年近くにもなる。4階建てのビルで、その1、2階を借りていた。

  半地下になっていて、駐車場だったところに、がっしりとした棚を作ってもらって、そこにバックナンバーを並べていた。

  親父の代からの本や、原稿類などもあって、荷物は増えるばかりだったが、33坪ぐらいあって結構広かったので、便利に使っていた。

  ところが雑誌が昨年の9月に廃刊になって事務所を閉鎖することになり、片付けはじめたが、それからが悪戦苦闘。やっと5月いっぱいで片付けが終わった。

  大家さんのおじいさんが昨年、突然倒れて亡くなってしまった。80歳を越えたおじいさんで、最初は家賃が30万円だったのを苦しいからというと25万までに下げてくれていた。ところが大家さんは息子の代に変わってしまった。

  敷金を85万円積んでいたので、なんだかんだといちゃもんをつけられても、少しは戻ってくるかと期待していたのに、なんと逆に10数万払わなくてはならないような請求書が送られてきたではないか。

  20年も部屋を使っていたら、あちこち汚れてくるのはどうしようもない。そんな修理代を払えと言うのだ。クロスの張替えに数十万円、片付け忘れた椅子1客の撤去にン万円、それを運ぶための2t車にン万円、人件費にン万円!周りに聞くと、今は何処だってなんくせつけて敷金は返さないのが当たり前だと言われてしまった。

  大屋さんの息子さんの商売は左官屋さん。仕事も減り、仕事をしても値切られて、儲からない。息子さんもいい人なんだけど、敷金を返さなければいけないものを返さない悪い人になってしまった。

  結局はすべてをチャラにしてもらったが、なんとも後味が悪かった。今度は部屋をリフォームして30万の家賃で貸すようだけど、今時、築20数年の物件を借りる人はいるだろうか。少しは20年も借りていたありがたみを感じてほしい。

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2005年7月 8日 (金)

共産党も「赤旗」も変わりました!

akahata

1976年の出来事ですから、もう29年も前の話です。共産党の市会議員の人が渋谷のホモ旅館「千雅」でロッカー荒らしをして逮捕され、渋谷警察の留置場にほうりこまれてしまったのです。

共産党の機関紙「赤旗」は、9月9日の日曜版に6段抜きで「党にかくれ二重生活=失踏=窃盗容疑のA」と大きく報道しました。

当事、ぼくはその記事を読んで、あっけにとられてしまいました。泥棒したことが悪いことなのに、ホモであることを糾弾する記事だったからです。

「Aは失跡した7月16日以前は表面まじめに議員活動をしていましたが、他面、私生活ではいわゆるホモの習癖がある二重人格者でした。
・・・党にかくれて赤坂、新宿などの盛り場で深夜喫茶店に出入し、そこで知り合った友人と男同士のいかがわしい関係をつづけるという、きわめて異常、異質な二重人格的な私生活をつづけていたのです。」

ホモは異常でも、変態でもないと言い続けてきたぼくにとってはつらい話で、「赤旗」を非難する一文を書きました。

29年がたち、時代も変わり、共産党も変わり、「赤旗」も変わりました。読者のひとりから「赤旗」にこんな記事が連載されているよと電話がかかってきて切抜きを送ってくれたのです。彼は「赤旗」の編集局に電話を入れてぼくの存在を知らせてくれたようで、女性のTさんという記者から電話がかかってきたのですが、すでに連載は終わっていたので、残念ながら参加できませんでした。

「ともに生きる=同性愛者の人権を考える」というタイトルで5回に渡って連載されています。

1回目はレスビアンの奥さんの話。2回目はゲイの大学生の話。3回目は宮崎県都城市が全国で初めて同性愛者の人権尊重を明記した条例が施行され、1周年を迎えたという話。4回目は、NPO法人アカーの活躍の話。5回目は「その社会の成熟度は、ハンディを背負った少数の人たちの人権をどう守っていくのかということに表れています。」という立教大学教授、浅井春男さんの話でしめくくっています。

あとから編集局のTさんから掲載された「赤旗」が送られてきました。今までじっくりと読んだことはありませんでしたが、新聞としてもよく出来ているので驚きました。

世の中、変わってしまったと実感させられた出来事でした。

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2005年7月 7日 (木)

女性からの手紙

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ブログを読んで、ぼくの著書『薔薇ひらく日を』を購入してくれた人がいて、それもひとりだけれど、こんなにうれしいことはありません。そして本を読んで、メールでなくて手書きの手紙をくれたことは、なおさら感激でした。

「“女性に読んでほしいと思う”とのブログの中のお言葉に勇気を得て、購入のお願いをしました。同性愛について、あれこれ読み始めた、きっかけは所謂ヤオイ本との出会いでしたが、そのうち耽美よりも現在、そして過去から“ここにある”“あった”事実に関心をもつようになりました。

一般の人が考えているよりは、ゲイの人の数の多さ、著名人の多さ。見えるままと思っていた、この世を動かす、重要な地下水系のような見えない力の存在。

表向きには“無い”こととされ、不当な扱いを受けることが、ほとんどのような同性愛の人たち。

私には、そのどこがいけないのか本当にわかりません。

本当の自分を偽り続けて、それはどれほど虚しいものかと思います。伊藤さんが書かれているように、その9割の方たちが(無意識にしろ)自分を殺して生きているのであれば辛い話です。

伊藤さんのお仕事が、みんなを温かく支えるものであること、先ずとても優しい方であるということを拝読して一番に感じました。

今でこそ、いくつものサポート団体も生まれ、若い人たちのサークルも多く見られるようですが、30年以上も前に、その第一歩を踏み出され、続けて来られたことに感謝します。」

