« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月30日 (月)

障害者にやさしい日本に!

 『薔薇族』の編集長という仕事を長いことやってきたので、いろんな人と出会い、また経験し、知りえないような手紙も数限りなく読ませてもらった。
 この手紙は1991年、8月号の「編集室から」に紹介させてもらったものだ。精薄児の面倒をみている学校の先生からの手紙。

「世間の垢(あか)にまみれることのない青年たちは、心身ともにとてもきれいです。特に自閉的、ダウン的傾向にある子は、おしなべて美しい瞳をしていて、まるで神さまが、この世につかわした天使かと見まがうほどの美しい表情をしています。
 当校の大多数の生徒は、知能の発育は遅いけれど、からだと性だけは普通に生育している、いわゆる精薄の子供たちです。
 ホモへの要因はいろんな説がありますが、性の関心、発育が幼児期でストップした現象ととらえる説があります。私は先天的なものだと考えているし、途中で発育がとまったなんて、不自然な説は否定したかったのですが、養護学校に勤めて、いやが上にも、この説を認めざるを得ない、強烈な実証に毎日ふれることになりました。
 赴任一日目から、美高校生が硬く勃起したチンポをこすりつけて、強引に抱きついてきました。次の日からは自閉症のK君が、僕のからだをいじくり回しながら、オナニーを始めました。
 今では勃起した僕のものをしごいて、大喜びしています。とんでもない不謹慎と思われるでしょうが、あえて僕は自然にまかせています。
 この子らを無理にノンケ(女好きの男)にしたところで、どんな幸せが待っているというのでしょうか。生涯独身で女を買う能力もなく、童貞のまま空しい人生を送るしかないのです。
 学校の職員の8割は女性です。残り2割の男教師の中にホモがいる確立は低いのです。どの先生も男生徒が抱きついていっても、それが性の対象とは受けとめられず、投げ返したり、ぶったりします。それが原因かどうかは分かりませんが、Mの子が多いようです。
 Y君はよくお尻をつねってくるので、思いきりつねり返したら、ア~ンともだえ声をあげて、ピンピンになりました。それだけのことで感じる子供たちですから、本気でプレイしたらどうなるか心配です。
 一度、犯ってしまうぞと言って、チンポの上に座っただけで発射してしまったことがあります。ろくに洗ってないチンポですから、教室中にニオイが充満し、女の先生が顔を赤らめていました。
 食堂で朝食をしているときでも、両どなりの高3の子がお尻を触ってきます。彼ら同士でも、先生の見ていないところでキスをしたり、触りあったりが盛んです。精薄の子らは総じてホモか、ホモを拒まないといっても過言ではありません。ならば仲間同士でホモだち、恋男を作ることの方がより自然、よりハッピーだと確信します。」

 女性の好きな生徒は、どのように性欲を処理しているのだろうか。女性の先生に抱きついたりはしていないのか。
 この学園には女生徒はいないようだけど、女性の生徒たちはどうして性欲を処理しているのだろうか。
 この先生の話は、20年以上も前の話だけど、今もあまり変わりはないのでは。車椅子で生活している身体障害者の男の読者が、毎号、毎号、文通欄で投稿して、相手を求めているので、なんとかしてやりたいと思うものの、どうにもしてあげられなかった。
 ぼくも身体障害者手帳を持っていて、都営のバス、電車も無料。日本も障害者にやさしくなってきているのでは……。

064
キューバの古い葉巻煙草のラベル

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月28日 (土)

読者にいやしの心をあたえた『薔薇族』

『薔薇族』の読者って、ロマンティックな人が多いから、詩の投稿も多かった。「薔薇詩集」と題した頁を作って載せている。

夕べの海に着いて
オートバイを浜辺において
僕は大きく息を吸う
サーフィンの帆の彩りが
沈みゆく太陽に光る
一時間もそうしていると
僕の気持ちはすっかりリフレッシュする
恋人とセックスした翌朝のように
僕の気持ちは充ち足りている

海に来るのが僕は好きだ
恋人に抱かれながら
口を吸われながら
ファルスが大きく硬くなりながら
少しずつ着ている物を脱がされながら
ふたりとも全裸になりながら
両手の指をやさしく肌に這わせながら
お互いの口から自然に声がもれながら
ファルスを喉の奥でこすりあいながら
聖液を飲みあいながら
果てあった後の安らぎを思うから
海に来るのが好きだ
海は僕の恋人
恋人よ
君は僕の海だ

