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2012年10月

2012年10月29日 (月)

過去を知らなければ未来を語れない!

『薔薇族』は、平成16年の11月号・No.382で廃刊に追いこまれてしまった。印刷所がこの号で投げ出したのだから、読者に廃刊を伝えることもできずにだ。
 それから8年にもなる。月日の流れのなんと早いことか。

 全盛期には『薔薇族』の目玉だった、「薔薇通信」に1000人を越す読者が、仲間を見付けるために投稿していた。ネットのない時代、「薔薇通信」を使うことが、仲間探しの最良の方法だったから。

 ネットの急速な普及で、手紙を書いて出すなんて、長い時間をかけての仲間探しは、過去のものになったのは当然のことだ。
 最後の382号の「薔薇通信」欄には、112名しか載っていない。これはネットを使えない人が投稿していたのだろう。

 廃刊をマスコミが大々的に取り上げてくれたので、反響も大きかった。ネットの2ちゃんねるに数えきれないほどの書き込みがあって、それを紙焼きにしてぼくに送ってくれた人がいたので読むことができた。
 大多数の人は好意的な見方をしてくれていたが、なかには手ひどい批判の声もあった。

「ぼくのじいさんは、80歳を過ぎているが、ワープロを打ち、ネットでメールも送っている。ネットを触れない編集長は失格だ。」と書いている人もいた。

 それから8年、今もってネットを触ろうという気持ちにはならない。ならないというより出来ないというべきだろうか。携帯電話すら持っていないのだから。
 今の時代、ネット万能の時代で、なんでもネットで検索とあるのだから、ぼくにはなんにも知ることができない。みんな新幹線や、飛行機で移動しているのに、ぼくだけカゴに乗っているようなもので、時代おくれなことは自覚している。

 人間ほめられれば、うれしいし、批判されれば気分が悪いし、気にもなる。ぼくのブログを読んで、感想を寄せてくれる人もいて、ぼくにかわって更新する役をひき受けてくれている、ありがたい猪口コルネ君が紙焼きにして見せてくれる。

 雑誌を出し続けていた時代、多くの批判を受けたことがある。ぼくがノンケだから、本当の意味でゲイの人の気持ちを理解できないのではという批判。スタッフからもさんざん言われたが、これはどうにもならないことで、より理解しようと努力するしかなかった。
 東郷健さんからは「ゲイを食いものにしている」と、言われもした。それならばなぜ、ぼくよりも先にゲイの人がゲイ雑誌を出さなかったのか。

 長い文章なので前後を省略してしまって、申し訳ないが、こんな批判もある。

「可哀想な同性愛者だと、上から目線でさげすむのはいい加減で止めて頂きたい。「悪いことをしていない」などと、ゲイにとって当たり前のことを言わないで頂きたい。強固な怒りを覚えます。
 今、ネットの世界では、ゲイの世界が無限に広がっています。伊藤さんはネットをやられないから、ゲイの実態をご存じないのでしょう。
 フェミニズムが女性当事者の学問、運動であるように、ゲイムーブメントもゲイ自身に担われないといけません。当事者以外のヘテロ男や、女がゲイの世界に口出しするのは越権であり、厳に慎まれなければなりません。」

 正しい意見です。ぼくのところへは電話もたまにしかかかってこないし、手紙もきません。だから今の時代のゲイの人たちの意識を知ることはぼくにはできません。ただネットがなかった時代の読者がどんなことに悩み、苦しみ、どんな思いで生きていたのかを、今に生きる人に伝えたいとブログを書き続けている。

 過去のことを知らなければ、未来を語れないからだ。ゲイの人たちが少しでも幸せに暮らせるように、もう君にまかせます。口出しなんかしません。しかし、毎日、2000人もの人が、ぼくのブログを見てくれているという事実、それはなにか共感するものがあり、訴えるものがあるからでは。

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若き日の伊藤文学

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2012年10月27日 (土)

斎藤茂吉の歌碑を建てる夢の実現へ!

