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2011年11月

2011年11月28日 (月)

人に打ちあけられずに耐えしのんでいる少年愛者!

 少年愛についてブログに書くと、読んでくれる人の数が、ぐ~んと増える。それは少年愛の人たちは、自分から声をあげることができない。ぼくしか少年愛者に代わって、その苦しみ、悩みを訴える人はいないからだ。
 
 児童ポルノを規制しようとしている人たちは少年愛の人たちの悩みを知ろうとはしない。どんな人たちが、少年の写真を見たいと思っているのか、その実体をまず理解してから、法律を作ってほしい。
 
 この投稿は、今から37年も前に、『薔薇族』の№22 1974年の11月号に載った、中学の教師の投稿だ。長い投稿なので、2回に分けて紹介しようと思う。
 

「私は少年愛者である。小学校、5、6年から高校3年ぐらいまでの童顔の少年に、激しい欲情を感じ、それが日に日につのるばかりで、正直言って大変に苦しい。
 その気さえあれば、機会はないこともない普通のホモの人たちが、うらやましいほどだ。少年愛は相手が未成年者であるだけに、実行は絶対的に不可能である。倫理的にも許されるものではない。
 生涯この苦しみに、じっと耐えていくしかないのだ。われわれが少年愛者であることは、神のなせるわざであって、われわれ自身の罪であろうはずはない。しかし、これを口にしたり、実行に移そうとしたりすれば、たちまち犯罪者のらく印を押されるし、社会的体面が失われる。
 従って誰もが生涯、人に打ち明けずに耐え続けているのである。
 巷にあふれる少年たちをまぶしく見やりながら、また女好きが、その欲望を思う存分発散させている姿に、激しく嫉妬しながら、考えてみれば、これほどの悲劇はない。
 
 少年愛にもなんらかの方法が、公に認められるという、素晴らしく解放された社会というようなものは、考えられないだろうか。
 せめて少年愛者のために、少年のポルノ写真は大目に見る、というような時代になって、少年たちのとてもエロチックな写真や、映画がたやすく手に入るということになれば、多くの少年愛の人たちが、大いに慰められるのだが。ポルノ解禁は欲望の解放になりこそすれ、決して犯罪を増やすものではあるまい。しかし、これもいささか絶望的である。
 
 ところで私はある田舎の中学校の教師である。教師を志願したのは、もちろん自分の少年愛という性を意識してのことである。世の中で異性への関心から自分の職業を選ぶ人は稀であろう。
 彼らは欲望を満たすということを法律においてさえ保障されている。そうでないわれわれが、少しでも少年たちに接することのできる仕事を選ぶことを誰が非難できようか。先生以外にもいろんな職業がある。少年スポーツサークルの指導員、児童福祉施設の職員、町の少年会の指導員等。
 
 先生になりそこねた人は、極安の少年塾でもはじめたら? 多分多くの少年たちが押しかけてくるだろうし、彼らの去ったあとの少年くさい匂いのこもる部屋で、マスターベーションというのも一方法だ。
 
 教師仕事において、種々の楽しみが生ずることは確かである。例えばスポーツクラブの顧問になることなど。水泳クラブで、競泳クラブで、競泳パンツの少年たちに囲まれているのも楽しいし、レスリングクラブで、彼らと共に汗にまみれるのは、まさにあの行為と変わらぬ興奮を与えるであろう。
 また少年たちをきびしく、しごくのも快感であるし、彼らの練習中、更衣室で脱ぎ捨てられたブリーフ等をこっそりととり出して、匂いをかぐのも自由である。」
(つづく)
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第3回「伊藤文学と語る会」 
《『薔薇族』401号刊行記念~少年愛について考える~》
12月10日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※ますます居場所を失いつつある〈少年愛者〉の問題について、みんなで考えます。当日は、二代目編集長である竜超による401号(700円)の販売も行ないます。

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2011年11月26日 (土)

第3回「伊藤文学と語る会」(更新担当よりお知らせ)

いつも「伊藤文学のひとりごと」をご覧いただきまして、ありがとうございます。 
12月10日(土)の14時より、下北沢「邪宗門」にて、第3回「伊藤文学と語る会」を開催いたします。
 

 
第3回「伊藤文学と語る会」
 
テーマ:『薔薇族』401号刊行記念~少年愛について考える~
 
日程:2011年12月10日(土)
 
