« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »

2012年12月

2012年12月31日 (月)

美輪明宏さん、紅白に初出場!

 ネットを触れないということが、どんなに情けないというか、悲しいというか、なんとも言えない気持ちにさせられてしまった。

 美輪明宏さんが紅白歌合戦に出場というニュースをテレビで知った。

 

60数年歌い続けてきて、初出場というのはびっくりだが、美輪さんほどの大歌手が、紅白に出なかったというのは不思議な話ではある。 

 かつて「ヨイトマケの歌」がヒットしたとき、紅白出場の話があったが、立ち消えになったとか。歌詞の内容が問題だったのか、長すぎるということか。

 週刊誌の『アサヒ芸能』の記者から、夜の8時までにコメントを送ってほしいと、メールを寄こしていたようだが、それが数日経ってから、一緒に住んでいる息子が教えてくれたのだから、もう締めきりに間に合わない。

 なんで電話をかけてくれなかったのか。今の時代、すべてメールの方がすぐに相手に送れるのだから、記者にしてみてはメールでというのは当然のことだろう。

 美輪さんに聞いた話だけど、『アサヒ芸能』が、美輪さんのことを最初にゲイだということを書いたと、うっすらと覚えていたので、コメントしてあげたかったのに残念だ。

 40年も前だと、芸能人でゲイだとはっきりと公言できるような時代ではなかった。みんな隠していたからだ。美輪さんは勇気ある人だった。

 大晦日のNHKホールで歌う美輪さん。なんの歌を歌うのか。歌詞を聞いて感動するような歌はない。

「ヨイトマケの歌」を熱唱してもらいたいものだ。シャンソンの歌は、いつでも聴けるから。

「ヨイトマケ」の光景を見て知っている人はかなり高齢の方だ。戦前はともかくとして戦後は昭和20年代ぐらいまでだったのか。

 

その後は機械化してしまったから、そんな光景は見られなくなってしまった。

 家を建てる前に石などをうずめて、土台をこしらえる。そのとき、やぐらにかたい木のおもしをぶら下げて、それを7、8人の女性が太いつなで力を合わせて、上までひっぱりあげ、それをどすんとはなし、土台をかためるのだ。

「エンヤコーラ」と、おばさんたちが歌いながら、つなをひいたり、はなしたりをくり返すのだが、そのとき歌った歌までは、覚えていない。

 おやじの稼ぎだけでは、何人もいる子供たちを養えないので、女たちも働いていたのだろう。その時代の貧しかったことを知っていないと、美輪さんの「ヨイトマケの歌」の本当の意味は分からない。

『薔薇族』を創刊して、4、5年たった頃、美輪さんは新宿厚生年金会館(今はない)の手前のQフラットビルの2階に「クラブ巴里」をオープンさせた。

 

今年、亡くなられてしまった直木賞作家でもあり、お金もうけの神さまと言われた邱永漢さんが建てたビルだ。

 邱さんと美輪さんは、親交があり、オイルショックのあとで借り手のなかった、ビルの2階の部屋を最初に借りて、ピンクだらけのクラブをオープンさせた。

 2番目に「巴里」のまん前に、「伊藤文学の談話室・祭」をオープンしたときからの美輪さんとの長いおつき合いだ。

 美輪さんは1989年の9月号(No・200)の『薔薇族』創刊200号の記念号に「自殺した友よ いま一緒に乾杯しよう」という一文を寄せてくれた。

 読み返してみたら、この中に、

「昭和32年にマスコミの脚光を浴びた私は、長年温めてきた言葉をインタビューで答えた。「私は男性が好きです」と。未だに忘れもしない『アサヒ芸能』であった。」

と書いているではないか。

 くしくもその『アサヒ芸能』だけが、ぼくにコメントをと言ってきたのに、それに応えられなかったことを悔やむばかりだ。

 美輪さん、わけもわからない歌手ばかりの紅白に、衣裳はヌードで歌いますと言ったわけがわかるような気がする。じっくりと聴きたいものだ。

137

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月30日 (日)

「鬼平犯科帳」「剣客商売」と、時代劇専門チャンネルに明け暮れて!

 12月20日で、ジャンボ宝くじが発売の最後の日だというので、宝くじを買いに渋谷に行こうとバスの停留所に向かった。途中に、昨年と同じように豪華な門松を作っているおじさんがいた。

 ついこの間、おじさんに話しかけたことがあったが、あっという間の1年だった。

 わが家では、100円ショップで買い求める正月のお飾りだが、どんな家が、こんな大きな門松を玄関先に飾るのだろうか。

 今日で宝くじの販売が終わりだというので、駅前にある売場には行列ができていた。やっと連番15枚と、バラバラのもの15枚を9千円で買った。これで大晦日まで、夢を見ることができる。

