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2012年2月

2012年2月27日 (月)

女房のバックの話といったって、ハンドバックの話ではありません!

 女性に自分の性癖を隠して結婚する。隠す方もつらいだろうが、ゲイと結婚した女性も、つらかったに違いない。異性と結婚せざるを得なかった時代が過去にはあった。
 夫がゲイだということを知って、離婚する女性もいたが、頭のいい女性もいて、ゲイの亭主と仲良く暮らしている。そんな夫婦を紹介しよう。

「夕飯もすみ、女房はバレーボールの練習に出かける。今、ひとり静かに『薔薇族』への投稿原稿を書いている。
 第二書房に注文して楽しみに待った一週間、玄関先の赤ポストを毎日のぞいていたが、それらしきものは入っていない。息子の休みの金曜日以外に配達されるのを望んでいたのだが……。
 一週間目の月曜日、息子が会社に出かけたあとで、女房が「お父さん、本が届いていますよ。息子の休みの日に届いたので、目につかないうちに押し入れにしまってありますよ」
 と言うので、早速、押し入れから『薔薇族』の増刊号を取り出して見た。期待に胸どきどきで、頁をめくると、あっと目にとびこむ男のヌード。折込みのカラーの表裏、淫獣の数々、まさに圧巻だ。
 私の目の前で裸の男が、今まさに絡みあってるみたいな錯覚にとらわれる。あまりに強烈なので、台所にいる女房に見られるのは、恥ずかしい思いだ。
 ため息が出る思いで、どれもこれも本当にすばらしい。手がふるえるほどうれしかった。日曜日はあいにく雨が降ったので、山登りもできず、ベッドで読書に大半を費やし、久しぶりに平野剛の画を見て興奮し、勇気を出して白昼、女房を誘って風呂あがりの午後一時過ぎに、ベッドの上に平野剛の画をひろげた。
 こういう画を見ると、私がハッスルするのを知っている女房は、まんざら悪い気はしないようだ。息子の部屋のダブルベッドで、窓を開け(二階なので)る。
「昼下がりの情事ね」と、女房はにっこり。女房の前穴に入れ、充分濡れた。ペニスを引き抜き、女房の愛液で充分菊座(肛門のこと)を愛撫したあと、いっ気に突き入れた。
 女房の肛門に入れるのは、じつに久しぶり。今年初めてだ。いかに私の性欲が弱いとはいえ、平野剛の画を見ると、ぴんと勃起し、先走りの水はしとど流れ出る。大脳を直撃するのだから、バックが可能なのだ。
 月に一、二度のセックスでも、女房は決して不満は言わない。「お父ちゃんは性が弱いから、無理しないで」と言う。
 女房を愛している。上に乗ってくれるだけでもいいと。指で誠実に前後の穴を奉仕するだけでも、気分は最高に達すると。
 バックは女房から申し出て始めたことだ。
 最初は苦痛で大変だった。なぜ、それまでというと、私の少ない男性経験を告白したとき、女房が自分のからだで、私のホモ行為をやめさせる決心で、身を投げ出したのだ。
 女のかわりに男を抱くのではなく、男と思って女房を抱くのだ。そのとき平野剛の画は前戯の役目を果たしてくれる。女房ともども男同士の画や、写真を枕許に置いて見ながらハッスルするのだ。
 女房は私が男と寝るのを許さず、自分とホモってほしい、私も女房を男と思って膣に入れる。白昼はダブルベッドで、明け方は夫婦のツインベッドで、女房にいどむと、
「お父さん、無理しないで、大丈夫?」
「なに、平気だよ」女房は「昼間バックしたから、お尻が痛いから後ろはいやよ」と。」

 地方の方だから、男を見つけにくいし、こうなってしまうのかな。コメントしにくい話だけど、お互いに楽しんでいるのだから、何も言うことはないか。

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読者を興奮させた平野剛の男絵

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第5回「伊藤文学と語る会」 
 
3月10日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!

