神津島へ、エメラルドの海を越えて!
50年も前のぼくの母校、駒沢大学の新聞「駒沢新報」に投稿した、ぼくの記事の切り抜きがみつかった。昭和37年5月15日発行で、定価は15円とある。
「エメラルドの海を越えて」という見出しで、年は何歳か上だが、同期の卒業生の神尾小次郎君を神津島に訪ねたときのものだ。
「東京に在住する同窓生だけでも、10年ぶりに会おうではないかと、キングレコードの長田暁二君と協力して、同窓会を開いたことがある。
そのとき16時間かけて漁船できたんだよと、汗をふきふきかけつけた男がいた。ざんばら髪の真っ黒に日焼けした神尾君だった。
「神津島で10年も先生をやっているんだ」
そのときは誰も聞きなれない島の名でピンとこなかった。
4月のある日、突然の電話だった。駒大高校に生徒を入学させるので、つきそってきたのだという。「帰るときに知らせるから一緒に島に行かないか」と誘われた。
神津島、伊豆七島の中の一つで、有名な大島、それから利島・新島・式根島、その先が神津島だ。
東京から176キロ、周囲約22キロ、戸数500、人口3千人足らずで、小、中校1校ずつのその中学校(生徒250人、先生12、3人)の教務主任が駒大国文科出身の神尾小次郎先生こと、ガミオ先生(ガミガミうるさいから)である。
竹芝桟橋から東海汽船ご自慢の新造船600トン、13ノットの「あじさい丸」で、夜11時に出港、翌朝6時に、あこがれの神津島に着く。
家賃750円だという、うそみたいな彼の家、裏がすぐ山で海が見える高台にある。荷物は一足さきにちゃんと置いてあった。
玄関を開けると誰か寝ていた。「先生帰ってきたけえ」村の青年だった。彼の留守中、かわりばんこに寝泊まりしていたらしい。
青年団の集会にも出席してみたが、ぼくの胸を打ったのは、この青年たちであった。彼がこの島に渡ってきた頃からの教え子で、23、4ぐらいで、ほとんどが漁師だ。
「島を愛せないものは駄目だ」彼はいつもこう青年たちに語りかけている。彼の10年の苦労が無言のうちにも、青年たちを見ていると分かってくる。
この島には写真屋がいない。彼が村の写真屋だ。学校の写真はもちろん、村人の冠婚葬祭、あらゆるときに引っぱり出させられる。学校に暗室を作って生徒たちに一切の技術を教えてもいる。
8ミリで彼が1年がかりで島の風景を撮った記録映画は、文部大臣賞を受けている。
内地から都のお役人や、報道関係者が来島すると、案内して歩くのも彼である。島には屋根のある車はないから、オート三輪が島のタクシーで、それに乗って島中をがたこと走り回る。
10年、彼をそんなにまで島に執着させたものはなんだろう。美しい風景はどこにもある。しかし、この島に住む人口のそれにも増して、美しい人の心が彼をとらえて離さないのだろう。
君の教育は、この神津島で活き活きと生きている。躍動している。東京なら陰惨なお寺の墓場が花園のように、毎日美しい花が供えられている。宗教も、教育も生きている島、いつまでも、いつまでも美しい島と、美しい人の心に幸いあれ。」
ぼくは何度も、何度もこの島を訪れている。ガミさんも、すでにこの世にはいないが、教え子たちが今も島を守り続けているに違いないのだ。
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第6回「伊藤文学と語る会」
4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!
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