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2011年9月

2011年9月26日 (月)

更新担当よりお知らせ

いつも「伊藤文学のひとりごと」をご覧いただきまして、ありがとうございます。
 
9月12日の記事内でもお知らせがありましたが、来る10月1日(土)、下北沢「邪宗門」にて「伊藤文学と語る会」を開催いたします。
伊藤文学、森茉莉にご興味がある方は是非この機会にお集まり下さい!
 
参加を検討されている方は、下記の連絡先までご一報いただけると幸いです。
 
電話 :03(3413)9411 
メール:bungaku@barazoku.co.jp
 
 
 
また、当ブログでは、コメント欄への返信は基本的に行っておりませんが、皆様からいただいたコメントは全てプリントアウトにて伊藤文学本人に届けております。
ご意見ご感想、応援メッセージなどがございましたら、どしどしとお寄せ下さい。よろしくお願いいたします。

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『あの人がいた』ぼくもそう書かれる日が!

0072_2 2011年・9月17日(土)・池袋の自由学園明日館講堂で、『話の特集』の編集長だった矢崎泰久さんが、(株)街から舎から『あの人がいた』(定価・本体¥1600+税)の出版ライブを16時から催すという案内状が届いていたので、出席の通知を出していた。
 
 
 ところが『話の特集』も何号か買った記憶はあるが、矢崎泰久さんとは出会ったことがない。しかし泰久さんの弟さん(名前を思い出せない)は、現在、日本社の社長をやっておられて、『薔薇族』を出していた頃、エロ本を出している出版社の集まりがあった頃のお仲間だ。
 出版問題懇話会という会で、毎月一回は出版クラブで会合が持たれていたときに、矢崎さんの弟さんとは知り合った。
 おそらく弟さんが、出版を祝う会の案内状をぼくに送ってくれたのだろう。

 なにしろ発起人がすごい人ばかりだ。永六輔・小沢昭一・落合恵子・加賀まり子・田原総一朗・和田誠など、有名人がずらりと並んでいる。
 会費は¥7000、本を進呈してくれるそうだ。池袋の駅から5分とあったので、近いのではと歩き出したが、2、3人の人に訪ねて、住宅街の中にある会場にやっとたどりついたら、20分近くかかってしまった。
 
 矢崎さんの弟さんが、発起人席と貼紙がしてある前の方に座ってくださいというので、そうさせてもらった。教会の椅子みたいで、一人、一人座る椅子でなくて、つながっている椅子で、木の椅子には薄いふとんが敷いてあった。
 永六輔さんが一番前の椅子に座っていたので自己紹介して声をかけたが、パーキンソン氏病をわずらっているということで、なんの反応もなかった。
 幸いに講談社を停年退職された、白川充さんと出会ったので、となりに座って話相手ができてよかった。何年か前に白川さんと正反対に元気で派手好きな奥さまに先立たれて、ぐんと老けこんでしまっている。
 
 矢崎泰久さん、2005年に新潮社から『「話の特集」と仲間たち』という本を出されていて、1995年に休刊するまで、30年間に352号出されたとある。
 『あの人がいた』には、筑紫哲也さん、岸田今日子さん、渥美清さん、寺山修司さんなど17人の亡くなられた人たちとの交流が書かれている。
 『話の特集』はその時代の超一流の人たちに原稿を依頼している。創刊号は7万部刷って返本の山を築いてしまったそうだ。
 知人の邱永漢さんも金銭的にかなり応援したと、直接聞いたことがあったが、大損されたとのことだった。
 
 ぼくの親父は矢崎さんとは、正反対で、一流の人に原稿を依頼すれば、原稿料は高いし小出版社に本を出させてもらえるわけがない。出版社は人を使わず、机一つと、電話があればいい。事務所など借りずに自宅で充分だという考え方だった。
 まったく無名の人を掘り出して話題にして本を売るというやり方だ。確かに何冊かは掘り出し物で話題にして成功したが、そう掘り出し物があるわけがない。
 
 ぼくが創刊した『薔薇族』と、『話の特集』を比べるのはおこがましいと思うが、続いたのが35年、381冊出しているから、その分、勝ったといえば勝ったということか。それに『話の特集』は、インターネットが普及する前に廃刊に追いこまれている。
 
 『薔薇族』に寄稿してくれた男絵師たち、まったく名もなき人たちだが、ぼくも『あの人がいた』というような本を残しておきたいと考えている。一流も二流もない、いいものはいいものなのだ。


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2011年9月24日 (土)

ぼくの息子は、父であるぼくのことをホモだと思っていたのだろうか?

