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2006年3月

2006年3月23日 (木)

『三島由紀夫 剣と寒紅』こんなに面白い本はない!

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2月22日に膵臓ガンで76歳で亡くなった作家の福島次郎さん。「バスタオル」と「蝶のかたみ」で二度、芥川賞候補になった。98年、故三島由紀夫さんとの同性愛の交際をつづった小説『三島由紀夫 剣と寒紅』を文藝春秋から刊行して話題になったが、小説内での三島さんの手紙の公表が著作権侵害にあたるとして、遺族から訴えられ、出版差し止めになってしまった。

  昨年の9月に宝島社から、福島次郎さんの短編を集めた『淫月』が刊行され、その書評を書き『薔薇族』に載せて送ったことから急に親しくなって、電話や、文通を重ねていた。それが急に亡くなってしまったことから買い損ねてしまっていた『三島由紀夫 剣と寒紅』をなんとしても読みたくなって、息子の嫁に頼んでネットで探してもらった。

  発禁処分になってしまった本だから、1万円はするのかと思ったら、なんと550円だというのでびっくり。すぐに送られてきたが、まったくの新品、悪いと思ってぼくの著書を送ってあげたが返事はこない。余計なことをしてしまったのかも。

  いっきに読んでしまったが、こんな面白い本はなかった。同性愛である三島由紀夫さんをここまで書いていいのかと思うぐらい書かれている。三島さんの奥さんが生きておられてたら、とても出版することはできなかったろう。しかし、残された息子さんや、娘さんには読むに耐えられなかったに違いない。

  三島さんの手紙など、ほんの一部分なのに遺族が訴えたという気持ちはよく理解できる。

  3月6日付けの東京新聞の夕刊「大波小波」欄に「福島次郎の死」と題して、ヘテロさんが書いている。

  「彼はゲイの作家である。今日の我々は毎日のようにゲイ(もしくはえせゲイ)のテレビタレントに接していて、差別意識や拒否反応も薄れつつあるが、福島の世代はモロにマイノリティの意識を背負わざるをえなかった。被差別意識と罪悪感、そして秘められた快楽への濃密な熱情を、福島の作品はいつもたたえていた。それはゲイでない読者にとっても忘れられない特異な存在感を放っていた」

『薔薇族』創刊以来、次々と有能な方々が小説を発表してくれたが、誰一人プロになろうという方はいなかった。『薔薇族』の誌上に載ることがよろこびであって、書きたいものを書きつくしてしまうと、書かなくなってしまう。そうすると、また別の人が現われるという繰り返しだった。

  福嶋さんのようにゲイの作家で、ゲイ雑誌に書かないで、一般誌のみに発表するという作家も何人かおられる。

  昨秋刊行された『淫月』が遺作になっていしまったが、もっともっと書いてほしかった。残念でならない。

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2006年3月21日 (火)

東條英機さんのお孫さんと話をして大感激!

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  ひざの痛み止めの薬を薬局に取りに行き、ちょっと足をのばして、ぼくのいこいの場所である喫茶店に立ち寄った。3月10日、金曜日の午前中のことだ。

  入口に近いテーブルには、品のいいやせぎすの老人がおひとりだけ座っていた。この喫茶店は「邪宗門」といい、北原白秋の詩集からとって名づけたものだ。

  店内には古時計、石油ランプ、火縄銃などが所狭しと飾られている。和骨董を置いている店としても知られているが、今静かに脚光を浴びているのは、明治の文豪、森鴎外の長女の森茉莉さんが、毎日のように通いつめていた店だったということだ。

  ぼくも世田谷新聞や、復刊『薔薇族』で「伊藤文学のひとりごと」の頁に「森茉莉さんの座っていた椅子」と題して、エッセイを書いたことがある。今でも日本中から森茉莉さんの熱心なファンが訪れている。

  この「邪宗門」のマスターもぼくと同じようにひざを痛めている、同病あいあわれむ中でもある。

  マスターの奥さんは、美空ひばりの大ファンで、ひばりに関するコレクションは半端ではない。奥の部屋はひばりのグッズでうまっている。

  今日どうしても書きたいと思ったことは森茉莉さんの話ではない。マスターにリクエストして、ひばりが歌う戦時中の軍歌を聞かせて欲しいとお願いした。

  ひばりが歌う軍歌。軍歌というと、兵隊や当時の国民の士気を高揚させるための勇ましい歌と思うだろうが、日本の軍歌はそうではない。反戦歌ではないかと思うぐらい、しみじみとして心に沁みる歌なのだ。ひばりが歌うと、これがまたいい。涙がにじんでくる。