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上京してきた寺山修司君との、最初の出会い

49b_2 寺山修司君が青森の高校を卒業して、早稲田大学教育学部国文科に入学したのは、昭和29年(1954年)18歳のときだ。
 『短歌研究』の50首応募作品に投稿、編集長の中井英夫さんの目にとまり、「チェホフ祭(原題・父還せ)が特選となり、11月号巻頭に掲載され、歌壇にデビュー した。
 その頃、ぼくも都内の各大学の短歌を作歌する仲間を集めて、大学歌人会を結成し、わが家を事務所にして活動していた。
 すぐさま寺山修司君を招いて、「十代作品を批評する会」を共立女子大学桜友会館で開いたのだから、ぼくの企画力はすごいことだ。1954年12月11日と、下手くそな文字だが自分で書いて壁に貼ってあり、開催日まで記しているのだから……。

49a 前列の右から2番目が寺山君で、目をとじているのがぼくだ。東京に出てきた寺山君と最初に出会ったのがぼくで、この写真に写っている半数ぐらいの人が、この世にいない。
 中井英夫さんもゲイ。中井さんは『薔薇族』が1971年に創刊される19年も前に、会員制の『アドニス』というゲイ雑誌の2代目の編集長をされていた。
 のちに國學院大学教授になった阿部正路君と、高田馬場の寺山君の下宿を訪ねたことは覚えているが、何をしゃべったかは忘れてしまっている。
 その後、寺山君はネフローゼという病気を発病して、早稲田大学を中退してしまった。
 寺山君は昭和58年(1983年)、47歳という若さで、5月4日亡くなり、もう、29年にもなるが、寺山人気は衰えることがなく、今月も2作品が再演される。
 ぼくのファン(?)の福岡市に住む、水澤さち子さんの劇団仲間の桜井玲奈さんが、下北沢の「ザ・スズナリ」で公演される、寺山作品「田園に死す」に出演するので、劇場が近いこともあり、観劇に行こうと思っている。

 『薔薇族』のNo.126.83年7月号に寺山君への追悼のことばを載せている。タイトルは「寺山君、天国で『薔薇族』をゆっくりと読んでください」と。

 「寺山修司君、才人はなぜ早く逝ってしまうのだろう。47歳、あまりにも若すぎた。(中略)
 寺山君はその頃から頭の回転がよくて、なまっているが、ペラペラとしゃべり、とってもかなわないと思ったのはよく覚えている。
 2年前の秋に京都大学の大学祭に招かれて、ぼくと寺山君と、もうひとり心理学の女の先生とで、討論会みたいなことをやった。そのとき出会った寺山君の顔色は悪く、元気がまったくなかった。
 弁舌のさわやかさは、学生時代と少しも変わりはなかったが、ぼくがよくしゃべるものだから、ぼくに主役の座をくれたような気がした。ぼくをひきたててくれたのか。
 寺山君が何度も自分がホモじゃないということを強調するものだから、ぼくがあまりそうでないという人こそ、そうなのだと言ったら黙ってしまった。
 寺山君、からだに気をつけろよと、会が終わってから声をかけたが、肝臓が悪いという彼の丸い背中は寒々としていた。
 いつか渋谷の大盛堂書店で、『薔薇族』を買っている彼を見てしまったけれど、モデルが見つからないで困っていると言ったら、劇団員をさしむけてくれたり、50号記念号には「世界はおとうとのために」という詩を寄せてくれた。
 寺山修司君、天国で『薔薇族』をゆっくりと読んでください。少しはのんびりと休んでもらいたいものだ。」

 「書かなくとも、それはたしかに存在している」に始まる詩に、彼のサインはなかった。

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  第5回「伊藤文学と語る会」 
 
3月10日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
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2012年2月25日 (土)

白毛の陰毛を贈ったんでは!