『薔薇族』は、読者のいろんな思いを発散させる場になっていた。小説を書く人、エッセイを書く人、イラストを描く人、ゲイの人がそれらを発表する場がなかったのだから、多くの投稿が寄せられたのは、当然のことだろう。
 この詩は1991年の10月号に載せたものだが、その号の「編集室から」に、僕はこんなことを書いている。21年も前のことで、僕が59歳のときだから、まだまだ元気で、ライトバンの車に出来上がったばかりの『薔薇族』を重量オーバーになるくらいに満載して、上野をかわきりに、新橋、新宿、池袋と、ひとりで運転してポルノ・ショップなどにくばって歩いていた。

「5月に東京の大学を卒業した友人と、二人でディズニーランドで遊んだ翌日、新宿2丁目を案内してもらい、「ルミエール」や、「ブックスローズ」(今はない)などを見て回りました。もちろん昼間のことですが。
 二軒ともで、貴誌上でおなじみの文学氏が、各店に『薔薇族』を運搬しているのを見て、驚かされました。
 今の世の中、どこでも人手不足で大変なときですが……。そういう人々の努力で本ができ、その本によって多くの読者が支えられ、心の傷をいやしているのだと納得。
 今までは目に見えなかった物、事、人などを少しかいま見たような気がしました。
 出版にたずさわっている、さまざまな人たちに感謝しています。今年はとくに暑く、つらい夏ですが、お体に気をつけて、これからも頑張って下さい。」

 この心あたたまる読者からの手紙に対して僕はこんなことを書いている。

「人手がないから、本を自分で運搬しているのではなくて、一種の使命感みたいなもので運んでいるのです。でも人がみると、白毛が増え、それに髪がうすくなってきているから、気の毒にと思われるのかも知れません。
 元気なうちは、これからも自分で車を運転して、お店に出来上がったばかりの本を届ける。結構楽しいものなのですよ。」
 このあと雑誌が厚くなるばかりで、とっても運ぶ体力はなくなってしまったけれど、あのずっしりとくる重みは、まだ、腕の中に残っているような気がしている。

063
内藤ルネさんのイラストと思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月23日 (月)

ノルウェイからきた美少年と!

 どんなに法律を作り、少年愛者を罰しようとしても、人間がこの世に存在する限り、根絶することはできまい。
 少年を愛するということは、何度も言うようだが、趣味ではなく、もって生まれてきたものだからだ。どんなに重い罰則を作ったとしても、永遠にその人たちが、いなくなることはない。
 1991年の『薔薇族』10月号に、少年愛者からのこんな投稿が載っていた。長野県の60歳の男性からだ。

「あのノルウェイから来た美少年は、今頃この地球のどこで何をしているだろう、と、ふと思い出す。当時まだ14歳の牧師の子だった。
 神戸の映画館でのこと。普通の封切館の、しかも午後2時頃という時間帯に、まさかあんな出会いがあろうとは思ってもいなかった。
 2階の座席に、その金髪の少年と私以外に人はいなかった。私はその頃は25歳の商社マン。仕事と仕事の合間に、2時間くらいの空白を置く必要があったので、どうしようもなく入った映画館だった。
 突然、少年が英語で時間を聞いてきた。「今、何時?」と聞くのをきっかけにするなんてのは、チンプな手段ではあったけれど、私の胸はおどった。
 休憩時間にその少年の顔を見た瞬間から、私の胸騒ぎは始まっていたのだから……。
 ホテルでジーパンを脱がすと、その下には何もはいていなかった。
「どこでこんなPLAYを覚えたの?」
「PLAY? PLAYじゃないよ!」
 少年はムキになった。髪は金色だが恥毛は赤く、それほど茂ってはいない。その柔らかな毛に包まれて、コトのあとも元気なかわいいペニスに、私は熱い唇をつけた。
 厳格すぎる父親に反発して、学校にいる時間に映画館で遊ぶ美少年。いったいだれが最初にこの少年に男を愛し、愛されることを教えたのだろうか。」
 アメリカでは牧師さんと、少年との関係が暴露されて問題になったことがあった。それがひとり、ふたりでなく、何人もいたことが分かって。
 神に仕える聖職者が自分を抑えられないのだから、信仰を持たない一般人をせめることはできない。法律で規制すればするほど、地下にもぐっていくだけで、永遠に解決できない難しい問題なのだ。
 こんなかわいい投稿もある。埼玉県の23歳になる青年からのものだ。
「あれは中学のころ、いちばん仲の良い友達の家に遊びに行ったときでした。彼が電話で私を呼び出してきて、嬉しくなった私は2キロあまりの道を自転車をとばして向かいました。
 ふたりで近くの畑のミカンを取ったりして、疲れたのでベッドでひと休みしていました。
 彼が眉毛を抜いてくれと頼むので、彼の胸にまたがり、1本、1本抜きとりました。そして私の番です。私の上に彼がまたがって眉毛を取り始めました。
 私があまり近すぎて、恥ずかしいので目をつむると、彼は突然にくちびるを重ねてきたのです。そのときは、ちょっとふざけただけでした。
 でも、それから触りっこしたり、抱き合ったりして楽しむようになりました。ホモとかそういう世界の知識もなかったころですし、今でもいい思い出です。
 彼は女性と結婚したようだし、私もいずれはするでしょう。」