時間:午後2時~4時(予定)
※途中参加・中途退出も自由です。
 
会費:なし(コーヒー代の実費のみ)
 
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
 
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1
 
電話:03-3410-7858
 

 
初代編集長・伊藤文学の意志を継ぎ、日本で唯一の《少年愛擁護の立場から児童ポルノ規制と闘うメディア》であり続ける『薔薇族』。
今回は、その401号刊行を記念して、ますます居場所を失いつつある〈少年愛者〉についてじっくり語り合います。
この問題に関心のある方、よく分からないけれど話を聞いてみたい方、そして当事者の方……年齢・性別・性的指向を問わず、どなたでも大歓迎いたします。
当日は、二代目編集長である竜超による401号(700円)の販売も行ないます。〈少年愛迫害〉の実態を知るテキストとして是非お求めください。
 
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古き良き時代の香りを守り続けて

 日本の文化、芸術は、まさにゲイの人たちが担っているのだから、誇りを持って堂々と胸を張って生きていこうと、ぼくは『薔薇族』の読者に言い続けてきた。
 そのことを証明できるような本、『ありがとう さようなら』(平成15年5月3日・黒野利昭を偲ぶ会発行・編集 高橋睦郎・制作 邑心文庫)を見付けだした。
 新宿2丁目にあった、ゲイバア「ぱる」その後、独立して「クロノス」のマスター、クロちゃんを偲んで出された本だ。
 ゲイバアのマスターが亡くなって、そこを訪れていた、お客さんがそれぞれの想いを綴って一冊の本にするなんてことは、かつてなかったのでは。
 それも66名の方々が寄稿している。その方々のお名前を書くことはできないが、それこそ日本の文化、芸術を担って活躍している人たちで、誰もが知っている人たちが、数多くいる。
 亡くなって5ヶ月後に催された銀座アスター新宿店でのクロちゃんを偲ぶ会に出席された方は、160名にもなったそうだ。
 多くの文化人、芸術家に愛された、クロちゃんって、どんな人だったのか。
 
『薔薇族』が創刊された、1971年頃の新宿2丁目には、ゲイバアは2、30軒しかなかった。ゲイバアの扉を開けるには、かなりの勇気を必要とした。あっち見て、こっち見て、人に見られていないかを気にして、扉を開けていた。
 そんな時代に、読者からゲイバアを教えてという電話がかかってくると、ためらわずクロちゃんが働いている、2丁目の「ぱる」を紹介した。
 もちろん、ぼくも「ぱる」を訪れて、安心してすすめられるお店と確信したからだ。「ぱる」は、その頃から珍しくチケット制になっていたから、明朗会計でボラれる心配なく安心して呑める店だった。
 扉を開けると、クロちゃんが「あ~ら、いらっしゃい、美少年」と呼びかけると書いている人が多いが、それは少し後になってのことで、「あ~ら、ブスいらっしゃい」と、呼びかけて、お客さんをいびるのが、クロちゃんのつねだった。
 それに負けずにお客さんがやりかえす。それが面白かったのだが、面白がる人と、反発するというか、まともに受けとってしまう、お客もいたようだ。
 経営者とうまくいかなくなって、独立してお店を出した。その名前は、高橋睦郎さんの命名だとされていて、ご本人は記憶はさだかではないというが「クロノス」ギリシャ神話の神の名のようだ。
 
「ぱる」にいた頃のクロちゃんは、いつもぴしっとスーツを着て、ネクタイも付けていた。紺系統の地味なスーツだったと記憶している。クロちゃんは昼間は、霞ヶ関のお役所に勤めていて、仕事が終わると店に入るという、噂話を聞いたことがある。
 クロちゃんの芸術全般の造詣の深さは大変なもので、映画、演劇はもちろん、オペラやバレエ、歌舞伎と知らないものはない人だったから、お店のお客さんと、どんな話でも相手になれた。文化人、芸術家が訪れてくるのは当然のことだ。
 からだの具合が悪くて、自転車に乗って東京女子医大に行き、待合室の椅子に座って待っているときに倒れ、そのまま亡くなってしまった。動脈瘤破裂によるクモ膜下出血が死因だそうだ。
 クロちゃんは古き良き時代のゲイバアの香りを守り続けた最後の人だ。お客さんがみんなで原稿を書いて本にするなんて、クロちゃんって幸せな人だったのでは。
 
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2011年11月21日 (月)

ウキウキして若い女性と母校の同窓会へ!