 昭和の歌聖とも、柿本人麻呂ともいわれた、斎藤茂吉をご存知だろうか。

 昭和28年(1953年)に、71歳で亡くなられているので、59年も前のことだ。
 昭和26年(1951年)には、文化勲章も授章されている方で、アララギの主宰者でもあり、おそらく高校の教科書にも作品がのっているので知名度は高い。

 茂吉は神経科の医師であり、青山脳病院長でもあった。長男の茂太さんも神経科の医師として有名だった。次男の宗吉さんは、北杜夫のペンネームで活躍された。
 今や多くの茂吉のお弟子さんたちも他界され、「アララギ」もない。茂吉を研究している人たちも、茂吉に出会ったことはないだろう。

 そんな茂吉と何度も出会ったことを僕は自慢にしている。山形の疎開先から、長男の茂太さんが神経科の診療所を開いていた、世田谷の代田の家に帰京していたのは、昭和22年(1947年)の11月のことだ。
 その頃、ぼくの父、祷一は第一書房の仲間だった斎藤春夫さんが、戦後いち早く自宅で斎藤書店を興したのを手伝っていた。
 斎藤書店で茂吉の『童馬漫語』『童牛漫語』を出版することになり、父が手がけた。代田川の桜並木を下ってくる途中の高台に斎藤書店があったので、そこにも寄り、代沢小学校のそばの伊藤の家に、茂吉はしばしば訪れている。

 その頃、僕は世田谷学園の中学2年生だった。風呂敷に包んだ校正刷りを持ち帰るのが重そうだったので、父が茂吉の家まで送りなさいと言いつけられた。
 茂吉は65歳だったが、腰は曲がり、今の60代とは違って、いかにも老人という感じだった。地下足袋をはいて歩くのもよたよたしていたが、眼光だけはするどかった。
 茂吉の家までの途中、何をしゃべったかはまったく覚えていない。父が留守のときに茂吉が訪ねてきたことがあった。丁度そのとき、ぼくの姉が腹痛でねこんでいた。母が、茂吉が医者だということを知っていたので、診てくださいとお願いしたら、茂吉は2階にあがって、お腹をさすったりして診てくれたが、よくは分からなかったようだ。
 後で聞いた姉の話だと、茂吉の指はざらざらしていたそうだが、神経科の医師で現役から遠ざかっていた茂吉が、気軽に診てくれたなんて、今、考えると診てくれと頼んだ母も母だが、診てくれた茂吉って面白い人だ。

 この茂吉が代田川を歌った一首が、最後の歌集『つきかげ』の中にある。

 代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花
 もほほけそめつつ

 この歌を美しくなって、せせらぎが流れる桜並木に歌碑を建てたいというのが、ぼくの長い間の夢だった。ボランティアで緑道を清掃し続けている「代田川緑道保存の会」の代表、林清孝さんが世田谷区の公園課へ働きかけて、歌碑を建てる許可をとった。
 ただし、金銭的な補助はできないという。そこでブログを見てくれている、心ある人にお願いだ。目標額の150万を達成すべく支援してほしい。

●ご寄付の振込先:みずほ銀行 北沢支店 普通預金口座 1262704 代田川緑道保存の会

 この緑道沿いには、茂吉の他に、萩原朔太郎、横光利一、中村汀女、田村泰次郎、森茉莉、三好達治、宇野千代、加藤楸邨など、こんなに多くの文人たちが住んでいた町は都内でも珍しい。
 この歌碑とともに「文学の小路」という石柱も建て、京都の「哲学の道」以上の東京の名所にしたいと願っている。

 幸いなことに世田谷文学館で、10月6日(土)~12月2日(日)まで「齋藤茂吉と『楡家の人びと』展」が、北杜夫を追悼して開催される。ぜひ、見に行ってほしいものだ。

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晩年の斎藤茂吉

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2012年10月22日 (月)

山川純一を追い出した竜さんが……

「どうして三島由紀夫さんは、希代の理知をぶっとばしての自己肉体愛なのであろう。
 二十代の避暑地での三島さんについて、著者は『痩せた裸が恥ずかしいのなら、海水パンツひとつで白日の下に出てこないはずである。それなら股間が……が、その点になると私のものとは比較にならぬぐらい立派なのであった。』という。

 さて、それなら著者、福島氏の性器とはどんなものであろうかと、僕はいぶかる。

『週刊文春』に出ていた写真の若き日の福島氏に、若き日の僕は似ている。柄も大きい。その僕が、あの時の福島氏と同じ年齢の時、僕は三島さんに、ある秘密パーティーで会い、誘われて後日デートした。
 当時、人気いちばんの日活ホテルのグリルに現れた三島さんは、原語でいくつかの料理を注文した。警視庁の剣道場で練習をしてきたのだと言った。

 そしてタクシーで大久保の秘密めいた粋な旅館に行った。部屋に入るとシャワーをあびたらと僕は言われ、そうして出てくると、三島さんは黒い水褌(すいこん)ひとつで足を開いて仰向けに寝ている。目は閉じて。

