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2006年1月

2006年1月30日 (月)

イスラム教は同性愛者を禁じているのだ!

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三十年も前の『薔薇族』の中の「伊藤文学のひとりごと」の欄に、こんなことを書いたことがあった。

  東南アジアに旅行した一読者から、マレーシアの新聞「南洋商報」の切り抜きを送ってくれた。「鶏姦少年罪名成立被告遭監三年 另加兩下鞭笞」の見出しの文字が、まずとびこんできて驚いた。「鶏姦」なんて言葉から何を想像するだろうか。にわとりのあのときの情景など、今どきの人は思いつかないだろうが、「鞭笞」今どきムチで打つ刑罰が存在することもびっくりだ。

  記事の内容は二十一歳の青年が、二人の十五歳の少年を道で待ち伏せしていて、空地に連れ込み、お尻に入れたことで、母親に訴えられて逮捕され、ムチ打ちの刑に処せられたというのだ。

  現在のマレーシアでは、どんなことになっているのかは知らないが、十一月二十八日の東京新聞に、こんな記事が載っていた。「同性愛者二十六人逮捕」の見出しで。カイロから荻文明さんが送った記事だ。

「アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビで同性愛者の集団結婚式が摘発された。イスラム教は同性愛者を禁じているため、大きな反響を呼んでいる。

  現地からの報道では、内通を受けた警察が先週、砂漠地帯のホテルで開かれた結婚パーティーに踏み込み、若い男性二十六人を逮捕。新婦姿のグループと、アラブの伝統衣装に身を包んだ新郎グループに分かれていた。

  逮捕者は「精神鑑定」に加え、ホルモン剤による「治療」も受けることになるという。

  ダーヒリ法務・宗教相は「UAEに同性愛者の場所はない。親は子どもの動向を注意深く見守って」と訴えた。」

  同性愛者を精神異常者にしてしまうなんて、ひどい国があったものだ。こんな国に生まれてしまった同性愛者は、みんなどんな思いで暮らしているのだろうか。

  日本だって昭和二十年代、三十年代の頃は、同性愛者を精神異常者だと決めつけられていたのだから、あまり自慢はできないが。

『薔薇族』は昭和四十六年に創刊して以来、ずっと「同性愛は異常でも、変態でもない!」と叫び続けてきた。「明るい太陽の下で、胸を張って堂々と生きよう」とも。

  このぼくの思いは、三十五年の時間を経て、かなりの世の中の人たちにも浸透し、理解もされてきている。

  日本はどの宗教も同性愛を表向きは、否定するようなことは幸いなことにない。『薔薇族』よりも二十年も前に出ていた会員制の『アドニス』や『同好』などを読むと、読者が同性愛者であることの悩みや、苦しみが切実に伝わってくるようだ。

  現在の日本の同性愛者の現状は、少しは良くなってきているのだろうか。

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2006年1月28日 (土)

日本の煙草好きよ、頑張れ!

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ぼくは七十三歳になるまで、煙草を吸ったことは一度もない。親父もおふくろも煙草を吸わなかったし、おふくろには煙草を吸うなと、いつも言われていたので、それを守ってしまったということか。

  ところがぼくの女房と、一緒に住んでいる次男はヘビースモーカーだ。わが家には四歳になる孫もいるので、煙草を吸うときは換気扇を回して煙草を吸うようにさせている。それでもたまにガラス戸や額のガラスを拭くと、黄色いヤニが雑巾にべったりとついているから、まわりのものも煙草の煙を吸っていることは間違いない。

  女房は十二指腸潰瘍の手術のために一ヶ月ほど入院したことがあり、煙草をそのときにやめて一年近くになった。やれやれとよろこんでいたら、中学の同窓会が一泊旅行であって、そのときに酒をのんだ勢いで一本吸ったのがきっかけで、元に戻ってしまって現在に至っている。

  一日、四、五十本は吸っているのではないだろうか。先日、何気なしに女房が吸っている「PeaceLIGHTS」の空箱を手にとったとき、空箱に印刷されている文字を読んでびっくりしてしまった。

「喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。疫学的な推計によると、喫煙者は心筋梗塞により死亡する危険性が、非喫煙者に比べて約1.7倍高くなります。」

  自分が販売する商品に、こんなひどいことを書いて売っているなんてものは、この世の中に煙草しかあるまい。

  全人口の半分近い人が煙草を吸っているというのに、こんなことを書かれて、なぜ怒らないのか不思議な話だ。

  今や、煙草を吸うことは、ありとあらゆるところから、しめ出されている。煙草を人間が吸うようになって五百年以上も経っているそうだが、今日ほど煙草が迫害されている時代はない。それでも煙草を吸うことをやめられないのだから、お気の毒としか言いようがない。

