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2012年5月26日 (土)

「新吉原」は、こうして誕生した!

 徳川の将軍、家綱の時代に、江戸のまん中に遊郭が存在するのは、風紀上よくないということで、明暦2年10月9日に、本所、浅草の2ヶ所に移転の候補地を決めて、その何れかに移転せよとの命令を下した。
 この命令が下って、遊郭側でまだ相談をして決めかねていたときの明暦3年正月18日に、有名な振袖火事(ふりそでかじ)が、本郷丸山の本妙寺から出火して、江戸の町の大半を焼きつくした。吉原遊郭もその火事に追い立てられて、日本堤と浅草寺の間の千束村に接したところに、2町4面(ぼくにはどのくらいの広さか分からない)の土地を使って建設したのが、今日、存在するところの「新吉原」なのだ。

 最初の設計は日本堤から大門までの50間の道路をまっすぐにつけてあったが、神尾備前守が、それでは風紀上よくないというので、見返り柳のところから、3つに折れて大門に達すように、道路をまげてしまった。
 それは廓で酒を呑んで、酔っぱらった連中のみっともない姿をおおっぴらに見られないようにしたのだ。
 そこへ遊びに行く連中も、さすがに顔を見られるのを恥じて、編笠茶屋で深編笠を買って、それをかぶって、顔を見られないようにして吉原へ通ったようだ(恥部を隠そうとするのは、今も昔も変わらない。新宿2丁目が赤線地帯だったころ、へいで囲って見れないようにしたことがあったっけ。お役人の考えることはいつも同じだ)。

 幕府はこの新吉原の建設に対して、金1万5千両(今のお金にして、どのくらいの金額になるのか、頭のいい人、教えて)を補助した。
 それは殺人事件や傷害事件を起こしたものが、廓にくることが多いので、鬼平のような人がつかまえやすいという利点と、もうひとつは江戸中に散在していた、売春婦をみんなこの新吉原に集めようとしたのだ。だから新吉原のできたあとは、江戸市中の売春婦を見つけ次第つかまえ、新吉原に送って、一生そこから出せないようにした。
 いつの世でも貧しいということは悲しいことだ。親に売られたりする女性は多かった。手っとり早くお金をかせぐためには、女性は自分のからだを売る。これは永遠に変わらないだろう。女性だけでなく、男性でもからだを売る若者はいるが。

 ひとりの売春婦が捕らえられて、新吉原へ送られたとき、「果てしなき浮世の端に隅田川流れの末をいつまでか汲む」と和歌を作った(教養のある売春婦も存在していたのだろう)。
 その和歌を読んだ、名奉行として時代劇にひんぱんに登場している大岡越前守が、それはいかにも可愛そう過ぎると言って、それからは江戸市中で捕らえられた売春婦は、3ヶ年だけ、新吉原で働けばいいということにしたという話が残っている。
 お上(かみ)にも、お慈悲があるという言葉は、よく時代劇に出てくる。捕らえた犯人に対して、お役人がよく使うセリフだ。

 ブログには怒りに堪えられないことばかりだが、政治のことは書かないことにしている。民主党の小沢一郎代表、なんと無罪になってしまったが、これは誰が考えたって、無罪ということはあり得ない。これもお上のお慈悲なのだろうか。
 日光の東照宮(行ったことがないが)の参道に並んで建てられている灯ろうには、廓の経営者の名前がきざまれているものもあるようだ。
 いつの世にも権力者とつながりで、わいろを贈る連中がいたのだろう。貧しいものが泣きを見る世の中は、いい世の中とは言えないのでは。まだまだこの話は続く。

071
祖父が持っていた、明治時代の絵はがき

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