 80歳になる老人のぼくが、20代のかわいい女性と、母校、駒澤大学の「ホームカミングデー」に行くなんて、なんという幸せ者だろうか。
 
「ホームカミングデー」というのは、「同窓生・教職員・在校生・結束させよう三本の矢」という、大学祭と一緒に開かれる同窓会で、7,800人の卒業生が招待される。
 卒業生は20万人を越すそうだから、全部を招待したら大変なことになるから、年度別に招待状を出しているようだ。今回で8回目になるが、なぜかぼくには毎年、招待状が送られてくるので毎回参加している。
 ぼくが一番見たいものは、吹奏楽部の演奏で、大学のコンクールで、3年連続で金賞をもらっているのだから、それは見事な演奏だ。
 練習をどれだけしているのかは、分からないが、一糸乱れずというか、動きながらの演奏はすばらしい。
 作詞・北原白秋、作曲・山田耕作の駒澤大学の校歌の演奏は、身ぶるいするぐらいだった。
 ぼくが在校時代は、応援団が巾をきかせていて、授業が終わったあと、強制的に校歌や応援歌を歌わせられたものだ。
 青春時代がよみがえってきたようで、若い女性と一緒なので、ウキウキするような気分で、年齢のことなど忘れてしまった。
 
 懇親パーティは、学生食堂で催されるのだが、7,800入ったら芋を洗うよう。古い建物で天井が低く、壁面にはぼくと同期の友人の抽象画の油絵が、飾られている。
 今の時代、学食の時代で、各大学の学食を紹介する本まで出ているぐらいだから、これは新しく建てかえて、優雅な学食にしなければ、学生に嫌われるのでは。トイレなどもひどいものだ。東洋大学などは、トイレも立派で、女子学生のための化粧室まであるそうだ。
 東京大学の教養学部のレストランも、新聞かなにかで紹介していたが、誰もが食事に行ってみたいような施設のようだ。
 駒澤大学には、建てかえる敷地がない。駐車場になっている場所に建てるしかないのでは。学食を早く立派なものに建てかえないと、他校に負けてしまう。
 ぼくは中央大学と、国士舘大学しか知らないが、国士舘大学の学食は、明るくて、天井が高く、大きなガラス張りで外の景色もいいし、落ち着いていて、いいムードだ。
 今や大学は勉強しに通うところというよりも、友だちを見つけたり、楽しく部活動ができる、いい環境作りが大事なのでは。
 
 おみやげに駒澤大学の名入りのおせんべいと、チョコレートを頂いた。どちらもとびきりおいしかった。
 帰りがけに図書館に寄って、ぼくの本があるか調べてもらったら、若い時の歌集「渦」と、「靴下と女」だけがあって、ゲイ関係の本は一冊もない。寄贈すれば置いてくれるのかも知れないが、買ってまで置いてくれるわけがない。仕方がないか。
 
 全日本大学駅伝に、東洋大学の猛進を逃げきって優勝。正月の箱根駅伝が楽しみだ。ゴールして倒れこむ選手が多いが、駒大の選手が倒れないのは、それだけ練習を積んで走りこんでいるということだ。
 
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駒澤大学名入りのせんべいと、チョコレート
 
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迫力満点の吹奏楽演奏

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2011年11月19日 (土)

涙があふれて、返事を書けません

 東北大震災のあと、ホテルでの同窓会の申しこみが増えているという。それは人々の心の中に「絆」(きずな)という思いが湧いてきているからだろうか。
 ぼくは人一倍、愛校心が強いのは、勉強のできないぼくを入れてくれたという学校への感謝の気持ちの表れか。
 世田谷学園の同期会も、ずっとぼくがお節介役をひき受け、会場の設定から、案内状の発送まで、ひとりで続けている。
 20年ぐらい前は、出席者が5、60人はいたが、年々亡くなる人がいて、今では10数人という寂しい会になってきているが、歩けるうちは続けたいものだ。
 
 駒沢大学の国文科の同窓会にも毎年出席しているが、ぼくが最長老になってしまっている。ぼくは新制大学にきり変わって、2年目の卒業生だが、昭和26年卒が24人、ぼくの卒業年度は25人、昭和28年卒が28人、その頃の国文科の定員が何人なのかは分からないが、ぼく以外は全部地方の学生で、東京出身はひとりもいない。
 全学でも学生は700人ぐらい。ふだん通学しているのは、2、300人、あとの学生はアルバイトでもしているのだろうか。
 校舎の前庭にも学生の姿は少なく、名前を忘れてしまったが、有名なお坊さんが、僧衣を風になびかせて歩いている姿は絵になった。
 昭和43年頃から、国文科の学生だけでも200人を越えているから、全校では万を越えるマンモス大学になってきている。
 
