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2005年9月

2005年9月23日 (金)

押収されたブルーフィルムの行方は!

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  ブルーフィルムは、ほとんどヤクザさんが製作していて、比較的に取締りがゆるい、四国の山中などで作られることが多かったようだ。

  警視庁の風紀係には、ブルーフィルムに関してはなんでも知っている生き字引みたいな係官がいるという話を聞いたことがある。

  ブルーフィルムにも名作といわれる作品もある。千葉の印旛沼のような所で撮影したのであろうか。葦(あし)が生い茂った水面の小舟の中で、かすりの着物を着た若い男女が抱き合うと言う光景は、情緒があってよかった。

  その頃、東宝のストライキがあって、組合員が資金稼ぎで製作したのではないかという作品があった。戦国時代が背景になっていて鎧(よろい)を着けた武士たちが女を犯すなんていうのはヤクザさんには撮れないだろう。

  雨が降ろうが槍が降ろうが、ブルーフィルムの撮影会をやりますと声をかけると、欠席する人はいなかった。そのくらいみんな飢えていたということだろう。

  ぼくが卒業した駒澤大学の教授たちをご招待したことがあった。中には尼さんもいた。のちに上越新幹線の車中で、講演の帰りだろうか、総長ご夫妻と偶然に同席することがあった。総長さんも「あのときはよかったね」と、よろこんでおられた。もうとうに亡くなられているが、今でもいい功徳になったと思っている。

  映写会が終わって外に出ると、男たちがみんな竹やぶに向かって一斉に立ち小便をするので、近所の人が見たらへんだと思ったに違いない。

  ぼくと同じように接待に使う人が何人も出てきて、なかなか日どりがとれないようになっていた。確か、お礼として1万5千円払ったと記憶しているが、山口さん、忽ちアパートを自宅の裏に造ってしまった。

  いいことは長くは続かない。警察って面白いもので、地元の警察は動かず、高田馬場の戸塚警察に挙げられてしまった。ぼくも参考人として警察に呼ばれたが、「伊藤文学グループ」なんて書いてある書類が机の上にのっていた。

  見にきた人の住所、氏名を書いていたので会員に見せている分には罪にはならないようだ。フィルムを売ったりするといけないが、売ったりはしていないから罪にはならなかったようだ。

  このことでがっくりされたのか、山口さんは亡くなられてしまった。秘密めいたひそかな楽しみ、ある意味で、いい時代だったと思う。今の世の中、なにもかもあけっぴろげの時代、決していい時代とは言えないのでは。

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2005年9月22日 (木)

お互い秘密を共有して

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  「中野学校」って知っていますか?戦時中スパイを養成する学校が中野にあって、そう呼ばれていたということを 覚えている人も多いだろう。

  戦後のことで、もうひとつ、知る人ぞ知る「中野学校」があったことを知っている人は少ないのでは。

  中野の駅の前に現在は「サンプラザ」がある。かつては警察大学があったところだ。その裏手に山口玄珠さんとい う日本画家が住んでいた。昭和30年頃のことで、そのあたりは竹やぶがあったりして静かな住宅地だった。

  その頃、わが社(第二書房)では「世界風流小咄選集」というのを出していて、平野威馬雄編の「西洋風流小咄集 」、宮尾しげを編の「日本風流小咄集」、米田祐太郎編の「中国風流小咄」と立て続けに出していた。

  その「中国風流小咄集」の挿画をお願いにやはり中野に住んでおられた、洋画家の沢田さんに紹介してもらって、山口玄珠さんの家を訪ねた。心よく挿画をひき受けてくれたが山口さんに気に入られたのか、その後もたびたびお邪魔していた。

  山口さんは、なんと8ミリののブルーフィルムのコレクターだったのだ。8畳間の座敷に押入れがあって、そこに映<写機が置いてある。その押入れは奥の部屋からも開けられるようになっていて、山口さんがフィルムを操作するのだ。

