あんまり思い出したくないけれど。
今日、8月15日は終戦記念日である。廣島、長崎に原爆が投下されなかったら、まだ軍部は戦争を続けていたかもしれない。
そうなればアメリカ軍は、日本の各地に上陸して来たに違いないし、もっと多くの犠牲者が出たことは明白だ。
我が家の近くの代沢小学校には、終戦直前、地方から召集されてきた兵隊たちが駐留していた。それらの兵隊たちは20代、30代の若者たちではない。40代、50代のひ弱なオジさんたちだ。
小銃は門衛の兵隊しか持っていなくて、後の兵隊たちの武器といえば竹槍だ。革靴もなかったのだろう。兵隊たちは地下足袋を履いていた。
戦争の訓練も受けていないこんな兵隊たちで、どうやって敵を迎え撃つというのだろう。
小学生も6年生だけが生き残っていて、5年生以下は長野県のお寺に疎開していった。親と離れて、1年生、2年生の小さな子どもたちがよくぞ先生たちにつれられて旅立ったものだ。今時の子どもたちにはとても考えられない。
我が家の親父は、体が貧弱なので、兵隊に取られなかったが、そんな親父たちも小学校の校庭で、退役した軍人に竹槍で敵を倒す訓練をされていた。
母は隣組の組長をやっていたので、魚や野菜なども配給制で人数によって配る仕事をしていた。魚といえばなぜか、すけぞうたらばかり。
さつまいもなども今のように、ほくほくしたものではなく、水をかぶって半分腐ったようなものだった。
空き地という空き地に、隣組全員で野菜を育てていた。肥料といえば人糞だ。じゃがいも畑に、お尻をふいた新聞紙が黄色くなって顔を出しているのを、今でも覚えている。
肥料に人糞を使い、その野菜を食べるのだから、お腹に回虫が湧いてしまう。祖母のお尻から白いうどんのような回虫がでてきたのを、これもはっきりと脳裏に焼き付いている。
今時の人は、回虫なんて見たこともないだろう。ノミだって、朝、布団をたたむと、小さなノミが、ぴょん、ぴょん飛ぶのを捕まえて、指の先でつぶすと、真っ赤な血を吸っている。
毎晩のように空襲があるものだから、寝間着に着替えて寝るなんてことはできない。昼間着ている服でそのまま寝ていた。下着には日光に当てるとぴかぴかしたシラミが、びっしりと付いている。
石けんがなかなか手に入れにくかったから、どうしても不潔になってしまって、シラミが湧いてしまうのだ。母親が大きな鍋に湯を沸かして、下着を煮て、シラミ退治をしてくれた。
お酒や煙草も吸わない人にも配給になるので、母はそれを物々交換していたようだ。
小学校に駐留している兵隊たちの家族が、たまに面会にくることがあった。我が家は小学校と目と鼻の先にあったので、座敷を貸してあげた。真っ白な握り飯を食べているのをうらやましく見ていたものだ。
兵隊たちの食物は、白米なんてあるわけがない。今なら鳥のえさにもならない、こうりゃんを食べていたようだ。赤飯のようにも見えるから、田舎から出て来た兵隊たちは、お祝いしてくれるのかと思ったそうだ。今ではこうりゃんなんて知っている人もいない代物だ。
これらの兵隊たちも、すぐに終戦を迎えてしまったから、戦わずに古里に帰って行ったのでは。
女房はたらが好きで食べたがるが、僕は戦時中、たらばかり食べていたので、たらには悪いけれど、今でも食べる気がしないのだ。
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コメント
初めてコメント致します。いつも文學さんのブログ、楽しみに見ています。
僕は小さい頃、祖母からよく戦時中の頃の話を聞かされました。
祖母は直接空襲には遭わなかったものの、やはり食べ物や生活に大変苦労していたようでした。
僕の様に身の回りに戦争を体験した人がいればその人から話を直接聴けるが、そうじゃない人は戦争について全くの無知な人だっています。
これから先、後世に伝えていく事ができる人は確実に減っていきます。
何年経っても語り継ぐ人が必要だなと思いました。
投稿: 正樹 | 2009年8月15日 (土) 13時33分