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2005年11月

2005年11月26日 (土)

女房が亡くなって、後を追うようにぺぺは死んでいた。

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  1970年の『週刊女性』は1月31日号にこんな記事を載せている。
「前衛舞踏家・伊藤ミカさんが風呂で中毒死!夫 伊藤文学氏、葬式の後で口笛でも吹きたいような気持ちだった。変わった夫婦だが・・・」

  ぼくの女房、伊藤ミカは世田谷区立のM中学の保健、体育の教師を11年間勤めていた。現職の教師でありながら、フランスの地下文学の傑作といわれている「オー嬢の物語」を舞踏化、新宿の厚生年金会館で公演したが、舞台上で全裸になるということを聞きつけて週刊誌の記者が学校を訪れた。

  その頃は舞台で女性が全裸になるということは珍しかった時代だったので、インタビューを受けた校長はびっくり仰天。都の教育委員会にまで問題が持ち込まれてしまった。

  しかし、「皮膚という衣装を着けて踊っているのだ」と、ミカはまったく動じなかった。運動会の生徒たちの舞踏は、たいがいは既成の作品を子供たちに教えて踊らせているが、ミカはすべて自分で創作した舞踏を踊らせていた。それは見事なほれぼれするような出来で、父兄たちを驚かせた。

  徒手体操の競技会でも、いつも生徒たちは優勝していた。生徒たちには信頼されている教師だった。

  わが家の犬は雑種だったけれど、生徒のひとりからゆずり受けた犬だ、ぺぺという名前を付けて、玄関先で飼っていた。今どきのお犬さまは、ぜいたくなドッグフードをえさとして与えているが、ぺぺは家族が残した食べ物を味噌汁の中に入れて食べさせていた。

  動物病院なんていうものは近所になかったが、まず病気なんかにならなかった。腹の具合が悪いときは、散歩の途中で道端に生えている笹の葉なんかを食べて治してしまう。

  わが家の裏手は薬品会社の問屋さんだが、営業の若者が仕事から帰って車から降りると、まずぺぺのところに駆け寄ってきて、ひととき遊んで帰るのが日課になっていた。

  ぼくらが車で帰ってくると、かなり離れたところでも察知して、尾をふって待っていてくれた。

  ぺぺは雄犬だったが、発情期になると、めす犬がどこからともなくやってくる。

  その日は雨がざんざん振っていた。なんとぺぺ君は犬小屋の外で雨に濡れているのに、めす犬を自分の小屋の中に入れてやっているではないか。そんな気持ちのやさしいぺぺだった。今どきの若者に見せてやりたい心温まる光景ではないか。

  女房のミカは教師をやめて、舞踏ひとすじの生活を送っていたが、33歳という若さで亡くなってしまった。葬儀のあと、ミカのリサイタルのひとつが終わったようで、本当に口笛でも吹きたい心境だった。

  女房が風呂場で酸欠死して、その後を追うようにぺぺは死んでいた。女房が亡くなっても涙を流さなかったぼくが、ぺぺの死には涙がとまらなかった。ぺぺが女房の死のときも流すことができなかった涙をその死をもってかわりに流させてくれたのかも知れない。そう思うとまた涙が流れそうになってくる。

●このエッセイは、ぼくの古い友人の川木君が監修して平和出版株式会社から出版された、愛犬を亡くした飼い主が心をこめた哀悼エッセイ集に寄せたものだ。だが残念ながら誤植が多くて、肝心のところが意味不明になっているので、書き直しました。
「あのコは心の中に。愛をありがとう」(定価1365円)

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『愛の処刑』はやはり三島由紀夫の作品だった!

