「絆」なんて言われなくても、みんな助けあっていた!
「絆」(きずな)という文字を毎日のように目にし、耳にしている。2011年3月11日の東日本大震災があってからのことだ。
震災にあった東北の人たち、家を失い、肉親を失った人たちが、みんな助けあって生きている姿は、海外の人たちにまで感動を与えた。
東北の人たちには、見知らぬ人たちであっても助けあう気持ちが残っていたが、さて大都会に住んでいる人たちはどうだろう。
マンションに移り住んできて、手みやげを持って挨拶に回ったが、電気がついているのにベルを押しても出てこない部屋もあった。どの玄関にも部屋番号だけで、表札を出している部屋はない。
苗字も分からないし、どんな人が住んでいるのかも分からない。これでは強い地震があって避難生活を余儀なくされるようなことになったら、お互いに助けあうことができるのだろうかと心配になってくる。
これほど「絆」と叫ばれているということは、大都会に住む人たちが、他人に干渉しないという風潮が広がって、無関心になっているからだろう。
わが家の末娘、紀子(みちこ)が心臓の発作をおこしたのは、昭和36年12月のクリスマスの日のことだから、今から51年も前のことだ。
年が明けてから東京女子医大の心臓外科に妹を連れて行ったが、医師からは手術をしなければ、2、3年しかもちませんよと宣告されてしまった。
すぐに入院を申しこんだが、1年も待たなければ、ベッドがあかないという。当時は、心臓手術を手がけている病院は、東大病院と東京女子医大病院しかなかったから、全国から患者が押しかけていた。
入院の通知を受けとったのは、8月9日の暑い日で、3号館の401号室、8人部屋に入院することができた。それから長い入院生活が始まった。
手術の日が決まっても、医師の都合で手術の日が何度も延期されるものだから、妹はやけくそになって、突然、家に帰ってきたり、新宿に遊びに行ってしまったりして、ぼくらを困らせた。
そこでぼくは朝日新聞の「読者のひろば」という投稿欄に「妹に激励の手紙を」と呼びかける文章を送った。
昭和37年10月3日の朝刊に載った。個人情報なんていわれない時代だから、病院の住所から、わが家の住所まで載っている。
当時の朝日新聞の威力は、すさまじいものがあった。わが家に花束をもって訪ねてくる人がひっきりなしで、病室には400通を越す手紙が寄せられた。たどたどしい小学3年生の手紙から、90歳の老人からの手紙もあった。
手紙をくれた人たちは、学生、地方から上京して住みこみで働いている店員さん、工員さん、お手伝いさん、いろんな病気で苦しんでいる人たちばかりだった。お金持ちや教育者、宗教家はひとりもいない。自分も苦しいから、人の苦しみも分かるのだろう。
それからいろんなことがあったが、8人部屋の女性たち、助けあうなんていうことは、自然なことで、50年も前の人たちは、それが当たり前のことで、今考えると「絆」の原点みたいなものだった。それは日本人のいいところだったのだ。
『ぼくどうして涙がでるの』を電子書籍にしたいという申し入れがあって、しばらくぶりに読み返してみて、みんなが助け合って入院生活を送っていたということに自分で感動してしまった。
4月頃には電子書籍ができあがるだろう。しかし、それを販売してくれる会社が現れるかどうかだ。実現したらぜひ力を貸してほしい。
読売新聞にこんなうれしい書評が載っていた。「甘やいだ文章にかかわらず、ドキュメントには珍しい文学性が全編にキラキラしていて、不思議な感動をよぶ書物である」と。
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第6回「伊藤文学と語る会」
4月21日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出も自由です。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858
※テーマなしで自由に語り合います。ぜひ、お出かけを!
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コメント
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50年前の時代を 私は 知らない世代です。
戦後から 高度成長時代に 向かう途中の時代かなぁ?
みんな 貧しい時代かなぁ?
3種の神ギの時代かナァ?
服も 食い物のも ない時代かナァ?
50年前と言うと マイカーブーム前かなぁ?
その後 ベビーブームになるのかなぁ?
だいぶ ずれた コメントで すいません。
歴史研究会(名前検討中 ~研究会(名前検討中
投稿: 村石太レディ&ハイツ&老人探偵団 | 2012年4月16日 (月) 20時32分