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2007年10月29日 (月)

オカマ考

「言葉は時代と共に変化するという。例えば「言う」の元は「いふ」であったように発音そのものが変化していったものと、オカマ(何というおぞましい言葉であることか)のように発音そのものは変らず、指し示す対象が変ってしまう例もある。

  オカマはもともと釜、あるいは竈(かまど)に対する丁寧語で、その形から転じて尻を指し、さらには主として女装の売色物への蔑称として永らく通用していたものである。その語から受ける印象は厚化粧の隠花植物。明るい陽の下では見るに耐えない哀しい姿が浮かんでくる。

  ところがどうであろう、近頃では堂々と人前でそれを名乗り、テレビカメラの前で私達オカマはなどと恥ずかしい気もなく無邪気に喋る輩が居る。本来なら公の場では憚られる言葉のはずである。

  およそ言葉の変化を見てみると、かなりの割合で勘違いや無知からの変化があるように見受けられる。例えば全然のあとには否定語が付くはずなのに肯定語を付けてみたり(そんなこと話にならんヨと、半分混ぜっかえしの意味を含めて否定する時に使用することはある)、近頃ほとんど定着したかに思われる例の一つに上げるがある。

  上げるは上品、遣るは下品と人間関係の上下も考えずに単純に決め込んで、自分の子供は勿論のこと、ペットや植物に対してまで上げるを連発するオバサンがあちこちに現れて、気にしていたら、とうとう、世の中の規範であるべき出版物にまで現れて「ペットに餌を上げる」などと出て来るに至っては、全くあきれる外はない。

  その本を出した出版社にしても、例え著者がそのように書いたとしても出版人の権威でもって正すべきは正すべきで、世の風潮に流されっぱなしというのは情けない。

  さて表題のオカマである。恥ずかし気もなくわが身にそれを冠し、映画評論家と称する人物がいる。ゲイであろうとオネエであろうと、それが持ち前なら仕方がないし、それを逆手にとって売りものにするのも一つの処芸術かもしれない。しかし本来の意味もわきまえずに公の場で、その名を名乗り平然として居られる人物に、果たしてどれほどの映画評が書けるものか甚だ怪しい。活字大好き人間で、この『薔薇族』の隅から隅まで読みつくすこの筆者ではあるけれど、彼の映画評だけは読んだことがない。

  もう一度繰り返すけれども、言葉の変化は感遣いや、時には無知から始まる。そして奇妙に、無知の隙間から世の中に浸透してゆく。」

  読者から、こんな投稿が寄せられた。

  美輪明宏さんも、テレビで自らのことをオカマ呼ばわりする人に、不快感をもっていて、この兄弟とはお付き合いしないと言っている。

  ぼくもオカマという言葉は、同性愛者に対する侮辱用語だから、公の場でオカマという言葉を連発するのは、いかがなものかと思う。

  ぼくはひとりの人を悪く言うのは、好きではないが、テレビにいつも顔を出しているのだから、たまたま同性愛の話題になったときは、そのときこそテレビを見ている人たちに分かるように、同性愛というものを知らせてほしい。

  ひとりのタレントとして出演しているので、同性愛者であることは、なんの関係もないと言われてしまえば、それまでのことだが。

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