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2012年8月18日 (土)

日本人の寿命がのびたものだ!

 先日、銀座の画廊で、ぼくのコレクションの「バルビエ」の作品を展示してくれた。画廊のお手伝いに来ていた、早稲田大学国文科のかわいい女性と話しこんでしまったが、歌人の斎藤茂吉の名前をまったく知らないという。
 最近、茂吉のことを調べなければならないことがあって、にわか勉強を始めた。
 斎藤茂吉は明治15年・7月27日に山形県南村山郡に生まれ、昭和28年・2月25日に新宿区大京町の自宅で、満70歳9月で亡くなっている。
 茂吉は昭和の柿本人麻呂とも、歌聖とまでいわれた人で、処女歌集『赤光』の中の「死にたまふ母」の一連の歌は、教科書にも取り上げられている。

 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかわづ天に聞ゆる

 歌誌「アララギ」の主宰者でもあり、昭和26年(1951年)には、文化勲章を受けたような方であっても、没後59年が経てば忘れられてしまうのか? 「アララギ」も今はないし。
 あっという間に月日が過ぎ去っているのだから、よほど有名な方でなければ、今の若者は知らないのが当然かも知れない。
 終戦直後の昭和22年(1947年)11月、疎開先の山形県大石田から、長男、茂太自宅兼診療所を開いていた、世田谷区代田1丁目に戻ってきた。茂吉65歳のときだ。
 環状7号線道路などのない、閑静な住宅地で、代田八幡宮の下にあり、茂吉の二階から白糖のような雪をかぶった、富士山が見えた。
 その頃、ぼくの父は、15年も勤めた第一書房が、戦時中に廃業してしまい、戦後すぐに第一書房の編集部員だった、斎藤春雄さんが、代田川の桜並木のすぐそばで、斎藤書店を興していた。
 空襲で多くの家が焼かれ、当然のことで書物もなくなったので、戦後は紙の手配さえできて本を出せばなんでも売れた。
 斎藤書店は景気がよかったのだろう。山形にまで、本を出す交渉に訪れていた斎藤さんは、泊まったホテルで、仲居さんにあげたチップが高額だったので、狭い田舎のことで話題になったそうだ。
 父は昭和23年に第二書房を創業するまで斎藤書店の手伝いをしていた。その頃、茂吉の「童牛漫語」と「童馬漫語」を父が手がけていたので、茂吉はよくわが家を訪ねてきている。
 茂吉は日記をつけていたが、その頃、ひんぱんに校正刷りなどを持って訪れていたことが記されている。
 昭和22年の2月12日には、伊藤祷一氏奥さん、一女性患者を紹介してもらったとある。神経科の茂太さんの診療所を訪れる患者は、少なかったのだろう。その頃、停電も多く、電灯つかずと、ときどき記している。
 茂吉は疎開先で大病を患ったようで、帰京後も足が弱っていたのか、皮靴を履けず地下足袋を履いて、どこにでも出かけていた。

 老身よひとり歩きをするなかれかかる声きけばなほ出で歩く

 老いといふこの現なることわりに朝な夕なは万事もの憂く

 60代といえば、今の人たちは老人といえないほど元気だ。茂吉の時代からみたら、ずいぶんと寿命がのびたものだ。80を過ぎたぼくが、やっと茂吉の心境がわかりかけているのだから・・・・・・。

095
晩年の茂吉

第10回「伊藤文学と語る会」

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8月18日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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