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  2005年11月4日(金)の東京新聞の夕刊の特ダネ記事だった。「三島十代5作品公表=早熟の天才形成期」の見出しでだ。

  「作家・三島由紀夫(1925~70年)が十代で書いた短編小説5編をはじめ、後年の書簡54通、創作ノート16点など、大量の未発表資料が、新潮社から刊行中の全集で初めて公表されることが分かった。芸術家の内面を掘り下げた短編などに確かな描写力が読みとれ「早熟の天才」の形成期を具体的に物語る貴重な資料だ。
  また、同性愛や切腹を描き、60年に別名で同人誌に発表された小説『愛の処刑』の三島原稿が見つかり、初めて三島作と確定された。(中略)
  「愛の処刑」は三島と親交があった作家で編集者の故中井英夫の関係者から、ノートに書かれた自筆原稿が編集部に寄せられた。中学の男性教師が愛する男子生徒の前で切腹する内容で、三島が書いたのではないかと推測されていた。今回、三島作と断定されたことで、2・26事件をモチーフにした小説『憂国』(61年)や、70年の自決をめぐる研究が進むとみられる。」とある。

  文芸評論家の富岡幸一郎さんの話として、コメントが載っているが、「また『愛の処刑」が三島作と確定されたことで、同じ時期に書かれた『憂国』とあらためて読み比べると面白い」と載っている。

  「読み比べると面白い」とあるが、なにを今さらと思うのは、『薔薇族』1983年12月号(No.131)ですでに「愛の処刑大特集」を組んでいて、奇才、嵐万作さんが「切腹同性愛の変容=三島をめぐる一考察」という論文を書いていて、『愛の処刑』と『憂国』を比較考察して、三島作と断定している。20年も前にだ。

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  『愛の処刑』はそれよりも早く、『薔薇族』No.11の5月号に作品だけは全文公開している。これは昭和48年のことだから、三島が自決して3年後のことだ。前号に『愛の処刑』を載せるという予告をしたら、間違いなく三島のお父さんだと思うが、平岡と名乗って載せないでほしいという電話があった。

  ぼくは『愛の処刑』が乗った『アドニス』の別冊の小雑誌『Aporo』に、三島さんから頼まれてイラスト4枚を書いた三島剛さんから直接聞いているので、文体と名前を神山保と変えていても、三島作だということは間違いないと信じていた。

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  三島さんが同性愛者であることをあんなに隠し切った奥さんは、冥土でどう思っているのだろうか。

  この小説を映画にまでしてしまったぼくを三島さんはきっとよろこんでくれているだろう。時代が変わってきたなという思いでいっぱいだ。

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2005年11月24日 (木)

また、また、ゼロからの出発だ!

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一読者からこんなメールを頂きました。「伊藤文学さんの『これ
でもう本当に終わり』のくだりには涙がでそうになりました。それでなくてもこの荒れた世の中、いいものがどんどん失われていく日本という国。この先どうなっていくのでしょうか?
  もういままでの媒体がダメだというなら年会費制の『アドニス』のようなものでもいい、ぜひ伊藤先生中心の会員制の『薔薇族』をたちあげてもらいたいものです。
  僕以外にも『薔薇族』を教科書としている人はたくさんいると思います。たとえ年会費が高くなったとしても集う人はいると思います。
伊藤文学さんのブログがあるのは唯一の救いです。これからもブログは続けてください。そして、そのブログの中に薔薇族復刊の知らせがくるのを楽しみに待ちたいと思います。  N.I」

  復刊後、8冊目の『薔薇族』の最終号に「伊藤文学のひとりごと」を書く時点で、なんとなく廃刊にまたなるのではという予感があったので、「いい時代にいい仕事ができた、ぼくは幸せものだった」という文章を書きました。

  これは昨年の9月に、突然、廃刊になった『薔薇族』のことを書いたもので、復刊後の『薔薇族』は、編集企画にまったく、ノータッチだったので、復刊『薔薇族』は別のものだと思っている。相手が嫌がってももっともっと口を出すべきだったと悔やんではいますが。

  お飾りの編集長ではありましたが、責任を回避するつもりはありません。復刊『薔薇族』に対しては言いたいことは山ほどありましたが、口に出して言う雰囲気ではなかったのも事実です。

  もう廃刊になってしまったのだから、これからは『薔薇族』に期待を寄せてくれている読者のことを考えると、このまま引き下がってしまうわけにはいきません。

  73歳にしてゼロからの出発だ。ひざが最近痛み出したり、前立腺が肥大したり、物忘れしたりと、誰でも年を取ると、仕方がない状態にはなっているが、ここでへたばるわけにはいきません。