 少年愛の人たち、ほとんどの人は自制しているでしょうが、僅かの人が法を犯してしまう。女好きでも、男好きでも、それはほんの僅かの人たちで、性の問題って、あまりきびしく、しめつけない方が、ぼくはいいと思うのだけど……。

062

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月21日 (土)

「ヴァニラ画廊」でバイロスの作品を見てほしい!

 自慢するわけではないが、ぼくの仕事は日本で最初というのが、誇りではあった。数えあげたら両手の指では数えきれない。それができたということは、会議を開いて相談して決めるということではなく、ひとりでの仕事だから、自分で決断すれば、それで実行できた。
 世界で初の仕事もいくつかある。蔵書票(エクスリブリス)を展示する美術館を造ったのも世界最初だし、これは故・京都大学名誉教授の生田耕作さんが、「バイロス侯爵讃」というメッセージを寄せてくれたのを読めば分かることだ。

 1992年11月1日~29日まで新潟の「弥彦の丘美術館」で、ぼくのコレクションを展示する「バイロス展」を開いたときに寄せてくれた。「バイロス展」も世界で最初だ。
「遠い新潟の弥彦の里で、このたび世界に先駆けて、「バイロス展」が開催されると聞き、いささか意表を突かれると共に、バイロスの絵画を愛する者として、まことに嬉しく心から讃辞を捧げます、
 バイロスは、イギリスのビアズレー、フランスのロップスと並んで、ヨーロッパの世紀末絵画を代表するオーストリアの異色画家であります。
 彼の作品は、ロココの優雅な装飾性と、アール・ヌーボーの憂愁を兼ねそなえた、優雅で気品のある、見事な芸術品です。とりわけ蔵書票の製作においては世界最高のアーチストといわれながら、今もって正当な評価を受けることなく、今日に至っております。
 今回の展覧会を通じて彼の芸術が、より多くの方々に認められ、愛されるきっかけとなりますことを切に祈ってやみません。」
 生田先生を紹介してくれた、バイロスのコレクターであり、研究家でもあり、バイロスのことを教えてくれた友人の神戸に住んでいた山本芳樹さんも、この世にいない。

「エクスリブリス・コンチェルタート・日欧幻想書票展」が、2012年4月16日~28日まで、日本の代表的な蔵書票作家の作品と、ぼくのコレクションのバイロスの作品が展示即売される。
 入場料は¥500、12時から17時まで営業、場所は「ヴァニラ画廊」だ。4月21日(土)特別トークイベントが開催され、内田市五郎先生と出品作家とのディスカッションがある。会費は¥1000(ワンドリンク付)17時開場。ぼくも出席しているので、声をかけてください。
 蔵書票(エクスリブリス)といっても、どういうものなのか理解できないと思うけれど、「ヴァニラ画廊」に足を運んでもらえば、どういうものかが分かり、興味が湧いてくるだろう。
『ユリイカ』(青土社刊)の1992年12月臨時増刊号・第24巻・第13号(通巻328号)の『総特集・禁断のエロティシズム』に澁澤龍彦さん、海野弘さん、種村季弘さんらと、おこがましくも、肩を並べて、「フランツ・フォン・バイロス・バイロス侯爵の霊よ、安らかに眠れ!」と12頁に渡って、図版入りで書いているので、古書でみつけるか、図書館で読んで下さい。
 バイロスの研究者の山本芳樹さんは、バイロスはゲイだからこそ、異色の作品を残せたと、ぼくが言うと嫌がっておられたが、二度結婚をされているが、間違いなくゲイだと確信する。そのバイロスにぼくが出会ったことも不思議な縁ではないか。
 バイロスの作品を見て、嫌だなと思ってしまう人と、深く吸い込まれるように、とりこになってしまう人がいる。
 サイン入りのバイロスの作品は少ない。とにかく「ヴァニラ画廊」におでかけを!