 こんなに早く1年が過ぎるようでは、10年ぐらい、すぐに経ってしまうような気がする。90歳のぼくを、想像するだけでも恐ろしいが……。

 2012年、どんなことがあったのか、日記をパラパラと読み返してみた。

 一番、時間をかけてはまりこんだのは、時代劇専門チャンネルで見た、「鬼平犯科帳」「剣客商売」などのかつての時代劇だ。

 世田谷文学館で出会った、東宝の映画監督の高瀬昌弘さん。映画からテレビの時代になってからも、多くの作品を残している。

 ぼくが「鬼平」や「剣客商売」で、高瀬さんの作品を見ての感想をはがきに書いて出すと、すぐに返事が戻ってくる。

「「鬼平」「剣客」の台本造りのプロデューサーの市川久夫さんは、原作者の池波さんと友人で、原作のストーリーは直さずにそのままにして、現場での脚本直しは許しませんでした。

 そんな姿勢が、あの二作を良いものにしたと思っています。

 テレビドラマのシナリオは、大抵、台本を直して撮るものですが、この二作は原作通りの良さがあるのでしょう。」とある。

 東洋現像所とスタッフのところに出てくるが、ぼくも映画を製作したときに、何度か試写室に行ったことがあるので、フィルムでワンカットずつ撮っていたのだろう。

 スタッフもそれぞれのベテランばかりで、カメラもいいから、場面、場面が絵になっていて美しい。もう二度と、こんな作品は作れないだろう。今年は池波さんの「鬼平」の原作を文春文庫を買って読んでみようと思っている。

 日記から書き出してみると、とても1年間の出来事を原稿用紙4枚では書ききれない。

 そうだ、ネットを触ったことがないぼくが、今年1年間、原稿用紙に書いて渡すと、毎週土曜日に来て、ゲラを見せてくれて、ネットで見れるようにしてくれた、まずは、猪口コルネ君に感謝だ。

 なにかブログを見ての感想を書いてくれている人がいると、紙焼きにして見せてもくれる。コルネくんの協力があってこそ、徐々に見てくれている人の数字が増え続けている。

 3月20日に友人のカメラマン、中嶌君がオープンした銀座のバア「まじかな」で開いた「80歳生きた感謝の集い」には、50人もの友人が集まって祝ってくれた。

 歌手のクミコさんもかけつけてくれて「百万本のバラ」を歌ってくれたのには大感激だった。

 4月13日には、九州福岡の水沢さち子さんが、ぼくのブログのファンで、2泊3日で福岡に招いてくれたのだ。生まれてはじめて福岡を訪ねて、水沢さんと歩いた福岡の街は忘れることはできない。

 カフエ「邪宗門」での「伊藤文学と語る会」も1年以上も続けていて、毎週、新しい出席者がいるのがうれしい。イギリスに20年も住んでいる女性が、ブログを見ていて出席してくれた。

 茂吉の歌碑もすでに、愛媛の石屋さんで完成していて、1月中には世田谷に運びこまれる。桜の咲く頃には、大きな歌碑が建つので、桜見物をかねて、ぜひ、見にきてほしいものだ。

140
猪口コルネ君がデザインしてくれた年賀状。
ぼくの絵葉書のコレクションから
1枚だけ蛇の絵がみつかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月29日 (土)

生きていることのよろこびを!

133a  1976年(昭和51年)7月発行、No・42の『薔薇族』で、創刊5周年になる。

 創刊のときから、ゲイの世界のことをくわしくは知らないぼくを助けて、力を貸してくれた人が、間宮浩さんと、藤田竜さんだ。

「創刊5周年を祝って、昨日・今日・明日」と題して、間宮浩さんが寄稿してくれている。

「昨日のこと=ホモではない伊藤文学氏が、ホモマガジンを創刊したことの疑問について、知っているのは、3人しかいない。

 つまり仁科勝(NHKのエリート社員で、三島由紀夫と交流もあり、小説も数多く書いてくれた。後に『薔薇族』にかかわったことで、出世ができなかったと言われてしまったが)

 藤田竜、そして私である。

 悪くいえば、この3人が伊藤文学氏をたきつけた。良くいえば、アドバイザーとして、『薔薇族』は創刊され、そして5周年になる。

 最初、「薔薇」というタイトルにしたかったが、これはすでに商標登録されていた。ホモと薔薇とは、なにか特別の関係があるのかと、よく質問されるが、まったくなにもない。

 以前「薔薇」というタイトルの、わずか5百部の同人誌のようなホモ雑誌があった。

 その「薔薇」の命名は、「風俗奇譚」の編集長、高倉一氏と、私が相談してきめた。そのとき、「アポロ」、「ナルシス」のような、ホモ的なものでなく、花の名のようなもの、ということに結論がでて、「薔薇」と決めた。

 市販する雑誌では、「薔薇」のタイトルは使えないので、伊藤文学氏が読者に連帯感をもたせたいと「族」をつけ加えた次第である。

 第二書房の出版した単行本、「ホモテクニック」の売れゆきのよさに、続々と単行本を企画して出版した。
 
 かつてホモに関する内容の本は、成功しないとされていた。つまりタブーであったのを、時代の流れは変えてしまった。

「薔薇族」の創刊と同時に、一斉にマスコミがとりあげてくれた。それは営業的には幸運な出だしであった。

 しかし、当時としては片隅で、こっそりと生きてゆくつもりの方針もあったが、号がすすむにつれて、社会的な使命感のようなものが大きくふくれあがっていった。つまりホモが異常視されなくなる日のための運動に変わっていった。