  入口に座っていた老人も、ひばりが歌う軍歌に耳をかたむけていたようだ。

  老人はお金を払って帰ろうとしたときに、「軍艦マーチは名曲ですね」と、話しかけてきた。マスターがぼくのことを「『薔薇族』編集長の伊藤さんです」と紹介してくれたら「ああ三島由紀夫さんの」と承知しているようだった。

  老人が扉を出てから、マスターがびっくりして言うことには「東條英機さんのお孫さんですよ。ときどき店にきてくれるけど、一度もしゃべったことがありません」

  奥さんは『祖父東條英機「一切語るなかれ」』『大東亜戦争の真実』の著者でもあり、マスコミによく登場している東條由布子さんだ。由布子さんからは、サインをしてぼくに著書を贈ってもらっていた。東條の印鑑は東條英機さんが生前使われていたものだ。

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  東條さんのお宅は「邪宗門」のお近くでわが家から歩いても4、5分のところにある。

  ぼくは『薔薇族』を出すようになってから見知らぬ人にでも話しかけるのが上手になっている。今までまったく会話をしない、東條さんのお孫さんと話をしたというのでマスターがびっくりしたわけだ。

  若い人には理解できないだろうが、戦時中に育ったぼくとしては、東條英機さんのお孫さんと話をしたということだけで、大感激なのだ。これから由布子さんの書かれた本をよく読んでから、由布子さんとも話をしたいと思っている。なぜか由布子さんもぼくに会いたいと言ってくれているそうなので。

◆ 邪宗門 TEL03-3410-7858

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2006年3月19日 (日)

「ロマンの泉美術館」よみがえる!

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「心の豊かさをくれた美術館」というタイトルで「新潟日報」が1月24日の新聞に「私の視点」欄にぼくの文章を載せてくれた。

「東京の人間で僕ぐらい新潟の人たちを知人に持っている人は少ないだろう。73年間、一歩も世田谷から出たことがない人間が、女房の古里、弥彦村に「ロマンの泉美術館」をオープンさせてしまい、そこで多くの人と知り合うことができたからだ。(中略)
  開館して13年、本業の雑誌が33年の歴史に幕を閉じ、廃刊に追い込まれてしまっては、美術館をささえることができなくなった。
  お金を何億もつぎ込んでなくしてしまったけれど、金銭にかえられない心の豊かさを訪れた多くの人たちから与えられたぼくは幸せ者だ」

  そして昨年12月末で休館してしまったのをどなたか経営して、またオープンさせてくれるお方はいないものかと書いた。

  ぼくの呼びかけを目にとめてくれた、新潟市内の呉服、和装製品、宝飾品などの卸売の社長さんから電話があって、ぜひ、ひき継ぎたいということだった。

  東京にわざわざ出てきてくれて、二度お会いした上で、あとをおまかせすることになった。

すでに売店には商品がずらりとならび、レストランも4月6日(木)から、本格的にオープンすることになった。展示場は従来どおり、ぼくが責任をもって、かわいいものばかりを並べる。とにかく閉めたままで廃墟にだけはしたくないと、思っていたので、こんなにうれいしいことはなかった。

  一昨年の9月、ぼくが創刊以来33年間出し続けてきた『薔薇族』が廃刊になって、その報が朝日新聞に報道されるや、大変な騒ぎになり、テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌が取材に押し寄せてくれた。

  そのニュースを見て、あとを継ぎたいという出版社が一社だけ名乗りをあげてくれた。そして半年後、復刊したが残念ながら8号目で、またもや廃刊に追い込まれてしまった。

  僕の編集長という名は、看板だけでまったく別の雑誌になってしまっていた。

  人と人との出会いって不思議なものだ。今回の美術館も雑誌と同じように、一社だけが名乗りをあげてくれた。また雑誌とおなじような運命をたどって、僕の意図したものとちがってしまうのではという、予感が脳裏をよぎらないわけではなかった。