 経験のまだ浅い当時の僕には思い及ばないことだったが、今思えば、さあ、俺の体を自由にしてくれ、さわってくれ、賞賛しまくってくれの状態だった。
 陽に焼いて黒い、小さな固い物体というようなものであった。行動しなければならぬ。とりあえず黒い小さな三角布をはずした。そしてお気の毒と思ったのだった。
 体臭のきつさは吐き気を催すほどのものだった。おそらく剣道場で汗をかいたままにしておいたのだろう。ご当人はフェロモンと信じて。

 そしてどうなったのか、細部は忘れてしまったが、何事もせず、ふとんの中で話だけしたのを覚えている。それ以降、もう電話はかかってこなかった。

 三島さんに男性の最も男性たる部分に、多少なりの自信があれば、ああまで筋肉に執着することはなかったろう。筋肉は第二の男性的特徴である。その第二のものに頼らざるをえなかったわけだ。(福島氏は三島さんに花を持たせようとして根本を誤ってしまった――)
 三島さんは同性愛的には、本当に充足することはなかっただろう。ナルシズムをくすぐって近づいてくる青年は、単なる興味本位だけであったろうことは誰でも思いつく。興味本位に充足させる真実のあるわけがない。

 あの大量の作品を産み、映画にも出演し、芝居にも出、シャンソンを歌い、ボクシングをやり、えっというほどに、何かというと、すぐわざとらしく高らかに笑うなど、常に男性的演技をし続けて――思えばなんとお疲れさまで、かわいそうな人生だったことか。すべては性器に由来する演劇人生だったと僕は断じることができる。

 さりながら本書『三島由紀夫――剣と寒紅』が出たとはいえ、三島さんの作品の評価とスター伝説には、いささかの影響もなかろう。
 一般の人には「同性愛の三島由紀夫」は更に不可解になり、より一層の輝きを増し、文庫本は売れてゆくのである。」

「やらないか!」の山川純一を自分のシュミにあわないからと、追い出してしまった藤田竜さん。ヤマジュンだけでなく、何人ものスタッフをやめさせてしまった。
 一緒に住んでいた内藤ルネさんが、しみじみと僕に「トンちゃん(竜さんのあだ名)が少しでも他人を思いやる気持ちがあれば」と、言っていた。ここまで書いていいものだろうか? 確かにトンちゃんのあそこは立派だった。その自信がここまで書かせたのか。

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2012年10月20日 (土)

朝日新聞の購読をやめてよかった!

 父の代からずっと100年も購読し続けてきた朝日新聞。父が戦後の昭和23年に株式会社、第二書房を創立し、昭和20年代に出版した、原爆歌集「広島」、戦犯歌集「巣鴨」、基地闘争歌集「内灘」、療養歌集「試歩路」など、いずれも社会面トップで紹介してくれた。
 昭和30年代後半には、ぼくの妹が心臓手術で長いこと入院していた、東京女子医大病院の心臓病棟の401号室での出来事を描いた『ぼくどうして涙がでるの』の出版に至るまで、朝日新聞の支援がなければ、日活での映画化にまでこぎつけることはできなかった。
 妹が二度目の手術の甲斐なく亡くなったときなどは、異例とも言える社会面トップで、その死を報じてくれた。
「週刊朝日」は「週刊試写室」で、高名な映画評論家、荻昌弘さんが、かなりきびしい映画評を書いてくれて、脚本には熱を感じられると書いている。

 こんなに恩義のある朝日新聞の購読をやめるなんて、ぼくにとっては大きな決断だった。
「週刊朝日」2012年10月26号の「佐野眞一・緊急連載スタート・ハシシタ・救世主か衆愚の王か・橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶり出す」の大見出し。表紙に橋本さんの写真を入れている。いつもの笑顔の写真でなく、右半分を影にした、悪人をイメージしたような写真だ。

 本文の見出しは、「パーティーにいた謎の人物と博徒だった父」
「大阪府知事になって5年弱。橋下徹は一気に政界のスターダムの座をもぎとった。だが彼への評価は賛否に分かれ、絶賛と嫌悪の感情は混じり合わない。彼の本性をあぶり出すため、ノンフィクション作家・佐野眞一氏と本誌は、彼の血脈をたどる取材を始めた。すると、驚愕の事実が目の前に現れた。第1回は、彼の実父の話から始める。」
 橋本さんのことをなんで「ハシシタ」と呼ぶのか、その意味が分からない。馬鹿にしているからなのか、それに許せないのは「奴の本性」と、悪意に満ちた見出しをつけている。
 大阪市長の橋本さんを呼びつけにして、佐野眞一さんの名前の下には「氏」を付けている。そんなに佐野眞一さんって偉い人なのか。
 佐野眞一さんにあとの責任をなすりつけるつもりか。+本誌取材班とあるが、本誌取材班だけで記事にすべきだったのでは。卑怯と言われても仕方があるまい。

