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2011年10月

2011年10月31日 (月)

夢や、希望を持って生きられた時代が……。

 歌手で俳優の杉良太郎さんが、2011年10月10日の東京新聞の「紙つぶて」というエッセイ欄に「傲り高ぶり」と題して、ぼくら年配者には、いいことを言ってくれたと、思わせる文章を書かれている。
 
「22年前、ベトナムへ初めて行ったとき、喫茶店もなく、車もほとんどなく、どんなに遠くても人は歩く。それでも子供たちは活発で、笑い声が聞こえていた。
 私の子供のころ、日本も同じようだった。生活は苦しかったが、仕事があればどんなにつらくても汚くても、一生懸命働いた。
 芸能界に入る前、私はいろいろな仕事についた。船のさび落とし、道路工事、中古タイヤの再生工場。安い賃金だったが、働くことが楽しかった。家族が安心した。
 今はまず、自分本位で、ただ自分のことばかり、他人のことを思いやる人はなかなかいない。(中略)
 人は知らないうちに上を見る。手が届かないところに手を伸ばす。努力もせずに、人間の傲り、高ぶりは天井知らずだ。」

 
 杉さんのおっしゃる通りで、ぼくらの戦後の時代は、みんな貧乏で、それでも懸命に働き、頑張っていた。
 その時代に生きた人たちには、将来に「夢や、希望」が持て、頑張って働けばきっとよくなると誰もが思っていた。
 
 ぼくの先妻は33歳で事故死してしまったが、大学1年の夏に、夜汽車の中でぼくと出会い、恋に落ち、養父母を捨てて、ぼくの家に、スーツ・ケースひとつだけを持って、ころがりこんできてしまった。
 ぼくは親父の出版の仕事をしていたが、給料はなし、埼玉の実父が短大を卒業するまで毎月、1万円を送ってくれた。農家で兄妹が多いから、養女に出したぐらいの生活なのに仕送りは大変だったと、今でも感謝している。
 頭がよくて勉強ができたので、都の教員試験に合格し、その頃、先生の就職は大変なときだったが、世田谷区立の池尻中学に、保健、体育の教師になれた。
 その後、舞踏家として、1960年代の後半に大活躍して、33歳で事故死してしまったが、大きな夢を達成することができた。
 一周忌を待たずにぼくは後妻を迎えたが、ミカの子供は幼稚園児。その子を立派に育て、京都大学の理学部を卒業させ、バブルの時代だったので難なくソニーに入社して、今も勤めている。
 
 先妻が亡くなった翌年に、『薔薇族』を創刊させた。後妻の久美子は、若い頃、書道が得意で、宛名書きのプロとして、会社を経営していたことがあった。
 その宛名書きの技術が、『薔薇族』の大事な仕事の文通欄の宛名書きをひとりでこなし続けてくれた。午前中に、山のように送られてくる手紙の束をさばき、夜までにはポストに入れるのだから大変な仕事だった。
 
 インターネットなるものが、普及するまでの時代はよかったが、時代は大きく変わってしまった。
 杉さんの言っていることは正論だが、今の時代の若者には通用しない。
 『週刊文春』の10月20日号の特集記事、「世界恐慌・本当の恐怖・日本は貧困大国に墜ちる!」の記事を読んで、恐怖を感じてしまう。
 
 生活保護受給者数が、ついに200万人を越えて、国民の61人に1人が生活保護を受け、その数は増すばかりだという。
 働きたくない人間が増すばかり、年金もへるばかり、東大を出たからといって、一流企業に入れるとは限らないそうだ。
 これからの日本、どうなっていくのだろうか?
  
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イラストは藤田竜・なんの夢見てるのかな?

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2011年10月29日 (土)

靴泥棒のはなし

 古い話を若い人にしたって、分からないからやめなさいと、女房に言われるけれど、こんなことがあったということも知っていてほしい。
 太平洋戦中から、戦後の時代、今の人に話しても理解できないだろうが、食物から衣類などなにもかもなかった。
 ぼくが通っていた代沢小学校、終戦の前の年、昭和19年頃から、サイパンや硫黄島が米軍に占領されて、B29が連日のように編隊を組んで襲来してくるようになってきた頃の話だ。
 