 ぼくの良き相棒だった藤田竜君(本名・本間真夫)と出会わなかったら、『薔薇族』は昭和のゲイの歴史に残ることはなかったろう。
 性格もまったく正反対の藤田君。単行本専門のぼくなので、雑誌作りの名人とも言える藤田君の存在は大きかった。

 1989年の9月号が、創刊200号になったが、美輪明宏さんが「自殺した友よ いま一緒に乾杯しよう」という、感動的な文章を寄せてくれている。
 創刊号を出したのが、1971年(昭和46年)の9月号だったが、その頃、新社屋ができるまで、茶沢通りと梅ヶ丘通りが交差する十字路に建つ、5階建てのマンション「ハビテーション淀川」の2階が『薔薇族』の誕生の地だ。その向かい側にある芝信用金庫代沢支店が、ぼくの財産のすべてを奪いさった信用金庫だなんて。

 ぼくらは昭和45年11月6日に再婚したが、その翌年の7月には創刊号を出したのだからあわただしい生活だった。その頃、女房のお腹が大きくなっていたが、カメラマンの波賀九郎さんの助手役をやって、ライトを当てる仕事をやったり、文通欄の宛名書きもやってくれていた。

 藤田竜君から、次男の文久(ふみひさ)に宛てた手紙がみつかった。藤田君は雑誌を面白くするために、いろいろと企画を考えてくれたが、この手紙もそのひとつだ。

「突然、手紙なんてヘンだね。もう知ってるかも知れないけど『薔薇族』は、夏に創刊20周年を迎えます。
 創刊の話をしていた時、君はまだお母さんのお腹の中にいました。それを思うと20年なんてあっという間です(中略)
 さて本題。『薔薇族』を出す家に育った男の子。そんなテーマで君にいくつか質問して、ま、かたちになれば小さな頁にしてみたいと思っています。いつも折あるごとにお父さんが何か言ってきましたが、今回は息子が登場するというわけです。
 君は雑誌の創刊と同時に生まれたようなものです。そして育ってゆく君のまわりに“ホモ的なもの”満ちていました。
 君は世間のふつうの子より、いろんなことを知るのといっしょに「男と男」ということを知らざるを得ませんでした。そうして20歳になった――。その間のことを聞きたいのです。

①子供の時、ホモをどう思っていたか。
②こんな環境にいたら、自分もそうなってしまうんではないか。そういう会社でいやだったこと。
③女の子や、クラスメートは、そういう出版社の子と知ったとき、何と言ったか。
④人が訪ねてくるたび「エイズ」を思わなかったか。“ブキミな人”を見た経験。
⑤父もホモでないかと疑わなかったか。

 なんてことです。他のことで君が悩んだこともあるでしょう。よかったら話してください。で設問の中身を充実させるべく考えてメモなんぞしてくれてるとありがたい。
 「家族ホメ」にならず、ひとりの青年の成長の記録というか、青春の何かが特殊な立場の人から出ないかと思うのです。
 「特殊な立場」とあまり思わなければ、それはそれでまた面白いでしょう。」

 藤田君のことだから、かなり突っ込んだ面白いインタビューになったと思うので、ぼくもまた読んでみたいと思うけど、その号がまだみつからない。

 それからあっという間に20年が過ぎて、藤田君はすでにこの世にいない。寂しい話ではある。


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藤田竜君が描いたイラスト

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2011年9月19日 (月)

「エクス・リブリス」なんていうカフエがあるなんて!

 「EX・LIBRIS」(蔵書票・または書票)とも呼ぶ、聞きなれない言葉を知っている人は少ないだろう。
 それは「誰それの蔵書」を意味するラテン語で、英語の「BOOKPLATE」の訳語だ。
 日本では中国からの影響で、書物を大切にしている人は、書物の見返しに印鑑を押して自分の所有物であることを明確にした。
 ぼくなら「伊藤蔵書」という印鑑を作ってもらって見返しに押す。ところが欧米にはサインはするけれど、印鑑というものはないから、どうしても「エクス・リブリス」が必要になってくる。
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 ヨーロッパでは印刷術が進歩して、複数の書物が出現してきたために、持主を明らかにする必要にせまられてきて、最初は貴族たちがその家の紋章を印刷して、書物に貼っていたが、19世紀の後半になると、版画家に依頼して、自分の好みの絵を印刷してもらって、書物に貼るようになってきた。
 欧米では銅版画が多く、日本ではエミール・オルリックという人が、日本の浮世絵を学ぶために来日して、1900年に『明星』という雑誌に、初めて西洋の蔵書票を紹介した。
 それに興味を持った竹久夢二などが、大正時代に入って木版画で作られるようになった。