 朝日新聞も地に落ちたものだ。購読をやめて正解だった。
 今や、新聞も、週刊誌もみんな売れなくなっているので、こんな記事を載せて売らんかなという気持ちはよく分かる。
 新聞の勧誘員のつらい話を聞くと、つい同情してしまうが、やっていいことと悪いことがある。
 橋本さんが昨日(10月18日)の記者会見で、自分のことはどんなに悪く書かれても仕方がないが、父や、祖父のことまで持ち出すのは許せない。ましてや、父がやくざだったり、水平社あがり(被差別部落出身)と書いたのはとんでもないことだと。
 現在、市長として活躍している橋本さんと、この世にいない、父、祖父とはなんの関係もない。

 こんなかつてないひどい記事を書いて、すぐに川畠大四・週刊朝日編集長は、おわびしたが、おわびですむものではない。
「日本維新の会」をやっつけてやろうという、裏で何かの力が働いているのか? 元はといえば不景気にあるとぼくは思う。みんなのふところが豊かなら、こんな売らんかなの記事など載せるわけがないからだ。連載は中止にすべきだ!

Asahi

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肉体を改造すると、こんなにも変わるのか!

 藤田竜君の福島次郎著『三島由紀夫――剣と寒紅』(文藝春秋社刊)を読んでの「三島由紀夫はなぜ裸体を見せ続けたのか」は続く。

「昭和45年11月の私設軍隊、楯の会の若者をひきつれて(火のないところへ火をつけて)自衛隊の変となる。
 望みどおり「忠のため」スタイルができた舞台で、三島さん究極の快楽、「みんなに見られる中での切腹」、介錯人により「わが首を切り落とされる」案件をみごとに、計算どおりに果たす。

 あの日、来客中であった僕のところへ友人が、すぐテレビを見ろと電話してきた。客のいる前でつけると、オリジナルの軍服を着て鉢巻きをした三島さんが自衛隊員に、二階の西洋風バルコニーから、右翼的決起をうながして叫んでいた。
 それにしてもテレビ生中継とは手早い。みんなに見られるため、周到なそれとない手配を事前にしていたのだろう。

 この日から、二、三日、僕は食事がとれないくらいのショックを受けた。その全世界的事件勃発の報を受けても、福島氏はテレビにかじりついたりしない。椅子にいつまでも座っている。頭上の暗い雲がはらわれる思いだったというのだが、どんな思いを長いこと三島さんに抱いていたのだろう。

 超自慢のヌード写真集『薔薇刑』を見て、文芸評論家の奥野建男氏は「どうして男性の肉体の美意識について、三島とぼくはこんなにも違うのだろうと、三島由紀夫の文学を敬愛しているだけにかなしくも、さびしくもあった。そして滑稽でさえもあった」と感想を記している。
 福島氏も同感という。

『鍛えぬかれた男性の裸身は、勿論、美しいと思う。ただ、三島さんの場合は、なぜか違うのである。見たくない――それが正直な気持ちだった。
 なぜかという、その理由はよくわからないのだが、――おそらく三島さんの自分をみてほしい、ほめてほしいという気持ちが、水に浮く油のように、ぎんぎんとにじみ出ているからではないか。
 一般の男性モデルにしても、自分の筋肉美を見てもらいたい意識はあるのだろうが、三島さんの場合、その奥にある本心は、自分に欲情してもらいたいという願望、性の生にえとして、祭壇に立たされた、りりしい男性という思い入れがあるから、それが見る者に、どろどろした印象を与えるのだと思う。』

 みごとに的確な指摘である。だからポーズは常に演劇的で力みかえり、故にかえって扇情性が希薄になってしまうのだが、ご本人は力みたいのだから仕方がない。
 かつて、これからセックスをする相手にも、絶対に自分の裸形を人に見せまいとした、あの若い日の極端なまでの痩身コンプレックスはまるで嘘のように消えている。コンプレックスが強い分だけとんでもない反動になったのだろう。