  今度の社長さんはまったく前のままで経営するとは言ってくれているが、どう変わってしまうだろうか。これは訪れてくれるお客さまがいいムードを作り出してくれることが、一番大事なことではないだろうか。いつまでも続くように、みなさまの応援をお願いする。

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2006年3月18日 (土)

英語がしゃべれないのに、目と目で心が通じあって。

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  アメリカ人のジョージ・リンチさん。ひげをたくわえた立派な体格の人だ。確かヤマハのボートのポスターに、船長のような格好でモデルにもなっていたくらい、風格のある人だった。ぼくとリンチさんとの知り合ったきっかけは思い出せない。その頃、リンチさんはハッテン場で知り合ったという、大手広告代理店の有能な日本人の社員の人と同居して、北千住のマンションに住んでいた。大手広告代理店の社員の人が英語がペラペラなので、リンチさんは日本語を覚える気がなかったのか、日本語はほとんどしゃべれない。

  リンチさんは18歳のときに進駐軍として、神戸に上陸、日本に何年かいたらしい。その間に日本が好きになり、日本が忘れられず、結婚して、子供さんも2、3人いたのに、離婚して単身、日本にやってきた。

  リンチさんはロサンゼルスで画商の仕事をしていたらしいが、くわしいことは分からない。そのリンチさんが、よく電話をかけてきて、北千住のマンションにぼくを呼んでくれた。北千住の駅に着くと、車で迎えにきてくれていた。車だとわけなく着くが、歩いたら30分はかかるのでは。

  部屋は2LDKのマンションだと思うが、きちんと片付けられていて、壁にはさまざまな絵が飾られていた。アメリカから取り寄せたという、デッカイ冷蔵庫、その中から肉をとり出して、ステーキを焼いてくれた。

  まったく英語がしゃべれないぼくと、どうやって間を持たせていたのだろうか。心が通じ合うというか、目と目で話をしていたということか。

  リンチさんは、いろんなものを見せてくれて、教えてくれた。アメリカのカルフォルニアの果物を汽車で運ぶための木箱の横っ腹に貼ったラベル、それは見事なものだった。薄い紙に印刷したものだから、木箱に貼ってしまったら、はがすことができない。こんな美しいもので残っているということは、未使用のままで残されたからだ。

  戦前から戦後にかけて、日本でもぼくの記憶に残っている、リンゴやミカンなどは木箱に入っていて、その横っ腹に産地などを書いたラベルが貼られていた。しかし、それは分かるというだけのもので、芸術的に価値のあるラベルではなかった。

  ところがカルフォルニアのフルーツのラベルは、農場そのものの規模も大きいし、生産者の数も多かったのだろう。鉄道がひかれる以前はカルフォルニアだけで、果物は消費されていたのだが、1870年から1880年にかけて、鉄道がひかれて全米に果物が運ばれるようになった。

  アメリカでは恐らくドイツの印刷機を使い、職人もヨーロッパから渡っていたのだろう。初期のラベルは石版刷で、徐々にオフセットに変わっていった。大きな印刷会社があって、そこで大量に印刷されたらしい。それが1950年頃、木箱からダンボールに変わり、ラベルは不要になってしまった。

  ラベルのデザイナーも一流のデザイナーが考えていたらしいが、あまりほめられる仕事ではないので、サインなどまったくない。

  リンチさんからアンティークになってしまったラベルを見せられて、そのデザインの美しさ、印刷の美しさに魅せられてしまった。

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  1989年、『アイデア』が、フルーツ・ラベルのぼくのコレクションを採り上げてくれた。

  リンチさんからは、この他にもいろんなものを教えられた。今、リンチさんはハワイに、おひとりで住んでおられるそうだ。

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2006年3月17日 (金)

親しくなったばかりなのに福島次郎さん逝く

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  熊本に住む作家の福島次郎さん(76歳)が2月22日、膵臓(すいぞう)がんで死去と朝日新聞の夕刊に載った。

  福島次郎さんは、東洋大学国文科に在籍中、三島由紀夫さんの家に書生として泊まりこんでいたことがあった。福島さんはゲイだから、三島さんと関係ができたのだが、好みがまったく違うので長くは続かなかったようだ。