 ぼくは1991年の正月のことだが、友人の叙情画家でもあり、アンティークのお人形のコレクターでもある、内藤ルネさんが宇都宮の東武デパートで「内藤ルネ・ロマンチック人形コレクション展」を開いたことがあった。
 お正月の催事場では、古書市、骨董市も開かれていたが、こじんまりと地元のお医者さんの関根蒸治さんが、ご自分のコレクションである蔵書票を展示していたのを見たとき、なんとも言えない、その小さな紙片にショックを受けてしまった。たまたま会場に来られた関根さんから、蔵書票の由来を聞いて興味を持つようになってしまった。

 それから古いエクス・リブリスのコレクションを始めて、新潟の弥彦村に「ロマンの泉美術館」を平成5年にオープンさせてしまった。それは世界で初の蔵書票を展示する美術館で、大きな虫メガネをたくさん用意しておいて、お客さんに見てもらった。
 ところが本業の雑誌が売れなくなって、閉館せざるを得なくなり、今は廃墟になってしまっている。

 なんとわが家の近くに、小さなカフエ「EX LIBRIS」という名のお店ができた。日本に「EX LIBRIS」なんて名のカフエは、一軒もないだろう。
 若いオーナーは、コーヒー豆にこだわって軽井沢のお店から取り寄せているそうだ。
 世田谷区代沢5―8―16 13時から22時まで、金曜日定休だ。茶沢通りに面していて、下北沢の南口から歩いて10分ほどのところにある。このお店の大家さんが、ぼくの息子の同級生で、小学校の教頭先生だそうだ。

 お母さんとはよく街で出会って立ち話をするが、お父さんのご主人とは会ったことがなかった。今、お店で「エクス・リブリス」とは、という紙片をお客さんにくれるが、伊藤文學と書いてあるので、偶然、コーヒーをのんでいたら、ご主人が入ってきて、初めて対面したのだがぼくと同じ年で、代沢小学校の一年先輩だった。

 エクス・リブリスって、自分の本に貼ったもので他人に見せるものではないので、男の好きな男の人は、男性のヌードを描いたものを本に貼って楽しんでいたのだろう。それが本からはがされて、100年以上も経って、僕の手許にあるなんて、本人もあの世でびっくりしているに違いない。
 ぜひ、おいしいコーヒーをのみに訪ねてもらいたいお店だ。


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2011年9月17日 (土)

関東大震災のときの自警団の写真がみつかった!

 大正時代に、ぼくの祖父、伊藤富士雄は、(大正12年6月2日、53歳で亡くなっている。救世軍の士官として、廃娼運動に身体を張って千人近い、娼妓を解放させた。)が亡くなった。大正12年(1923年)9月1日(土)、11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖、80km(北緯35・1度、東経139・5度)を震源として発生した、マグニチュード7.9の大正関東地震で、神奈川県を中心に、千葉県、茨城県から静岡県東部までの内陸と、沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を受けた。

 東京は地震によって、家屋が倒壊する被害と、当時はほとんど木造家屋なので、火災による被害が大きかったようだ。神奈川県では振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れや津波による被害もあった。
 被害は地震によるものだけで、今回のような福島第一原発事故のような放射能による被害がなかっただけに、復興も早かったに違いない。

 大正時代は情報の伝達の手段は新聞しかなかったから、大事件が起きたとき風評とか、デマのようなものは、人々の口から口へ伝わって、ゆがめられてしまったものもあったと思う。
 一番大きな風評は、在日韓国人による暴動、そして放火だろう。本当にそういう事実があったのかはその時代に生きていないのだから、真実は分からない。