 ベッドでも、相手がシャワーを使って出てくると、すでにこれ見よがしの全裸であお向いているようになっていた。
 15年前、相手を先にベッドにねかせて、裸身をさらさないようにして、やがて獣があえぐような声を震わせて、相手の体に這いのぼってきたのとは大違いになってしまった。

『目をつぶった私には白いくものようにさえ思えた』小さくて細いぐにゃぐにゃの肉体と態度だったのに――。』

 福島次郎さんも、序文にこの本を書きあげるまでに長い年月をかけたと記している。
 福島次郎さんも、藤田竜さんも、すでにこの世にいない。三島由紀夫さんはゲイだったからこそ、すばらしい多くの作品を残したということだけは忘れてはいけない。

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第12回「伊藤文学と語る会」

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10月20日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2012年10月15日 (月)

三島由紀夫は「美しい日本の男」になろうと!

  亡くなった内藤ルネさんが、何度か電話をかけてきて、『三島由紀夫――剣と寒紅』(文藝春秋刊)の著者、福島次郎さんの若き日の写真を残された、お母さんに頼んで手に入れてほしいと言われた。
 三島由紀夫さんが初対面で気に入った福島さん、背が高く、いい男だったに違いない。その話は果たせないままに、ルネさんんも亡くなってしまった。
 藤田竜さんの文章の続きを紹介しよう。ベッドを共にしても福島さんは、性的になんの反応もしなかったのに、なぜ?

「それならなぜ離れなかったのか。性交をのぞけば著者は憧れのマスコミの鬼才、三島さんと共にいて、話を聞けるのは願ってもない喜びであったし、共に外出した先での豪奢な食事も嬉しく、ことにあたたかい家庭の味を知らないで育った身に、三島さんの母親に接すると心が満たされる思いだったからだ。上京して貧しく暮らしていた大学生には、僥倖があふれていたのだった。
 僥倖(思いがけない幸福のこと)は、数ヶ月間続いた。
 伊豆今井浜の旅館に避暑旅行に行った七日目の夜、三島さんは著者に初めてバックをしようとするが、うまくいかない。
 著者はくすぐったさが呼び水になり、肩をゆすって笑いだす。とまらない。この場面は凄い。『こうまでして三島さんについて行こうとする自分の哀れさ、滑稽さも含め』何もかもが突然おかしくなったのだ。
 そして破局となる。予定を切りあげて翌日帰郷するが、二人は無言を通す。そして十年以上会わないことになるのだった。
 ここまでが前半。後半部の二人の間の溝が埋まって著者が再会した三島さんは(報道で知っているとおり)ボディビルで別人になっていた。
 肉体だけでなく精神的にも変化しており、ことにナルシズムを強烈に発揮するのには、著者、福島氏は閉口してしまう。筋肉が自慢でたまらない。ことあるごとに裸を見せたがる。著者は「見せびらかしもいいかげんにしろ」と思う。(中略)
 この筋肉が三島さんを救い、そしてついには三島さんを滅ぼすことになるのだ。
『ただ、今ふりかえると、続編を含めての「禁色」を最後に、三島さんは、男色というテーマを自作から一切消してしまった。何となく男色の匂いがある。――と思ってみるのは、読む側の先入観であって、三島さん当人は、あたかも犯罪者が指紋や、血痕を丁寧に消し取るほどの細心さで、駆除し去っている。
 普段の生活の中でも、万一、男色を思わせる発言や行動があった場合は、極端に戯画的で、自分の方からわざと口にして、カリカチュアライズするような――それは自分はその道ではないという逆証明の意図であって、人心への巧妙な計算がゆきとどいている。』
 三島さんは著者への私信に、こういう意味のことを書く。
「文学的テーマとしての男色よりも、そのもう一つ奥にある、日本的心性のふしぎさ、男におけるふしぎにはかないもの、そういうものへの日本の男全部が抱く憧れ……それが興味の焦点なのです。」と――。

 三島さんが剣道を始めるのはそこにつながるからだろう。
 三島さんは「美しい日本の男」になろうとして、右翼思想に傾いてゆく。右翼的発想の小説も書きだす。ことに右翼青年のクーデターに興味をいつからか持っていた。」
 藤田竜君の文章は、まだまだ続き、これからが三島さんと若き日にベッドを共にしたときの話など佳境に入っていく。(つづく)

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第12回「伊藤文学と語る会」

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10月20日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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2012年10月13日 (土)