  今までに日本最初という言葉が好きで、いろんなことに挑戦してきました。人生、いろんなことが起きてくるから面白いので、自分でも楽しみながら生きて行きたい。

  もちろん、ブログは書き続けるが、これは息子の嫁さん次第ですが、嫁さんも協力してくれるだろう。(協力します!!by息子の嫁)

  君のメールをもらう前から考えていたことですが、もうお金のかかる雑誌つくりはできません。本当に手許に置いて、ぬくもりを感じる同人誌的な雑誌を作りたい。

  最近『薔薇族』が創刊される20年も前に会員制で発行していた『アドニス』を見る機会が多かったので、そうだ、また原点に戻るべきだと思っていたところです。2、3月にに1回発行されていた『アドニス』を読者がどんなに待っていたことか。精液でまみれた雑誌はぼくの宝物だ。早いうちに同士を集めて、三たび『薔薇族』をよみがえらせたい。

  年が変わったら『薔薇族』を愛してくれている読者のみなさんに、薄っぺらな雑誌かもしれませんが、お見せできるだろう。そのときはぜひ、またまた応援してください。

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2005年11月22日 (火)

『薔薇族』またまた廃刊に!

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  すべて「初めがあれば終わりがある」それは早いか遅いかの違いだが、復刊した『薔薇族』は、11月21日発売の1月号390号でまたまた廃刊に追い込まれてしまった。復刊して8冊目になる。

  2004年の9月、11月号で印刷所の未払いがたまり、これ以上は印刷できないと言われて、読者に廃刊を告げられずに、やめることになってしまった。

  朝日新聞の夕刊に「雑誌『薔薇族』が廃刊」(2004年9月22日)の第1報が載るや、その夜、各メディアが押しかけて大変な騒ぎになってしまった。

  あまりにも反響が大きかったので、『薔薇族』をつぶすわけにはいかない、後を引き継いで出したいと名乗り上げてくれた会社があった。株式会社「メディアソフト」という上野に事務所を置く出版社だった。

  新しい編集陣が揃って、2005年の4月、半年振りに復刊第1号が誕生した。古いお付き合いの美輪明宏さんが、ぼくを助けてやろうとぼくとの対談を快諾してくれた。掻く取次ぎ店も応援して復刊第1号が刊行されたが、号を重ねても残念ながら売り上げは下降するばかりだった。

  5号目、6号目と号を重ねると、調子も出てきて、新しい編集陣の努力がむくわれてはきたが、若者にターゲットをしぼったものの若者にそっぽをむかれてしまった。

  じりじりと悪化するばかりの不況で、広告のスポンサーもつかず、いい雑誌を作りたいという編集陣の意欲は、編集の経費をかけすぎになり、赤字はかさむばかりだった。

  編集長の肩書きをいただいたが、名ばかりで、本が出来上がるまで、その内容は分からなかった。自分に与えられた仕事だけは毎号、全力で書いてはいたが。

  風紀係に呼ばれるのはぼくだから、いつでも代表して行くから、もっとポルノもハードにと言い続けていたのに、あまりにも大人しすぎてヌケる雑誌としても中途半端だった。

  なんだかんだ言っても、ネットの時代、またもや負けてしまったが、8ヶ月、夢を続けて見させてくれた、メディアソフトのみなさんには感謝の言葉もありません。

  廃刊によって、またまた職を失ってしまう執筆者の生活や、ご迷惑をおかする取次ぎ店、ポルノショップ等のことを思うとつらいものがある。それよりも復刊を心からよろこんでくれた何千人かの読者のみなさんのことを考えると、何といってお詫びしていいことやら分からない。

  廃刊によって帰るべき自分の家がなくなってしまったとか、心の支えがなくなってしまったと言ってくれた読者諸君、みんなのことは永遠に忘れない。本当にありがとう。感謝しています。

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2005年11月 3日 (木)