 戦前のぼくの代沢小学校時代、昭和7年3月生まれだから、昭和14年に入学し、空襲が激しくなってきた、昭和19年に卒業し、世田谷中学(現在の世田谷学園)に入学している。
 代沢小時代、近所に紙くず屋さんがあり、そこの息子、確か柳(りゅう)君と言ったとおぼえているが、一年上でからだが大きく、小学生の相撲大会で優勝したこともあった。
 柳君はからだの小さなぼくをかわいがってくれ、今でも覚えているが、ブリキ製の機関車をもらったことがあった。立派なおもちゃだったから、今残っていれば、かなり高額な値段になるだろう。

 当時、日本人が嫌がる仕事を韓国の人たちがやっていた。強制的に日本に連れてきたのかは分からないが、北海道の炭鉱で石炭を掘っていたのも韓国の人たちだ。
 悪い人間は、どこの国にもいる。ぼくは柳君との思い出があるので、韓国の人を悪く思ったことはない。
 10数年前にソウルを訪れて、ゲイバアなどを取材したが、日本語の上手な人が案内してくれたので楽しかった。

 今回の東北の大震災、新聞、週刊誌、ラジオ、テレビ、インターネットと、いろんな報道をすぐに知らせてくれるのだから、大正時代とはまったく違う。
 週刊誌などは売らんかなで、放射能の恐ろしさを伝えるものだから、どれを信用していいのか分からなくなってしまう。
 稲のわらを食べた牛が、放射性セシウムが検出されたというと、焼肉屋さんのお客さんが、がたへりだという。子供を連れて家族で食べにきてくれるようなお客さんが、まったく姿をみせないそうだ。
 昔ながらの稲わらを使った茨城県の特産品「わら納豆」が、売り上げを大きく落としているとか。
 先日、女房の実家がある新潟の弥彦村に行ってきたが、昨年、収穫したお米をみんな買いしめているらしく、農家ではない町の人はお米が買えないと困っている。

 ぼくの父が19歳の頃、関東大震災のあとに富久町(新宿から近い)に住んでいて、韓国人の暴動にそなえての自警団を作ったときの写真がみつかった。ほほづえをついて座っているのが19歳の頃の父だ。これは貴重な写真だと思うが。


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父が住んでいた富久町の自警団。
韓国人の暴動を恐れてのことだろう。

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2011年9月12日 (月)

「伊藤文学と語る会」を「邪宗門」で始めるぞ!

 ワンコイン(500円)あれば、今の時代牛どんだって、ラーメン、お弁当も豪華なものが食べられる。
 そんな時代に「純喫茶」と称する喫茶店は自然に淘汰されていくのは、自然の成りゆきと言えるだろう。
 コーヒー一ぱいのむのに、5、600円出すのはちょっと考えてしまう。200円ぐらいでコーヒーがのめる店が増えてきてしまったからだ。
 昔は喫茶店の店先に「冷房完備」と、大きな看板がかかげられていた。学生たちが住んでいたアパートに、クーラーなんてものはついていなかったから、喫茶店に入って本などを読んだものだ。
 
 ぼくは週に一、二度は、ちょっと遠くなってしまったが、散歩がてらに桜並木のせせらぎ公園を通って「邪宗門」にコーヒーをのみに行く。(「邪宗門」というのは、北原白秋の詩集の題名で、1909年刊、異国情緒を盛った、官能的・感覚的な詩集と辞書にはあるが、ぼくは読んだことはない。)
 それはマスターと奥さんとおしゃべりしたいからだ。
 
 「邪宗門」の店内には和物の骨董品がところせましと置いてある。今はこうしたものに興味を持つお客さまは少ないようだが、電気のない時代に、どこの家でも使っていた石油ランプが、天井からぶら下がっている。
 お客さん同士で知り合って、おしゃべりするのもこのようなお店だからできるというものだ。
 もうオープンして40年になるだろうが、今まで続いているのは、ご自分の持家で家賃がかからないからだ。それとマスター夫婦の人柄がいいから、ファンといってもいいのでは。
 
 森鴎外の長女の森茉莉さんが、毎日のように通って、紅茶いっぱいで一日中、仕事をしたり、編集者と会うのもここを使っていた。
 マスターはお店がどんなに混んでいても嫌な顔をしないで、茉莉さんを受け入れていた。それにマスターは手品のセミプロだ。興にのると手品を見せてくれる。
 森茉莉さんの熱烈なファンは全国にいて、森茉莉さんが通いつめていたお店は、すでにここしかないので、なんと中国からも若い茉莉さんファンが二人で訪ねてきたというから驚きだ。
 