果てしない旅が続くゲイの人たち

「伊藤さんは長い間、『薔薇族』を出し続けてきて、多くのゲイの人と出会ったと思うから、ブログにもっと過激な話を書いてほしい。」と言われることがある。
 そんなときにいつも思い出すことがある。ひまわり社の社長であり、雑誌『ひまわり』の編集長でもあった、中原淳一さんのことだ。

 中原さんの息子さんが書かれた『父 中原淳一』という中央公論社から出版された本、内容は忘れてしまったが、ゲイである父は夫婦の愛がなく、誕生した息子が、父に対する複雑な思いで綴ったものだ。
 ぼくが知り合ったゲイの有名人、みなさん女性と結婚し、子供さんもいる。そんな人たちのことをブログに書くことは、ネットって誰が読んでいるか分からないからできない。
 子供たちも薄々は、父親がゲイだったということを知っていたのかもしれないが、ぼくがそんなことを書いたのを読んだら、嫌な気持ちになるだろう。
『薔薇族』は382号出したけれど、ただの一度も知り合ったゲイの人を誌上でバラしたりはしなかった。

 しかし、福島次郎さんの『三島由紀夫――剣と寒紅』(文藝春秋社刊)こんなに赤裸々に三島さんとのセックスを描いてもいいものかと思うくらいだ。
 残された子供さんたちが、三島さんの福島さんにあてた書状を本の中に載せたことに対して、書状にも著作権があると訴えて、勝訴したので発売停止になってしまった。
 子供さんたちが、どんな思いでこの本を読んだのだろうか。その心中を思うと、悲しくさえなる。
 三島さんの奥さんが、三島さんのゲイであるということを隠しとおしたということも理解できる。奥さんが生きておられたら、こんな本は出せなかった。
 ゲイの人たちも、女性と結婚しなければならない時代だったので、三島さんも女性と結婚したくなかったのにしてしまった。
 もう、このような悲劇は、時代が変わってきたのでこれからは起こらないだろう。文芸評論家たちも三島さんがゲイだと知っていても、偉大なる作家、三島由紀夫を傷つけてはいけないと書かなかった。その心の奥底には、ゲイを異常視する気持ちもあったのでは。

 福島さんの『三島由紀夫――剣と寒紅』をしばらくぶりに読んでいるが、藤田竜君の言うように、こんなに面白い本はない。
 作家って、ベッドシーンをくわしくよく書けるなと思うくらい描いている。ぼくも先妻の舞踊家・ミカとどんなセックスをしていたのかを思い出そうとしても、50年も前のことでまったく頭に浮かばず、『裸の女房』には、ミカとのセックス描写はない。

 ゲイの人って、自分のシュミでない男と寝てもまったく反応しないようだ。女好きの男は相手の女性がシュミでなくったって、セックスすれば燃えてしまうという、いい加減なところがあるが、ゲイの人ははっきりしている。
 福島さんは三島さんと寝ても、傍らに一人の人間が寝ているという感じはしなかった。人間の「裸線」が寝ているという感じだと、冷たく言いきっているが、それなら福島さんは、どんな男が好きだったのかということは書いていないから分からない。
 三島さんは初めて福島さんと出会ったとき、外見から見たときには、シュミだと思ったのだろう。
 三島さんは「楯の会」で、自分の好みの男を集めたから、その中で理想の男を見出したに違いない。福島次郎さんはシュミの男と出会えたのだろうか。

 ゲイの人たちは、理想の男を追い求めてさまよい歩いている。果てしない旅のようだ。

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第12回「伊藤文学と語る会」

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10月20日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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2012年10月 8日 (月)

三島由紀夫を研究している人にぜひ!

 ぼくの良き相棒だった藤田竜君のこの文章は、どうしても残しておきたい。

「福島次郎著『三島由紀夫』――剣と寒紅』が語らなかった最奥の秘部――三島由紀夫はなぜ裸体を見せ続けたのか」
「残りの一人が誰になるか思いつかないが、戦後50年の日本の文化三大スターには、美空ひばりと三島由紀夫が入るだろう。(中略)謎の怪人、三島さん個人に関する著作も数知れず出続けている。
 そして、また『三島由紀夫――剣と寒紅』が出た。これは三島さんのホモとしての実像を描いており、たいへんセンセーショナルだ。面白くて(本来なら興味深いと礼をただすところだが)わずかに三島さん個人を知っている僕には面白くてたまらず(知っていなければもっと?)目からウロコの箇所がいくつもあって、夢中で読んでしまった。未亡人が在世であれば、陽の目を当然見ない作品である。