 一週間に2本のブログを書くだけのことだが、たった400字詰め、原稿用紙に4枚書く、それが、書きなれているはずなのに、意外と大変なことなのだ。それも休みなく続けるということは。
 他人さまのブログは、ネットを触ったことがない、ぼくには見ることはできないが、みんな何年も書き続けているのだろうか。
 若い猪口コルネ君との出会いがあってからは、きちんと土曜日、月曜日に更新してくれているので、今年に入って見てくれている人が増えて、一日800人にもなっていることはうれしいことだ。

 それが2月に入って、4日間ほど、ぼくのブログが見れなくなってしまったことがあった。それは「ニフティ」にお金を振り込んでいなかったためで、みなさんにご心配をかけたが、かえって復活後、増えているというS君の話なので、ほっとしているところだ。
 ぼくのブログを見て、コメントを寄せてくれている人も多いが、コルネ君が紙焼きにしたりして見せてくれているので、ぼくも目を通している。どしどし感想を寄せて下さい。
 ただし、英文のコメントは、残念ながら読むことはできません。

 年齢を重ねると、時間の経つのが早いこと、あっという間に一週間が過ぎてしまう。今度はブログに何を書こうかと考えているうちに、一、二日は過ぎてしまう。書く内容がきまれば、一、二時間もあれば書いてしまうのだが……。 
 最近はコルネ君が土曜日のひる頃、わが家を訪ねてくれて、先週渡した二本のゲラを見せてくれ、また新しい原稿を二本渡すという作業をくり返している。
 ぼくの著書に対しても、いろんな方が読後感を寄せてくれているのを読んでびっくり。著者にとって読んだ方から、ほめられるということは、こんなにうれしいことはない。
 ますます励みになって、本を出すのをやめると宣言したものの、機会があれば本を出したいという意欲も湧いてきた。

 カフエ「邪宗門」での「伊藤文学と語る会」も回を重ね、新しく参加してくれる方も増えているので、とりとめもない話しかできないが、3月10日(土)・午後2時から4時くらいまで、おしゃべりする。
 女性の方、高齢者の方も大歓迎。どなたでもコーヒー代、500円しか頂きませんから気軽におでかけ下さい。
 
 『薔薇族』の良き相棒だった、藤田竜君はアイデアマンで、奇想天外なことを考え出した。古い原稿の中から見つ50aけ出した2枚の絵、じつに面白い。
 ぼくの祖父、53歳で早死にしてしまった富士雄も、ユーモアのある人だったようだ。父の祷一は川柳家でもあったので、多くの作品を残し、ユーモアを解せる人だったが、内面(づら)が悪く、外面(づら)はいい人。

 長生きをすればどこかでまた逢える

 親父の川柳だが、ぼくも初恋の人と、かなりの年月が過ぎてから、偶然に出会い、亡くなるまで、お付き合いしていた。
 心臓手術で亡くなった妹を看護してくれていた、19歳の看護婦さんにぼくは夢中になってしまったことがあった。群馬の館林の人で、しんの強い女性だった。生きていれば出会うことができるだろうか。

 遠くから愛していればそれでよし

 親父、あの女のことだな。恋多き親父は幸せ者だった。年齢のことは忘れて、ぼくも新しい恋人を見つけたいが、白毛の陰毛を贈ったんじゃ、相手にされないか。
 藤田竜君、面白い人だった。

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第5回「伊藤文学と語る会」 
 
3月10日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
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2012年2月20日 (月)

30年そいとげたという男の話

 ぼくの80年の人生、過ぎ去ってみれば、あっという間という感じもするが、いろんなことがあった。自分のことよりも『薔薇族』という雑誌を通して、多くの読者の人生もかいま見ることができた。
 1983年・11月号・No.130に「30年そいとげて」という投稿が載っている。太平洋戦争にも従軍された方だ。