061a
バイロス侯爵のお墓

061b
061c
バイロスの蔵書票

061d
20年前に開かれた世界初の「バイロス展」

061e
061f

//////////////////////////////////////////

第6回「伊藤文学と語る会」 

4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!

//////////////////////////////////////////

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月16日 (月)

歌手のクミコさんが、百万本のバラを贈ってくれた!

 桜が植樹された頃、昭和7年3月19日生まれのぼくは、100日目のお食初めのときに青山の隠田から、世田谷区代沢5-2-11に越してきた。
 それから80年、この植えられたばかりの桜の木は老木となり、寿命がきて植えかえられている。ぼくも桜の木と同じように年を重ね傘寿といわれる年齢になってしまった。
 満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争を体験し、戦後の食糧難の時代を過ぎ、高度成長の時代からバブルの時代、バブルがはじけ、デフレで落ち込んでいくばかりの元気のない日本になっている。

 そこへ2011年3月11日の東北大震災、1年たっても復興にはほど遠い。
 そんなときに誕生パーティなんて、考えもつかなかったが、古い友人のカメラマンの中嶌英雄君が所有している銀座のお店が、人に貸してあったのが廃業してしまうというのを、自分で引き継いで営業するという。
 カメラしか触ったことのない男が、バアなんてやれるの? 「まじかな」と思ったら、本当だった。店名の「まじかな」というのはなんのことはない、「なかじま」をさかさまにして読んだだけという。

 2012年2月25日、「まじかな」はオープンした。
 俳優の清水紘治さんなど、多くのお客さんで、にぎにぎしくオープンしたが、不景気のどん底の時代、果たして営業を続けられるか心配だ。
 少しでも中嶌君のお役に立てればと、傘寿のお祝いの会を「まじかな」でと、3月20日、春分の日に、午後1時から4時まで、「80年生きた感謝の集い」を開催した。
 南米の陽気な人たちに自殺する人はいない。そうだ「トリオ・ロス・ペペス」を招いて、明るい陽気な歌声を聞かせてもらえば、みんな元気になるのではと思い、出演をお願いした。
 10数年前に新潟の弥彦村の「ロマンの泉美術館」でも、何度かコンサートを開いたことがある。

 8000円の会費で、みんな集ってくれるか心配だった。出欠のはがきの戻りが悪いので、20人も集まってくれればと思っていたのが、なんと40人を越えてしまった。
 代沢5丁目の75年も住んでいた家の隣家の歯医者だった中村治郎さん、代沢小学校のまん前で、お父さんがブリキ屋さんの田村茂夫君、幼な友だちだ。お兄さんはぼくより1級下で、仲良しだった。
 世田谷学園の同期生の水野弘文君、畔田健一君、木村和男君、みんな80歳を越えている。木村君など道に迷ってやっとたどりついたそうだ。みんな年をとったということか。
 雑学倶楽部の会員たち、いつもぼくの会には来てくれている。『薔薇族』の校正をしてくれた菅沼美佐保さん。世田谷学園から駒大まで一緒だった江田和雄君、中学時代はクラスも違ったので話したことがなかったのに、駒大の校舎の屋上で寂しそうな江田君に出会ったのが、口をきいた最初だった。
 下宿を追い出されて住むところがないと言う。それならぼくの家に来たらと、風呂場の前の脱衣する3畳の部屋に、なんと半年近くも住んでいた。
 林泉寺の住職になり、劇団「人間座」を主催していい仕事を残したが、ガンで早死にしてしまった。その江田君の未亡人の江田由里恵さんもきてくれた。
 トリオ・ロス・ペペスの演奏もすばらしかったが、歌手のクミコさんも来てくれて、「100万本のバラ」を熱唱してくれたではないか。
 毎年、ぼくの年の数だけバラを贈ってくれた間宮浩さんもこの世にいない。100万本のバラを贈られて、こんな幸せ者がどこにいるだろうか。心あたたまるひとときだった

060a
「百万本のバラ」を歌ってくれたクミコさん

060b
元気をくれたトリオ・ロス・ペペスの熱演

060c
昭和7年頃の桜並木

//////////////////////////////////////////

第6回「伊藤文学と語る会」 

4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!