  たまたまお邪魔したときに、「肉体の門」の作者の田村泰次郎さんと、剣豪作家の五味康祐さんと一緒になり、ブルーフィルムを見せてもらったこともあった。

  当事は今のようにビデオなんてものがない時代で、一般的にはブルーフィルムを見るのは難しい時代だった。

  ぼくは山口さんにお願いして、本の問屋の取次店の仕入れの人などを招待して、ブルーフィルムを見せてもらうことを考えついた。

  接待に当事は、クラブとかキャバレェにお連れすることが多かったが、5人、10人と接待したら大変なお金がかかってしまう。

  ブルーフィルムを見る会なら、10人ぐらい接待することも可能で、非合法な催しだからお互いに秘密を持つわけだから、接待としては効果的だった。

  これは大変なよろこばれ方で、また、やってくれとせがまれる始末だ。山口さんが東北なまりで、ぼくとつな言葉で解説してくれるのが、また味があってよかった。

  「中野学校」とは山口玄珠さんのブルーフィルムを鑑賞する会のことをそう呼ぶようになっていた。

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2005年9月21日 (水)

東スポがとり上げた、小さな記事。

  「東京スポーツ」の記事だからといって、馬鹿にしてはいけない。他の新聞がとりあげないものを東スポだけが、小さい記事だけど取り上げている。

  「中国、名門大学で“同性愛”講座」の見出しでだ。

  「中国上海市の名門大、復旦大学で今年9月の新学期から学部生向けに“同性愛研究所”講座が開設され、7日夜の第1回の授業では、約150人収容の教室が満員となり、立ち見の学生も出た。

  中国の同性愛者は約3000万人に上がるとされるが、保守的な社会での同性愛は依然タブーとなっており、大学の講座に取り上げられるのは極めて異例だ。

  同大では2003年から大学院生向けに“同性愛の健康と社会科学”という公共衛生学の講座を開設し、主に同性愛者のエイズ感染予防の重要性を教えてきた。学部生向けの新講座は社会科学部の助教授が担当し、同性愛者への差別や偏見を取り除き、学生に公平な観点を与えることに重点を置く。

  この日の授業は、国内メディアでの事前報道もあり、学生らが好奇心から注目。物理学科の男子学生(20)は、“同性愛は社会に存在しているのに、こうした講座はなかった。今回の講座開設は、中国の開放路線を象徴しており、意義深いと思う”と話した」

  これは9月9日(金)の東スポの記事だ。中国にだって同性愛者がいないわけはない。やっと一部の人たちが目ざめ始めてきた。閉鎖的な国で同性愛の人たちは、どんな思いをして生きているのだろうか。きっと息をひそめて生きている。日本の『薔薇族』創刊以前の40年ぐらい前の時代のように。

  もっと閉鎖的な北朝鮮のゲイたちはどうしているのだろうか。どんなに官憲が弾圧したからといって、人々の心に秘めた欲望をおさえられるものではない。徐々に一部の人が目ざめ始めて、それが大きな力になって世の中を変えていくに違いない。

  今の世の中、ネットという武器があるのだから、言葉の壁を乗り越えることができるのなら浸透していくのははやいだろう。

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2005年9月20日 (火)

35年前の『薔薇族』創刊号がピカピカのままで。

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  ショック!ぼくと同じ年齢73歳の読者から、こんな手紙をもらってしまった。

  「私は昭和7年生まれの73歳です。人生においては末期です。いつどのようなことになるのか分かりません。今が身辺の整理をする時だと考えました。

  60年間ぐらいの間にコレクションした書籍やグッズを家にそのまま放置して、あの世に旅立つわけにはいかないと思います。

  この箱の中には『薔薇族』の創刊号が入っています。私はその時からの愛読者なのです。創刊号だけは手元に置いておきたかったのですが、残念です。私の気持ちをおくみとり下さい。

  私はカミングアウトはしてはおりません。市井の一市民として生活しています。」

  数日後に大きなダンボール箱2箱が宅配でぼくに送られてきた。

  長い年月をかけて集めたものだろう。単行本は三島由紀夫の作品、稲垣足穂の『少年愛の美学』森茉莉の『枯葉の寝床』など、ゲイ関係の本は凡て揃っていた。

  『薔薇族』の新しいものは、買ってもすぐに処分をしてしまったのだろう。昭和46年の7月に創刊の『薔薇族』の創刊号、藤田竜君が描いた足をくんだ青年の表紙絵、35年という年月が経っているのに、あの時のまま、製本したてという感じの真新しさ。いかにこの人が大事に保存してくれたのかとうことがひしひしと感じられるぐらい、ピカピカに輝いていた。