 茉莉さんは1951年(昭和26年)に、代沢の木造2階建の「倉運荘」に移ってきたが、1973年(昭和48年)70歳の年に、22年間住みなれた倉運荘が老朽化して建てかえることになり、同じ梅ヶ丘通りに面した、マンションの代沢ハウスに転居する。
 住みなれた代沢に帰りたかったのだろうが、1983年(昭和58年)80歳のときに経堂に転居し1987年(昭和62年)84歳で亡くなった。
 「邪宗門」に通いつめていた時代が、茉莉さんにとって楽しい、充実した時代だったのだろう。
 
 代沢ハウスの2階に茉莉さんが住んでおられた頃、『薔薇族』の表紙を描いてくれていた内藤ルネさんと、本間真夫君が第二書房からマガジン『薔薇の小部屋』を1978年(昭和53年)に刊行したので、茉莉さんに原稿を依頼に、ぼくが行った。
 茉莉さんは他人を自分の部屋に入れることは、まずなかった。「邪宗門」のマスターですら入れてもらえなかったのに、どういうわけかぼくのことはすんなりと入れてくれた。
 始めての出会いなのに、昔の話を何時間もお茶いっぱいのまずに聞かせてくれて、おしゃべりしてしまった。
 
 10月の第1土曜日1日、まずは森茉莉さんの話からしようと思う。午後2時から4時まで、コーヒー代500円でOK。毎月第1土曜日に「伊藤文学と語る会」を邪宗門で開くことに。ぼくのいろんなコレクションをお見せする。ぜひ、おでかけ下さい。


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邪宗門

電話:03(3410)7858
住所:東京都世田谷区代田1-31-1 
劇団「東演パラータ」前 下北沢南口から徒歩15分


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2011年9月10日 (土)

人をホメるということ

 「アキバに新風『ほめ喫茶』」「あなたのイイトコ見つけてあげる」という見出しで、2011年8月31日の「東京新聞」の朝刊に、こんな記事が載っていた。
 秋葉原には、いろんなカフエがあることは知ってはいたが、ぼくはまだ訪れたことはない。「ほめ喫茶」これはいいアイデアで当たるぞと思った。
 
 「入り口のドアを開け、受付に置いてあるベルを鳴らす。出迎えにきた女性店員が笑顔で「ベルの持ち方が渋いですね~。」早速ほめられた。」
 
 同店は整体師の原克也さん(30)が、今年1月に開いた。大学で学んだ心理学の知識を生かし、整体の利用客からの悩み相談にも乗ってきた。「長い人生の中でもほめられる機会は案外少ない。「自分はこんなにすてきな人間なんだ」と感じてもらえるお店を開きたかったと振り返る。
 
 確かにほめられるということは、うれしいことだし、相手が尊敬している人だと、自信を持たせてくれる。
 
 ぼくが駒沢大学の国文科の学生だった頃の話だ。万葉学者の森本治吉先生の教えを受けて、『白路』という短歌雑誌を主宰する先生から作歌を勉強していた。
 國學院大学、東大、早稲田、中央大学など作歌をしている学生が集まって、「大学歌人会」を結成し、東大の山上会議所で、歌会が開かれたことがあった。
 
 その頃の駒大は3流大学で、駒大からはぼくひとりの参加で、劣等感のかたまりだった。その会でぼくの作品を東大国文科の3年ほど先輩の中西進さん(各大学の教授を経て、現在は82歳の高齢でもお元気で奈良県立万葉文化館の館長を務めておられ、今や万葉研究の権威になっている)が、ぼくの作品をべたほめしてくれた。うれしかった。このことがぼくの人生を変えたともいえる。大いに自信を持つことができた。
 
 それから後に國學院大学の阿部正路君(のちに教授になられたが、早死にしてしまった)と組んで、アイデアマンのぼくは、次々といろんな会合も企画し、成功させた。
 手のひらにのるような1冊10円の豆歌集もぼくのアイデアで、最初に出したぼくの歌集『渦』は好評で、千部完売してしまった。
 その『渦』の序文を中西進さんが寄せてくれた。ほめてくれていることは確かなのだが頭が悪いぼくには難解で理解できない。
 