  数年前に下北沢のカフェ「イカール館」で、煙草を大いに吸おうという会を開いたことがあった。日本たばこ産業株式会社からも二人の方が出席してくれた。シャンソン歌手の渡辺歌子さんを招いて「ベッドで煙草を吸わないで」などを歌ってもらった。

  テレビも取材にきてくれたし、なによりもあんなに集った人たちが、心おきなく煙草を吸っている姿を見て、時代に逆行するかも知れないけど、本当にうれしかったことを覚えている。

  煙草を吸わないぼくなのに、なぜかアールヌーボー時代のブロンズの灰皿を三百個ほどコレクションしている。それとキューバの葉巻の箱に貼られた美しくて豪華なラベルも。   

  煙草はみんなが嫌うけれど、立派な文化を残していることも忘れないでほしいものだ。

  韓国では煙草を気兼ねなく吸いたいという人たちのための、喫煙カフェが何軒もオープンして大繁盛しているようだ。

「一緒に吸うことで親しさが増すこと多い」というし、喫煙カフェは独特のたばこ文化に支えられているようだと、朝日新聞は報じている。韓国に先を越されてしまった。被害者意識ばかりもたないで、日本の煙草好きよ頑張れ!

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2006年1月25日 (水)

長く続けなければ駄目なんだ

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大学時代、ぼくは短歌を作歌することに情熱を燃やしていた。駒澤大学の国文科には、著名な教授が何人もいて、その中にアララギの歌人で万葉集の研究では権威だった森本治吉先生がいた。ご自分でも「白路」という短歌の結社を主宰しておられた。

  ぼくも「白路」に入会して、作歌することを森本先生から学んでいたが、短歌を作歌する各大学の学生に呼びかけて、「大学歌人会」という会を結成した。

  第一回短歌会は、東大の山上会議所で催され、国学院大学、早稲田大学、中央大学、法政大学、学習院大学、共立女子大学などの短歌を愛する学生たちが集った。

  その頃、駒沢大学は三流大学で、ぼくはひどい劣等感を持っていたが、何歳か年上の東大の国文科の学生で、見るからに頭がよさそうな中西進君(現在は万葉集研究の第一人者で、関西の大学の学長にもなっていて、ぼくらの結婚式の仲人にもなってくれた。)が、ぼくの作品をベタホメしてくれたのだ。そのひと言がぼくの人生を変えたといったら大げさかも知れないが、大きな自信を持たせてくれた。

  ぼくの家が大学歌人会の事務局になっていて、今は亡き親友の国学院大学の阿部正路君とコンビを組んで、次々とイベントを考え出していた。

  寺山修司君が「短歌研究」の新人賞を獲得して、古里の青森から早稲田大学に入学した頃の寺山君を招いて会を開いたこともあった。

  その頃のぼくは片思いばかりで、現実には女性の手も握ったこともなかったし、もちろんキスなどしたことはなかった。それでも妄想で恋の歌を次々と作っていたのだから情けない話だ。

  ぼくはその頃から企画力は抜群だった。手のひらに入るような小さな歌集を10円で売りだしたのだ。ぼくの歌集は『渦』。仲間の相沢一好君は『夜のうた』。原価が5千円でできて、千部売れば5千円が利益になる。親父はケチでお金を出してくれないので、東横デパートに勤めていた姉に5千円を借りて作ったのだ。その頃、姉の給料は1万円もらっていなかったのだから、5千円は大金だった。

  恐いものなしで、その頃の有名な歌人に歌集を送りつけてしまったが、ちゃんとお礼状をよこしてくれたのだからありがたいことだ。

『短歌研究』のオーナーでもある歌人の木村捨綠さんは、ぼく歌をこう評してくれた。

  一つ顔を想い描きて歩みゆく舗道に軟き部分を感ず

「いい歌ですね。部分を感ずという結句がいいんです。しかし「部分がありて」ぐらいで抑制したら更によかったのではないでしょうか」

『仰日』という歌集で有名なライの歌人、伊藤保さんもほめてくれた。

  影と影が引き合うさまに似し心にて一つのベンチに寄り添いている

  日を受けて透きとおる靴下が垂れている窓を見てより君の扉に立つ

「感覚の新鮮、感情のやさしさ、こまやかさ、そして青春歌集としての意義を大きく見たい。」

  短歌を作ることはまさに青春そのものだったが、現実に恋人ができてしまったら、恋に夢中になって作歌はぱったりやめてしまった。

  やめてしまったのはぼくだけで、大学歌人会の仲間は今も作歌を続けていて、今や歌壇での大家的存在になってしまっている。

  早稲田出身の篠弘君などは、秋の叙勲で旭日小授賞を授賞し、来年からの宮中の歌会始選者にもなった。現代歌人協会理事長も務め、歌壇のリーダーとして活躍している。

  とにかく長く続けることがひとつの才能で、大事だということを思い知らされている。

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2006年1月23日 (月)

