涙があふれて、返事を書けません
東北大震災のあと、ホテルでの同窓会の申しこみが増えているという。それは人々の心の中に「絆」(きずな)という思いが湧いてきているからだろうか。
ぼくは人一倍、愛校心が強いのは、勉強のできないぼくを入れてくれたという学校への感謝の気持ちの表れか。
世田谷学園の同期会も、ずっとぼくがお節介役をひき受け、会場の設定から、案内状の発送まで、ひとりで続けている。
20年ぐらい前は、出席者が5、60人はいたが、年々亡くなる人がいて、今では10数人という寂しい会になってきているが、歩けるうちは続けたいものだ。
駒沢大学の国文科の同窓会にも毎年出席しているが、ぼくが最長老になってしまっている。ぼくは新制大学にきり変わって、2年目の卒業生だが、昭和26年卒が24人、ぼくの卒業年度は25人、昭和28年卒が28人、その頃の国文科の定員が何人なのかは分からないが、ぼく以外は全部地方の学生で、東京出身はひとりもいない。
全学でも学生は700人ぐらい。ふだん通学しているのは、2、300人、あとの学生はアルバイトでもしているのだろうか。
校舎の前庭にも学生の姿は少なく、名前を忘れてしまったが、有名なお坊さんが、僧衣を風になびかせて歩いている姿は絵になった。
昭和43年頃から、国文科の学生だけでも200人を越えているから、全校では万を越えるマンモス大学になってきている。
国文同窓会の最新の会報の消息欄に、同期の卒業生の田中一好君の「手押し車での生活です」とあるのが目にとまった。
平成3年に発行された名簿をみつけ、寺の住職でもあり、高校の先生をやっていた人なので、古い住所でも届くのではと、学生時代の思い出を書きつづって、卒業以来、59年ぶりの初めての手紙を送った。
田中君は学校の裏手にあった、木造建の古い学寮に住んでいた。柔道でもやっているような、がっちりした体格で、まんまるい顔をしていた。その田中君が手押し車の生活とは。
何日かして返事がかえってきた。墨で書いた達筆で、「とてもなつかしい。お便りを有難く拝見致しました。涙が出てきて、返事が書けません。落ち着いたら返事を出しますので、しばらくお待ち下さい。」それだけが和紙に書いてあった。
なにか大きな病でもわずらったのだろうか。寂しい手紙だった。あの精力絶倫の田中君が。
卒業のちょっと前に、文芸部員5人で湯河原に旅行したことがあった。文芸部の一年間の予算が1万円だった。なにしろ旅館の宿泊費が、1人500円という安さ。もちろん安宿だが、学生の身分では、それで充分だ。
その時代は売春防止法なんてなかった。若い女性をひとり旅館に呼びよせた。どんな女性だったか覚えていないが、その日が湯河原にきて最初の日だと聞いたことだけは覚えている。
5人のうち3人がかわるがわる女性と寝た。田中君は、1回だけではもったいないと、なんと3回も女性と寝た。
若い学生と、一晩に何度も相手にした女性も疲れたのでは。いくら女性に支払ったのかは、まったく覚えていない。
祖父が大正時代に、娼婦たちをからだをはって救い出した血を継ぐ、ぼくとしてはお金で女性を買うなんていうことはできなかった。
正直なところ、気が弱くて女性を抱くなんていうことはとてもというところかも。
『薔薇族』を創刊してから、精神的に強くなったような気がする。気の弱い読者がほとんどなので、ぼくが強くなければと思ったからだろう。
写真は駒大の校門前のぼく
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