『兵隊画集』より-外面は恐い顔をして、内心はニタニタと。

img119 ぬるくて、臭くて、お湯が少ない風呂・番町書房刊・『兵隊画集』より

『薔薇族』の初期の頃は、軍隊帰りの読者が元気だったので、戦時中の思い出を当初してくる方が多かった。これは軍隊の裏面史で貴重な資料になるだろう。

「僕は軍隊では進級の早い方であった。同年兵は農家や、漁師の者が多く、僕みたいに学校の先生などは珍しかったからに違いない。たちまち伍長、軍曹と進級して、いつの間にか班長さんになっていた。

戦況も不利になってくると、次から次へと初年兵が補強されてきて、ぼくは初年兵教育に大童であった。初年兵教育は普通、3ヶ月と決まっているものの、戦況が悪化してくると、のんびりしてはいられない。1、2ヶ月教育してどんどん戦線へ送り込むのである。」

たった1、2ヶ月の訓練で兵隊たちを戦線に送り込んでしまうなんて。こんなことで勝てるわけもない。鉄砲の打ち方だって、満足にできない兵隊なんて、考えるだけでも恐ろしくなってくる。この後も彼の文章は続く。

「兵隊が内地から送られてくると、先ず内務班に持ち物を整頓させ、次に風呂に入れる。これが大変である。狭い浴場はごった返しだから、浴場で脱衣させていては衣服を間違ったり、紛失したりで、後がわずらわしいため素っ裸で浴場に行かせる。

“軍隊は地方人と違うから前を隠す必要はない。手ぬぐいは鉢巻きにせよ。”

素っ裸の若者たちは外に出ると、営庭のはずれにある浴場までかけ足である。浴室ではいもを洗うようにして、どうにか汗を流した兵隊たちは、またかけ足で内務班に戻る。

この間、班長の僕は外面は恐い顔をして、内心はニタニタとして、イキの良い若者の裸を思う存分楽しむのである。自分の身の回りを世話させる当番兵を決めるのも、たいていこうした時にするのである。

僕の好みは、あまり体格の良い若者は好みではない。どちらかというと小柄で女性的な方が、なんとなく安心感もあり、征服するにもしやすいような気がする。

僕は決めた当番兵は身体こそ小柄だが、ペニスは一番大きな若者であった。夕食後、下士官室に読んで当番兵の役目を教える。

食事を運ぶこと、衣服の洗濯と手入れ、それに就寝の準備。演習に出るとき以外は、もっぱら班長のことだけをしていればよい。夜も班長が床に入ってから下士官室を去る」

軍隊って面白いところだ。上官に対しては絶対的に服従しなければならない。役得もいいところだ。言うことを聞いていれば、他の兵隊の用になぐられることもない。

これからが本番と言うところだろうか。

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2005年11月 2日 (水)

手さぐりで夜道を歩いてきたような「アドニス」

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昭和27年(1952年)の9月に、日本で最初の会員制のゲイ雑誌が創刊され、丁度、10年目の1962年(昭和37年)の63号で終刊を迎えたようだ。

昭和27年という年は、「鉄腕アトム」が登場したり、NHKの連続ラジオドラマ「君の名は」が話題になった時代だ。

昭和37年にはテレビ時代の到来で、テレビの受信契約数が1000万を突破した、そんな時代に終刊した『アドニス』63号の「編集部より」を読むと、こんなことが記されている。

「新しい年を迎え、アドニスも満10歳になるわけです。この10年間を顧みると、ともかく手さぐりで夜道を歩いて来たという感じで、会員の方々のはげましや、協力がなかったならば、とうの昔に会はなくなっていたことと思います。その10年間の間に、お互いの生活も大分かわり、また考え方も随分変化したのではないかと思いますが、多少でも会なり会誌なりが会員の方々の生き方に貢献したところがあったならば、望外の幸せです。今後も引き続いて、ご声援、ごべんたつをお願いします。」とあってやめるなんてことは、ひとことも書いていない。

僕の記憶では、最後は警察の手入れがあってやめたと誰かに聞いたことを覚えているが、定かではない。手入れがあってやめたとなれば、終刊の挨拶などできなかったと思うから、手入れというのは本当だったかも知れない。

