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2005年10月

2005年10月30日 (日)

ゲイのための老人ホームを夢見た人はいた!

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映画「メゾン・ド・ヒミコ」(犬童一心監督)を見た人は、ゲイばかりが入っている養老院に興味を持った人もいたに違いない。

この映画の発端は、プロデューサーの久保田修さんが、2000年の冬のこと、自宅で何気なく新聞を読んでいて「独り身ゲイに老人ホーム」というタイトルで、フィリピンに実在するゲイのための老人ホームが紹介されているのを見たときから始まった。

日本には「メゾン・ド・ヒミコ」のようなゲイの養老院は存在するのだろうか。1992年の『薔薇族』10月号に「伊藤文学対談・ホモの“心の故里”づくり構想スタート」という見出しでゲイの養老院を作ろうとした社長とぼくとの対談が載っている。

映画評を書くときに、この記事を探し出そうとしたのに、見出しが小さくてついに見つけられなかった。「心の故里」なんてあって、「養老院」となかったので見過ごしてしまったのだ。対談をしたことだけは覚えていたのに。今から13年も前のことで、バブルがはじけた頃の話だ。

広島や各地にゲイ旅館を経営しているK会館のKさん、『薔薇族』創刊の頃、長野県の松本市で小さなスナックを開いていた。この他にも15軒ぐらい、普通の喫茶店とか食堂をチェーン化して営業を続けていた。

それがある朝、目を覚ましたときに、アルプスの山々に囲まれた松本の地では、私の人生は終わりかなと思ったという。

それから雪の降らない四国の高松へ進出していった。その頃、お客さんに将来少しでも利益がでたら、地方都市で育てていけるゲイ旅館のチェーン店をやろうと思うといったら笑われたそうだ。それから3年ほどして、6軒に増えたら、そのときのお客さんがあのときの笑い話が本当になりましたねって。

そのお客さんが、定年を迎えられて、奥さんとは別れるし、子供は大きくなっているが誰も定年をよろこんではくれない。あとの老後をいったいどうして過ごそうかと。

自由にゲイの話ができたり、そういう人たちとおしゃべりできる場が欲しいと。それが大分の別府市に設立しようとした「心の故里」の計画の発端だった。

この大きな計画が実現していたら・・・。日本で最初のゲイの養老院になっていたのに。ザンネン!同じ号の『薔薇族』に広告まで出していたのに夢物語になってしまった。

「メゾン・ド・ヒミコ」を見たゲイの人たちは、年をとったらこんな楽しい養老院があったら入りたい、誰もが夢見たろうに。こんな大きな夢を実現しようとした人のことを忘れてはいけない。

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2005年10月29日 (土)

「ロマンの泉美術館」のチラシのデザインは宇野亜喜良さんだ!

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今どきの若者に宇野亜喜良さんを知っている?と聞いても「知らない」という声がかえってくる。中原淳一の名前まで知らないのだから悲しいとしか言いようがない。そうは言っても若い歌手や、タレントの名前を聞かれても知らないのだからお互いさまっていうことか。

宇野亜喜良さんは、1999年に各界を代表する最高の芸術家たちに与えられる紫綬褒章を受章している、イラストレーターでもありデザイナーでもある。

宇野さんが化粧品のメーカーのマックスファクターの専属デザイナーになって、原宿の四つ角にあったセントラルアパートにアトリエを開いて、仕事をしているときにぼくは出会った。

ぼくがと言うより、33歳で事故死してしまった舞踏家(ぼくの女房)伊藤ミカに連れられてセントラルアパートに訪ねたというのが正しいのかも知れない。伊藤ミカビザールバレエグループを結成していて、最初の公演をフランスの地下文学の最高傑作といわれている「オー嬢の物語」を舞踊化することを決めて、ポスター、チラシ、プログラムのデザインをお願いに訪ねたのが最初だった。

ぼくと世田谷学園から駒沢大学まで同期で親友だった(数年前に亡くなっている)江田和雄の劇団「人間座」が、寺山修司さんの「アダムとイブ」を演出していて、ポスター宇野さんがデザインしている。