 生徒はみんな集団疎開して、わずかな生徒しか残っていなかった。校舎はガラガラなので、どこから招集されてきたのか分からないが、弱々しい兵隊ばかりが、宿泊していた。 013
 皮靴なんてすでに手に入れられなかったのか、地下たびをはいていた。小銃も門衛だけが持っていて、あとは竹やり、それでも軍部は、本土決戦にそなえて、米軍と戦おうとしていたのだから、今から考えるとおそろしい。
 そんな時代のことだ。父が勤めていた第一書房は、自由に出版ができなくなってしまったので、社長は廃業してしまった。
 第一書房の父の後輩で、すでに招集されて兵隊になっていた若者が休暇がとれたのか、わが家に訪ねてきた。
 その人の名前は忘れてしまっているが、父と話をしていた。靴は兵隊がはく皮靴をはいてきていて、玄関に揃えて置いてあった。
 わが家は道路から少し奥まったところに玄関があって、とびらは開けたままだった。なんと兵隊の皮靴を盗まれてしまったのだ。

 細い竹ざおの先に、ひっかけてとるような仕かけがしてあったのだろう。さあ、大変、まさか兵隊が軍服を着て、訪ねてきたのだから、下駄をはいて軍隊に帰るわけにはいかない。顔面そう白というのは、こんなときにいう言葉だろう。
 親父はなんにも役立たずだが、おふくろが二軒先の家のご主人が、元軍人だったのを思い出して、兵隊の靴がないものかと聞きにいった。
 それが昔はいていた皮靴があったのだ。それをはいて、軍隊に帰っていった。軍隊に帰れば、他の兵隊の靴を盗むから、なんとかなるということだ。

 その頃は、物がまったくない時代だから、代沢小学校にたった一ケしか、ドッジボールがなかったし、南方の兵隊さんからの贈物だというわずかなゴムマリをくじびきでもらったこともあった。
 戦後も物不足は深刻だった。ぼくが駒沢大学に入学したのが、戦後の昭和23年の4月だ。学生服なんて入学したころには着ている学生はいなかった。

 その頃、八王子の小さな貧乏寺の友人が、わが家を訪ねてきたことがあった。同じように皮靴を盗まれてしまったが、あまりにもひどいよれよれの靴だったので、さすがの靴泥棒も、売りものにならないと思ったのか、表のドブの中に投げ捨ててあった。

 今の世の中、物がありあまっているから、モッタイナイなんて思う人間は、こうした戦中、戦後の時代を経験した人間にしか理解できないだろう。

 プロ野球をテレビで見ていると、ピッチャーが投げるボールが、キャッチャーがとる前に、はずんだりすると、審判がすぐに新しいボールにとりかえてしまう。そのボールを捨ててしまうわけでなく、練習のときに使うのだろうが、ゴムマリすらなかった時のことをふと思い出してしまうと、なんてことをするのかと怒りさえおぼえてしまう。
 震災にあって、すべてを失くしてしまった人たちは、“物”の大切さを痛切に知ったに違いない。“物”の大切さを若い人にも知ってもらえれば幸いだ。

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2011年10月24日 (月)

カリフォルニアの見事なフルーツラベルをお見せする! ―少年の絵を描き続ける稲垣征次君も参加―

「伊藤文学と語る会」第1回は新しい人も何人か参加してくれて、楽しい会になった。第2回は11月の第1土曜日は、駒沢大学の同窓会と重なって、すでに出席の通知を出してしまっていたので、11月の2週目の土曜日、12日の2時から4時まで、場所は同じく、カフエ「邪宗門」で開く。
「女性でも参加していいのですか?」と聞いてこられてきた方もいましたが、男性、女性、年配の人も大歓迎だ。
 
 今回の話のテーマは、ぼくのコレクションの中のひとつである、アメリカ・カリフォルニアの「アンティーク・フルーツ・クレイト・ラベル」をお見せする。
 若い人は、みかんとか、りんごが木箱に入れられて市場に出ていた時代のことをご存知ないだろう。ましてや、その木箱に貼られていたラベルなど見たこともないのでは。みかんと言えば産地は愛媛だが、神奈川県の青果卸業者が、国内二大産地の静岡、愛媛両県農協の意匠標登録と、そっくりのニセのミカン箱を量産、神奈川県産のミカンをこれに詰めて、東北から関東地方に出荷していたことが分かり、警察に逮捕されたなんてことも、かつてあったようだ。
 