  「創刊号だけはとっておきたかった。」という送り主の気持ちが痛いほどに伝わってくる思いだった。

  この人はぼくと同じ年齢でありながら、人生の終わりを考えている。ぼくは大きな借金をかかえているから、これからもうひと花咲かせて、少しでも借金を返済しなければ。これからがぼくの人生の再出発と考えているのに。

  人間死んでしまえば、おしまいだ。本人がこの世にいないのだから、死んだ後のこのなど考えずに、誰にも迷惑をかけるわけではないのだから、自分の好きなものを集めて、最後まで楽しめばいい。とはいってもゲイの人は、心の奥底に罪悪感みたいなものを持っているから、このような身辺整理を考えてしまうのだろう。

  このピカピカの創刊号は、大事に保存していつまでも手許に置いて保存しておきたい。

  このような読者に支えられて、今日まで来れたということを忘れないためにも。

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2005年9月19日 (月)

ルネさん、死なないでよかったね。

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  弥生美術館で催された「内藤ルネ・初公開コレクション展」は9月27日(日)までで終わってしまうが、連日、お客さんが押しかけて、大賑わいだった。

  8月27日の夕方から美術館の中の喫茶店「港や」で内藤ルネさんを囲んでのトークショーがあるというので、ぼくも参加した。

  30人ほどのお客さんで超満席、男性は3人ほどで、後は若い女性から年配の女性ばかり。

  この日は一緒に修善寺に住んでいる藤田竜君が欠席で、ルネさんひとりなものだから、藤田君がルネさんに相談なしに、数億のお金をサギ師にだましとられたときの話からはじまった。

  小学館発行の『内藤ルネ自伝・すべてを失くして』の中で、このいきさつを公表しているが、ルネさんに言わせると、藤田君のことを“いじわるオネエ”だと言い、40年も一緒に住んでいるのは“くされ縁”だともいう。そうは言っても二人の才能を結集して、いい仕事をのこしてきたということだろう。

  ルネさんは藤田君に、財産をすべて失くしてしまったことについては、ひと言もうらみ言を言わなかったそうだ。それだけにかえって藤田君はつらかったのでは。

  お金だけでなく、二人で住んでいた千駄ヶ谷の豪華なマンションまでも失くしてしまったのだから、ルネさんにとってはショックだったに違いない。

  ルネさんは3度までも自殺を試みたそうだ。だが最初の2回は失敗。3度目に死のうと思いたったときに、友人から電話があって、知人の砂山健さんが自殺したとういう知らせ。それを聞いて、かえって自殺を思いとどまったという。

  砂山健さんは、大変なお母さん思いで、いつも山形に住むお母さんを訪ねていた。『薔薇族』にも原稿を連載してくれていたが、藤田君が何が理由かは忘れてしまったが、気にいらないことがあったのか、やめさせてしまった。その直後の自殺なので、傷ついたのかと今でもぼくは悔やんでいる。

  山形に行く途中に、女房の古里の弥彦村の「ロマンの泉美術館」にも立ち寄ってくれたこともあった。

  ルネさん、その時、死ななかったから、またルネさんのブームが到来して脚光を浴びている。こんなに多くのファンがルネさんを慕って集まってくれているのだから‐。

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2005年9月16日 (金)

廃刊から1年の歳月が。

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  ぼくは毎日「10年日記」を書いている。それが10年があっという間に過ぎ去って、最後の10年目を書き綴っているが、去年の今日(9月16日)こんなことを書いています。

  「午前中、太平印刷に呼びつけられる。社長室に幹部5人が揃っていて、被告席に座ったみたい。印刷代の未払いがかなりの額になっているので、12月号は作れませんと投げ出されてしまった。これからどうなっていくのだろうか」

  11月号にはひとこともやめると書いていないのだから、12月号を最終号にして、33年間も出し続けることができたお礼と、読者に別れの言葉をのべたかったのに、それが果たせないままに終わってしまった。

  昨年の暮れに『薔薇族』を朝日新聞がとりあげてくれた。社会部の風変わりな小泉記者だった。今でもぼくにいい仕事のきっかけを作ってくれたのは朝日新聞だった。ぼくはためらわず小泉記者だけに『薔薇族』廃刊の報を知らせた。小泉記者はすぐさま夕刊に「『薔薇族』廃刊」の記事を書いてくれた。