 国文同窓会の最新の会報の消息欄に、同期の卒業生の田中一好君の「手押し車での生活です」とあるのが目にとまった。
 平成3年に発行された名簿をみつけ、寺の住職でもあり、高校の先生をやっていた人なので、古い住所でも届くのではと、学生時代の思い出を書きつづって、卒業以来、59年ぶりの初めての手紙を送った。
 
 田中君は学校の裏手にあった、木造建の古い学寮に住んでいた。柔道でもやっているような、がっちりした体格で、まんまるい顔をしていた。その田中君が手押し車の生活とは。
 何日かして返事がかえってきた。墨で書いた達筆で、「とてもなつかしい。お便りを有難く拝見致しました。涙が出てきて、返事が書けません。落ち着いたら返事を出しますので、しばらくお待ち下さい。」それだけが和紙に書いてあった。
 なにか大きな病でもわずらったのだろうか。寂しい手紙だった。あの精力絶倫の田中君が。
 
 卒業のちょっと前に、文芸部員5人で湯河原に旅行したことがあった。文芸部の一年間の予算が1万円だった。なにしろ旅館の宿泊費が、1人500円という安さ。もちろん安宿だが、学生の身分では、それで充分だ。
 その時代は売春防止法なんてなかった。若い女性をひとり旅館に呼びよせた。どんな女性だったか覚えていないが、その日が湯河原にきて最初の日だと聞いたことだけは覚えている。
 
 5人のうち3人がかわるがわる女性と寝た。田中君は、1回だけではもったいないと、なんと3回も女性と寝た。
 若い学生と、一晩に何度も相手にした女性も疲れたのでは。いくら女性に支払ったのかは、まったく覚えていない。
 祖父が大正時代に、娼婦たちをからだをはって救い出した血を継ぐ、ぼくとしてはお金で女性を買うなんていうことはできなかった。
 正直なところ、気が弱くて女性を抱くなんていうことはとてもというところかも。
 
『薔薇族』を創刊してから、精神的に強くなったような気がする。気の弱い読者がほとんどなので、ぼくが強くなければと思ったからだろう。
 
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写真は駒大の校門前のぼく

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2011年11月14日 (月)

やらないか! のヤマジュン人気は、まだ吹き荒れる!

 『ウホッ! いい男たち』が、復刊ドットコムから出版されてから、もう4,5年は経っている。

 ¥4800(+税)の高い本が、1万部近くも売れ続けているなんて信じられない。
 Tシャツが作られたり、タオルになったり、ハンカチにヤマジュンの「やらないか!」のイラストが使われている。
 今度は「カードスリーブ」などという、聞いたこともないものに、使いたいという申し入れだ。
 カードを保存するために、入れる袋なのだそうだ。子供だけでなく、若者までもが必要としている商品とか。
 いろんなカードをコレクションしたり、ゲームとして、友人たちと遊ぶための大事なものらしい。
 
 ぼくらの世代では、子供の遊びは限られていて、メンコとベエゴマぐらい。メンコの絵柄は、いろいろあったけれど、コレクションすることはなかった。
 小学4年生の孫に聞いたら、孫が通う小学校では、カードでゲームをしたりしている子はいないそうだ。
  
 カードスリーブを製作する会社は、おもちゃの会社だそうで、商品名は「俺たちの燃え★スリーブ第2弾・VOL・38『やらないか』」
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 株式会社・マイルストン
 神奈川県横浜市中区尾上町4―57・横浜尾上町ビル6F
 電話045―664―9271・FAX045―664―9277
 興味のある方はどこで売っているのか、聞いてみて下さい。小売価格は¥600だ。
 
 それにしても、ぼくの本、彩流社刊『やならいか! 『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論』(定価¥1800+税)は「やらないか!」人気に便乗して、カバアにヤマジュンのイラストを使って、早稲田大学教授の丹尾安典先生が「下北沢のオッチャンの新刊を推す」とまで、すばらしい序文を書いてくれているのに、なぜ本は売れないのだろうか。
 ブログに書いたものをまとめて本にするのでは、ブログを読めば、本を買ってまで読もうとはしないということか。
 