 未亡人は三島さんの個人面が現れる出版物や、映画などが世に出ようとすると、必ず反対し、成功してきたのだから、亡き夫は特にホモであってはならないのだ。それを認めては自分が誤った選択をした女になってしまうからであろうか。
 マスコミを通じて僕が受ける未亡人の印象は、氷のように冷静、といったものであったが、未亡人には僅かしかふれていない本書からも、それはうかがえる。
 そして、あの三島さんですら、ホモ的なものが夫人にバレるのを極端に用心するさまも描かれており、夫人の疑心暗鬼に、さぞうんざりしたであろう日常も察しられ、本書が世に出たことに、夫婦それぞれに墓の中で、さぞ歯がみしているであろう。

『剣と寒紅』の著者、福島次郎氏は三島さんの『禁色』を読み、作中の同性愛者が集まるルドンという店がどこか教えてほしいと自宅を直接訪ねる。著者は当時21歳の大学生。すでに名声盛んであっても、三島さんはまだ26歳だった。
 三島さんは、ホモの世界のスター、実在の悠ちゃん(『禁色』の主人公)に失恋したすぐあとだから、突然出現した(『週刊文春』に載った若い日のボケ写真によれば、田舎者らしくないモダンなハンサムらしい)大柄の純朴な田夫青年は、飛んで火に入る夏の虫のごときもので、さっそく書生として身近において、やがてセックスの相手にしてしまう。
 だが残念ながら三島さんの知性を尊敬はしていても、性的には著者の好みではなかった。『青い燐の燃える沼に半身をつからせられている気持』『死んだ魚のようにしていても、それなりにともかく済んでいた。』という三島さんの一方的なセックスになる。
 ボディビルを始めるずっと前の頃の、小柄でやせて顔の大きい、三島さんに著者はこう感じる。

『傍らに一人の人間が寝ているという感じはしなかった。人間の裸線が寝ているという感じだった。電気コードの被覆部をはぎとった「裸線」――いわば、神経、精神、魂といった人間の芯にあるものだけが、無駄な肉など一切つけず、そのまま一本の針金のように横たわっている感じなのだった。それに触れて、一体誰が、性的欲情を催すことができようか。』
 ここから佳境に入っていくのだが、次に書くことにする。若き日の藤田竜君は、三島さんとベッドを共にしただけあって、話は真実味を増していく。

★かつて『薔薇族』を出していた頃、トーハン(本の問屋)から雑誌を送っている書店のリストをもらったことがあった。
 北海道の名も知らぬ町の書店に、一冊だけ配本されている。おそらく町に住むだれかが書店に購読を頼んでいるのだろう。ぼくはその一人の人に興味があったので、「編集室から」で呼びかけてみた。
 まもなく手紙が届いて、小学校の先生だということが分かって、感動した記憶がある。ぼくのブログも読んでくれている人が増え続けているが、更新してくれている猪口コルネ君から教えてもらったことだが、英語圏の人が324人、中国が15人、韓国5人、ポルトガル2人、イタリア2人、ロシア2人、スペイン1人、フランス1人、ドイツ1人、インドネシア1人もいる。

 これらの人は現地にいる日本人なのか、それぞれの国の日本語を読める人なのか、知りたいものだ。中国の上海から来日した若者、日本語も上手だし、日本の本も読める。宇野亜喜良さんにインタビューしたいというのでお連れしたが、宇野さんのことをなんでも知っているのでびっくり。

 中国で読んでくれている人が、15人もいるというのは、この青年に出会って理解できた。他の国の人たちはどんな人たちなのだろう。ぜひ、メールを送ってください。

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2012年10月 6日 (土)

多くの読者に支えられて!

『薔薇族』では、ときどきテーマを考えて、「読者アンケート」をしていた。1990年の11月号に「ふいにボッキし、困ったこと」と題して、アンケートを募集している。

 ぼくも若い頃に、よく経験したが、男のボッキというのは、自分の意志ではとめられないものだ。
 ブログにも書いたことがあったが、若い女性の理髪店に行ったとき、ボッキして困ってしまったことがあったっけ。

 読者のアンケートへの手紙が面白い。

時代劇スター
 ある劇場に勤めていた時のこと。時代劇スターの衣裳を担当した。その若いスターは、本当に2枚目で、私には正視できないほど眩しかった。
 公演も半ばのある終演後、彼の脱いだ衣裳と一緒にふんどしがあった。汗ばみ、まだ生あたたかく、化粧の匂いにまじった、男の匂いが私を勃起させた。ふんどしの匂いをかぎ、尻の割れめと、性器に当たる部分に、2度も発射してしまった。
 その時、足音が近づき、心臓が一瞬止まった。(大阪・炎・39歳)」