 最近になってそのことで手紙を出したら、もう一度序文を書き直して、ぼくにも分かるような文章で送ってくれた。半世紀も経つというのに、そのときの『渦』を持っていてくれたのだ。
 再婚したときには仲人もひき受けてくれたし、次男の結婚式にも、ご夫婦で出席してくれた。
 1972年に毎日新聞社から発行された『万葉の心』という本の著者の口絵写真は、なんとぼくが撮影したものだ。あとがきの最後に「写真は友人の伊藤文學君がとってくれた。うれしいことだ。」と書いてくれている。
 今見てもいい写真で、着物姿でよくとれているぼくの傑作だ。中西さんは京都に住んでいるから、ほとんどお会いする機会はないが、心は通じている。
 
 ぼくはどこのお店で食事をしても、店員の笑顔をほめたり、店内に飾ってあるお花をほめたり、おいしかったと必ずほめてあげている。
 秋葉原の「ほめ喫茶」を訪ねたら、女店員がぼくのことをどうほめてくれるだろうか。
 「頭がはげてよく光っていますね」というか、「お年のわりにお若いですね」なんてお世辞を言われたら、コーヒーをおかわりしてしまうかも。
 
 
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鎌倉の大佛さんの前に立つ伊藤文學(右側)

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2011年9月 5日 (月)

ブログはぼくの生きている証し、書き続けるぞ!

 「大波小波」という東京新聞の夕刊の文化欄に囲みのコラムの欄がある。(8月31日・夕刊)「二人の音楽評論家の死」というタイトルで、中村とうようさんと、今野雄二さんのことが書かれている。
 
 「7月にマンション8階の自宅から飛び降りた音楽評論家・中村とうようの遺稿が『ミュージック・マガジン』9月号に載った。
 それによれば、中村の行為は意志的な自死だった。最後の夜は雨なのは残念だが、飛び降りた後の汚物を洗い流してくれるだろうという冷静な記述もあり、正直正銘、死の直前の文章だ。
 自死の理由は、老人として介護など迷惑をかけずに身を処したいというもので、少子高齢化社会における倫理的な問いかけでもある。孤独や病気や苦悩に追いつめられたわけではない。享年79、立派な選択ではないか。」

 
 今野雄二さんは昨年自殺を遂げている。(享年66)。今野さんはゲイで、繊細な神経の持ち主だったろうから、なんとなく理解はできる。
 中村とうようさんは、ぼくと同じ年齢。若い、若いと思っていたのに79歳にあっという間になってしまった。
 
 6月6日にアクセルとブレーキをふみちがえて、高級車にぶつけてしまった。幸い人が乗っていない車だからよかったものの、やはり初めての事故だっただけにショックは大きかった。それから車の運転をやめることにしてしまった。
 ドイツの車のまっ赤なアウディを運転して関越自動車道をすいすい国産車を追い抜いて走った快感は忘れられない。ふく面パトカーにつかまったことも2度ほどあったが。
 テレビのCMは車の宣伝が多い。また新車に乗って高速道路を走ってみたい。
 
 しかし、79歳という年齢は、動作はにぶくなるし、物忘れはするし、老化は目に見えておそってくる。それに借金は山ほどあるし。
 ブログを書くのが、生きている証しのようなものだったが、ワープロを打ってくれる人の都合でそれもできなくなってしまった。
 
 ぼくは運にめぐまれているのか、偶然、カフエで出会った若者がひきうけてくれるというではないか。近くに住んでいるので、郵便で送らずにすむ。ゲラも見せてくれるというから誤植も少なくなるだろう。
 また生きていることのよろこびが湧いてきた。わが家のマンションは2階建てだから、飛びおりてもけがをするぐらいで死ぬこともできない。
 死んだときにもらえる生命保険も、北沢税務署に差し押さえられているから、葬儀も出せない。それならば生きるだけ生きてやろうと開き直っている。
 からだもお腹にぜい肉がつきすぎているぐらいで、他に悪いところはないようだから、もうしばらくは頑張れるだろう。
 
 ブログは月曜、土曜の2回ぐらいのペースで再開しようと考えている。震災の記事は被災者のいいことしか報道されないが、哲学者の中島義道さんが同性愛者に初めてふれたというブログは、急激に読んでくれた人が、ぐーんと増えた。
 被災者の中にも同性愛者が、何万人かいるに違いないが、どんな思いで生きているだろうか。自殺などしないで生きぬいてもらいたいものだ。
 
 心にふれるブログを書き続けますので、ぜひ、ぜひ読んでください。



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学生時代のぼく。こんなにやせていたなんて

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