 東北のある街に住む青年から、はがきが舞いこんだ。このはがきを読んで、40年前に逆戻りしてしまったのかと思ったぐらいだ。
 このネットの時代に、『薔薇族』を読んでいた昔の読者のような悩みをかかえている人なんていない、そう考える反面、今でも地方に行けば、ひっそりと悩みながら暮らしている人もいるだろうと、考えてはいたが
 
「伊藤さん、はじめまして。ぼくは××市に住む30代の男性です。
 先日、伊藤さんの「『薔薇族』の人々・その素顔と舞台裏」(河出書房新社刊・定価¥2000+税・2006年・7月刊)という本を読んで、ショックを受けました。
 じつはぼくも女性に全く興味がなく、もしかして自分はホモなのでは? と、悩んでおりました。
 しかし、この本でホモの世界にも、すばらしい文化が存在していることを知り、ぼくが仮にホモでも、それほど悩む必要などないんだということを思い直しました。」
 
 本は売れないけれど、読んでくれた人には影響を与えているんだと実感して、ひとりでも、ふたりでもこうした人がいてくれたんだと、うれしい気持ちでいっぱいだ。
 日本は広いんだなと、思い知らされたような、今でも『薔薇族』に広告を出したいなんていう人もいたりして、不思議な気持にさせられてしまうこともある。
 
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2011年11月12日 (土)

今でもはっきりと覚えている東大生の死

 毎年、日本中で3万人以上の人が、自らの生命を絶っている。その中で内向的なゲイの人の比率は高いのでは。

『薔薇族』を創刊以来、覚えているだけでもかなりの人の死に直面してきた。『薔薇族』の誌上で活躍してくれた、長谷川サダオ君のことは忘れることができない。

 タイのバンコクのホテルで自殺した長谷川サダオ君、現地の警察の人が、お兄さんにサムライのような死に方だと話したそうだ。
 この手紙が伊藤さんのところに着くころには、ぼくはこの世にいないでしょう、なんて言ってくるような人は死なない。
 自殺する人は誰にも黙って死んでいく。

 忘れられない東大生の死。古い話だが昭和50年の10月25日の読売新聞の社会面トップに「東大生不安の自殺・母の看病半年、葬式の翌日」と、大見出しで載った。長い看病のかいなく母親に先立たれた東大法学部の4年生が、母の葬式を出した翌24日、あとを追うように自殺した。
 祖母と妹という母子家庭の中の男1人。レポート用紙の日記には、看病疲れのほか、卒業、就職を目前にした不安が書き残されていたが、葬儀の席で気を強く持とうと自ら誓ったのもつかの間、23歳の若い生命を絶ってしまった。
 もっと強く生きることはできなかったのかと記事は書き出し、その詳細をつづっている。その小さくのった顔写真を見たとき、ぼくは一瞬、背すじの寒くなるのを覚えた。○○君、忘れもしない、彼だった。

 彼が第二書房のすぐ近くの駒場にある東大の教養学部に通う学生であったころから、何度か訪ねてきたことがあった。東大生で訪ねてきたのは彼一人だったから、忘れっぽいぼくでも、はっきりと覚えている。
 初めて彼と会ったとき、父のいない彼が、長男として家族の期待が、一身にかかっていることの重荷を彼は話してくれた。
 男好きであっても、まだ一度も男とのセックスの経験がないことと、仲間がいない寂しさを彼は語ってくれた。
 気が弱そうで、なんとなく暗い彼を感じていた。そんな彼を新宿のゲイバアへ連れて行ったことを覚えている。

 それから1年以上も会わなかったが、昭和50年の春ごろ、大学生ばかり集めて会を開いたときに、たくさんの大学生にまじって、彼の元気な顔があった。そのときの印象では、前と違って大人っぽくなったし、なにか明るくなったように見うけたのだが……。

 大学生の集会も何度か開いただけで、たち消えになってしまい、その会に出席した中の一人だった彼の悩みを解消してあげることができなかった。
 就職のこと、母の死んだこと、ゲイの人って母親の存在は大きい。母の死はショックだったと思う。しかし、心の片すみに男が好きだということが、どれほどの重みになって、彼の全身にのしかかっていたことか、それを思うとぼくの心は苦しい。
 ぼくを訪ねてくれたこと、大学生の集会にまできてくれた彼に、生きる力を与えることができなかったことをくやむばかりだ。