「戦時中、学徒出陣前(大学生が学業半ばで戦争にかり出された)ひとときを軍需工場に派遣され、現場主任のHさんと知り合った。武道で鍛えたからだで、人柄もいい方で、みんなに人望があった。
 ある日、宿直で一緒になり、眠っている間に、床の中にもぐりこんできて、マスをかかれた。人間同士の触れ合いの素晴らしさをそのとき始めて知った。
 昭和19年、12月に入隊、Hさんは営門まで送ってきてくれた。まったく別れは辛かった。すぐに北支に。女性のいない兵隊の間ではホモ行為は盛んだった。
 だいぶ誘われたが、Hさんの顔を思い浮かべて拒否し続けてしまった。それほどHさんとの思いが強烈で、他人の入りこむ余地がなかった。
 昭和22年4月に復員、Hさんもぼくの入隊後、すぐに応召、九州の部隊へ入隊。東京の家も空襲で焼かれ、奥さんは地方に疎開、消息不明で悶々としていたが、その年の8月ひょっこり訪ねてきてくれた。
 それからは上京のたびに、またはこちらから訪ねたり、東京に移られてからは、一週間に一度、十日に一度と、Hさんに奥さんがいたのに通いつめ、兄弟より親しい間柄になった。
 女性と結婚はした方がいいとHさんに言われ、結婚はしたが、あい変わらず逢っていた。年と共に互いに仕事が忙しくなってきたが、仕事の合間をみつけては、互いに誘いあって逢うのを楽しみにしていた。
 昨年、女房を亡くし、Hさんも3年前に奥さんを亡くし、それから一緒に暮らそうと話し合ったが、子供たちの手前、実現できなかった。
 ぼくの子供も結婚して嫁いで行ったので、昨年は二人とも身軽になって、本当によく逢った。家にきていく日も泊まり、出勤して行った。一緒の布団に寝たが、若いときのように激しさはなく、裸で抱き合い、せがれを握り合い、まだまだ元気だなと言いながら眠ったものだ。
 正月早々、娘さんから入院して危ないという知らせに病院にとんで行った。病室に入ったら、ふだんと変わらないHさんに、またびっくり。本人は風邪をこじらせて入院したのだと言う。
 病室を出て送ってきた娘さんが、小さな声で「お父さんは肺ガンで、医師に半年持つかどうか」と、言われたそうだ。
 愕然として、目の前がまっ暗になった。それから毎日、病院に必死になって通った。兄貴、頑張れ、死なないでくれと願いながら。
 だが三ヶ月後に、あっという間に死んでしまった。六十歳を過ぎていたが、スポーツで鍛えたからだは、身も心も五十代の若さだった。
 親や、女房の死は、あまり涙が出なかったのに布団の中に、かすかに残っていたHさんの匂いをかぎながら、泣けるだけ泣いた。
 30年ちょっと付き合えて、そいとげた思いで幸せだった。Hさんが死んで、これからひとりで生きていこうと、心に決めたが、やはり生身、ひとりでは生きていけない。Hさんが恋しい。男がほしい。」

 最後の「男がほしい」は、本音だろう。結婚した奥さんたちは、どんな思いで、この世を去ったのだろうか? 30年そいとげたというのは、男同士のことなのだから……。

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  第5回「伊藤文学と語る会」 
 
3月10日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
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2012年2月18日 (土)

コンクリートの崖の傷跡を残しておきたかった!

 先日、「渋谷東映」にひとりで映画「山本五十六」を観に行ってきた。平日の午後だったが観客は、3、40人、それも男性の老人ばかりだ。
 それは当然のことだと思った。戦前、戦後を生き抜いてきた、老人でなければ、この映画を理解できないし、若者には興味がないだろうから。
 昭和20年(1945年)終戦の年から、すでに67年の月日が流れている。終戦の年の5月25日は、世田谷方面がアメリカのグァム島の基地からとびたったB29の大空襲を受けた日だ。
 ぼくはこの日の朝のことを世田谷学園の同窓会誌「学友」に寄稿していた。