  古里の熊本に帰り、教師生活をするかたわら文筆活動に入り、75年『阿武隈の霜』で九州文学賞受賞。96年『バスタオル』が115回芥川賞候補となり、受賞こそ逃したものの、石原慎太郎、宮本輝両選考委員の強い支持を得るという経歴の方だ。

  平成10年11月に文藝春秋から『蝶のかたみ』が一冊の本になり、その後に発表された短篇7話と、長篇1話を収めた『淫月』が、宝島社から2005年9月に出版された。

  福島さんがご病気だということをまったく知らなかったので、上京するようなことがあったら、インタビューしたいのでという手紙を送った。間もなくして『淫月』が寄贈されてきたので、2005年10月発行の『薔薇族』12月号に『淫月』の書評を書いて、雑誌と、ぼくの著書『薔薇ひらく日を』などをお送りした。

『蝶のかたみ』は、まだ読んでいないと言ったら、早速、サイン入りの本を送ってくれた。

  二、三度、電話でお話しした。急速に心が通じ合って親近感をおぼえ、ずっと前から知っていたような気分だった。

  昨年の11月9日には、こんな手紙を頂いた。

「拝啓  すっかり寒くなりました。先日から本当にいろいろとお世話になりました。ご本の中の小生の小説の宣伝、拝見。心から感謝しております。こちらこそ何もお礼が出来ず心苦しく思っております。それに著作の本やその他いろいろと送って頂きすみません。

  じっくり味わっております。

『薔薇ひらく日を』の本など、逆に私のほうがはじめて見る内容のもので、驚き、且、感服しております。実にストレートにためになります。

  また『薔薇族』の表紙絵など、次々とあり、なつかしき限りです。これからもまた、いろいろお世話になるかと思います。よろしくお願い申します。

  小生、実は今、スイゾウの病気で二ヶ月入院のあと、通院の身にて、このお便りの文字が雑になっておりますこと、おわび申します。  敬具」

  三島由紀夫のことを書いた著書の中に、三島さんの手紙を載せてしまったら、遺族から手紙にも著作権があると訴えられて話題になったことがあった。

  福島次郎さんの手紙を無断で載せてしまったけれど、福島さん、あの世で「いいよ、いいよ」と言って、かえってよろこんでくれているのでは。

『薔薇族』の古い表紙を見て、なつかしいと書いてありますが、きっと以前から愛読してくれていたのかと思うと、福島さんとはやはり長いお付き合いだったのだ。ご冥福を祈るばかりです。

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2006年3月16日 (木)

幻のゲイ雑誌『アドニス』特集、これは必見!

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  ぼくは本をまったくといっていいほど読まない人だから、こんな雑誌があることなど知らなかった。

『彷書月刊』(ほうしょげっかん)古書を愛する人のための月刊誌のようだ。2005年の9月号が創刊20周年記念号で、突然、電話がかかってきて、インタビューしたいということだ。

  見たことも、聞いたこともない雑誌。聞かれるままにしゃべったが、「第二書房と『薔薇族』をめぐって」というタイトルだった。

  共立女子大の短期大学の教授で、エクスリブリス(蔵書票)の研究家で、ぼくが経営する「ロマンの泉美術館」の名誉館長でもある内田市五郎さんから電話がかかってきて、

「伊藤さん、面白く読みましたよ」

  ああ、こういう本好きの人が読んでいるんだなと。内田さんの家にお邪魔したことがあったが、まるで図書館のようでびっくりしたことがあった。

  年末の頃だったろうか。『彷書月刊』から執筆依頼があった。2月25日発売の雑誌で、「アドニスの特集」をやるので、「同性愛文学に思うこと」を2ページ分書いてほしいとのことだった。

  三島由紀夫が書いたのではと、ずっと噂されていた「愛の処刑」。この小説が載ったのが『アドニス』の別冊だった。この原稿の元原稿が発見され、新潮社発行の「三島由紀夫全集」に載るというので、この『アドニス』がにわかに脚光を浴びてきた。