 おそらく彼はぼくに期待して、訪ねてきたと思う。親にも兄妹にも言えない悩み、苦しみをみんなが持っているのだから。
 時代が急速に変わって、ネットの時代、ネットを通じて仲間を見つけることができるようになってきたのだから、もう彼のような死は過去のものなのかも知れない。
 そう思いたいが、世の中、変わってもゲイの人たちにとって、悩み、苦しみは果てしなく続くのでは……。

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江戸時代の男色のイラスト

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2011年11月 7日 (月)

第2回「伊藤文学と語る会」(更新担当よりお知らせ)

いつも「伊藤文学のひとりごと」をご覧いただきまして、ありがとうございます。
 
10月24日の記事でもお知らせの通り、来る11月12日(土)の14時より、下北沢「邪宗門」にて、第2回「伊藤文学と語る会」を開催いたします。
ご興味がある方は、是非、この機会にお集まり下さい。
 
 
●第2回「伊藤文学と語る会」
 テーマ:アンティーク・フルーツ・クレイト・ラベル
 特別参加:稲垣征次
 
 日時:2011年11月12日(土) 14:00~16:00
 場所:下北沢 カフエ「邪宗門」
 
  
参加を検討されている方は、下記の連絡先までご一報いただけると幸いです。
 
電話 :03(3413)9411 
メール:bungaku@barazoku.co.jp
 

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だまされる方が幸せなのかも!

 読者の文通欄、ネットなんてものがなかった時代は、時間もかかるし、面倒くさいが、これしか仲間をみつける方法はなかった。
『薔薇族』の文通欄でも、沖縄の高校生と名乗り、何年経っても高校生といって、相手をだます男もいた。
 少年かと思って、はるばると会いに行ったらオジさんだったなんて話は、いくらもあった。
 これは『薔薇族』が創刊される10年以上も前に、会員制で出していた、大阪の『同好』という雑誌に載っていた話だ。
 
「誰か真実の父か、母のように慕える人が欲しい。三島ファンで高1の16歳。神戸市○○町○○局気付某」
 
 ゲイの少年愛者なら、われこそはと誰でもとびつきたい相手に違いない。これを読んだ40歳の男盛りの少年愛者、早速に君の父親になってあげよう。そして思う存分かわいがってあげようと、名乗りをあげた。
 
 数日後、早速、返事が届いた。「お父さんの手紙を読んで、夜もねむれないくらい、うれしかったが、今、丁度風邪をひいて、熱を出して寝ている。
 ああ、もうしんぼう出来ん。きっときっと待っててね。ぼくの大好きなお父さんへ」
 
 こんな返事がきて、中年男は頭の中が、ぐらぐらとしてきた。早速、返事のペンをとった。甘い甘い言葉と共に、お小遣いを300円封入してやった。
 折返し返事がきた。「お父ちゃんありがとう。ぼくとてもうれしい。毎日、毎日、お父ちゃんのことばかり考えている。
 お医者さんがまだ駄目だという。風邪をこじらせてしまって、ごめんなさい」
 折返し返事がきて、身体の調子が良くなってきたので、次の日曜日、そちらへ訪ねたい。くわしい地図を教えてほしい。
 中年男、返事と共に500円を封入して、次の日曜日の正午、大阪駅の西口で待ち合わすように、左手に新聞を持って、知らせておいたとおり、紺のダブルの服を着て、散髪までして、かわいい恋人とのデイトに胸をふくらませて出て行った。
 約束の時間は30分も過ぎたが、それらしい少年の姿は見えない。あきらめてそこを立ち去ったのは、もう2時間も過ぎていた。
 
 それから2日目、少年から手紙がきた。
 
「ぼく行ったんだけど、大阪の地図が分からないので、東口で長い間、待っていたの。
 ああ、お父ちゃん、悪いけれど、また電車賃がないのですぐに送ってね。」
 
 胸はずませて返事を書いて、、また500円を封入した。朝早く家を出て、再び大阪駅の西口に行った。時刻は刻々と過ぎて行く。とうとう1時間も経って、いよいよおかしいなと、いささか不信感が湧いてきた。
 そしてその日も、とうとう待ち呆けで帰ってきた。誰にも言えぬ、この張りつめた気持の後味の悪さ。
 