 「もう誰も、この傷跡を知らない。淡島の東急のバスの車庫から、坂を登ると左手に多聞小学校があり、坂を下る途中、右手はコンクリートの崖になっていて、その上は墓場だ。そのコンクリートの下から、1米ほどのところが、直径30センチほど、ざっくりとえぐりとられている。
 その傷跡を今、気にとめる人はいないし、なんでえぐられているのか知る人もいまい。(現在は崖がすっかり修復されて、表面はペンキで白くぬられている)
 昭和20年、太平洋戦争は日本の敗色が濃厚になってきて、日夜、東京はB29の空襲で廃墟と化していた。
 ぼくは世田谷学園の中学1年生、その夜の空襲はものすごく、B29は低空飛行で、爆弾や、焼夷弾を落とし、わが家のまわりは火の海、空気が熱くなって、息苦しいばかりだった。
 家を焼かれ、生命からがら逃げのびてきた人たちが、道路の片隅に放心したように座りこんでいる。幸運なことにわが家のまわりだけは無事だった。
 朝になって、いつものように鞄を提げて、学校に向かった。淡島のバスの車庫あたりから焼け落ちていて、坂を上りきったところの測機舎の建物も、左手の多聞小学校も跡形もなかった。
 道路には焼夷弾や、1米ぐらいの長さの爆弾の不発弾がころがっていて、道路は穴だらけ。
 コンクリートの崖をえぐるような傷跡の下に爆弾の不発弾が落ちていた。坂を下だる左側のキンカン本舗の工場も焼け落ち、豆炭のようなものが、真っ赤に燃えさかっていた。
 小さな橋を渡って、左手の山本オブラートの工場と、その周辺は焼け残っている。わが世田谷学園は、その先は焼け落ちているのに校舎は残っていた。
 夢ではないか、奇跡ではないかと思った。寄宿生たちが次々と舞い落ちる焼夷弾を必死になって消しとめたのだそうだ。天井を焼夷弾が屋根をぶちぬいて、天井にひっかかり火を放つので、世田谷学園の天井は、すべて取り去っていたのが幸いしたのだろう。
 確か焼夷弾は長さ4、50センチで、6角形、それが束になっていて、空中で落下するときにバラバラになり、落ちるような仕掛けになっている。中身は油脂で燃えやすくなっているのだから、その頃の日本の木造家屋は、たちまち火の海になってしまう。
 あの崖の傷跡は、いつまでも残しておきたかったが。5月25日の朝のことは、ぼくの記憶の中で鮮明によみがえってくる。」

 死刑囚の死刑執行は、法務大臣が決めることのようだが、在任中に一度も命令を下さない大臣もいるようだ。
 先日書いたけや木の木、2月上旬を待たずに切り倒されていた。ぼくが区長に手紙を出したので、公園管理事務所が面倒なことにならない前に、死刑執行(?)を決めてしまった。空洞があるとはいえ、せめて台風の季節の前ぐらいまで生かしておきたかった。
 これからもあることだろうが、長い間生きている樹木の首を切るような時には、よく考えてからにしてもらいたいものだ。

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焼け残った世田谷学園の校舎。現在は建てかえられて立派な校舎に。

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第5回「伊藤文学と語る会」 
 
3月10日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
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2012年2月13日 (月)

たった一通の手紙から真実の愛が!

 『薔薇族』の1977年の8月号、55号に、ぼくはこんなことを書いている。文通でしか仲間を見付けられない時代の話だ。
 文通欄にのせて、何十通もの手紙をもらった人よりも、たった一通の手紙で幸せになっている人がきっといる。そう思ってある号の一通しか回送をしていない人、丁度30通あまりの人に手紙を出してみた。
「一通の手紙が、あなたにどんな変化をもたらしたか」と。
 返事をくれた人は、7人の人たち、でもいたのだ。ぼくの思ったとおりだった。沢山の手紙をもらえば、粗末にして自分の気に入った人にしか返事を出さないで、あとはほったらかしということにしてしまうだろうが、一通しか手紙がこなければ、きっとその一通をおろそかにはしまい。
 やはり素敵な恋がめばえていた。東北に住む青年と、四国に住む人が、たった一通の手紙で結ばれ、なんと四国に渡って愛する人と一緒に住んでいたのだ。そのうれしい手紙は……。