江戸の時代は「通和散」、平成の時代は「ラブオイル」

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  今の世の中、肛門性交するときは、ぼくが命名して売れている「ラブオイル」が必需品だ。これをぬれば、コトはスムースに運ぶというものだ。

  昔の人は、どうやって肛門性交をしていたのかと不思議に思っていたが、昭和四十九年七月に林書店から刊行された『異端文藝』という雑誌の創刊号に、高田由郎さんという方が「頽廃と同性愛」という見出しで、こんなことを書いている。

  江戸時代に「通和散」という名の「ラブオイル」と同じ役目をするものが売られていたというのだから、必要に迫られれば考え出すことは同じなのだろう。

  江戸時代よりもっとさかのぼって、慶長三年の「弘法大師一巻書」の中に書かれた衆道の秘伝書の中には「屁をするに、唾なきときは梅を思い出し」などと教えているが、この時代ではヨーロッパのようにポマードもなく、もっぱら唾液が使われていたようだ。梅干を頭に描けば唾が出てくるから、それを使えということだ。今の時代だって、唾をつけてオナニーをしている人は、いるに違いない。

  肛門に挿入するには、滑りをよくするための薬品が欲しい。簡単に間に合うのは唾液だが、より効果的なものが欲しいと思うのは、いつの世でも同じこと。

「こうした要求を満たすものが、紙漉(かみすき=和紙をすくこと)に用いているネリというもの。これはトロロアオイの根を原料にしたものだという。これを男色家たちはどのように使っていたのだろうか。

  ネリ木というものを口の中で噛み砕いていると、その粘膜が唾液に溶け込んで、ヌルヌルしたものになる。これを指先にあてて、肛門にぬりつけると、スルリと入るという。

  これからクライマックスというときに、トロロアオイの根を口の中で噛んでいたのでは、なんともムードがない。そこで乾燥させた根を細かく砕き、それを絹のふるいにかけて粉末に調製した。この粉末を薬の問屋が「通和散」という、もっともらしい名前をつけて売り出した。

  当然のように男色を愛する人たちに利用されはじめ、粉末を唾液に溶かして、アヌスの貫通を滑らかにして、ペデラスティの快感を味わったという。」

  いつの世まで、この「通和散」が使われていたのだろうか。「通和散」とは、うまいネーミングだ。

  江戸時代は「通和散」、平成の時代は「ラブオイル」ということだ。発売してから二十三年にもなる「ラブオイル」。にせ物までが売られているが、『薔薇族』は廃刊になっても、「ラブオイル」は永遠にゲイの必需品なのだ。

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2006年1月21日 (土)

「ゲイとして日本で生きる!」はいい特集だ!

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  アメリカの『ニューズウィーク』日本版・1月25日号が「ゲイin Japan」の特集号を出した。「あなたの隣にもいる彼や彼女の本音と真実」と題して。

  表紙を飾るニコニコ笑っている二人の男女、女性はレズビアンの大阪府議の尾辻かな子さんと、ゲイの会社員の細谷勇気くんだ。

  雑誌の表紙に堂々と写真を載せてしまうなんていうことは画期的なことかも知れない。二人ともいい笑顔をしている。

  細谷勇気君、27歳は「自分がゲイだと気づいたのは中学時代。高校3年で友人数人にカミングアウトしたが、彼らが温かい言葉をかけ続けてくれたことに救われた。ゲイであることは生きるためのバネのようなもの。何ができるか、できないかを考え、それを前向きなパワーに変える源になっている。」と語っている。

  尾辻かな子さんは、大阪府議会議員で、31歳、「03年4月に初当選した尾辻は、昨年8月に著書『カミングアウト=自分らしさを見つける旅』でレズビアンであることを公表。同性愛者が「見える存在」になれば、問題も見えてくるし、社会の意識も変わると思ったからだ。「テレビの中のタレントだけでなく、あなたの隣で、地域で普通に暮らしている存在だと気づいてほしい。」