 とうとうその夜は、ゲイバアに行って、ぐでん、ぐでんになるまで酒を呑んだ。「い~さん馬鹿に今日は荒れていますね」と、顔見知りの青年に声をかけられた。
「その子、どこの子」「神戸だよ。神戸の坊やだよ」
「その子は文通マニアのタカリですよ」
 
 家に帰って一計を考えた。例のごとく甘い甘い手紙を書いて、○○局止めで差し出した。その手紙が着く頃に、わざわざ神戸に出張って、受取人を今やおそしと待ちかまえていた。午後2時頃、それを受け取りにきた人は、なんと40を越した女性だった。開いた口がふさがらず、ひとことも声をかけずに大阪へ帰ってきた。
 
 文通欄の手紙の時代、なんとものんびりした笑えない話。ネットの時代は、どんな男のだまし方があるのだろうか?
 

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江戸時代の男色のイラスト

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2011年11月 5日 (土)

藤田竜君が本当の編集長だった!

 ぼくの良き「相棒」だった、藤田竜君はぼくより若いのに先に、あの世に行ってしまった。
 
 藤田竜君が『薔薇族』の主役で、ぼくは助手的存在。本当の編集長は、藤田竜君だった。
 戦後の昭和23年に、父が株式会社、第二書房を設立したときから、ずっと小僧のように使われてきたが、第二書房は単行本の発行が専門で、雑誌を出したことはなかった。
 だから本当のところ、雑誌作りは、まったく未経験で不安だったが、ぼくの呼びかけでぜひ、手伝いたいと声をかけてくれたのが、今は亡き間宮浩さんと、藤田竜君だ。
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 藤田竜君は、内藤ルネさんが先に勤めていた、中原淳一さんが社長のひまわり社に、高校時代にモデル募集の呼びかけに応じて、ひまわり社を訪れ、採用されたのが最初だ。
 ひまわり社が刊行した単行本に、美少年の藤田君が載っているのを見たことがある。それから婦人雑誌など、いくつかの出版社を渡り歩いたようだ。
 藤田君は器用な人で、企画から、デザイン、写真、イラスト、取材となんでもできる人だった。藤田君は『薔薇族』を創刊する前は、ルネさんと組んで、いろんな仕事をしてきたが、この時代はルネさんが主役で、あくまでも竜さんは、陰の存在だった。
 
 それが『薔薇族』を創刊したときから、今度は主役の座についた。表紙絵を3年間描き続け、企画もほとんど竜君が考え、好きなように雑誌を作った。
 竜君はマスコミの取材のときなどは、顔を出せないから、それはぼくの役目で、テレビに出たり、雑誌に原稿を書いたりした。
 竜君は雑誌にはスター的存在になる人が必要だと言って、不良っぽい、遊び人ぽくふるまった。
 千駄ヶ谷のマンションを訪ねても、ルネさんをぼくに3年以上も紹介しなかった。竜君はカダフィ大佐のような『薔薇族』の存在で、ぼくはスタッフをやめさせることなどしたことがないが、気に入らない人間をさっさとやめさせた。
 独裁者であり続けるために、間宮浩さんをやめさせ、三島剛さんも、そして木村べんさんもと。
 竜さんが、主役であり続けた時代の『薔薇族』は、いきいきとして輝いていた。昭和の日本のゲイの世界を知るには、『薔薇族』を読まなければ、ゲイ文化を語れないような雑誌を作りあげた。

 日本のホモ・ポルノの草分けというべき、写真家の「大阪のオッチャン」の存在は大きい。『薔薇族』が登場する前に刊行された、会員制の雑誌『アドニス』なども、彼の写真がなければ作れなかった。
 創刊号も2号もオッチャンの写真で、出すことができた。2号目はグラビアで、オッチャンの写真を載せた。
 本を見てオッチャンは「ええ、出来ですわ。」と、すぐに電話をくれた。すごくよろこんでくれたと、竜さんは書いている。
 自分の作品がきれいに印刷されたのが初めてなら、それが一流書店にも堂々と並べられたのも初めてだった。(しかし、陰毛が見えるというので、警視庁の風紀係に呼び出されて、ぼくは始末書を書かされてしまった。)
 
 藤田竜君の活躍で、『薔薇族』は、オーストラリアの国立国会図書館、アメリカの名門大学の「エール大学」そして、「早稲田大学」の図書館にも残されている。
 藤田竜君も満足に思うに違いない。藤田竜君、本当に長い間、お疲れさまでした。
 
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イラストは藤田竜さん画。ユーモアがあって、そしてやさしい感じだ


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