「薔薇族を通じて、一人の若者より便りをもらいました。東北の生まれだという彼、東京の慶応大学を卒業ということで、空気のいい四国に行きたい、そしてあなたと一緒に生活をと言ってくれた。
 ぼくは高校時代から、人間生まれたときもひとりぼっち、どんなに苦しいときもひとりぼっち、死ぬときもひとりぼっちと考えてきた。
 都会のように素晴らしいハッテン場も知らずにきたぼくが、文通で知り合った彼に、この海の青い、空気の澄んだ四国にやってきてもらうことにした。
 彼も快くやってきてくれた。都会の水になじんだ彼が、田舎町でと思ったけれど住めば都のようだ。
 ぼくらは平凡でもいい、二人だけの生活を始めた。ぼくの親は反対だったが、今ではなにも言いません。二人が仲がいいからだ。
 人生、長いようでも短い。どんな美男子よりも、巨根の持ち主よりも、素直な男がいい。ひとりぼっちの生活よりは、笑い声もでるし、ひとりで食べる食事よりも、二人で食べるほうがおいしい。
 休日の日などは、朝食をすませてセックス、夜は夜で明け方まで。ぼくらはお互いに好きなのだ。子供は生まれないのだから、男と男、好きなときにやればいい。
 ぼくらは教養を高めるためにも、いろいろと勉強もしている。二人でよく旅にも出、先日も高知の足摺岬にもでかけてきた。
 世の中の独身貴族の人も、早く文通欄でいい人を見つけてください。お互いの場にふみこまないようにすれば、社会の人が白い目でみても、町内会にも入って、人と人の輪もけっこううまくやっています。
 ぼくらの住むマンションにも、若夫婦がいっぱいいますが、なにも言いません。ベランダには針植の花盛り、今は二人だけの新しい家を建てようと、貯金もしている。
 一通の手紙からでも、ぼくのように幸福になれるということを知ってもらいたい。」

 たった一通しか手紙が行かなかった人、30名にぼくはせっせと手紙を書いた。そして7人の人しか返事をくれなかったけれど、二人の人がこんな幸せいっぱいの手紙をくれたし、もうひとりの人も、彼が病気になって入院中だけど、手紙のやりとりをしているということだ。
 宝くじだって買わなければ、絶対に当たりっこない。文通欄も思いきって投稿しなければ返事はこないし、仲間はできない。
 今のように個人情報がどうのこうのということがない時代だから、こんなことができたのだ。

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表紙絵・星野悠二

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イラスト・藤田竜

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2012年2月11日 (土)

古き良き時代のアメリカの逞しさが!  ―カリフォルニア フルーツ ラベル―

41c  今から60年ほど前に、この世から消えてしまったのだから、若い人は知るよしもない。りんごや、みかんが産地から出荷されるときに木箱に入れられていた。その木箱の横っ腹にラベルが貼られていて、それを見れば産地が分かるようになっている。
 しかし、日本のラベルは芸術的なものはない。ぼくがコレクションしているのは、カリフォルニアのオレンジのラベルだ。

 1880年代から1950年代の半ばまでの70年間に、カリフォルニアのオレンジ栽培者たちによって、多くのカラフルなペーパーラベルが使用された。
 これは彼らがアメリカ中に出荷するオレンジの木箱を見分けたり、宣伝するためのものだ。今日これらのラベルに対するコレクターの興味は、その魅力的なデザインや、興味深い題材のために増えている。          

 アメリカでは1985年に『カリフォルニア オレンジ ボックス ラベル』という豪華な参考書が出版されていて、なんと印刷は大日本印刷とある。この本を参考にさせてもらって原稿を書いている。
 ぼくは英語はまったく読めないが、1988年にY・Tという女性の方が全文を訳してくれているので読むことができたが、この女性がどんな方だったのか、残念ながら覚えていない。