  その夜の各メディアの取材はすさまじかった。それらの記事を読んだ株式会社メディアソフトの社長さんから電話があり、トントン拍子に話がすすんで、今年の4月に復刊第1号が刊行された。

  美輪明宏さんの友情から、ぼくとのインタビューに応じてくれて、3時間もしゃべりまくってくれた。その対談は6月号と7月号の2度に渡って掲載され、大きな話題を呼んだ。

  早いもので9月16日、復刊第6号の11月号が出来上がった。ぼくとの対談は、10月号に続いて、内藤ルネさんだ。ルネさんのイメージとはほど遠い、びっくりするような今まで語ったことのない話を聞かしてくれた。

  「男街・新宿2丁目」特集での、SMバァ「刀」(とう)のマスターとぼくとの対談は圧巻だ。全身に刺青(いれずみ)を入れているマスターとの刺青談義は、ネットでは読むことはできまい。

  ネットに負けないためには、とことん突っ込んで話を聞くしかないと思う。毎号いろんな人に出会って話を聞き出していく。次はどんな人がぼくの目の前に現れてくるだろうか。楽しみでならない。

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2005年9月 7日 (水)

眠っているものを掘り起こす仕事

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  1982年頃から1987年ぐらいまでに多くの劇画作品を残してくれた山川純一君。彼の作品は「けいせい出版」から、『君ににニャンニャン』『兄貴にドキドキ』『ワクワクBOY』と3冊の単行本化された。

  ところが「けいせい出版」が倒産してしまって、この3冊の本が山の用に返本になって残されてしまった。その残った返本を「けいせい出版」の女社長に頼まれて、全部をわが社(第二書房)で買い取ることになった。

  山のように倉庫につまれた3冊の本を見上げて呆然とせざるを得なかったが、山川純一の作品のパワーは物すごかった。なんと、なんと、返本の山はあっという間にくずれて、2、3年の間に全部売れてしまった。

  山川君は作品ができあがると、わが家に届けにきてくれた。線の細い青年でとっても行動的にハッテン場などに出入しているとは思えない、恐らく体験派でなくて、妄想して書いていると思う。だから発想が自由奔放で大胆な作品を書けたのだろう。

  彼は毎月書いてくる作品の稿料だけで生活しているとのことで、つつましく生活していたに違いない。

  彼の描く男は、少女マンガ風で、顔が細長く、長髪なので、『薔薇族』のスタッフには毛嫌いされて、ついにホされてしまった。

  わが社でホされたからといって、他社に原稿を持っていくということのできない人間だった。ぼくは彼が生活できなくなるのを知っていたから、誌上に載せなくても、かなりの年月、原稿料を払い続けてあげた。そのうち悪いと思ったのか、ぷつりと姿を見せなくなってしまった。

  いいものはいいということだろうか。20年の歳月が流れて、ネット上で山川純一の作品を読みたいという人たちが数多く出てきたというのだ。

  「ブッキング」という会社の専務の左田野渉君がわが家に訪ねてきた。山川純一の作品をまとめて、一冊の本にしたいというのだ。

  絶版になって手に入らないような本をネット上で読みたいという読者の声が高まってくると、その本を復刊しようという会社なのだ。その佐田野君が、『復刊ドットコム奮戦記』という本を築地書館から刊行した。

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  ネット上だけで、山川純一君の本『ウホッ!!いい男たち』 (定価¥4800+税)、このぶ厚い本が全部売れてしまうなんて、すごいことだ。その辺のからくりが書いてある『復刊ドットコム奮戦記』(定価¥1700+税・築地書館)を読んでみてください。

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2005年9月 5日 (月)

塗(ぬ)る塗る体験記

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ある人が、こんなもの売れないかと言ってサンプルを持ってきた。その夜、風呂に入ったときに、そのヌルヌルしたものをオチンチンにたっぷりつけてしごいてみた。

22、23年も前の話だ。その頃ぼくは、まだ若かった。あっという間に昇天してしまった。

「これは売れるぞ!」とぼうっとした脳裏にひらめくものがあった。なぜならぼくの若い頃は、オナニーをするときは、つばをつけたり、石鹸をつけたり、クリームをつけたりして、しごいていたが、終わったあとがひりひりして痛かった。それがこのヌルヌルしたものをつけたら、なんという快感だ。痛くもひりひりもしない。それに水をかければすぐにきれいになってしまう。