 日本の木箱に貼られたラベルは、そのデザインは幼稚で、産地が分かるだけのものだが、さすがアメリカのカリフォルニアのフルーツのラベルは、芸術的で、一流のデザイナーがデザインし、イラストレーターも一流の人が手がけているので、見事な出来ばえで、その値段も高い。
 
 1985年にアメリカで発行された「カリフォルニア・オレンジ・ボックス・ラベル」という本をみると、なんと日本の大日本印刷で印刷されたと書いてある。
 このラベルはカリフォルニアの多くのオレンジ栽培者によって作られ、1880年から1950年代半ばまでの70年間、多数のカラフルなペーパーラベルが使用された。
 それはアメリカで鉄道が各地に敷かれ、列車によって送ることができるようになってきたので、ひと目みて、どこの農場で栽培されたフルーツかを知る必要があったからだ。
 それが1950年代になって木箱がダンボール箱に取り替えられたときから、ダンボールそのものに印刷されるようになってしまったために、木箱に貼ったラベルは不要なものになってしまった。
 ラベルの目的である、品物を買おうとする人々の注意と興味をすばやくつかむこと、これは有能なアーティストや、グラフィック・デザイナーの手によって、オレンジボックスのラベルは簡単に理解でき、覚えやすいメッセージを含むエレガントな小さなポスターでもあったのだ。
 初期のラベルは石版画で作られ、カリフォルニアの印刷産業は、サンフランシスコと、ロスアンジェルスにあり、その技術は徐々にオフセット印刷にとってかわっていった。
 木箱に貼られた初期の頃のラベルは、はがすことができないから、ほとんど残っていないので貴重だ。ところが1950年代に木箱から、ダンボール箱に変わったために、未使用のペーパーラベルが、多くの梱包業者や印刷所に残ることになってしまった。
 それが優雅なラベルを集めたり、研究することに興味を持つ人々に大量の材料を与えるものとなった。アメリカには多数のラベルのコレクターがいて、研究書も出版され、ラベルの美術館もあるそうだ。
 アメリカの良き時代の逞しさと、あふれるようなロマンを感じずにはいられないのだ。012

★カフエ「邪宗門」
電話:03(3410)7858
住所:東京都世田谷区代田1-31-1 
劇団「東演パラータ」前 下北沢南口から徒歩15分
 
★特別参加・稲垣征次君
『薔薇族』誌上に「少年愛万年鏡」の頁を受け持ち、少年愛の人々の良き相談相手となってきた人だ。少年の絵もずっと描き続け、その作品は高い評価を得ている

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2011年10月22日 (土)

『薔薇族』と共に育った息子に竜さんが……。

 ハビテーション「淀川」という、5階建てのマンションの2階の部屋から『薔薇族』は誕生(1971年)して、その11月6日に次男の文久(ふみひさ・通称Qちゃん)が誕生。
 その年の7月には創刊号を出したのだから大きなお腹をかかえて、波賀九郎さんの写真撮影の照明係を女房がしていたのを思い出す。

 そのQちゃんが駒大に入学した頃、藤田竜君が創刊20周年奉祝記念号に、息子のQちゃんは、『薔薇族』と共に育ったのだから、質問を用意しておいて、竜さんとQちゃんの対談が、1991年9月号(No.224)に、「インタビュー・『薔薇族』と共に生まれ、一つ家に育った少年・本誌編集長次男の20年」という見出しで、5頁に渡って載っている。008a
 ぼくもやっとこの号を見つけ出して、20年ぶりに読んでみた。現在、次男は39歳になって、小学校4年の野球少年の親になっている。

――子供の時は、そういう男の裸の本などがあったり、ヌードの撮影をしたり、オチンコが出ているものが、やたらとあったりして、どう思った?

●食卓の電話の近くに本が置いてあるから、小学校の低学年ぐらいの時から興味があって、何の本かなと見ていた。そうすると裸でオートバイに乗っていたりするわけです。でも、ぜんぜん違和感はなかったというか、こういうものもあるんだなとしか思わなかった。中学ぐらいになって、オヤッと思ったけど。

――そういう家庭に育って、不安や疑問はなかった?

●それは初め多少あったというか、まず父がホモじゃないかと思った。一番初めにそういう本を日本で出したわけでしょう。そんな発想がね。
 だからひょっとしたら、父はホモじゃないかと思っていたけれど、結婚してるわけだし、ぼくがいるわけだから……。けっこう父は女の人が好きだから、ホモじゃないなと思うけど。

――ホモの人に触られた経験、君はないの?

●ぼくもあるんです。1回、ホモの人に連れられてプロレスに連れて行ってもらったんです。
 後楽園ホールのエレベーターに乗っていたら、連れて行ってくれた人の連れに、エレベーターの中で、お尻のところ、パンツの線のところをなでられた。それで何も言えなかった。

――寒気がした?

●そう。

――『薔薇族』の手伝いなどしたことがあるの? 撮影の手伝いとか。

●やったことあるらしいんですが、覚えていないんです。車の免許を去年とったので、追加の『薔薇族』の配達とかをしています。新宿の「ルミエール」とか。

――びっくりするでしょう?

●こわい。あの「ルミエール」のおじちゃんがやさし過ぎる。

――何時ぐらいに行くの?

●夜中の1時とか、2時とか。だからおじさん同士がキスしていたり。本を持って行くんだから、やはり間違われたりして、ホモじゃないかと。

――あまり尋ねることがないな。ホモに抵抗がないんだもの。

●もっとあると思ったんだ。

――いま19歳で、大人になった目で、改めてお父さんを考えると、どう思う?

●今は尊敬しています、初めのうちは近所の人にも冷たい目でみられたというから。


 小さいときから、男の裸の写真が、ちらばっているところで育ったのだから、藤田竜さんが想像していた息子と違っていたので、がっかりというところ。残念ながら企画だおれで、それでまずはよかったのかな。それに竜さんもすでにこの世にいないし……。

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2011年10月17日 (月)

天災はいつ襲ってくるか分からない!

 ぼくの父親は明治38年生まれ、そして平成3年の9月8日に、86歳で亡くなっている。

 最近の日本でも、台風が襲来して大雨が降ると、あちこちで大きな被害が出ている。それは天災と呼ばれ、人間の力では防ぎようがない。
 以前、ぼくが住んでいた世田谷区の代沢5-2-11に、昭和7年に建てられた木造2階の家は、祖父の妹が建てた貸家としての家で、同じような家が2軒建っていた。確か家賃は25円だったと記憶している。
 その家と土地を買いとって、鉄筋コンクリート3階建ての家を建てたのは、『薔薇族』を創刊してから、4、5年後のことだった。
 子供の頃、台風がくると、雨戸がない硝子窓がむき出しの家だったので、強い風が吹くと家がゆれ、窓硝子がこわれるのではないかとこわかった。

 最近父親の荷物の中から、はがきを入れるアルバムを見つけ出した。デザインがアール・デコの時代の影響を受けたデザインで、後ろ側にローマ字で、東京牛込、伊藤祷一と書かれている。

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 その中に、明治43年8月12日の台風襲来のときと、翌年の明治44年7月26日、大暴雨惨事と印刷された絵葉書がある。
 その頃はテレビもないし、影像として残しておくには絵葉書として残すしかなかったのだろう。  
 明治43年8月12日の台風の折りには、「浅草公園大浸水」「浅草公園6区洪水の実況」「向島土手決潰工兵隊の作業」などと説明が書かれていて、腰のあたりまで水につかっている人々の写真だ。

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 翌年の44年7月16日にも大暴風の被害で家屋が倒潰したりしている。2年も続けて台風の被害があったということは、その後も低い土地では同じような被害がくり返されていたということだ。
 東京湾に津波が襲ってきたとしたら、東京はどういうことになるのだろうか。それがいつくるのか、それは誰にも分からない。

 最近は東京を直撃する台風がないけれど、この間の台風ぐらいでも、電車はとまり、大混乱になっている。この貴重な絵葉書から、何をわれわれは学ぶべきなのだろうか?

 関東大震災は、この絵葉書が作られてから15年後ということになる。政治家たちよ、一日も早く復興しないと、天災は次から次へやってくるのだから!

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2011年10月15日 (土)

少年愛の人たち、いよいよ追いつめられてきたぞ!

