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2012年10月27日 (土)

斎藤茂吉の歌碑を建てる夢の実現へ!

 昭和の歌聖とも、柿本人麻呂ともいわれた、斎藤茂吉をご存知だろうか。

 昭和28年(1953年)に、71歳で亡くなられているので、59年も前のことだ。
 昭和26年(1951年)には、文化勲章も授章されている方で、アララギの主宰者でもあり、おそらく高校の教科書にも作品がのっているので知名度は高い。

 茂吉は神経科の医師であり、青山脳病院長でもあった。長男の茂太さんも神経科の医師として有名だった。次男の宗吉さんは、北杜夫のペンネームで活躍された。
 今や多くの茂吉のお弟子さんたちも他界され、「アララギ」もない。茂吉を研究している人たちも、茂吉に出会ったことはないだろう。

 そんな茂吉と何度も出会ったことを僕は自慢にしている。山形の疎開先から、長男の茂太さんが神経科の診療所を開いていた、世田谷の代田の家に帰京していたのは、昭和22年(1947年)の11月のことだ。
 その頃、ぼくの父、祷一は第一書房の仲間だった斎藤春夫さんが、戦後いち早く自宅で斎藤書店を興したのを手伝っていた。
 斎藤書店で茂吉の『童馬漫語』『童牛漫語』を出版することになり、父が手がけた。代田川の桜並木を下ってくる途中の高台に斎藤書店があったので、そこにも寄り、代沢小学校のそばの伊藤の家に、茂吉はしばしば訪れている。

 その頃、僕は世田谷学園の中学2年生だった。風呂敷に包んだ校正刷りを持ち帰るのが重そうだったので、父が茂吉の家まで送りなさいと言いつけられた。
 茂吉は65歳だったが、腰は曲がり、今の60代とは違って、いかにも老人という感じだった。地下足袋をはいて歩くのもよたよたしていたが、眼光だけはするどかった。
 茂吉の家までの途中、何をしゃべったかはまったく覚えていない。父が留守のときに茂吉が訪ねてきたことがあった。丁度そのとき、ぼくの姉が腹痛でねこんでいた。母が、茂吉が医者だということを知っていたので、診てくださいとお願いしたら、茂吉は2階にあがって、お腹をさすったりして診てくれたが、よくは分からなかったようだ。
 後で聞いた姉の話だと、茂吉の指はざらざらしていたそうだが、神経科の医師で現役から遠ざかっていた茂吉が、気軽に診てくれたなんて、今、考えると診てくれと頼んだ母も母だが、診てくれた茂吉って面白い人だ。

 この茂吉が代田川を歌った一首が、最後の歌集『つきかげ』の中にある。

 代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花
 もほほけそめつつ

 この歌を美しくなって、せせらぎが流れる桜並木に歌碑を建てたいというのが、ぼくの長い間の夢だった。ボランティアで緑道を清掃し続けている「代田川緑道保存の会」の代表、林清孝さんが世田谷区の公園課へ働きかけて、歌碑を建てる許可をとった。
 ただし、金銭的な補助はできないという。そこでブログを見てくれている、心ある人にお願いだ。目標額の150万を達成すべく支援してほしい。

●ご寄付の振込先:みずほ銀行 北沢支店 普通預金口座 1262704 代田川緑道保存の会

 この緑道沿いには、茂吉の他に、萩原朔太郎、横光利一、中村汀女、田村泰次郎、森茉莉、三好達治、宇野千代、加藤楸邨など、こんなに多くの文人たちが住んでいた町は都内でも珍しい。
 この歌碑とともに「文学の小路」という石柱も建て、京都の「哲学の道」以上の東京の名所にしたいと願っている。

 幸いなことに世田谷文学館で、10月6日(土)~12月2日(日)まで「齋藤茂吉と『楡家の人びと』展」が、北杜夫を追悼して開催される。ぜひ、見に行ってほしいものだ。

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晩年の斎藤茂吉

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