  尾辻かな子さん、どんな選挙運動をして当選したのかは大阪のことだから分からないが府議会議員なのだから、31歳の若さでよくぞ当選したものだと思う。

img255   ぼくに取材に来られたのは、大橋希さんという女性記者の方で、昨年の暮れの頃だった。確か2、3時間は質問に答えてしゃべったと思うが、うまくまとめてくれている。

  何人かで時間をかけて、いろんな人に取材をして、今の日本のゲイの状況をよくまとめた特集だ。このような特集をいろんな雑誌がやってくれれば。ゲイの世界も明るいものになっていくだろう。

  今、ブームになっている、HG、「フォ~、フォ~」と奇声をあげて、腰をふっている男のことだ。ぼくはこの男のことはあまり語りたくない。どっちにしても、まもなく消えてしまうだろうから。

  アメリカのロスで、ハードゲイの館ともいえる「トム・オブ・フィンランド」のパーティに招かれて本物のハードゲイの人たちに会っている。にせものの軽薄で下品なゲイの人とはまったく違う人たちだ。

「トム・オブ・フィンランド」が主催する、広大な倉庫を借りての「エロチック・アート・ショウ」に訪れるハードゲイの人たち。

  風格がまったく違うのだ。レイザーラモンなんてあんなものが話題になっているなんて情けない話だ。

「ニューズウィーク」は毎週水曜日発売。定価は400円。駅の売店で売っている。もちろん書店でも。すぐに買って読んでみて!

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2006年1月20日 (金)

ヌードショーの終るのを待って

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丸尾長顕さんの名前を知っている人って、かなりの年配の方だろう。その昔、有楽町にあった日劇の最上階にある「日劇ミュージックホール」の運営委員だった方だ。

  戦前は宝塚少女歌劇団の文芸部員として活躍。後に「婦人画報」の編集長などを経て、「日劇ミュージックホール」で演出をされ、また作家としても活躍された。

  わが家の裏手に祖父の妹の家があり、測量機械を作る工場を持つお金持ちだ。その離れに昭和三十年代の前半に越して来られたのが丸尾さんだ。

  小柄で太っていて、メガネをかけた、変わった風貌だったので、近所の人は、あの人、何者なのと不思議がっていた。奥さんらしい女の人は丸尾さんよりずっと背が高い、若い奥さんだ。

  丸尾さんはこの奥さんとは五回目の結婚で、別れるときには財産のすべてを別れた奥さんにあげてしまって、裸一貫で越してこられたそうだ。

  そのうちに「日劇ミュージックホール」の招待券を頂けるようになり、奥さんは踊り子さんだったということも分かってきた。それからぼくは足繁く、ミュージックホールに通い始めた。 

  昭和四十三年の九月、十月公演「はれんちカンカン」のプログラムが手許にあるが、便所のオルフェ・脚本演出は寺山修司とある。アングラの女王、新高恵子も演出しているが、これは寺山君の劇団「天井桟敷」の女優さんだろう。寺山君って本当に多才な人だったと驚きである。

  このプログラムに「内外タイムズ」の石崎勝久さんという文化部の記者の記事が載っている。

「日劇ミュージックホール」の誕生は、昭和二十七年頃らしい。ストリップの最初は、新宿帝都座(現在の丸井のあるところ)で昭和二十二年の正月「ヴィーナス誕生」というショーだ。いわゆる額ぶちショーと言われたもので、裸の女性は動かなかった。

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ヌードショーとストリップショーの違いはというと、ヌードショーはヌードを材料にして、ひとつのショーをつくり、ストリップショーは、一枚一枚着衣を脱ぎ捨てて、お客の好奇心をじらせる効果だけを狙うものということだそうだ。要するにミュージックホールのショーは上品にショーとして仕上げているということだ。

  人に話すのは初めてのことだが、ミュージックホールに出演していた、豊ゆかこさんと何回かデートをしたことがある。別に変なことをしたわけではなく、喫茶店で話をしたくらいだが。確か「東京スポーツ」の文化部の記者の人が紹介してくれたのだと思う。

  ショーが終るのを待っていて、有楽町駅の近くの喫茶店で待ち合わせてのことだ。何をしゃべったのか忘れているが、彼女は創価学会の信者だった。踊り子さんの中でも信者が多いということだ。いわゆるふしだらな人はいなくて、みんな真面目に生きている人ばかりのようだ。

  豊さんはかわいい人で、会っているだけで楽しかった。青春の一頁ということだろうか。

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2006年1月18日 (水)

新しい年は信用金庫との戦い?