//////////////////////////////////////////

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月14日 (土)

神津島へ、エメラルドの海を越えて!

 50年も前のぼくの母校、駒沢大学の新聞「駒沢新報」に投稿した、ぼくの記事の切り抜きがみつかった。昭和37年5月15日発行で、定価は15円とある。
「エメラルドの海を越えて」という見出しで、年は何歳か上だが、同期の卒業生の神尾小次郎君を神津島に訪ねたときのものだ。

「東京に在住する同窓生だけでも、10年ぶりに会おうではないかと、キングレコードの長田暁二君と協力して、同窓会を開いたことがある。
 そのとき16時間かけて漁船できたんだよと、汗をふきふきかけつけた男がいた。ざんばら髪の真っ黒に日焼けした神尾君だった。
「神津島で10年も先生をやっているんだ」
 そのときは誰も聞きなれない島の名でピンとこなかった。
 4月のある日、突然の電話だった。駒大高校に生徒を入学させるので、つきそってきたのだという。「帰るときに知らせるから一緒に島に行かないか」と誘われた。
 神津島、伊豆七島の中の一つで、有名な大島、それから利島・新島・式根島、その先が神津島だ。
 東京から176キロ、周囲約22キロ、戸数500、人口3千人足らずで、小、中校1校ずつのその中学校(生徒250人、先生12、3人)の教務主任が駒大国文科出身の神尾小次郎先生こと、ガミオ先生(ガミガミうるさいから)である。
 竹芝桟橋から東海汽船ご自慢の新造船600トン、13ノットの「あじさい丸」で、夜11時に出港、翌朝6時に、あこがれの神津島に着く。
 家賃750円だという、うそみたいな彼の家、裏がすぐ山で海が見える高台にある。荷物は一足さきにちゃんと置いてあった。
 玄関を開けると誰か寝ていた。「先生帰ってきたけえ」村の青年だった。彼の留守中、かわりばんこに寝泊まりしていたらしい。
 青年団の集会にも出席してみたが、ぼくの胸を打ったのは、この青年たちであった。彼がこの島に渡ってきた頃からの教え子で、23、4ぐらいで、ほとんどが漁師だ。
「島を愛せないものは駄目だ」彼はいつもこう青年たちに語りかけている。彼の10年の苦労が無言のうちにも、青年たちを見ていると分かってくる。
 この島には写真屋がいない。彼が村の写真屋だ。学校の写真はもちろん、村人の冠婚葬祭、あらゆるときに引っぱり出させられる。学校に暗室を作って生徒たちに一切の技術を教えてもいる。
 8ミリで彼が1年がかりで島の風景を撮った記録映画は、文部大臣賞を受けている。
 内地から都のお役人や、報道関係者が来島すると、案内して歩くのも彼である。島には屋根のある車はないから、オート三輪が島のタクシーで、それに乗って島中をがたこと走り回る。
 10年、彼をそんなにまで島に執着させたものはなんだろう。美しい風景はどこにもある。しかし、この島に住む人口のそれにも増して、美しい人の心が彼をとらえて離さないのだろう。
 君の教育は、この神津島で活き活きと生きている。躍動している。東京なら陰惨なお寺の墓場が花園のように、毎日美しい花が供えられている。宗教も、教育も生きている島、いつまでも、いつまでも美しい島と、美しい人の心に幸いあれ。」

 ぼくは何度も、何度もこの島を訪れている。ガミさんも、すでにこの世にはいないが、教え子たちが今も島を守り続けているに違いないのだ。

059a
神津島のガミさん、故・神尾小次郎君

059b
流人たちの墓

//////////////////////////////////////////

第6回「伊藤文学と語る会」 

4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!

//////////////////////////////////////////

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 9日 (月)

「絆」なんて言われなくても、みんな助けあっていた!