 オレンジはスペイン人の植民地開拓者によって、メキシコからもたらされ、1700年代後期に、はじめてカリフォルニアで栽培された。
 1870年後期と、1880年初めに、鉄道が建設され、これが南カリフォルニアと、北米大陸の他の地域とをつなぐことになった。
 このことはフルーツを東部市場へ進出させ、新しい開拓者の急激な流入を導いた。多数の開拓者が農村地帯に定住して、オレンジ園を始めた。
 有能なアーティストや、グラフィックデザイナーの手によって、オレンジボックスのラベルは簡単に理解でき、覚えやすいメッセージを含む、エレガントな小さなポスターとなった。
 オレンジのラベルは末端の消費者に向けられたものでなく、さまざまのブランドの中から、すばやく商品を決定する卸売業者に対するものであった。
 初期のラベルは石版画で製作され、6つの色を次々と重ねて印刷されることによって作られ、深みのあるものとなった。
 ペーパーラベルの使用は、1950年代半ばに、木箱がダンボール箱になって、不要なものになってしまった。ダンボールそのものに印刷されるようになったからだ。
 材木の値段が高くなり、木箱を組み立てる工賃が上がってきたころ、きびしい出荷条件に十分耐えうる強いダンボール箱が開発されてしまった。
 ラベル使用期間中、8000を越すラベルが作られ、20億以上のオレンジの箱に使われた。
 ラベルのデザインの数は、少なくとも15000を越してしまう。しかし、ラベルデザイナーで、アーティストのサインを残した人はいない。それはあまり誇れる仕事ではなかったからだろう。
 木箱に貼られたラベルは、薄い紙だからはがすことはできない。ダンボールにとってかわったことによって、多くのラベルが梱包会社や、印刷所に残されてしまった。それが多くのコレクターによってコレクションされるようになった。

 初期の頃のラベルは、ほとんど残っていない。これらのラベルから、カリフォルニアの歴史、コマーシャルアート史も知ることができる。古き良き時代のアメリカの逞しさが、ラベルを通して息づいているようだ。あふれるようなロマンを感じずにはいられない。

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1989・3 誠文堂新光社刊『アイデア』が紹介してくれた。

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2012年2月 6日 (月)

マスターベーションのお相手も仕事のうち!

「事実は小説よりも……」と言うけれど、『薔薇族』の読者から、家にいるといろんな電話がかかってきたものだ。
 ぼくが48歳のときとあるから、創刊して10年ぐらい経ったときのことだろうか。その日は風邪をこじらせて家にいたら、かかってきた電話。
 中学3年生からの電話だ。この中学生、ぼくが経営していた、談話室「祭」によく行くそうだ。そこで知り合った48歳のおじさんと親しくなった(今ならこんなことしたら大変だ)

 ある日曜日のこと、おじさんの運転する車に乗って、ドライブにでかけた。房総方面は春を感じさせるのどかな日だった。
 街道ぞいにあるしゃれたドライブインに車をとめたら、ドライブインはかなり混んでいて、楽しそうなアベックや、にぎやかな家族連れで大にぎわいだった。
 理想のおじさんと二人っきりなので、中3生すっかり甘えて、寄りそうようにしなだれかかって、たわいない話に夢中だった。
 ところがなんとなく自分の方を見ている視線に気づいて、そっちを見たらびっくり。親父がこっちを見ていたのだ。そのそばには22、3歳のかわいい女の子が一緒。
 なんという偶然! こんなことってあるものだろうか。あそこにしようか、ここにしようかと思いあぐんで車をとめたドライブイン。そこで親父に出会うとは……。
 もちろん、ぼくらは日帰りだったが、親父は泊まりだった。それからの親父のぼくを見る目がへんで、まったく口をきかなくなってしまった。

 それで心配になって、ぼくに相談の電話をかけてきたわけだが、どうも親父が勘づいたのではないかという心配だ。
 ノンケの親父さんだったら、息子が中年のおじさんと一緒だからといって、まず変な関係だとは絶対に思わないよと答えた。
 親父さんの方が不倫の関係(?)を息子に見られて、そのショックで声をかけられないのでは……。ましておふくろさんにでも、そのことをしゃべりやしないかと心配してのことだろう。
 だから何かのおりに「あのことは絶対におふくろには言わないよ」と、ひとこと言っておけば親父さんも安心する。そして自分のことは、学校の先輩に誘われてドライブしたと言っておけば、それ以上は疑わないよ。

 編集長って大変な仕事だった。どんな電話でもガチャッと受話器を置いたりはしない。一番大変だったのは、マスターベーションのお相手の電話だ。はあ、はあとよがり声をあげているのを果てるまで聞いていてやらなければならないのだから。
 そのうち早くいかせるコツもおぼえて、「君の大きいのかい」とか、こっちも参加してやったり、ぼくまでやりたくなったりして。