 今日のこと=伊藤さん、あなたはホモと関わりをもったことで、幸福であったか、また不幸であったか、私はそれを知りたい。
 
 おそらく両方だろう。人生そのものがそうであるように。毎日、毎日、ホモの人たちの相談ごとを、それこそ耳にタコができるほど、この5年間、聞かされてきたわけだ。

 電話が一日、30本として、5年間に約5万4千本。そして手紙による相談、それに面接の数々。
 
 そのすべてはおそらく男不足に対する悩みだろう。日本中で一番多くホモの相談に耳をかたむけたのでは。しかも冷静にうけとめたのではないだろうか。
 
 そして、そのことは、ストレートに雑誌に反映していったのだろうか。

 明日のこと=現状に満足することなく、たえず飛躍する雑誌「薔薇族」であってほしい。期待を裏切ることのないための努力をしなくてはいけない。
 
 生きているよろこびを味わう雑誌づくりこそ、編集人としての責任であり、生きがいであるはずだ。全国の隅々に生活している、ひとりひとりの生活の中にも、とけこんでいく雑誌にしてもらいたい。」

133b  亡くなるまで「薔薇族」のことを考えてくれていた、間宮浩さん。手紙をもらって、間宮さんのマンションの部屋を訪ねたときのことを忘れることはできない。
 
 雑誌はなくなってしまったけれど、ブログで語り続けていきたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月24日 (月)

アホは地獄に落ちて、うんと苦しめ!

132a 「雑誌には華やかなスターがいる。そのスターの役を俺がひきうける!」と、『薔薇族』の創刊号からのぼくの相棒、藤田竜さんは言っていた。

 内藤ルネさんと一緒に住んで、ルネさんと組んで、いろんなグッズを世に出していた。「RUNE」の商号のあらゆる商品が、巷にあふれていた時代があった。
 
 しかし、あくまでもルネという商品名で売られていたのだから、藤田竜さんは、蔭の存在だった。

 デザインの才能は、ルネさんより竜さんの方が上だったと、ぼくは評価している。

 そのころ『薔薇族』の創刊に、竜さんは参加することになり、表紙絵を3年間も描き続け、竜さんの好きなように雑誌は作られた。竜さんにとっては初めての表舞台だったからやり甲斐があったに違いない。

 ゲイの人と深く付き合った経験がまったくなかったぼくとしては、違った世界の人であり、お天気屋で、わがままで、相手の気持ちなど意に介しない竜さんとの付き合いには神経がすりへった。

 しかし、岩手出身の我慢強い性格の母親に似たのか、どんなわがままの竜さんであっても、雑誌を続けたいという気持ちから、我慢の連続だった。
 
 それが50号を出す頃、竜さんは何が気に入らなかったのか、突然、仕事をやめてしまった。
 
「藤田竜・さよなら大放言・大毒舌・アホは地獄に落ちて、うんと苦しめ!!」の一文を残して。

132b 「男好きを隠して結婚したのがバレて、中ピ連(女性の人権を守るための会だと思う)につつかれて、500万円とられた男がいる。
 
 そうかと思えば、同棲してる男が浮気したと泣いて電話してくる30男がいる。

――こういうアホにつきあうのは、もうごめんだよ。

 まったく俺はこの5年間、何を残せたのか。何のために『薔薇族』に力を注いだのか。
 
 こういうアホがいる一方で、「藤田さんは肉の情熱ではない、真の愛の可能性を信じていないのではないかと、急に不安になった」りする青二才がいる。
 
 もう、ね、俺は、そういう愚者のために、俺の大切な頭脳を酷使するのをやめたよ。

 俺が今までの生き方でつかんだ、いろいろの、薔薇色のゲイな、素晴らしい、男好きの男としてのコツや、テクニックやらは、要するにアホどもにとって何ひとつ役に立たなかったようで、そうしたアホは、どうぞ地獄に落ちてちょうだい。
 
 さんざ苦しみなさい。あんたらが不幸になる一方で、俺はもうなにも、いい男の集まる場所も、ノンケのつかまえ方も、生きることへの考え方も、たのしい人生の秘密は、なにひとつ教えないで、自分だけでたっぷり楽しみ、何十人分もの幸福をひとりで味わうことにする。
 
 アホへのおつきあいは、もう結構ざんす。

(中略)

 伊藤さんも今や識見を持ち、力をたくわえ、親衛隊もついて、そこに若い編集員も加わったのだから、俺がいなくても充分にいい仕事ができるだろう。
 
 ここらで本誌の匂いを変えるのもいいことだと思う。(後略)」

 こんな大放言をはなって、『薔薇族』と、袂を分かって、なんと数ヶ月して戻ってきてしまった。

 ルネさんと共に貯えた、7億もの大金、そして千駄ヶ谷の億ション、欲を出してすべてを 失ってしまった竜さん。
 
 一番のアホは竜さんだったのでは。地獄に落ちて苦しんでいるのは、竜さんなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月22日 (土)

「青春のかけら取り戻そうと燃え」この気持ち分かります!