長い手紙なので全部を紹介できませんが、『薔薇族』そのものを購入したいようなのにやはり女性では買いにくいようです。でも女性の読者も1、2割はいると思います。勇気を出してお求めください。

barahirakuhiwo

『薔薇ひらく日を』は、もっと多くの人に読んでもらいたい本です。

◆定価¥1500(税別)ですが、¥1000でおわけします。〒155-0032 東京都世田谷区代沢5-2-11 伊藤 文学まで現金書留または¥1000分の切手をお送りください。送料はサービスします。

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2005年7月 2日 (土)

三十数年ぶりに東京女子医大を訪れて

bokudousite 表紙絵・内藤ルネさん

「僕の家に突然、不幸の影が訪れたのは、昭和36年の12月、皮肉にもクリスマスの楽しい夕げのひとときだった。
2階の自分の部屋にいた妹の紀子は、急に目まいがして、階段を降りることもできなくなってしまった。
‟胸が苦しい!”
すごい動悸だった。洋服の上からわかるぐらい心臓が、早鐘のように高鳴っていた。母もぼくもただまごまごするばかりだった。
‟医者だ”
やっとわれにかえって近所の医者にとんで行った。」

昭和40年の1月に、ぼくと妹の共著で出版した『ぼくどうして涙がでるの』の最初の書き出しだ。
それから長い間、入院を待たされて東京女子医大の心臓病棟、女性ばかりの病室401号室にやっと入院できた。それからいろいろな出来事があって、同室の5歳の坊や、芳っちゃんとの悲しい別れはつらかった。この本は日活で映画化され、昭和40年の秋の芸術祭参加作品になり、十朱幸代、佐藤英夫の主演で話題になり、映画もヒットし、本もベストセラーになった。

bokudousite-1 ぼくら兄妹を演じた十朱幸代さん&佐藤英夫さん

妹もその後、結婚して二人の男の子をもうけ、33歳で二度目の手術の甲斐なく亡くなってしまった。
それから30数年、昨日、東京女子医大をしばらくぶりに親戚のおじさんのお見舞いに訪れることになってしまった。

30数年の年月は、まるっきり病棟を変えてしまい、妹が入院していた病棟は、影も形もなくなっていて、残っているのはレンガ造りの建物が残され近代的な病棟に変貌していた。

妹が入院していた頃は僕は30代、スクーターに乗って走り回っていて、毎日のように妹の病室を訪れていた。

今でも胸が痛むのは、妹についていた19歳の看護婦さんと恋に落ちてしまったことだ。群馬県の館林の出身で、気の強い、しっかりした女性だった。

スクーターの後ろに彼女を乗せて、あちこち走り回ったものだ。その後、女房に知られることになり、新宿の喫茶店で彼女と対決して、そこへぼくも呼び出されてしまった。結局、彼女は身をひいてくれたが、若かりし日のにがい思い出になってしまった。

その女房も5歳の男の子を残して、33歳で事故死することに。妹がテレビ結婚式をあげたフジテレビも河田町にはない。長い年月はすべてを変えてしまった。

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2005年7月 1日 (金)

テレビを持って行かれちゃった!

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『薔薇族』復刊第2号に、男街新橋の特集をして、ゲイバァ「勝ちゃん」のマスター、宮崎真至さん(76歳)にインタビューをした。

「ゲイバァって、ゲイの人の心のオアシスですね」という見出しで、根堀り葉掘り、4頁も使って宮崎さんから話を聞き出した。

その後、記事の反響があったのか、なかったのか聞きたいと思っていたら、宮崎さんの方から電話があって、店に入る前はひまなので、昼飯をご馳走するから渋谷で会いませんかという、ありがたいお誘いがあった。

3大新聞社のひとつに35年も勤めていた宮崎さん、年齢も同世代で話も合うので、渋谷まで出向いてお会いした。

東横デパートの8階のレストラン街のてんぷら屋さんで、てんぷらをご馳走になり、喫茶店でコーヒーをのみながら話を聞いた。

月曜日の昼間なのでお客さんは女性ばかり。年寄りの男二人がおしゃべりをしているなんてなんか変。

報道部に30年。テレビ局に5年勤めたそうだが、特ダネ賞をもらったことは3回だけという。10年に1回しか特ダネとれなかったそうで、いかに特ダネをみつけることは大変なことなのだろう。

ようやくテレビが普及しだした、昭和30年頃の話。宮崎さん、入社したての頃だ。社のデスクにいたら電話が鳴って、受話器をとったらやっとしゃべっている子供の声。べそべそ泣きながらの訴えで、「テレビを持っていかれちゃった!」

早速、宮崎さんは子供の家にとんでいったら、おじいさんと孫の5歳の坊やが二人でアパートに住んでいた。両親は離婚してしまい母親も働きに行っていて家にはいない。

生活保護を受けて生活しているという。テレビが唯一の娯楽だというのに、その頃は生活保護を受けている家庭では、テレビはぜいたく品ということで置いてはいけないことになっていた。もちろん、その頃はクーラーも駄目という時代だった。

お役人が楽しみにみていたテレビを持ち去ってしまったというので、5歳の坊やが泣きながら新聞社に電話をかけたのだ。

宮崎さんは坊やのうったえを聞いて、それはあまりにも理不尽な話だと、怒りのホコ先をお役所に向けて記事にした。その記事は社会面のトップに載ったそうだ。

その反響はものすごく、なんとテレビが150台も坊やのもとに届けられたという。それからは生活保護を受けている家庭でもテレビが見れるようになったという。

150台のテレビは運送会社の社長さんの好意で倉庫であずかり、後に児童の福祉施設に贈られたということだ。

◆スナック「勝ちゃん」03-3434-6881 http://www.kacchan-sinbasi.com/

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