もう忘れてしまっているが、江田和雄君が宇野さんを紹介してくれたのかも知れない。セントラルアパートの宇野さんのアトリエは数人の助手たちが働いていて活気にあふれていた。今も宇野さんは音楽を聴きながら仕事をしているが、その頃も扉は開きっぱなしで音楽が廊下にまで流れていた。

1967年「オー嬢の物語」、1968年「愛奴」、1969年「静かの海の恐怖」と、3点もの作品を製作してくれている。

2003年に「宇野亜喜良60年代ポスター集」が(株)ブルース・インターアクションズから出版されていて、そのカバァには、伊藤ミカの「オー嬢の物語」のポスターに使われたイラストが使われている。

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新潟の女房の古里、弥彦村にある、ぼくが経営する「ロマンの泉美術館」のチラシのデザインを宇野さんが引き受けてくれて、格調高いチラシになっている。

今は亡き寺山修司くんが宇野さんのことをこう書いている。「宇野亜喜良は左手の職人である。左手で書くとき、右手は縛られて夢見ている。」

宇野さんのアトリエにはコピーもないし、インターネットなんてものにも無縁だ。今でも左手で小さな文字で、文字の大きさや、色を指定している。もちろん携帯なんて持っていない。

ぼくがお邪魔して帰るとき、必ず扉のところまできて送ってくれる。ぼくがもっとも尊敬しているのは宇野亜喜良さんだ。

宇野さんがチラシをデザインしてくれているということは、本当は大変なことなのだ。ときたま西麻布にある宇野さんのアトリエを訪ねて昔の話をするのを楽しみにしている。

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2005年10月20日 (木)

『アドニス』誕生秘話

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『薔薇族』が創刊したのは昭和46年(1971年)の7月に刊行された9月号だ。商業誌としては日本初ということになる。「裸の大将」で有名な山下清画伯がこの年の7月12日に49歳で亡くなっている。

会員制のゲイ雑誌としては、昭和27年9月(1952年)に『アドニス』が誕生。集英社の月刊『明星』が10月に創刊されている。『薔薇族』よりも19年も前に、日本で初のゲイ雑誌が生まれていたということだ。

その前に『人間探求』という雑誌が出ていて、この雑誌は性を扱う雑誌であっても、医者や、学者が執筆者で、学術的な体裁をとっていた雑誌と思われる。その編集者の上月竜之介さんという方が、「会誌を出そうと思うようになった直接の動機は、ひんぴんと舞いこむ同性愛者の孤独を訴える投書であった。」と。

そして『人間探求』の誌上に『アドニス会』の誕生を発表したところ、反響は意外に大きく、問い合わせや、申し込みの手紙が毎日のように全国から届いた。

沖縄の17歳の少年からの入会申し込みもあり、電話の問い合わせ、中には直接社へ訪ねてくる人もあった。

こうして申し込みは次第に増えていった。しかし、会社は『人間探求』に広告を出してはくれるけど、金は一銭も出してくれない。だから会員の申し込みが一定数に達するまで、会誌を作るわけにはいかない。これが創刊号の発行が遅れてた理由だ。

こんなことは今だからこそいえるが、もし会員が一定数に達しないときは、会費を返して謝るつもりでいたと、上月さんは『アドニス』創刊50号の記念号に思い出を書いている。

残念ながら創刊号は、どこかにまぎれこんで見つけだせないのでお見せできないが、大変なご苦労の末、創刊にこぎつけたようだ。

上月さんのあとの2代目は、田中良夫さんで、推理小説作家の中井英夫さんと同棲していた方で、作品社という出版社を経営していた。この田中さんが『アドニス』を編集するようになってからは、中井英夫さんはもちろん、歌人の塚本邦雄さん、作家の三島由紀夫さんも名前を変えて原稿を書いていて、ハイレベルな雑誌だった。

もう『アドニス』に関係した人たちは、ほとんどこの世にいない。この雑誌を読んでいた人たちも、生きていたらかなりの高齢になっているだろう。

復刊『薔薇族』は若者をターゲットにした雑誌に変身してしまったけれど、1月号に『アドニス』を知る人たちからの話を聞いて書こうと思っている。古い話を若い人にも伝えておきたいから・・・。

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2005年10月19日 (水)

人は外見だけでは分かりません!