「絆」(きずな)という文字を毎日のように目にし、耳にしている。2011年3月11日の東日本大震災があってからのことだ。
 震災にあった東北の人たち、家を失い、肉親を失った人たちが、みんな助けあって生きている姿は、海外の人たちにまで感動を与えた。
 東北の人たちには、見知らぬ人たちであっても助けあう気持ちが残っていたが、さて大都会に住んでいる人たちはどうだろう。

 マンションに移り住んできて、手みやげを持って挨拶に回ったが、電気がついているのにベルを押しても出てこない部屋もあった。どの玄関にも部屋番号だけで、表札を出している部屋はない。
 苗字も分からないし、どんな人が住んでいるのかも分からない。これでは強い地震があって避難生活を余儀なくされるようなことになったら、お互いに助けあうことができるのだろうかと心配になってくる。
 これほど「絆」と叫ばれているということは、大都会に住む人たちが、他人に干渉しないという風潮が広がって、無関心になっているからだろう。

 わが家の末娘、紀子(みちこ)が心臓の発作をおこしたのは、昭和36年12月のクリスマスの日のことだから、今から51年も前のことだ。
 年が明けてから東京女子医大の心臓外科に妹を連れて行ったが、医師からは手術をしなければ、2、3年しかもちませんよと宣告されてしまった。
 すぐに入院を申しこんだが、1年も待たなければ、ベッドがあかないという。当時は、心臓手術を手がけている病院は、東大病院と東京女子医大病院しかなかったから、全国から患者が押しかけていた。
 入院の通知を受けとったのは、8月9日の暑い日で、3号館の401号室、8人部屋に入院することができた。それから長い入院生活が始まった。
 手術の日が決まっても、医師の都合で手術の日が何度も延期されるものだから、妹はやけくそになって、突然、家に帰ってきたり、新宿に遊びに行ってしまったりして、ぼくらを困らせた。
 そこでぼくは朝日新聞の「読者のひろば」という投稿欄に「妹に激励の手紙を」と呼びかける文章を送った。
 昭和37年10月3日の朝刊に載った。個人情報なんていわれない時代だから、病院の住所から、わが家の住所まで載っている。

 当時の朝日新聞の威力は、すさまじいものがあった。わが家に花束をもって訪ねてくる人がひっきりなしで、病室には400通を越す手紙が寄せられた。たどたどしい小学3年生の手紙から、90歳の老人からの手紙もあった。
 手紙をくれた人たちは、学生、地方から上京して住みこみで働いている店員さん、工員さん、お手伝いさん、いろんな病気で苦しんでいる人たちばかりだった。お金持ちや教育者、宗教家はひとりもいない。自分も苦しいから、人の苦しみも分かるのだろう。
 それからいろんなことがあったが、8人部屋の女性たち、助けあうなんていうことは、自然なことで、50年も前の人たちは、それが当たり前のことで、今考えると「絆」の原点みたいなものだった。それは日本人のいいところだったのだ。
『ぼくどうして涙がでるの』を電子書籍にしたいという申し入れがあって、しばらくぶりに読み返してみて、みんなが助け合って入院生活を送っていたということに自分で感動してしまった。

 4月頃には電子書籍ができあがるだろう。しかし、それを販売してくれる会社が現れるかどうかだ。実現したらぜひ力を貸してほしい。
 読売新聞にこんなうれしい書評が載っていた。「甘やいだ文章にかかわらず、ドキュメントには珍しい文学性が全編にキラキラしていて、不思議な感動をよぶ書物である」と。

058a
058b
キングレコードから発売されたレコードのジャケット

058c
今は亡き妹、紀子と5歳の坊や

058d
十朱幸代さんと妹の紀子

//////////////////////////////////////////

第6回「伊藤文学と語る会」 

4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!

//////////////////////////////////////////

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年4月 7日 (土)

孤立しているゲイの老人をどうしたら支えられる?

「孤立死」。なんとも悲しい文字だ。最近になっても、この文字が新聞紙上でも目につく。
 自分が年をとってみると、独身生活を続けてひとりで生活しているゲイの老人たちのことが気になる。
 ネットなどいじらない人が多いだろうから、年老いたゲイの老人に、呼びかける方法がみつからないもどかしさがある。