 父、伊藤祷一は、若い頃、文学青年で、同人雑誌を出していて、直木賞作家で演劇評論家でもあった、あんつるさんと呼ばれて親しまれていた安藤鶴夫さんと一緒に活躍していたようだ。

 作家になる夢は捨ててしまったものの、中学生時代は、俳句は高浜虚子に、日華事変ごろから、短歌を斎藤茂吉に、川柳は斯界の巨匠、岸本水府に師事していた。

 最高の指導者に師事できたことは、幸せだったと本人は言っている。それが俳句、短歌ぐらいでやめておけばよかったのに、川柳にまで手を染めてしまって、収集がつかなくなってしまったと、こぼしている。

 川柳が一番、性に合っていたようで、ハンセン氏病の療養所、群馬県にある栗生楽泉園の患者たちに、長いこと川柳を教え、『ふるさとを捨てて』という合同句集を昭和47年11月に編集、発行人になり、刊行している。

 父のもとで、ぼくはどこにも勤めず、ずっと過ごしてしまったのに、父とは気性が合わないというか、まともにしゃべった記憶は、まったくない。

 今になって、父の残した川柳を読んでみると、晩年は川柳に夢中になっていただけに、なかなかいい句がある。

 女好きで、いろんな女に手を出し、母親を泣かしていた父の恋を読んだ、句をひろってみた。ああ、あの女のことを読んだ句だなと思われるものもある。

 吉田絃二郎という、戦前の流行作家が、全財産をお手伝いさんのお春さんにあたえてしまって話題になったことがある。その作家が亡きあとの後始末をした父が、お春さんとできてしまった。その女のことを句にしてるなと思われる作品が多い。

臆面もなく宿帳に妻と書き

割切れぬ心のままに逢いを重ね

石光る指つつましく君はこばむ

君去りしあとはかなくて灯をともす

握手して別るる時の心ゆらぐ

 前にも父からの遺伝のことを書いたが、「女好き」も、父からの血脈かもしれないから、父のことを責めることは出来ない。

遠くより愛していればそれでよし

妻と書いて年齢もさばを読み

逢えばまたくずれてしまう別れる気

結婚を迫るその目が恐ろしい

 不倫の相手のお手伝いさんに、父は結婚を迫られたようだ。さすがに母や、4人の子供を捨てて、離婚することはできなかった。泣く泣く、若いお春さんとは、別れることになってしまったが、その後も別の女性と不倫を続けていたのだから、見事としか言いようがない。

 作家が亡くなって、その骨つぼが置いてある部屋で、お手伝いさんとできてしまった。ぼくも経験しているが、骨つぼの中の骨って、時間が経つと、ガサッと音がする。この句はすさまじい。

つぼの骨くずれる夜に恋進む

 72歳で父は倒れ、それから亡くなるまで母の看護を受ける身になってしまった。

花枯れてふたたび帰りこない人


131a
戦前の第一書房前の父

131b
4人兄弟と母

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月17日 (月)

千円札一枚と、十円玉三ヶをポケットに!

 民主党の野田政権が、マニフェストになかった消費税を増税することに決めてしまった。
デフレを脱却して、景気がよくなってからの増税ならばいいが、景気が悪いのに決めたからといって、5%を8%に、そしてゆくゆくは、10%に増税したら、どういうことになるだろう。

 中・小企業は、消費税分を溜めて残しておければいいが、消費税分を使ってしまっても赤字なのだから、まとまった消費税を払えるわけがない。

 今でさえ消費税の滞納がかなりの額になっているようだから、増税したって追いついてはいけまい。だからといって増税しなければ、やっていけなくなってしまうだろうし。

 その前に代議士の数を減らしたり、公務員の給料を下げるなど、やるべきことをやって無駄遣いをなくしてからに、してほしいものだ。

130  『薔薇族』1989年(平成元年)の6月号(No.197)の「編集室から」を読んだら、この年から消費税・3%が、とられることに決まったようだ。
 
 ぼくはこんなことを書いている。
 
 今までは『薔薇族』の読者の心理を考えて、千円というきちっとした値段をつらぬいてきた。
 書店で買うときに、おつりをもらう何秒かの時間が耐えられないのだ。

「4月22日発売の6月号から、消費税の30円を上乗せして、千三十円にしなければならなくなりました。

 読者諸君の書店で購入するときの心理状態を考えて、おつりのない値段をつけてきました。半ぱな値段は嫌だったからです。

 ずいぶんと悩みました。一度は九七〇円に値下げすることも考えたのですが、取次協会や、雑誌協会、書店組合、三者の取り決めできめたことなので、どうにも決定に従わざるを得ませんでした。

