50年も前の若き日の手紙
「薔薇は花々の若き王子であって、古代ギリシャでは男性にみたてられていた。愛と喜びと美と純潔とを象徴するこの薔薇は、まさに花々の若き主と呼ぶにふさわしい。」
ローマ人は一輪の薔薇の花の下で語りあった話は、必ず秘密にする約束を守ったという。
「薔薇の下で=Under the Rose」とは、すなわち「秘密に」という意味だという。薔薇は秘密だからこそ美しいのだ。」
これは今は亡き、ぼくの親友、国学院大学教授の阿部正路君が、1975年の『薔薇族』7月号に「薔薇族考」と題して書いてくれた文章の一節だ。これが『薔薇族』の誌名命名の原点になった。
阿部君は、ぼくの頼みはどんなことでも絶対に断わらないよと言って、ことあるごとに『薔薇族』に原稿を寄せてくれた。ただし、国学院大学の恩師である折口信夫先生のことだけは、かんべんしてくれと言われていた。
ぼくが美輪明宏さんのクラブ「巴里」の前に出した「伊藤文学の談話室・祭」を命名してくれたのも阿部君だった。
「最初に伊藤君と会ったころは、伊藤君は駒澤大学の学生で、僕は国学院大学の学生であった。」とあるように、短歌を通して知りあった仲だ。ふたりで各大学の短歌を学ぶ学生たちに呼びかけて「大学歌人会」を結成し、いろんな催しを企画した。
阿部君の手許には、このころぼくが阿部君に出した長い手紙が残っているようだ。阿部君の千葉の柏市にあるお宅へお邪魔したときに驚いたのは、図書館のような蔵書の数だった。それがきちっと整理されていて、いつでもすぐに取り出せるようになっている。
ぼくが恋人と初めて、ふたりでデートしたとき、よろこびのあまり、阿部君に告白したのだろう。
「多摩川を越えて、柿生の丘陵に行きました。光っているすすきをわけて歩きました。萩の花もきれいでした。「あざみの花が一番好き」と彼女はそんなことを言いました。どんぐりの実もひろいました。人っ子ひとりいない丘の道はふたりだけの道でした。
これは今もぼくの手許にある伊藤君の若い日の手記のように長い手紙の一節である。」
ぼくは記憶力は、まったくゼロに近いけれど、学者である阿部君は、記憶力がよくて、学生時代のことをなんでも覚えているので、びっくりしてしまった。
今までもわからないことがあると、なんでも電話をかけて聞いていたのに、もう阿部君はこの世にいない。
もしかしたら、書斎はまったくいじらずにそのままになっていると、奥さんが言っていたから、ぼくの若き日の手紙もどこかに大事にとってあるかも知れない。奥さんにお願いして、手紙を探してもらおうかと考えている。青春をとり戻すために50年も前に阿部君に宛てた手紙を――。
写真は前列左端が若き日の阿部正道君、右から3番目がぼく(昭和29年1月25日)
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