発見された
 仕事中、デスクワークで、そんなこと考えてるひまもないのに、なぜかボッキしてしまった。
 ズボンがテントを張ったように盛り上がってしまい、つい、あたりを見回してしまう。こんなとき上司に呼ばれて、机のそばまで歩いて行かなければならなくなったらどうしようと、思っていたら、隣の同僚のS君にしっかり発見されてしまった。(東京・OVER750・25歳)」

マスかき
 電車の中で好みの男を見ると、マラはズボンの中で息づくのだ。ポケットに手を入れて上に向け、窓外の景色を見ながら静かにさすって、もう出そうになると動きをとめ、しばらくしてから、またこするという繰り返しをする。
 駅に着くと、急いでトイレの大のほうに入り、チャックをおろして、ピンマラをつかみ出し、ツバをたっぷりつけてマスをかく。これが通勤のいちばんの楽しみである。(おしゃぶり坊主・28歳)」

体育学生
 自分の家にも風呂があるのに、わざわざ銭湯に行ったときのこと。体を洗っていると、体育会系の学生が入ってきて、チンポを隠さずに平気で体を洗いだしたのを見て、自分のものはあっという間に、ピンピンになって、風呂場の中を歩けなくなってしまった。
 その学生は自分のチンポを洗って、半だちになっても平気なそぶりだった。(東京・YOU DO ME・19歳)」

不謹慎
 先日、当直に上番して、夜、風呂に入ったが、若い隊員でGENJIのひとりに、そっくりな子が入っていて、顔を見ているだけでボッキしてしまい、上がるに上がれず困ってしまった。
 自衛隊の風呂は番台がないだけで、公衆風呂とかわりはない。いろいろなPが楽しめる。小銃並み、大砲並み、その他もろもろ。それが楽しみで、当直についているようなもの。ちょっと不純か。(北海道・少年好き男・39歳)」

入学試験
 受験生のときの話です。入学試験会場でおもいっきりボッキしちゃったんです。なぜって、試験官の先生が、あんまりシュミだったんでつい……。
 試験はというと、ビンビンになったアレが気になって、ぜんぜん集中できず、見事に不合格でした。(埼玉・希望くん・21歳)」

 なんとボッキのアンケートに、15頁も特集できるほど、答えてくれたのだから、『薔薇族』は、多くの読者の協力で成り立っていたということだ。女性の人には男の生理を知ってもらうことも大事かな。それにしてもぼくのチンポはオシッコをするだけのもの、年はとりたくないね。

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2012年10月 1日 (月)

一枚の写真――女房の久美子も若くてかわいらしい――

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 フジテレビが、まだ河田町にあった頃の写真で、扇千景さんが司会の「3時のあなた」という番組に、ぼくら夫婦が出演したときのものだ。
 右はしに座っている方が、ガンであることを自ら公表して、亡くなられてしまった、アナウンサーの逸見政孝さんだ。
 ぼくの右側に座っている方は、お医者さんで、よくテレビに出演されていた方だが、名前を思い出せない。
 左はしの方は俳優さんで、そのとなりの女性は関西の芸人さんだが、名前が思い出せない。この女性、あとで声をかけてこられて、喫茶店で悩みがあるということで話を聞いたが、その話の内容もよく覚えていない。なにしろ30年以上も前のことだから……。
 扇千景さんが参議院議員になられて、あれよ、あれよという間に、第26代参議院議長になられ、国土交通大臣、建設大臣にまで出世されるとは、思いもよらぬことだった。

『薔薇族』の話で出演したことは、長谷川サダオ君が「伊藤文学の談話室・祭」の壁面に飾るために描いてくれた力作を持ち込んでいるのだから、間違いない。
 彼の狭いアパートの部屋で描いたもので、この作品が一番大きなものだ。畳一枚ぐらいの大きさだから、二度も引っ越しして部屋が狭くなり、置く場所がなくて泣く泣く手ばなしてしまった。

 埼玉県川口市にある私設美術館「荻崎正広コレクション・ゲイ・アート」が、受け入れて展示しているので、どなたでも入館料700円を払えば見ることができる(ネットで検索してください)。
 荻崎さんのコレクションはすごい。そのコレクションのための執念は、おどろくべきものがある。女性も歓迎だ。ぜひ、訪ねてほしい。

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