 ただし、直接、郵便で小社に注文される分については、従来通りの千円で、送料もサービスということにします。

 読者諸君には申し訳ないと思っていますが、千円札一枚と、十円玉三ヶをポケットにあらかじめ用意しておいて、書店でお求めください。

 郵便代も封書は六十二円に値上がりしました。したがって文通欄も六十二円の切手を貼らないと、出した本人にもどされてしまいます。手数料分を入れて、六十二円の切手二枚を同封ということになりますので、注意してください。」

 消費税三%、三十円という、はんぱな値段になってしまったために、このような細かい神経を使ってしまった。こんな雑誌って『薔薇族』しかないだろう。

 長い間、読者に支持され続けてこられたのは、読者を思う気持ちが通じたからか。
 その後に、こんなこともぼくは書いている。

「夜ねるのが遅いものだから、どうしても朝は九時頃でないと起きられない。朝、やっと起き出してくると、近所の八十歳ぐらいのおばあさんが、必ずといっていいほど遊びにきています。

 わが家の親父も八十四歳、おふくろも八十歳。家中がしょんべん臭くて、どうにもならないのに、よその年寄りまで遊びにくるのだからたまりません。

 近所のおばあさんには、息子夫婦も、孫たちもいるのですが、誰も面倒をみない。わが家で面倒をみてあげるものだから、楽しみに遊びにくるのです。

 年寄りを大事にしてほしいと思う。僕だってもう五十七歳(現在は八十歳)になってしまっている。

 若いものに邪魔される日も近いのかも。でも、心やさしい読者が多い、薔薇族の世界だけは、年寄りにつらく当たる人など、いないでしょう。そう信じています。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月15日 (土)

優等生と劣等生とのサンフランシスコでの出会い!

「奇跡」というべきか、偶然といって片付けられないような話が現実にあった。

 ぼくは代沢小学校(当時は国民学校)に入学したのが、日中戦争が始まった頃の昭和13年、卒業したのが、太平洋戦争が終わる前年の19年の3月だ。
 
 級替えは1年から6年まで、ずっとなくて6年間、激動の日本の中で育った。
 
 ぼくは早生まれなので、背が小さく、ひ弱で一番前の劣等生。塩谷信幸君の、お父さんは内科の医者ですぐ近くで開業していた。
 
 塩谷君は東大医学部に入学したくらいだから、優等生で背も高く、後ろの席に座っていたから、6年間、口をきいた記憶はない。
 
 戦争が激しくなって、田舎のある子は疎開したりして、バラバラになってしまったから、同窓会などは一度も催されたことはない。
 
 塩谷君のお姉さんは、ぼくより3歳ほど年上だが、今でも活躍している、有名な推理小説家で、皆川博子さんという方だ。皆川さんとは、渋谷のギャラリー「美蕾樹」で、二三度出会ったことがある。

 もう、10数年前になるだろうか。アメリカのゲイマガジン『フロンティア』のオーナーのボブさんの招きで、サンフランシスコのゲイ・パレードに参加したことがある。
 
 アメリカのゲイ・マガジンのオーナーと、日本を代表して、『薔薇族』の編集長が、一台のオープンカーに乗って、参加することになっていた。

 それが体調がすぐれず、とても無理だということで、ボブさんの代わりに女房と一緒に、ゆかた姿でオープンカーに乗って、パレードに参加した。
 
 沿道の何十万という観客も、あたたかく迎えてくれたのは感激だったが、その観客の中のひとりに塩谷君がいたというのだ。
 
「伊藤文学」という60年以上も前の旧友の名前をよくぞ覚えていたものだ。人の名前はほとんど忘れているというのに、さすがは東大出だ。
 
 そのときの模様を塩谷君がブログに書いてくれたのだが、ぼくのブログを更新してくれている、猪口コルネ君が今になって見付けだし紙焼きにして見せてくれた。
 
 塩谷君は、北里大学名誉教授で、今でも活躍されているようだ。

「現役の時だったからもう20年近く前のことだったと思う。
学会でサンフランシスコに来て、ヒルトンかどこかに泊っていた時のことだ。
高層ホテルの部屋の窓から下を眺めていると、マーケット・ストリートだったか、大勢の人が集まりパレードが始まった。
部屋の掃除に来たメイドに聞くと、ゲイ・インターナショナルというお祭りだという。
しばらく部屋を空けなければならぬので、散歩がてら通りに出てみた。

 

ブールバードは観客でいっぱいである。 
デコレーションの飾られた車が通るたびに、歓声が上がり、紙吹雪が舞う。
その中、ひときわ高い喝采とともに、黄色のオープン・カーが登場した。そこに仁王立ちで、絣の浴衣をまとって観客に手を振っているのは、旧友「伊藤文学」ではないか。小学校卒業以来だから最後にあったのはもう半世紀も前。でも、車には大きく「ブンガク・イトー」とローマ字で書かれている。
やがて車は通り過ぎたが、彼がこちらに気づく距離ではなかった。