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若き日に今は亡き作家のYさんと交友関係にあり、Yさんのことを小説に書いたことで話題になった福島次郎さんのことを紹介した。

福島さんが東京の大学生で21歳のころ、ある偶然のことから知り合って、Yさんの家で書生のようになって世話になっていたことがあった。福島さんはゲイだから、当然Yさんと関係を持つことになるのだが、この道の相手に対する好みは複雑で、Yさんとは好みがあわなかったということで、大学卒業後、熊本に帰り教師になり、のちに作家になったということだ。

Yさんは昭和41年の8月末に、明治9年に熊本を中心におきた「神風連の変」のことを取材するために熊本を訪れ、再び、福島さんと会った。

福島さんはYさんのことをこう記している。「昔と少しも変わらぬ、気さくで冗談好きの、何でも子供のように面白がる都会の良家のボウヤ風の無邪気な人だった。」

この時代のYさんはボディビルでからだを鍛え抜いていたから、若いときとは別人のようになり、すっかり筋肉マンに変身してしまっていた。そのからだを人からほめられることで、忘我の境に入っていく。完全なナルシストになっていた。

福島さんのゲイ仲間のケンさんが、Yさんと呑んでいたお店に入り込んできて、たちまちのうちにYさんと意気投合してしまった。

「Y先生とお逢いできたんだから、ぼくもう死んでもいい」など甘え声でYにしなだれかかり、Yの胸をまさぐっているケン。「わあ、すごい筋肉」と自慢の胸を撫でまわされるから、Yの喜びはひとしおである。

「いいね、いいね、肥後の男は!」と満面の笑みのYに、ケンは顔を仰向けにして「キス ミィ プリーズ、キス ミィ」とねだっている。そして二人は、それぞれの掌を相手の肩にかけ合いながら、熱烈なキスをかわし続けた。

このくだりは福島次郎さんが宝島社から出版した『淫月』の中の短編で、「飛魂抄」の中の一節だ。

作家のYさんって、まったく想像していた人間像と違っていて興味深い。Yさんの作品のファンは是非『淫月』を 読むべきだろう。

僕はYさんと交友関係にあった3人のゲイの人を知っている。その人たちのY像も今後書いてみたい。

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2005年10月15日 (土)

人生をまじめに生きているのに。

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男が好きなのだから、女性とセックスするわけがない。だからと言って男とのセックスにもふみこめない。悶々としながらも時間はどんどん過ぎていく。

現在でもそういう人は、かなりの数でいると推測されます。昭和49年の8月号、やっと月刊にふみきった頃の『薔薇族』です。

「私は47歳、一介の平凡な会社員です。私は親も兄弟も死亡し、今はひとりぼっちで結婚もしていません。

女性の肉体に興味が持てなかったからですが、男性との肉体的接触もありません。それは世間体を考えたり、相手から嫌われやしないかと恐れたからです。いい年をして笑われるかも知れませんが、ひとり暮らしというのは本当に寂しく、また不安で、不便でもあります。何のために生きているのかとしみじみ考えます。私を取り巻く人間関係はみんな他人の関係です。私は自分と生涯を共に暮らしてくれる人を望んでいます。でも、そういう人が同性でいるでしょうか。

私は今まで多くの男性を好きになりました。でも恥ずかしかったし、軽蔑されたくもなかったので、肉体的なものは一度も望みませんでした。私は女性的なので、女のように、やさしく相手につくしました。私の親切、献身に感謝してくれた人もいます。でも、そういう人たちも、みんな結婚してしまいました。そうして交際はいつの間にかとだえてしまいました。

私は同性と他人でない関係を持ちたい、でも、それは無理なのでしょうか。世間体を恐れなければ、また相手から嫌われやしないかと、恐れなければできることなのでしょうか。まじめに仕事をして、まじめに生きているだけに悩みます。」