 もうひとりの高校2年生からの電話もショックだった。この高校生、自分の本当の親父さんが好きだというのだ。親父さんも男好きだったみたい。
 おしゃれでみだしなみがよくて、きれい好きだというから、親子そろってそうかも知れない。
 その高校生、親父さんが風呂に入ると、息子は必ずトイレに入る。風呂場とトイレがくっついているので、トイレに入ると風呂場が丸見えなのだそうだ。
 トイレに入ってなかなか息子が出てこないものだから、母親が疑いはじめて「なんでお父さんがお風呂に入ると、お前はトイレに入るの?」って言われたとか。

 こんな話を聞かされての35年。あっという間に過ぎました。

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2012年2月 4日 (土)

チビバラととんでもない話を!

39b  今から31年も前の1981年『薔薇族』の4月号に「電話の向こうはどんな顔? チビバラ電話ノロケ話」と題して、電話のお相手は、編集長のぼくと、田所大介君が待ち受けていて、話相手になっている。
 その時代は読者とのつながりは、郵便と電話しかなかった。もちろん直接訪ねてくる人もいたが。
 電話相談は誌上で予告していて、かなりひんぱんに行った。「チビバラ」というのは中・高校生のことだ。

 
●大きくて痛かった<札幌・マサト・高1> 
「ぼく、今、下宿してるんだけど、そこのオジさんと、もう3年も続いているんです」
伊藤―へえ~。オジさんは奥さんいないの?
「いるけど、働いているから、ほとんど家にいないんです」
伊藤―そのオジさんと、初めての時のこと教えてよ。すんなりいった?
「ぼく自分でオナニーして、それをオジさんに手伝ってもらったの。それでバックもするようになって……」
伊藤―初めて入れられた時なんか、痛かったでしょう?
「うん」
伊藤―オジさんの大きいの?
「だって、ほかの人の知らないから……」
伊藤―オジさんのしか知らないのか。じゃ、君のとくらべてどう?
「倍ぐらいある」
伊藤―そんなの入れられたら痛かったでしょう。今はなにかぬっているの?(こんなときラブ・オイルを使ってほしい)
「もう、なれたから……」
伊藤―奥さんは気づかないのかねえ。
「うすうす気づいているみたいだけど、仕事が生きがいみたいな人だから―」


●上で腰使ってほしいんだ<東京・北区・エキスパンダー・高3>
大介―経験は?
「まだ雑誌読んで、自分でやるだけ。サウナだとか、行きたいんだけど、どこかいいところ教えてください。大介さんなら知っているでしょう」
大介―本の広告に載っかっているでしょ。どんな人が好きかってのでも違うし。
「若いサラリーマンみたいな、普通の感じがいいんだけど」
大介―でも、ああいう所でやると、みんな見てるぞ。いいの?
「うん、他人のやっているところを見たいんだ。大介さんも行くんですか?」
大介―(ドキッ!)う、うん。行ったりもするよ。
「どうでした、最初は?」
大介―反対にインタビューされてるなあ。それまでにもう経験してたからね。キミの場合初めてだから、最初にサウナってのもどうかなと思うけどね。やる時、どんなふうにされたい? (ん、するどい質問)
「うん、上にのっかってもらいたいな」
大介―それだけ? ほら、たとえばしゃぶってもらいたいとかさあ。
「上で腰を使ってもらいたい」
大介―それじゃ女じゃないかよ。
「それでもいい。大介さんは、どういう所に出没してるの?」
大介―(うぐっ)えっ? いろいろ行くよ。(あせってごまかしてしまった)

「電話相談室」は早くから始めていて、最初の頃は、すごい量で回線がハレツするんじゃないかと思ったぐらい。
 この日も、2、30人のチビバラと話ができて、今から考えるととんでもない会話だけど、じかにチビバラの息づかいまで伝わってきて楽しい時間でした。かなり疲れましたが。なんで今の人、電話かけないのかな?

39a
巨人軍の原辰徳君のような
木村べんさんの表紙絵

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第4回「伊藤文学と語る会」 
 
2月4日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。どなた様もお気軽にお越しください。

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