 

小学生時代、文学といういささか変わった名前の為、彼はいじめの対象だった、今ならば、「悪魔」と名付ける親もあるくらいで問題にはならないだろうが。
自身は異性愛者だが、仕事として「薔薇族」というゲイの為の雑誌を編集し、その道のオーソリティだとは噂で聞いていた。
だが、その小学校のクラスメートの彼に、50年ぶりに、サンフランシスコで出っ食わそうとは。
部屋に戻ってからもしばらくは呻いていた。

 

自分にその卦はないが、僕はゲイに偏見はない。
日本では、“御稚児さん趣味”といって、どちらかといえば格式のある風習の感がある。
だが、留学当時はまだ欧米ではゲイはご法度だった。皆ひた隠しにしていた。それでもやはり人の知ることにはなる。
古くはオスカーワイルド、そしてチャイコフスキー。
禁断の木の実だから、なお美味なのか。
その為に一生日の目を見ることのなかった優秀な外科医も個人的に知っている。
だが、そのためか、元来の性格なのか、ゲイの方は概して心がやさしい。

 

粗悪な類似雑誌に押されて「薔薇族」は苦戦を強いられ、何回か廃刊の憂き目にあっているという。」

 小学校時代の優等生と、劣等生とのサンフランシスコでの出会い。それも半世紀以上も過ぎてのことだ。

 級の中でめだたない、いじめられっ子の僕をよくぞ覚えてくれていたものだ。

129a

129b

第14回「伊藤文学と語る会」

///////////////////////////////////////////////////////////////

12月15日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

///////////////////////////////////////////////////////////////

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月10日 (月)

猫好きだったルネさんの一枚の写真!

128a  1998年の『薔薇族』9月号.No.308で、10数年も表紙絵を描き続けてくれた内藤ルネさん。この号が最後で、次号から若い野原クロさんに変わってしまった。
 ルネさん、もっと、もっと表紙絵を描き続けたかったのだろうが、マンネリになってきたから、若い人に変えようという声が、内部からも起こってきたので、仕方がなく変えることにしてしまった。
 その号に「M氏の夢コレクション」というルネさんの連載ページがあって、こんなことが書かれている。
「マル秘中のマル秘の私の大切な一枚をとうとうお見せします。猫派! 藤田嗣治」というタイトルで。

「この写真は人さまに、ぜったい見せたくないと、私の宝箱の奥深くにしまっていた、私の大切な、大切な一枚である。
 画家フジタが、パリで東洋の神秘の画風が認められて、大変な人気が出て、仮装パーティや、夏のドービル海岸をトップファッションで、肩で風を切って歩いていた。1920年代後半と思われる若き日のツグジ。
 前髪をバッチリ切ったヘアスタイルは、当時、漫談家の大辻司郎、少女を描く人気画家の中原淳一もしており、嗣治を加えて三ガッパと言われ騒がれたという。
 長毛の牝の子猫だろうか、嗣治のひざの上で、思いっきり、そっくり返っている猫は――。
 シャッター・チャンスという、その文字どおり魔の刻を捕らえたこの写真は、めったに見られない、夢の奇跡の瞬間を凝縮している。
 この写真を初めて見た時、私は目を疑い、身震いするほど興奮した。なにしろ猫は写真に撮りにくいが、子猫だから、こんな無邪気なポーズができたのだろう。
 嗣治は、その絵の中でたくさんの猫を描いた。
 私も犬にはない謎と妖しさが、無限にひろがる猫に惹かれ続けて、うん10年たってしまった猫派だが、一番すごい猫の写真はなんといってもこの一枚で、いつ見ても見飽きないグランドスケールの魅力をあふれさせている。」

 ルネさんは、本当に猫好きだった。千駄ヶ谷の億ションに住んでいたときから、毛むくじゃらの猫を何匹も部屋の中で飼っていた。
 扉を開けると、なんとも言えない匂いがしたが、飼っているご当人は、匂いなどなんとも感じないのだろう。
 この一枚の写真、ルネさんがどこで見つけたのかは分からないが、とにかくルネさんのコレクションは、多岐にわたっていた。
 千駄ヶ谷のマンションを出なくてはならなくなり、そのコレクションをダンボールづめにして、ぼくの女房の兄の住む、新潟県の弥彦村にトラックに満載して運んだが、すごい量だった。
 10数年あずかっていて、修善寺にオープンさせた「内藤ルネ人形美術館」に運んで、展示したところを見に行ったが、説明できないくらいの品々が並んでいた。
 写真を撮ってアルバムに貼ってあるが、新潟に置いてあるので、残念ながら今はお見せできない。探し出して持ち帰り、いずれお見せしたいものだ。
 ぼくも若い頃、猫を飼っていたことがある。家の中ではなく、庭というか、外で飼っていた。何を食べさせていたか、忘れているが、家族の食べ残しだったのだろう。
 おふくろが猫が嫌いだったのか、捨ててこいと言われ、自転車に乗せて、かなり遠くまで走って置き去りにしてしまった。それが何日もしてから、猫が帰ってきたではないか。そのときの驚きと、喜びは今でも忘れることができない。

128b

第14回「伊藤文学と語る会」

///////////////////////////////////////////////////////////////

12月15日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

///////////////////////////////////////////////////////////////

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月 8日 (土)

『薔薇族』は、ゲイの文化や芸術を伝えてきた!