早速、「愛の潤滑液=ラブオイル」とネーミングを考えて、箱や、容器のデザインをなんでも屋の天才、今は亡き嵐万作さんにお願いした。万作さんがデザインのめだつ赤いケースは、ニセモノがでるくらい、今でもさんぜんと輝いている。

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もう、あの夜から22、3年も経ってしまった。ぼくもオナニーなんか、しないですむようになってしまったとは。

古い『薔薇族』をずっと目を通していると、こんな投書が目に付いた。ゲイバァをオープンするときに、店主が記念品として、お客さんにプレゼントしたらしい。そのときプレゼントされたラブオイルを持って、ハッテン場に行って早速、使ってみたらしい。その時のことを「塗(ぬ)る塗る体験記」として投稿してきたものだ。

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「そうだ。今日は例のラブオイルを持ってきていたんだ。地元のゲイバァのマスターから開店祝いにもらったもの。まだ本格的にためしたことはないんだ。さっそくオイルを彼のPくんに(オチンチンのこと)にたっぷりヌリたくって、ピンク色の先っぽを包むようにこすると、もうガマンができないのか、声をあげてよがるタカシ君。声はアヘ、アヘ、腰はピクピク。もちろんPくんは、ビンビン。気持ちよさそう。

そのうちにぼくもやりたいといって、握ってきた。二人で笑いながらヌルヌルしっこ。相手がもだえるのが面白くて、ムキになってやり続けた。まるで子供みたいにはしゃいでしばらく休んでは、またヌルヌル・・・。」

まだまだ、この後も続くのだけど、体験記ってナマナマしい。ラブオイル、22、3年も売れ続けているということは、人間にとってなくてはならない必需品だからだろう。

お求めはhttp://www.barazoku.co.jp/okaimono.htmまで。販売代理店も同時募集しています。

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2005年9月 4日 (日)

骨董という麻薬にとりつかれて。

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 中原淳一さんのお弟子さんで戦後、『ジュニアそれいゆ』などで大活躍した、内藤ルネさん。

ぼくは昭和46年(1971年)に『薔薇族』を創刊した頃、ルネさんの住む千駄ヶ谷のマンションにお邪魔したときに、お茶を出してくれたのですが、そのお茶碗がちょっと違うので「これはどういうお茶碗なのですか?」と聞いたのです。

「このお茶碗は江戸末期につくられたものでおそばのつゆを入れる、そばちょこというものなんです」と。

ぼくはすっかり、そばちょこに魅せられて教えられた骨董屋さんで、ひとつ買い求めたときから、骨董という麻薬にむしばまれてしまったのです。

それが美術館を造るまでに、はまってしまったのだから、われながら驚きというしかありません。ぼくに豊かな感性と、美意識を授けてくれたルネさん。ルネさんは「ロマンの泉美術館」の名誉館長になってくれています。

美術館のオープン当事に、「新潟日報」の夕刊のエッセイ欄「晴雨計」に、毎金曜日、連載した原稿をまとめて『扉を開けたら=ロマンの泉美術館物語』という一冊の本にしました。その本の序文にルネさんは、「大いなる温かさを持つ人と、巡りあった幸福」という一文を寄せてくれています。

復刊『薔薇族』の10月号に、この7月に修善寺に内藤ルネさんを訪ねて、文豪ゆかりの名旅館「菊屋旅館」の静かな部屋で、ルネさんを招いて、3時間以上も今まで聞けなかった話をお聞きして載せました。

「私の黄金の6年間について話しましょう」というぼくが聞き手のロングインタビューです。11月号にも佳境に入った話を連載しますが、これは女性にもぜひ読んでほしいのです。全国どこの書店でも注文すれば取り寄せてくれますが、店頭で買いにくいのであればhttp://www.barazoku.jp/buy_guide.htmlよりご注文を)

7月号と8月号は、美輪明宏さんとのロングインタビューが載っています。これもぜひ読んでください。

『扉を開けたら』は少しだけ残っていますのでサイン入りでおゆずりします。ご希望の方はメールを。

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2005年9月 2日 (金)

気持ちが悪いから見ないよ!