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「ロマンの泉美術館」の廊下には感想録が置かれている。美術館を訪れたお客さんがそれぞれの思いを記している。

「新潟には女がたったひとりで、ぼぉっと考え事をしたりする所がないと、ずっと思っていました。京都とかにはひとり静かな時間を過ごす所がたくさんあるのに・・・と・
  今日、来てみてやっとそんな所を見つけました。初めてなのに、とても落ち着けるところ。今度は一日過ごしてみたいと思います。」

  新潟市の大島豊美さんが、こんなことを書いてくれていた。「扉を開けたら時計はいらない」が、ぼくが考えたキャッチフレーズで生活感をまったく感じさせない、ロマンあふれる空間を造りたいと思っていただけに、うれしい感想文だった。

  館内にあるレストランを使って、さまざまなイベントを企画してきたが、新潟では見れないような催しをしてきた。7、8割のお客さんは女性だが、新潟の女性はセンスがよくて、着飾ってイベントに参加してくれた。

  休館になってしまうとオシャレをして行くところがなくなってしまうと嘆きの声が聞こえてきた。

  新潟市からいつも友人と参加してくれているYさん。センスがよくてオシャレでその上、こよなく薔薇を愛する人だ。部屋の中の写真を見せてもらったことがあったが、部屋中が薔薇のグッズでいっぱいだった。

  美術館を休館するという最後の日、12月20日に23歳になる一人息子と一緒にきてくれた。

  この息子さん、大学を卒業して地元の信用金庫に勤務していたが、地元の中・小企業の味方であると思っていたのに、現実はそうではないということが分かってきた。

  落ち目になっていく小企業に冷たい信金に嫌気がさしてきて、あっさり退職してしまったという。そして警察官の採用試験を受けて見事合格し、4月から警察学校に入学するという。今どきの若者に珍しい正義感が強い息子さんだ。きっと弱い者の味方になってくれる警察官になってくれるだろう。

  文化的にも不毛の新潟に「ロマンの泉美術館 」を建てることによって、西洋の文化を新しい新潟に持ち込んだ貢献は大きかったと自負しているが、好調だった本業がダメになってしまっては、道楽は許されない。

  中・小企業の味方のはずの地元の信用金庫も冷酷に借入金の返済をせまってくる。73年も住んでいる、親父が苦労して手に入れた土地と家、そしてロマンの泉美術館、守り抜いてみせるぞ!!

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2006年1月12日 (木)

今年も張り切ってブログを書き続けます!

  ぼくのブログを見てくれている皆さん、改めてあけましておめでとう。

  DSC04366膝が痛くてちょっと憂鬱

ブ ログなるものに文章を書き出してからどのくらい時が流れたのでしょうか?確か2005年の初夏の頃だったかと。その頃(株)メディア・ソフトから復刊された『薔薇族』は、8 号目を出して、また廃刊に追いこまれてしまいました。それでもまだ『薔薇族』を支援してくれる読者がたくさんいてくれているので、なんとしても桜の咲く頃には3度目の復刊をさせたいと。

  今度は堅い方法で、部数は少なくても会員制で確実に出し続けていきます。ありがたいことに内藤ルネさん、藤田竜さんが応援してくれるというので70代トリオで大人の楽しめる雑誌にします。

  復刊『薔薇族』は、またまたネットの威力に負けてしまいましたが、ネットを越えた、活字でなければ表現できない、心温まる雑誌をめざします。

  今もパソコンをいじることができないぼくが、原稿用紙に書いたものを息子の嫁さんがネットで読めるようにしてくれています。時間が経つにつれて、多くの人が呼んでくれているそうなので、今年もぼくでなければ書けないものを次から次へと書き続けます。

  ただぼくのブログを呼んでくれている人が、どこに興味をもって面白いと感じてくれているのかが、まったく分かりません。ぼくにどんなことをかいてもらいたいのか、どんなことでも感想を聞かせてもらいたいものです。ぼくに直接メールを送っていただければと思います。

  『薔薇族』に原稿を寄せてくれた多くの人たちは、プロの作家ではありません。ですから自分が書いたものへの読者からの反響をひどく気にしていました。

  今、立場を変えてみると、読者の気持ちをよく理解できるというものです。人間誰しも反響を気にするものですが、ゲイの人は特別神経が繊細なので、ちょっとしたことでも気にする人が多いのでは。