『薔薇族』は、欲望を刺激するだけの雑誌ではなく、ゲイの文化や、芸術を伝えるための雑誌でもあった。
 2001年の10月号(No.345)から、岡田修さんの「エロエロ・エッセイ」の連載が始まった。岡田さんは若い頃、アメリカに留学されていたので、語学は達者で、古今東西のゲイ文学に精通していた。
 その頃は関西地方の大学の英文学の教授をされていたが、11年の歳月が流れているから、退職されているかもしれない。

 多才な方で小説も何篇も書かれ、投稿してくれた。男絵のコレクターでもあり、東京の画廊にも来られて、甲秀樹君の絵なども購入されていた。新潟のぼくの美術館にも見にこられ、無名の画家の絵でも作者の経歴を調べてくれた。
 それがあることがあってから、「連絡しないでくれ」と言われて、それっきりになっている。学校にゲイであることを知られるのを恐れたからだろう。ぼくも約束を守ってきたから、彼のその後の消息は分からない。

 エッセイの一回目は、「美しい病気・山崎俊夫の不可思議世界」と題する文章だ。学者ってすごい。多くの文献を読まれて書いている。山崎俊夫という大正時代に活躍された作家を、本を読まないぼくは知るわけがない。
 文藝春秋社の創業者である、菊池寛と親交があったようだ。文藝春秋社の子会社の「文春ネスコ」から、2001年の12月に、ぼくの著書「編集長『秘話』」を刊行してくれたので、何度も文藝春秋社を訪ねたことがある。
 文春ネスコのこのときの社長は、菊池夏樹さんで、菊池寛さんのお孫さんだ。広いロビーの応接室には、菊池寛さんの胸像が飾られている。社長にぼくは「菊池寛さんはゲイだったんですか?」と聞いたら、「そうだ」と答えられた。

 岡田修さんが菊池寛のことも書いている。
「意外なことに、山崎俊夫のファンで、彼とも親交があったのです。(中略)
 調べてみると、菊池は学生時代、容貌に対するコンプレックスのせいか、女嫌い(女は好きだが、あえて寄せつけない――振られるのが恐かったからでしょう)の傾向があり、西鶴の『男色大鑑』を愛読していたそうです。また、西欧の同性愛文学にも興味を持っていたらしく、大正3年、京都帝大の学生の時、『病的性欲と文学』という小説を書いています。
 そのなかで近代の西欧文学では同性愛を扱った作品は乏しいけれど、日本には山崎俊夫がいると力説し、「夕化粧」は「愛情の畸形たる同性性欲の唯一の文学化」であると、高く評価しています。
 更に同じ年に、「山崎俊夫氏」という山崎の作品を誉め称えた文章も書いています。山崎の「菊池寛兄におくる手紙」というエッセイによると、その頃、まだ慶応の学生だった山崎に、菊池が京都からファンレターを送り、数年後に東京で会うまで、手紙の往復があったそうです。
 菊池が学生時代に書いた、この「山崎俊夫氏」という賛は、今まで私が目にした山崎に対する讃辞として最も印象的なものです」

 文藝春秋社の応接室で、コーヒーをのみながら、何度も菊池寛さんのブロンズ像を眺めたが、確かに男として、不細工な顔だ。だからといって、岡田さんの言うように、劣等感から、女性に恋をしたら、ふられるのではないかという思いから、女嫌いになったということは絶対にない。
 岡田さんも自分がゲイであることを人に知られるのを極度に恐れていた。しかし、岡田さんの才能はすばらしい。このエッセイ、どのくらい続いたのか。まとめて一冊の本にしたらと思うくらい。『薔薇族』は、ゲイの文化や、芸術を伝えてきたことは間違いない。

127
孫が描いたイラスト。構図がいい。

第14回「伊藤文学と語る会」

///////////////////////////////////////////////////////////////

12月15日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

///////////////////////////////////////////////////////////////

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月 3日 (月)

『薔薇族』の表紙は芸術だった!