読者の投稿の頁に、気になることが書いてあった。「写真特集“アポロ・ピクトリアル”の刊行、これこそ私たちの長らく渇望し、期待していたものです。10周年を記念しての行事にこれほどふさわしいものはありますまい。」とあるから、この写真集が誰かに密告されて警察にふみこまれてしまったのかも。

その頃、大阪のオッチャンと呼ばれていた人が、「アドニス」の編集室にも出入りしていて、8ミリを会員に見せたり、男のヌード写真を注文に応じて撮っていたようだから、オッチャンの写真を集めた写真集だったかも知れない。このオッチャンも警察につかまって、ネガなどをも持っていかれている。

『アドニス』は10年間に63冊刊行したようだから、隔月に出していたということになる。何人会員がいたか分からないが、恐らく4、500人の会員たちが、送られてくる雑誌を首を長くして待っていたことだろう。

廃刊になった経緯は知る由もないが、この雑誌を心の支えにして、楽しみにしていた人たちが、どれだけがっくりとしたか、想像するだけでもつらいものがある。

それから10年の時が流れて、『薔薇族』が登場したということになる。

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2005年11月 1日 (火)

サンフランシスコから杖をついて

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1999年6月27日サンフランシスコのゲイパレードと歓迎してくれた市民

まだまだ、この世の中、捨てたものではない。親切で心のやさしい人っているものだ。

10月のある日のこと、見知らぬ人から電話がかかってきた。「おたくは伊藤さんですか?足の不自由な方が、サンフランシスコから訪ねてこられているのですが」そう言って、道を聞かれて、連れて来てくれたのだ。

わが家は代沢5丁目2番11号だが、5丁目が抜けていて、代沢2-11と手帖に書いてある。町名が抜けていて、よく訪ね当ててこられたものが。電車も下北沢で降りずに、ひとつ先の代田で降りてしまったという。

工事をしていた人に尋ねたら、親切に「これは下北沢じゃないか」と、地図まで書いて教えてくれた。電話番号も手帖に書いてあったのが幸いだった。

以前、全盲の読者が訪ねて来たり、まったく、しゃべれない人も訪ねてきて、筆談で大変だったこともある。日本語がまったく駄目なフランス人にも困ってしまった。

目と鼻の先にオープンしたカフェでサンフランシスコからのお客さんを迎えたが、ネットのブログでぼくのことを何でも知っているのにはびっくりしてしまった。

お年は81歳。40年前にシスコに渡って、33年前にレストランを開いて、今でもお見せをやっている。小さなビルを買い求めて1階がレストランで、その4階に住んでいる。4年前に脳こうそくで倒れ、リハビリを続けているそうだ。

昨年の9月に『薔薇族』が廃刊したときに「2ちゃんねる」なるものに「パソコンを使えないような編集長は失格だ。うちのじいちゃんは80歳を過ぎているのに、メールを打っているぞ」と書き込みがあって、さすがにがっくりしたものだが、その通りかも知れない。

今、話題になっている「楽天」の社長と、TBSの社長、ぼくから見てもTBSの社長は、古いなと思ってしまう。ネットなんて使えるのかなとも。

ぼくのブログも1日に何百人、多い日には何千人もの人が見ていると言うのだから、雑誌なんてものも見向きもしなくなるのは当然かも知れない。

このシスコからのおじいさん、1年に1回は日本にやってくるそうだが、『薔薇族』が復刊したのを知っていて、最新号を求めにやってきたのだった。

シスコのゲイ専門の書店でも売ったらどうかと。白人のアメリカ人で、東洋人が好きだという人が多いから、写真や絵を見るだけでも売れるだろうという。

廃刊前には、シスコとロスとニューヨークの書店で売ってもらっていたこともあったが、その書店が廃業してしまっている。

翌日、上野に行く用があると言ったら、丁度、上野に泊まっているのでカードでお金をおろして、定期購読のお金をと言ってくれたが、ぼくは「そんなことしなくても、郵送しますよ」と、なぜかお断りしてしまった。

ネットに押されて『薔薇族』を必要とする読者は少なくなってしまったかも知れないが『薔薇族』を愛し続けてくれて、心の支えにしてくれている読者のことを片時も忘れるものではない。

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