  ほめられれば、うれしいし、ケなされれば怒りたくもなります。一方通行では書いていても張り合いがありません。

  すべての芸能には、それぞれ批評かなるものがいて、ほめたり、ケなしたりしているので、次はもっといいものをと誰もが発奮して書き続けているのでしょう。

  ぼくはいろんな面で才能ある人間ではありませんが、自分が経験したことをありのままに表現していて、うそはまったく書いていません。

  ブログなんてものを誰が考えついたのかは知りませんが、こんなすごいものを利用してより多くの人に読んでもらいたいものです。

  サンフランシスコに住んでいる日本人の読者が読んでくれているなんて、驚きとしか言いようがありません。

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2006年1月11日 (水)

2006年はゼロからの出発の年

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あけましておめでとう

  昨年の暮れに女房の兄が亡くなってしまったので、今年は年賀状を出さず仕舞いでした。この兄(4歳も年下ですが)はただの兄ではなかったから。

  1971年(昭和46年)『薔薇族』を創刊したときから、一昨年の9月に廃刊になるまで、ずっと製本をしてくれてきた越後堂製本の社長さんだった。『薔薇族』創刊よりもその何年も前から単行本の製本も一手に手がけてくれていた。

  舞踊家だった前妻が風呂場で酸欠死する数時間前まで、新宿のキャバレェに取次店の人を接待して、一緒にいたのが越後堂製本の社長さんだった。

  取次店の人がキャバレェを出てから、サウナに入りたいと言い出したので、3人でサウナに行って、小田急の最終電車でわが家に帰って来た。

  わが家のすぐそばに生活の匂いのしない所で舞踊を創作したいと、新築のアパートの2DKに移ったばかりだった。

  その頃のわが家は昭和7年に建った木造の家で、風呂場は紙くずがたくさん出るので、紙と薪で風呂を湧かしていた。隙間だらけで冬は北向きなこともあって、ものすごく寒い風呂場だったから、間違っても酸欠になることはなかった。

  越したばかりのアパートの風呂は、部屋の中でガスを燃やすようになっていて、小さな窓はついているが、1月の10日のことなので、閉めきったままになっていた。

  丁度、その頃、1年前から赤坂のクラブ スペース・カプセルの月曜日を女房の「伊藤ミカ・ビザール・バレエ・グループ」が受け持っていた。その他の曜日は寺山修司の「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」、土方巽の舞踏、宇野亜喜良のショウと、当時の前衛的な芸術家が出演している話題のクラブだった。

  深夜、わが家に帰って来ると、新年早々のショウ、「雪女」の打ち合わせをお弟子さんとしていた。そのお弟子さんを家まで車で送り届けて、風呂に入ろうと思ったが、ぼくはサウナに入ってきたので、先に寝てしまった。

  前妻は舞踊一筋の人で、ぼくの靴下一足洗ってくれたことのない人で、いつも風呂はぼくが湧かして、どうぞお入りくださいと湯加減をみて入れていた。

  お湯の出る音は聞いていたが、すぐにねてしまった。しかし、心のどこかで気になっていたのか、恐らく1時間もしないうちに目覚めた。

  風呂場をのぞいた時には、すでに熱湯の中で座禅したまま死んでいた。今ならお湯の量も、湯の温度もボタン一つで決められるが36年前はそんな風呂はない。

  越後堂の社長さんとサウナに入ってこなければ死ぬことはなかった。その越後堂製本で経理の仕事をしていたのが今の女房だから不思議なめぐり合わせだ。

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昔住んでいたアパート

  兄は本当にぼくのことをよくしてくれた。製本代がかなりたまっていたのに、亡くなる寸前にパァにしてくれた。

  ガンにむしばまれた肝臓の移植手術をして息子の肝臓の一部をもらったが、集中治療室から4ヶ月以上も出ることができずに亡くなってしまった。

  東京女子医大病院の医師を兄は信じて、必ず元気で仕事に戻れると思っていたから、遺言も何一つ残さなかった。

  ぼくは手術の成功の可能性がかなり低いとわかっていて、手術にふみきってしまったのではないかと医師たちをうたがっている。

  亡くなる数日前に「裏切られた」とつぶやいたという。

  頼りになる人を次から次へと亡くして、それでもぼくは生きなければならない。入院中にぼくが撮った兄の笑っている写真、仏壇に飾られているいかにも製本屋の親父というような写真、ぼくのこれからの生き様を見つめているようでならない。

  ※多忙につきUPが遅れたことごめんなさい。今年も頑張ります。(by次男の嫁)

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