ぼくに手紙をくれるのに、用心しているのか、住所も名前もありません。交通事故を恐れて、家から一歩も外に出なければ、車にはねられることはありません。外に一歩でも出れば危険は付きものです。それを恐れていたら何もできないでしょう。

この人は何にもしないで47歳。このまま一生を終わるしかないとぼくは思います。しかし、勇気をだして、冒険しなければ、この人の人生は変えられない。その勇気をこの人は持つことができるでしょうか。それができなかったから、47年という時間が過ぎ去ってしまったのです。

男を愛し、男と寝ることだけが人生ではないのだから、他のことに生きがいを見出して人生を全うすることを考えるしか方法がないのでは。この人に勇気を、冒険をと言っても無理でしょうから。

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2005年10月13日 (木)

やすしさんは、本当は男好き?

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とうの昔に廃刊になって姿を消してしまった光文社が出していた『週刊宝石』。覚えていますか?丁度20年前、1985年の7月5日号の『週刊宝石』が出てきたのだ。

20年前というと、阪神タイガースが初の日本一に輝いた年でもあり、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した年で、ぼくはその後に胆石の手術で3ヶ月も入院する破目になった直前のことだ。
   
  その頃、人気絶頂の横山やすしさんの「横山やすしの激情ムキ出し対談」にぼくが登場している。 エイズがアメリカで猛威をふるってきた時代で、日本でも騒がれ出してきていたので、ぼくが選ばれたのだろう。

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赤坂の表通りから、ちょっと奥に入った静かな料亭のお座敷で食事をご馳走になりながらの対談だった。

●横山 ほな・・・それやったら、ワシなんかもホモの気(け)があんのやな(爆笑)。そやろ・・、ワシなんかでも、ごっつ清潔やし、よう気がつくしなー。

◆伊藤 いえね、それをうっかり口にして殴られやしないかと心配していたんですけど(爆笑)。実際テレビで見ていても、横山さんはひじょうに細かいところにまで気のつく人だというのはよくわかりますね。

●横山 いや、いや、いや・・・(と、テレる) テレてる場合とちゃうて!

◆伊藤 それに、すごく男っぽく見せているような気もするんですよ。

●横山 そう、そう。

◆伊藤 つかぬことを伺いますが、末っ子ですか。

●横山 ワシは、ひとりっ子。

◆伊藤 じゃ、お母さんにすごくかわいがられたでしょう。

●横山 もう、メチャメチャかわいがられたわ。

こんなやりとりもあって、やすしさんの人間像とか、心の奥底がぼくには見えてきました。子供の頃は部屋にとじこもって模型飛行機なんかを作っているのが好きだったとか。

無理に虚勢を張って、自分を強がって、男らしく見せ続けたやすしさん。対談の合間に大阪のわが家に電話をかけて、子供に「もう食事したか」とか聞いていた。東京にはマネージャーでもあり、愛人でもある年上の女性がいて、その日も二人で赤坂のホテルに消えていった。

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この対談は、その後(株)データーハウスから『横山やすし』という本になっていて、その中には石原慎太郎さん、おすぎとピーコさん、落合博満さんなども載っている。ぼくのしゃべっていることは、今読んでも間違ったことはしゃべっていないが、石原さんは第3次世界大戦が85%の確立で勃発するとか、ソウルオリンピックは五分五分で行われないかもとか、みんなはずれている。

東京でのオリンピック開催は実現するかな?

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2005年10月11日 (火)

男しか愛せない男たちを描いた本!

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宝島社から福島次郎さんの『淫月』という本が送られてきた。それからご本人からもこの本よりも前に出版された、文藝春秋の『蝶のかたみ』をサイン入りで送ってくれた。

淫月』早速読んで『薔薇族』の12月号(12月21日書店販売)に書評を書いた。『淫月』って聞いたこともない言葉なので、『広辞苑』をひいてみたら「隠月」は載っていたが『淫月』という言葉は載っていない。恐らく福島さんは東洋大学の国文科出身で、国語の教師をやっておられたようだから、ゲイの世界を象徴する言葉として使われたのだろう。

「隠月」は琵琶(びわ)の表板下方にある楕円形の穴。弦を結ぶ覆手(ふくじゅ)の内面に隠れ、上方の二個の半月に対し満月ともいう。( 広辞苑より)

表に出られないで隠れてひっそりと暮らしているゲイの人たちのことを書名にしたかったのだろう。

福島さんは学生時代に三島由紀夫さんの家に書生として住み込んでいたことがあったそうだ。当然ゲイである福島さんは、三島さんと関係があったのだろうが、お互いに好みが違っていたようだ。それは三島さんとベッドを共にしたことのある藤田竜君から直接話を聞いたことがあるので、自己愛の強い三島さんとはうまくいかなかったということは想像できる。

福島さんの『三島由紀夫 剣と寒紅』は、三島さんから受け取った手紙を遺族に無断で公開してしまって訴えられ、発売停止になってしまった。残念ながらこの本は読んでいない。

『淫月』は純文学短編7話と長編1話を収めている。純文学とあるから難解な小説かと思ったら読み易くて、ゲイでない人にも分かるように解説さえしてくれている。ただセックス描写がまったくないところは、『薔薇族』に小説とは違っていて、そこがポルノと純文学の違いなのだろう。最後にのっている「飛魂抄」という小説は、三島さんのような作家が、福島さんの住んでいる熊本に取材で来られたときの出来事が書かれている。三島さんのような作家を知る上で興味深い。

東京新聞の「大波小波」欄に、この本に書かれていることが時代遅れのようなことを書いているがとんでもない。
  地方に住んでいるゲイの人たちは、ゲイバァにくるような人は一部の人で、みんなひっそりと暮らしているということを知らない人の言うことだ。

性描写の書かれていない部分だけを頭の中で妄想してみると妙に甘々しいものになってくる。地方に住んでいて、ゲイの世界だけを描き、芥川賞をねらっている福島さんを応援してあげたいものだ。

●『淫月』(いんげつ)宝島社刊。定価・¥1890+税。

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2005年10月 6日 (木)

わが家の守り神は蛇(へび)君だ!

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ぼくは世田谷区の代沢に昭和7ねんから73年も住んでいて、目と鼻の先にある代沢小学校に親子3代お世話になっている。

小学校の運動場の脇を川が流れていて、ぼくの子供の頃は、水もきれいで鯉やふなや、どじょうなども住んでいて、魚とりに夢中になっていたこともある。

それが戦後、川の周辺に民家が建ち始めて、たちまちのうちにどぶ川になってしまって、区でも川をつぶして下水にして、その上を遊歩道にしてしまった。

川がきれいだった頃は、蛇なんて珍しくなかったし、その辺をにょろ、にょろはっていても誰もびっくりしなかった。それがいつの間にか、蛇も、蛙も、とんぼすらも、その存在を忘れ去られてしまった。

完全に都会には蛇なんていないと誰もが信じきっているから、蛇をみつけたりすると大騒ぎになってしまう。

あの暑かった夏も、いつの間にか過ぎ去って10月に入ると、幼稚園に通っている孫のカズ君が衣替えして冬服になった。

そんなある日のこと、わが家の猫のひたいほどの庭の片隅で、なんと蛇のぬけがらをみつけたのだ。蛇君も衣替えの季節だったのだろうか。大きさからして、4、50センチぐらいのかわいい蛇君だろう。

庭の周りはコンクリートの塀だから、外に這い出してはいかないから、狭い庭のどこかにいることは間違いあるまい。

蛇は住んでいる家の守り神だというから、ピンチ続きのわが家にとってありがたい存在だ。庭に面したガラス戸には夜になるとヤモリ君の夫婦?が飛んでくる虫をねらってはりついている。

銀行の担保になっていて、とられてしまうかも知れない我が家だけど、きっと蛇君やヤモリ君のご夫婦が守ってくれると信じている。

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★余計なことだけど、亡くなった僕の親は蛇年で、わが第二書房のマークは蛇のマークでした。蛇が自分の尻尾をどんどんのんでいくと「無」になってしまうという哲学的な意味をもっています。

戦前の第一書房のマークで、おそらく東京オリンピックのポスターやNTTのロゴをデザインした亀倉雄策さんのデザインと思われます。

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