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平成5年11月3日の文化の日に、新潟県西蒲原郡弥彦村(人口8千人)に、ぼくは「ロマンの泉美術館」をオープンさせました。

弥彦村は越後一ノ宮の「弥彦神社」のある村で、江戸時代から神社と共に栄えてきた村です。村には女房の兄が「小林組」という土建業を営んでいて、兄が土地を提供してくれ、建物も請け負って建ててくれたのです。

ぼくの本業は親父の代から出版業で、昭和46年に日本初の同性愛の専門誌『薔薇族』を創刊して、今日に至っています。

『薔薇族』を出し続けてきて、よかったことはと、人に聞かれると、最初の頃はお金持ちの読者に「ロールスロイス」に乗せてもらったこと、ホテルオークラの一泊100万円もする部屋に招待されたこと、などと答えていたのですが、月日が経つにつれて、答えが変わってきました。

センスのいいゲイの人たちから、豊かな感性を自然に学びとって、受け入れたことと、美意識を身に付けたことが、一番の大きな収穫と言えるでしょう。

それと長い間に、数えきれないほどのゲイの人たちと出会い、奥さんも、両親も、兄妹も知らないことをぼくだけに打ち明けてくれたことによって、誰もが見られないドラマを見続けることができたこと。

初めて人と出会ったとき、誰しもがその外見でしか判断しませんが、ぼくはその人の心の奥底までを見抜いてしまうようなことを会得してしまいました。

月に1度ぐらいしか、弥彦に行けずにいますが、たまたま、ぼくが美術館にいたときのことです。

美術館の中にあるレストランから、中年のご夫婦が出てきて、奥さんが展示場を見て行きたいと言ったら(ロマンの泉美術館はレストランだけの利用も可能なので、展示を必ず見なくてもよいのです。)、ご主人は「気持ちが悪いから見ないよ」と言って、入ろうとしませんでした。

その会話を僕は聞いて、このご主人はゲイなんだなぁと思ったものです。「ロマンの泉美術館」は、意識したのでなくて、自然と身についたぼくのゲイ感覚で造ったのが、ご主人に「気持ち悪い」と思わせたに違いありません。女好きの男だったら、「気持ち悪い」という発想は沸くわけがないからです。

ゲイ感覚で造られた美術館だからこそ、多くの女性たちには愛され続けているのです。

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2005年9月 1日 (木)

笹岡作品は、日本の「オー嬢の物語」だ!

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笹岡作治さんは、『薔薇族』12号に「ああM検物語」が載ったことで、猛烈な創作意欲をかき立てられたのか、その後、長編の小説「地獄の顔」「小僧残酷物語」「若者狩り」「続・若者狩り」と、立て続けに作品が送られてきた。

 かつてなかったSM小説で、あっという間に読者を魅了してしまった。No.22号には「笹岡作治作品賛歌」として読者からの投書が多数寄せられた。

「あなたの責め作法には、かなりの迫力とエロチシズムがあり、読むものの興奮をかきたてずにはおられません。用語をストレートに表す文章は、歯切れがよく、からりとしたものがあり、とかく責め作品に見受けられがちな暗さが全くありませんね。」と、岡山市Iさんから。

「期待していた笹岡作治先生の「若者狩り」は、予想以上の素晴らしさに感激しました。笹岡さんの作品は、生涯に残るフィクションの世界の素晴らしさであり、そのフィクションから得た数々の印象が、ぼくのこの社会での生き方に対して大きな力になっています。」26歳の褌好きの青年からの投書だ。

ぼくは笹岡作治の作品を高く評価している。書かれたときから30数年が経っているが、少しも古さを感じない。作品の中に登場する若者は、戦前は魚屋とか、八百屋とかの若い店員が小僧さんと呼ばれ、彼らは越中褌をして、半タコと呼ばれる服装に腹掛け姿で、御用聞きに回っていた。

登場人物は、戦前の人たちだが、これは作者が安サラリーマンの家庭に育った原風景から描かれているのだろう。

フランスの地下文学の最高傑作といわれている「オー嬢の物語」は澁澤龍彦さんの訳で有名だが、それに匹敵する作品だと、ぼくは思っている。

「オー嬢の物語」の作者も幻の作家と言われているが、笹岡作治という作家も、その正体は全く分からない。しかし、作家が福岡県の人だということ。それに戦時中、海兵団に入隊していたことなどから、ぼくなりに推理してみると、この作家は大変な人だということが分かってきた。

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