 30年も前の『薔薇族』の「人生薔薇模様」という読者の投稿欄に、老人の逞しいパワーを感じさせる投稿が載っている。やはり文通欄が役に立っていたのだ。

「この一年間、文通にて知り合いになった老人、10名ほどで伊豆にて温泉パーティーを催しました。
 上は80歳の長老から、下は相棒の40歳未満の方まで、最初は初対面の人なので、うちとけずにいましたが、湯につかり酒が入るほどに口も軽くなり、唄が出て踊る者もあり、酔いしれるほどに、実演するものもいて、それをのぞくもの、写真を撮るものもありで、乱痴気騒ぎになってしまいました。
 最長老のおじいさんは、元某財閥系の会社の役員を退いて後、六本木でゲイバアを経営しておられ、斯道のリーダーを任じている人でした。
 ある役者あがりの老人は、軍隊生活中、自分のひ弱なからだでは、お国へ充分な奉仕ができないと、もっぱらやせ尻ひとつで、下士官から上官まで、すっかり手玉にとって、苦しかるべき軍隊生活をいとも楽しい思い出として満喫した。
 舞踊家の師匠による民踊の踊り、元漢文の先生による中世浮世絵の解読・解説など、どれも豊富な知識、及び体験などによる話題が夜を徹して語り明かされました。
 そのうえ、お互いに連れてきた相手が、だれと寝ようが意に介さずというところなど、実に大人の遊びとしては、このうえない醍醐味と申せましょうか。
 あのホモ宿のミックスルームのように、ただひたすらに、セックスのみにその目的を置かず、旅館のデラックスな雰囲気の中で、安らぎを覚え、深い深いねむりにおちいり、また翌朝も、温泉宿独特のリラックスした朝食を終え、それぞれ満足して四散した次第です。
 主催者のひとりとして、内心は老人が多いこと、万が一、病気や事故が生じないかなど、多少の不安はありましたが、終わってみれば、どうしてどうして、みなさん心から楽しまれ、よろこんで帰路につかれ、後日、数々の礼状を頂戴しました。
 老人方が世にいう日陰者の生活などいっさい考えず、積極的にこのような会合に参加し、友人を作り、明るい社会生活がおくれればと祈る次第です。(杉並区・楽天家)」

『薔薇族』の文通欄があったから、このようなパーティーを開けたことを思うと、文通欄の威力にはおどろかされる。
 『薔薇族』の編集部といっても、ぼくがひとりで企画し、実行したことだが、知り合いや友人がホテルの支配人をしているところを借りきって、バス2台でのりつけたりもした。

 2代目編集長の竜超君も、なんとか孤立しているゲイの老人に声をかけ、集めたいと考えているが、ネットを見ているのは若者が多く、集まってくるのは若者ばかり。
 ぼくのブログで呼びかけている「伊藤文学と語る会」カフエ「邪宗門」で催して5回ほどになるが、50代の人は参加してくれているが、70代、80代の人はいない。どうしたら老人たちに知らせることができるか、お知恵を貸して下さい。

57a  ブログの威力もすさまじく、福岡市のぼくのブログを見てくれている女性の招きで、4月14日福岡市の「大手門カフエ」で語る会を開くことに。日本国中、どこにでも行くぞ!















57b
//////////////////////////////////////////

第6回「伊藤文学と語る会」 

4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!

//////////////////////////////////////////

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年4月 2日 (月)

劇画で見る伊藤文学という男

 2008年2月に、「ミリオン出版株式会社」から発行された『漫画ナックルズ撃・GEKI・VOL・03』に「日本初のホモ雑誌を作った男=同性愛のバイブルの生みの親・激動の30年」というタイトルで、ぼくのことが劇画化された。

 4年も前に出された雑誌だから、おそらく読まれた方は少ないのでは。こまかいところで間違いはある。ぼくの親父が女を作って家出したとあるが、ときどき帰ってこなくなったとか。しかし、何時間もかけてしゃべったことを20頁にまとめてくれたのだから、たいしたものだ。
 絵もリアルに描いてある。ぼくの顔がハンサムに描かれているのは、照れ臭いが。
 「エイズ初の日本人患者」のくだりは、力を入れてしゃべったことで、きっちりと描かれているので、ここだけはよく見てほしい。

 ブログを見てくれている若い人たち。劇画の方がよく見てくれるのではと、ミリオン出版の編集部に電話をかけて、ブログに入れることを承諾してもらった。
 動画でも見れるし、劇画でも見れる。ますます文字だけの本を読む人は少なくなっていくだろうが、絶対に本がいいという人もいるわけだから、好みが分かれてきたということだろうか。
 ぼくの一生を劇画にしてくれる人、いないかな。

劇画のPDFはこちら(5.47MB)

//////////////////////////////////////////

第6回「伊藤文学と語る会」 
 
4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!

//////////////////////////////////////////

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »