靴泥棒のはなし
古い話を若い人にしたって、分からないからやめなさいと、女房に言われるけれど、こんなことがあったということも知っていてほしい。
太平洋戦中から、戦後の時代、今の人に話しても理解できないだろうが、食物から衣類などなにもかもなかった。
ぼくが通っていた代沢小学校、終戦の前の年、昭和19年頃から、サイパンや硫黄島が米軍に占領されて、B29が連日のように編隊を組んで襲来してくるようになってきた頃の話だ。
生徒はみんな集団疎開して、わずかな生徒しか残っていなかった。校舎はガラガラなので、どこから招集されてきたのか分からないが、弱々しい兵隊ばかりが、宿泊していた。
皮靴なんてすでに手に入れられなかったのか、地下たびをはいていた。小銃も門衛だけが持っていて、あとは竹やり、それでも軍部は、本土決戦にそなえて、米軍と戦おうとしていたのだから、今から考えるとおそろしい。
そんな時代のことだ。父が勤めていた第一書房は、自由に出版ができなくなってしまったので、社長は廃業してしまった。
第一書房の父の後輩で、すでに招集されて兵隊になっていた若者が休暇がとれたのか、わが家に訪ねてきた。
その人の名前は忘れてしまっているが、父と話をしていた。靴は兵隊がはく皮靴をはいてきていて、玄関に揃えて置いてあった。
わが家は道路から少し奥まったところに玄関があって、とびらは開けたままだった。なんと兵隊の皮靴を盗まれてしまったのだ。
細い竹ざおの先に、ひっかけてとるような仕かけがしてあったのだろう。さあ、大変、まさか兵隊が軍服を着て、訪ねてきたのだから、下駄をはいて軍隊に帰るわけにはいかない。顔面そう白というのは、こんなときにいう言葉だろう。
親父はなんにも役立たずだが、おふくろが二軒先の家のご主人が、元軍人だったのを思い出して、兵隊の靴がないものかと聞きにいった。
それが昔はいていた皮靴があったのだ。それをはいて、軍隊に帰っていった。軍隊に帰れば、他の兵隊の靴を盗むから、なんとかなるということだ。
その頃は、物がまったくない時代だから、代沢小学校にたった一ケしか、ドッジボールがなかったし、南方の兵隊さんからの贈物だというわずかなゴムマリをくじびきでもらったこともあった。
戦後も物不足は深刻だった。ぼくが駒沢大学に入学したのが、戦後の昭和23年の4月だ。学生服なんて入学したころには着ている学生はいなかった。
その頃、八王子の小さな貧乏寺の友人が、わが家を訪ねてきたことがあった。同じように皮靴を盗まれてしまったが、あまりにもひどいよれよれの靴だったので、さすがの靴泥棒も、売りものにならないと思ったのか、表のドブの中に投げ捨ててあった。
今の世の中、物がありあまっているから、モッタイナイなんて思う人間は、こうした戦中、戦後の時代を経験した人間にしか理解できないだろう。
プロ野球をテレビで見ていると、ピッチャーが投げるボールが、キャッチャーがとる前に、はずんだりすると、審判がすぐに新しいボールにとりかえてしまう。そのボールを捨ててしまうわけでなく、練習のときに使うのだろうが、ゴムマリすらなかった時のことをふと思い出してしまうと、なんてことをするのかと怒りさえおぼえてしまう。
震災にあって、すべてを失くしてしまった人たちは、“物”の大切さを痛切に知ったに違いない。“物”の大切さを若い人にも知ってもらえれば幸いだ。
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コメント
ニコニコニュースで先生が取り上げられていたので久々に来ました。先生のことはとても尊敬しているのでこれからも体に気をつけながらがんばってください。
それにしても、何もかも規制の方角に向かっている日本。欧米の国々に比べたらまだなんでもない方なのかもしれないのですが、それでもなんだか悲しくなってしまいます。セクシャルマイノリティの人にも人権はあるのに…
投稿: | 2011年10月30日 (日) 21時04分