『アドニス』は、『薔薇族』が創刊された、1971年(昭和46年)よりも、19年も前の1952年(昭和27年)に、会員制で発行されていた非合法の雑誌だった。

『人間探求』という昭和25年に創刊された雑誌の編集員だった、上月竜之介という人が、仲間の協力を得て、『アドニス』を創刊させた。『人間探求』という雑誌は、本当はエロ雑誌なのだが、当時は取締当局のしめつけがきびしかったので、執筆者に医学博士とか、学者の名前をつらねて、いかにもお堅い雑誌のように見せかけている。

  しばらくして作品社の田中貞夫さんと、作家の中井英夫さんにバトンタッチした。このお二人ともゲイだったから、上月さんもゲイだったと思われる。『人間探求』の誌上に作品社の本の広告が載っているから、交流があったことは間違いない。

『アドニス』の特集は、いろんな人が執筆しているようだ。

『アドニス』に直接関係した方は、すでにこの世におられない。堂本正樹さんにはインタビューされたそうで、貴重な話が聞けるかも知れない。定価\600+税・書店で売っていると思うが、電話は03・3292・8385・彷徨舎  ぜひ、お求めを!

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2006年3月 1日 (水)

ちょっぴりうれしい話がありました!

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  左ひざの痛みはとれないし、その上、風邪の病源菌がよっぽど居心地がいいのか、体の中に居座ってしまっている。もう2週間以上もなんにも出来ない状態だ。

  そんなときにちょっとだけ、いい話が舞い込んできた。テレビ朝日の深夜番組のクルーが取材にくるというのだ。

  平成15年9月1日発行・『薔薇族』No.368号の表紙を飾っているのは、吉本の芸人「COW COW」の多田健二君で、ニコニコしている笑顔だ。

  その前に下北沢のタウンホールで、まだ売れていない吉本の芸人たち、20人ぐらいでイベントを開いたことがあった。ぼくも招かれて出席したのだが、まったくの場違いで年寄りなんて誰ひとりいない。ほとんど若い女の子ばかりで、ある意味ではロックのコンサートのノリで、観客と芸人が一体になって楽しんでいるという感じだった。ぼくは一度も笑えなかったが、若い女の子たちは本当によく笑う。

  若い芸人たちが舞台上で、お客さんにいろんな提案をするのだが、「COW COW」の多田健二君が、雑誌の表紙に登場したいと言い出したのだ。

  それからしばらくして、下北沢の喫茶店で吉本の人と、「COW COW」の多田君と「次長課長」の河本準一君と、打ち合わせに出会った。

  下積みの時代が長く、ここまでくるのも大変だったという話をしてくれた。河本君は、奥さんと小さな子供さんもいるそうだ。

  今度は赤坂の方の大きなホールでイベントをやり、表紙になった多田君の本をみんなにご披露するということだった。

  いろんな雑誌に表紙に使って欲しいと頼みに行ったそうだが、全部断わられてしまった。売れてない芸人を表紙にするわけがない。

『薔薇族』は、ぼくひとりが決めればいいことだから、即決でOKしてしまった。そのかわりヌードの写真を撮らしてもらうという条件で。

  新宿ルミネの7Fにある吉本の劇場で、彼らの公演が終わるのを待って、写真を撮らせてもらった。モデルは多田君と河本君だ。カメラマンは、ぼくしかいない。いろんなポーズをつけてもらって、まあまあの出来だったと思う。帰りに下北沢のいつも頼んでいるDTP屋に現像をお願いしてきた。

  翌日、写真屋の親父さんから電話があって、機械の故障でパーになってしまったと平謝り。こんなこと今まで一度もなかったのに。かろうじて助かった2枚だけを使って「脱いだ!吉本芸人」と題して間に合わせた。

  ところが皮肉なことに「COW COW」の多田君は芽が出ずに、「次長課長」の河本君が急に売れ出して、今や、テレビでひっぱりだこなのだ。

  その「次長課長」の話をしてくれという取材だ。「ビジュアル妄想倶楽部」という番組で、3月11日(土)夜12時30分から1時30分まで。本決まりだそうだから、ぼくが登場するのは間違いない。風邪で寝ていたのを起き出してのインタビューだから、果たしてどんなことになっているのやら。応援した芸人が脚光を浴びるようになって、こんなにうれしいことはない。次は多田君も!

  ブログを見てくれている人も、ぼくの素顔を知らないだろうから、ぜひ、見てください。こんなじじいが書いているの、もう見ないなんて言わないで。

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