 さあ、いよいよ恐れていたことが現実になってきた。今の段階では、京都府だけだが、奈良県では2005年に13歳未満に限定し、児童ポルノの単純所持を禁止。宮城県も単純所持を規制する条例を制定することを検討しているそうだ。
 これは一部の県だけではなく、全国に波及していくことは間違いない。児童ポルノを所持していることを誰が見付け出すというのだろうか。戦前・戦中時代、左翼の人たちが、密告によって逮捕された、暗黒時代を思い起こす。
 何十万人はいるであろう、少年愛・少女愛の人たち。ほとんどの人たちが、それらの写真を所持しているに違いない。それらの人々をすべて逮捕するというのだろうか。
 
 新聞によると、京都府議会で可決された、13歳未満のポルノを個人が所持すること自体を禁じている。なかでも全裸や、性器が映った画像・映像を所持する者には、知事が廃棄命令を出せる。府は所持が疑われる者への立ち入り調査もでき、廃棄命令に従わなかった場合には、30万円以下の罰金を科す。
 さらに、13歳未満の性交場面のポルノを購入した者には、懲役1年以下、または50万円以下の罰金となっている。漫画やアニメなどの表現物は規制の対象としていない。
 この条例をめぐっては、プライバシー侵害などへの懸念から、京都弁護士会が「反対」を表明したが、府議会では共産党をのぞく、全会派が賛成したそうだ。
 
 大変な世の中になってきたものだ。ぼくも荷物を片付けて、未成年者の写真や、ネガが出てきたら、焼却処分しなければ。
『薔薇族』を出していた頃は、なんだかんだあったけれど、思い出せばいい時代だった。暗黒時代が到来する前に、早くあの世に行ってしまいたいものだ。
 
 東北から上京してきて、少年愛ものを倒産したぼくの事務所の倉庫から見付け出して、いそいそと帰って行った中年の男性。わが家には置けないから、わざわざアパートを借りて、そこに蔵いこんでおき、ときどき通ってそれらのコレクションを眺めて楽しんでいるそうだ。
 
 慰めと言えば、漫画や、アニメなどの表現物は規制の対象とはされないというけれど、今までのように自由な発想では書けなくなってしまうだろう。恐ろしいことになってしまったものだ。
 ものすごい権力を持った、お金持ちの少年愛の人を密告したら、警察は取り調べをするのだろうか。どう考えても弱い立場の少年愛の人たちだけが、ひそかに楽しんでいるものを見付け出されて、逮捕されてしまうのかと思うと、悲しくなってくる。
 だからと言って、少年愛の人たちが立ち上がって、反対のノロシをあげられるかと言ってもそれもできそうにない。
 
 煙草を吸っている人たちだって、たくさんいるのに、なんで反対の声をあげられないのだろう。ぼくは煙草も、酒も関係ないけれどだんだんに規制されて、狭いところに押しやられて、煙草を吸っている人を見ると、あわれである。
 
 ぼくの孫は地元の少年野球チームに所属して、ピッチャーをやっているので、たまには試合のときなど見に行くことがあるが、運動場の金あみの外で、じっと何時間も子供たちを見ている男がいる。
 ああ、この男は少年が好きなんだなと思うと、なんとも言えない気持になってくる。
 この国は、どんな国になっていくのだろうか?
 
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2011年10月10日 (月)

「ベニスに死す」を見ることによって、少年を愛する男の心理を知ってほしい!

 ルキノ・ヴィスコンティの名作「ベニスに死す」が、製作されたのは、1971年とある。
 
 1971年7月といえば、日本で最初の同性愛誌『薔薇族』をぼくが創刊した年だ。映画界では「大映」が倒産し、日活も製作の主流をロマンポルノに転換し、「団地妻」(白川和子主演)が製作され、映画が斜陽産業に落ちこんでいた頃のことだ。
 
『薔薇族』も創刊してから40年の歳月が流れているが、「ベニスに死す」も製作されてから40周年ということで、記念してニュープリントで再上映される。
 10月1日から「銀座テアトルシネマ」で上映されるが、いつまで上映しているのかは分からない。
 
 読売新聞の夕刊では、「大谷弘路の新作ウオッチ」という欄で紹介されているので、引用させて頂くが、ドイツの文豪トーマス・マンの同名原作の映画化で、主人公は作家だったのを、ヴィスコンティは、グスタフ・マーラー(1860~1911年)没後100年をモデルに、作曲家に置き換えている。
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 時代設定は、これも丁度100年前のベニス(ベネチア)。作曲家は静養のために海岸沿いの古いホテルに来て、美少年と出会う。
 当時15歳の美少年役、ビョルン・アンドレセンは、「究極の美少年」と評判になった。
「読売新聞」と「東京新聞」しか見ていないが、「東京新聞」には、美少年に心奪われた初老のドイツ人作曲家、アッシェンバッハ(ダーク・ポガード)の恍惚と苦悩を描き出すとは書いてはいるが、作曲家が少年愛者であることにはまったく触れていない。
 
 今、一部の国会議員の間では、児童ポルノの法律を作ることが急がれているようだ。ワイセツな少年・少女の写真を所持しているだけでも犯罪であるという法律を作ろうとしている。
 日本とロシアだけが、その法律がないために、もっともきびしいアメリカなどが、日本に圧力をかけてきているようだ。
 少年や、少女の映像が、インターネットで見られ、それを残しておくことができる。ワイセツな画像を人に見せることを自慢し、よろこびとしている人間がいるから、いつまでもネット上で見ることができるようになり、それが永久に消えないということが人権問題だという考えだ。
 確かにネット上で見せることはよくないことだと思うが、それを見ることによって、自分の隠している欲望を多少でも満たし、行動に出さないように抑制している少年愛者が、日本中に、いや世界中にどれだけいることか。 
 少年愛者は、少年を愛したい、少年を犯したいという欲望の持主ではあるが、少年に逆に犯されたいという人はいないだろう。だから女性と結婚している人がほとんどだと思う。
 
 先日、矢崎泰久さん(話の特集の編集長だった人)の出版を祝う会に出席したおりに、偶然、社民党党首の福島みずほさんが、ぼくの近くの椅子に座っておられていたので声をかけた。
 児童ポルノを規制する法律を作ることには反対だということで、一緒に闘いましょうと握手をかわした。
 
 少年愛者とひと口に言っても、その好みはいろいろで、「ベニスに死す」に出てくる美少年が好きという人もいるし、いものような少年が好きという人もいる。
 小学校5、6年から、中学1年、2年ぐらいの少年・少女は誰が見ても美しい。美しいものに憧れるのは当然のことだ。とにかく「ベニスに死す」を見てほしい。少しでも少年を愛する人間の心理が分かってもらえれば幸いだ。

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2011年10月 8日 (土)

歌手のクミコさんに、ホメられて僕は幸せ!

 「人」との出会いも不思議だけど、「物」との出会いも不思議なものだ。人との出会い、素晴らしい人と出会うことも、偶然のようなものだけど、「運」もあるのではなかろうか。

 今から19年前、東北新幹線が開通した頃のことだ。『薔薇族』の相棒の藤田竜君と、内藤ルネさんと3人で、仙台のゲイ事情を取材に行こうということになった。
 ゲイ・ホテルもあったし、ゲイバアも何軒かある。仙台の駅前の書店(名前を忘れてしまった)でも、何百冊も売ってくれていた。

 ぼくらの泊まるホテルも、クラシックなアンティークの置いてあるホテルに泊まろうとガイド・ブックを買って調べたら、「江陽グランドホテル」が王朝風とあったので、そこに泊まることにした。
 
 ホテルのロビーは、美術館のようで大理石、ブロンズの大きな彫刻が、ずらりと置かれていた。翌朝、フロントでお金を払っていたら、社長らしい老人が、カメラマンを指示して撮影をしていた。
 ぼくは老人に声をかけた。何と言ってほめたのかは、まったく忘れているが、老人はよほどうれしかったのか、ぼくに自宅に来ないかと誘ってくれた。竜さんとルネさんとは別行動になって、老人が案内してくれた自宅へ車で向かった。

 広瀬川が見渡せる丘の上の洋館は建てたばかりで、ぼくに見せたかったのだろう。老人がよく訪れる英国に、気に入った建物があって、その建物をあちこちから撮影して、建築家に見せて、同じような建物を作ったのだ。
 この老人、後藤江陽さんは、小さな街の写真館から、中華料理の「龍天江」「写真館」そして豪華なホテル王にまでなった方だ。

 その後、下北沢の北口にぼくが経営していた、カフエ「イカール館」の従業員を連れて「江陽グランドホテル」に宿泊したら、車を出してくれて、松島から平泉まで案内してくれた上に、ぼくら夫婦はスイート・ルームに部屋をとってくれて、宿泊費をとらなかった。
 その後、ぼくの両親が仙台に行ってみたいというのでお願いしたら、やはり宿泊費をとらなかった。
 秋葉原の「ホメ喫茶」のことを書いたが、ホメルということの大切さを教えてくれた社長だった。

 それから10年後、「江陽グランドホテル」のレストランのパンがおいしいと、テレビで紹介されていたので、注文したら息子さんの隆道さんが後を継いで社長になられていたが、パンを送ってくれた上に、月餅まで送ってくれた。

 江陽社長が亡くなられて、すでに19年にもなる。仙台も地震でひどいことになってしまったのではと、ずっと気にかけていたが、今度ブログを更新してくれている猪口コルネ君が、調べてくれたら、営業を再開しているということが分かって安心した。社長も息子さんのお名前になっているので。10年前の手紙には、ご病気をされていたとあったので、ぼくの生きているうちに仙台を訪ねて、お墓まいりをしたいと願っている。

 歌手のクミコさん、宮城県の82歳になるピアノ屋さんが、水につかったピアノを修理して調律したということで、そのピアノを使って、コンサートを開くということが、新聞に報道されていたのではがきを出したら、すぐに返事が送られてきた。

 「文学さん、ブログ復活おめでとうございます。文学さんの文章は、素直で青年のように心にしみます。これからもがんばって下さい。」とある。

 ホメられるということは、うれしいことだ。まだまだ頑張るぞという、勇気が湧いてくるではないか。
 
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初めて出会った頃の「クミコ」さん


「江陽グランドホテル」
〒980-0014
仙台市青葉区本町2-3-1

電話 022-267-5111(代)

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2011年10月 3日 (月)

キャバレー「白いばら」は、大盛況だった!

 一昨年は『裸の女房』、昨年は『やらないか!』(いずれも彩流社)を出版した折にパーティ好きのぼくは、今までのホテルでの出版記念会をやめて、銀座で唯一生き残っているキャバレー『白いばら』を借り切って催すことにした。

 本代を含めて会費が一万円、一昨年は200人を越し、昨年は不景気が深刻で、それでも参加者は、100名を越えて、「白いばら」の店長は、にこにこ顔で大いに感謝された。

 昨年の年を押しつまった12月28日に、いつもぼくの会に出席してくれて、スピーチをしてくれた、SM作家の団鬼六さんも、講談社から『死んでたまるか』という、自伝エッセイ集の出版を祝う会を「白いばら」で開いてくれたのに、今年の5月に亡くなられてしまった。

 映画の『プリティ・ウーマン』の撮影場所になった、ロスの名門ホテルにぼくらは何度か宿泊したが、フロントには貫禄のある年配の人がいるので、その風格からいいホテルなんだなと思わせた。 
 サンフランシスコの名門ホテル、これも名前を忘れてしまったが、フロントには同じように風格のある年配の方がおられた。
 銀材のキャバレー「白いばら」にも、同じように19歳の時から入店して、50年間勤めあげた、店長であり専務取締役である、山崎征一郎さんがいたからこそ風格があった。それが9月25日をもって退任するという知らせが届いた。

 その手紙には、こんなことが書かれていた。

「昭和37年、初代社長に採用された頃は、高度成長期でした。団塊の世代にもてはやされたキャバレーのピークの時は、連日、超満員の日々が続きましたが、バブル崩壊後は、2階に数組しか入らない苦しい時代もございました。」

 それからの日本の経済はデフレで、不況から抜け出せず、景気は悪くなるばかりだ。そして今度の震災と津波。銀座は外人客もこなくなり、その上、節電で暗く、夜は人が歩いていず、バアなどもみんな困っているというニュースばかりを聞いていた。
 いつも笑顔で、がっしりとした山崎店長。この店長がいたからこそ、いくたの苦難も乗り越えてこれたのだろうに……。

 先日、10数年ぶりにゲイ産業で、トップというべき会長を浅草に訪ねたが、「お客というものは、繁盛してお客がいっぱい入っているところに集まってくる」というようなことを聞かされた。
 下北沢の南口商店街でも、「餃子の王将」などは、いつでも満員だ。そうかと思うと、すぐにつぶれてしまう店もある。
 繁盛しているお店は、接客態度もいいし、値段が手頃で、料理もおいしく店内も清潔だ。そうした努力があるからこそ繁盛しているのだろう。

 「白いばら」の山崎店長から、今年も本を出して、出版を祝う会をやりましょうと言われていたので、ぼくもその気になっていたが、今年の暑さにはまいりました。

 昨日、9月15日(木)意を決して「白いばら」をしばらくぶりに訪れた。毎日新聞の鈴木琢磨記者にも、息子に頼んでメールを入れて誘っておいた。

 6時開店と同時に店に入ったが、みんなよろこんで迎えてくれた。今度、新店長になる人は下北沢に住んでいて、ぼくをよく見受けるので、今度は声をかけますと、言ってくれた。息子のような人で、38歳だという。
 ぼくのとなりに座ってくれた女性も、下北沢の南口に住んでいて、劇団に所属しているという。
 おどろいたことに、客がどんどん入ってきて満席。その活気はすごい。ショウの踊りもよかったし、ナマバンドもなつかしい。外に出たら人影がまばら、お客が入る店には入るということか。

〒104-0061 中央区銀座3-5-18 「白いばら」

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山崎店長、長い間お疲れさまでした。

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2011年10月 1日 (土)

雑誌作りって難しい

 ぼくはなぜか『話の特集』という雑誌の編集長を30年間、勤めた矢崎泰久さんという人に興味を持つようになってきた。
 2011年9月17日(土)の「矢崎泰久『あの人がいた』出版ライブ」の会場で、初めて矢崎さんに声をかけたが、矢崎さんはぼくに会うのは初めてではないと言われたが、ぼくは初対面だと思っている。

 今の若い人たちは、『話の特集』という雑誌を知らないだろう。『薔薇族』だって同じことだが、ヤマジュンが若い人に人気があるので、その劇画が掲載されていた雑誌と言えばすぐに分かるほど知名度は高い。

 ぼくが矢崎泰久さんが、すごい人だと思うのは、その時代の超一流の人たちと交流し、雑誌に原稿を依頼している。作家でなくても有名人にインタビューしたり、原稿を書かせてもいる。
 残念なことにぼくの手許に『話の特集』がないので、内容を紹介できないし、ネットでも調べられない。あとで散歩のついでに古本屋に寄って『話の特集』を見てみたいと思っている。

 ぼくの知り合い(ゲイの人だ)の人だが、とにかく見知らぬ人と、すぐに仲良くなってしまう人がいる。次から次へと電話をかけてきていろんな人を紹介してくるので、閉口してしまうことがあるが、歌舞伎の女形の役者さんを紹介してくれたことがある。お名前を思い出せないが、国立劇場の楽屋も訪ねたことがあり、次男の結婚式には踊りを披露してくれ、伴奏の三味線をひかれた方は、人間国宝の方だった。
 ロシア大使館の館員で日本語の上手な若者も紹介してくれて、二度ほど警察官に囲まれた大使館の中に入り、案内してくれた。
 この人と同じような矢崎さんは、特異な才能の持ち主だったのでは。

 矢崎さんのお父さんは、文藝春秋社に長く勤めておられ、独立して日本社という出版社を起こした方で、堅実な方だったようだ。
 『話の特集』は創刊号を7万部も刷ってしまった。広告会社の大手の電通が、10万部刷らないと広告を取れないと言われ、7万部にへらしたのだが、結局は広告は取れなかったそうだ。
 矢崎さんのお父さんは、1万部から始めろと言われたそうだが、取りまきが今でも『週刊文春』の表紙を担当している、和田誠さんとか、有名人ばかりだから、1万部なんて言えなかったのだろう。
 表紙は横尾忠則さんで、斬新すぎて創刊号の文字を入れなかったので、お父さんは怒ったそうだ。それに定価が¥130。一流の人が執筆しているのだから、もっと高くしてもよかったのでは。

 『薔薇族』の創刊号は、70頁の針金とじで、¥230。広告をまったく入れない分、定価を高くし、雑誌は悪い紙を使うが、ぼくの考えはゲイというと、汚らわしいと思われていた時代だったから、買ってくれた人も手にとって美しいと思ってもらいたいと、上質紙を使った。

 『話の特集』の読者層は、新らしもの好きの学生がほぼ半数で、20代の若者が中心だという。
 『薔薇族』の読者は、中学生から老人まで、それに女性の読者も多かった。『話の特集』は女性の読者には敬遠されたのでは。女性の読者が買わない雑誌は駄目だ。

 雑誌にとって広告が入らないと、どうにもならない。『薔薇族』は途中から広告を入れたが、宣伝効果が抜群なので営業をしなくても、お店の方から出してくれと依頼が殺到して、総頁の半分は広告だった。

 下北沢におしゃれな原宿にあるようなレストランを造っても長くは続かない。それと同じように雑誌も一流の執筆者を並べたからって売れない。雑誌作りって難しいものだ。

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