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2012年5月21日 (月)

草がぼうぼうと生え茂っていた「吉原」の歴史

 ぼくの祖父、伊藤富士雄(大正12年6月2日、53歳で没)から、直接、話を聞いて書いたという、沖野岩三郎さんの著書、『娼妓解放哀話』(昭和5年6月刊・中央公論社)から、何度もブログで紹介してきた。

 桜の季節になると、花見客寄せに「おいらん道中」を開いている街が新潟にある。おいらんは女郎の中からえらばれた女性ではあるが、自由をうばわれた女郎に違いない。
 お金で売られてきた女たちの苦しみを知ったなら、「おいらん道中」など開けるわけがない。
 もう一度、本を読まないぼくではあるが、読み返しはじめたら、序文にこんなことが書かれている。

「日本民權史の一部として、娼妓自廃の歴史を書いてみたいと思い出したのは、もう10年も前のことで、亡くなられた伊藤富士雄君が私を訪ねてこられたときからだ。
 伊藤富士雄君は、救世軍(軍隊組織でキリスト教を布教している団体)士官として、娼妓の自由廃業に、一身を捧げた闘士であった。およそ1200名の娼妓から、自由廃業の相談を受け、その中の987名を完全に廃業させた。」と。

 ぼくは残念ながら(?)、浅草の近くの「吉原」に足をふみ入れたことはないが、その「吉原」の歴史が書かれている。

「江戸(現在の東京)には、慶長の初年まで遊郭(昔、遊女屋の集まっていた地区)というものはなかった。
 慶長(1596~1614)10年に江戸城修復のときに、柳町にある20軒ばかりの遊女屋に立ちのきを命じた。
 慶長17年12月に相州(さがみ)小田原藩の武士であった、庄司甚右衛門という人が遊郭をつくりたいという願いを出した。
 その理由は刑事上の罪人を捕らえやすく、浮浪者のとりしまりに好都合だということだ。その時代は豊臣家が滅んで、間もない頃で、諸国の浪人たちが、江戸に入りこむ者が多く、徳川幕府もその取締に困っていたときだった。出願者の庄司甚右衛門は、町奉行の米津勘兵衛の評定所に呼び出され、本多佐渡守正信立ちあいの上、くわしいとりしらべがあって、元和(げんな)(1615~1623)3年3月に、いろんな條件をつけて、それを守るようにとのことで、今の日本橋に、2町四方の土地を興えてそこに集娼地を造らせた。
 当時、そのへんは葺屋(ふきや)町といって、葭(よし)がぼうぼうと生え茂った沼地だったのを、埋めたてて翌年11月には、すっかり工事が完成した。
 葭が生えていた所だから「葭原」といったのだろうが、のちに「芳原」といい、さらに「吉原」というようになった。
 出願者の庄司甚右衛門は、吉原遊郭の名主を命じられ、大門を入った第一の右角に、大きな技樓を立てて、商売が繁盛したようだ。
 その後、江戸が日本の中心になって、以前は草ぼうぼうだった吉原へんが、江戸の中心になってしまった。
 将軍家綱の時代になって、江戸のまん中に遊郭があるのは、風紀上よくないということで、明暦(1655~1657)2年10月9日に、本所、浅草の2ヶ所に移転候補地を選んで、その何れかに移れという命令をくだした。」

 ぼくは今、時代劇専門チャンネルにはまっていて、「鬼平犯科帳」「剣客商売」などを見続けているが、その中で必ず「吉原」が登場するし、地方から流れこんできて、くいつめた浪人たちも登場する。
 最近は江戸時代に生きているような感じにさえなっている。長屋に住んでいる貧乏な人たちが助けあって生きていた、いい時代だったのかも。

070
明治の時代、暴風雨のあとは水びたし

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