 中国をこっぴどく批判し続けている月刊誌に「WiLL」という、ワック・マガジンズ株式会社の雑誌がある。
 編集長は花田紀凱さん。「週刊文春」の編集長から「マルコポーロ」の編集長、掲載された記事がユダヤの人たちの怒りに触れ、文藝春秋社をやめられた。
 その後、朝日新聞社から女性誌を出し、編集長になられたが、これはうまくいかなかった。「編集会議」の編集長にもなられた。

 花田さんとは、長いお付きあいで、確か「文藝春秋」の編集部におられた頃だから、『薔薇族』を創刊して数年たったときだ。
「薔薇族編集長奮戦記」を書けと言われて、書くには書いたが、力及ばずで没になってしまった。それ以来のお付きあいだから、30数年になり、ぼくが主催するパーティーには、いつも出席してくれている。
 80歳の誕生パーティーにも出席してくれて、スピーチをしてくれた。「WiLL」の創刊号(2005年1月1日発行)に、「同性愛者のバイブル『薔薇族』と僕の青春」というタイトルで執筆させてくれた。『薔薇族』が廃刊になった直後のことだから、もう7年にもなる。
 雑誌が売れない時代に、「WiLL」が7年間続いているということは、花田さんの得意な分野の雑誌だからか。

「編集会議」の編集長時代にも何度かとりあげてくれたが、その時代は甲秀樹君が『薔薇族』の表紙絵を描き、宇野亜喜良さんがレイアウトをしてくれていた。
 2001年発行のNo.342が、「編集会議」の第4回目の「雑誌表紙大賞」を授賞したのだからすごい。甲秀樹君も油がのっていた時代だ。

 藤本やすしさんという、アートディレクターの方が選んでくれたものだ。数限りなく出ている雑誌の中からの大賞だから、うれしかった。
 藤本さんが、こんな講評を書いてくれている。
「伊藤文学編集長は、画家、イカールの絵の蒐集家で、その画集編集の仕事で、お会いしたことがある。
 本人はまったくこの世界の人ではなく、穏やかな優しい人柄で、話もとても面白かった。絶妙なトリミングと、イラストのこの表紙は宇野亜喜良のデザインだ。」

 宇野亜喜良さんは、デザイナーであり、イラストレーターでもあるが、紫綬褒章も授章されている方だ。
 講談社からイカールの画集を出すというので、藤本さんの青山にある仕事場を一度だけ訪ねたことがあった。
 なにをしゃべったのか、まったく忘れているが、「話が面白かった」と言っておられるのだから、きっとイカールの話ではなく、『薔薇族』の話でもしたのだろう。一度しかお会いしていないのに、よく覚えていてくれたものだ。
 しかし、この頃から『薔薇族』の発行部数は下降気味だったのか、広告頁もへってきている。

 その号の「編集室から」に、「創刊50周年をめざす」なんて書きはしたが、夢はくだけてしまった。こんな話も書いている。
 小学校の先生と会ったときのことだ。本当はゲイの方なのに、その部分を自分の心の中で認めたくないので、カウンセリングの先生を訪ね、女好きになるように指導を受けている。
 50分のカウンセリングで1万円。6年間かよって数百万円のお金をつぎこんだとか。有名な先生のようだけど、サギ行為といえるのでは。
 この小学校の先生、結婚して子供3人をもうけ、今、奥さんと別居中で、疲れ果てている。早く相談にきてくれればよかったのに。ぼくは一銭も頂かないのだから……。

126

「雑誌表紙大賞」を授賞したNo.342号

第14回「伊藤文学と語る会」

///////////////////////////////////////////////////////////////

12月15日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

///////////////////////////////////////////////////////////////

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年12月 1日 (土)

「千人に一人」という病気を持つぼく

 80歳を過ぎるまで、たいした病気もしないで生きてこられた。手術といえば、関東中央病院に入院して、胆のうを切りとり、胆石を取り出したことがあった。
 あとは6年ほど前、新宿の東京医科大学付属病院で、左ひざに金属の人工ひざを取りつける手術のために入院したぐらいだ。
 スポーツは一切やらないし、身体を鍛える健康法もない。自然に生きているだけで、好きなことしかやらないから、ストレスだけはたまったことがない。

 子供の頃といっても、小学校の高学年になったときから、他の子供たちと違う、自分の身体に欠陥があることに気付きだし、劣等感にさいなまされていた。
 その欠陥というのは、胸のまん中がへこんでいる「漏斗胸」という病気だ。
 中年になってからあんなに細かったのが太りだし、お腹の出っ張りのほうは気になっているが、胸のへこみのことなど忘れていた。

 それが2012年1月23日の東京新聞朝刊の健康欄に「中央がくぼむ漏斗胸・手術さけ、矯正治療」という見出しで、くわしく書かれている記事を読んで、長い間、気になっていたことを理解もできたが、ショックでもあった。
「胸の中央などがくぼんでいる漏斗胸。千人に一人が漏斗胸といわれ、重度だと手術が必要な場合もある。」と。
 まさしくぼくは千人に一人の欠陥人間だが、幸いなことに重度でなかったのか、生きてこられた。
「胸骨の周りにある助軟骨がへこみ、胸部にくぼみがある。生まれつきもあれば、生後徐々にくぼみができる場合も。」と説明がある。

 ぼくの場合は、生まれつきで、父親も漏斗胸だったので、遺伝に違いない。遺伝子が子孫に伝わるかは分からないが、息子や、孫にはそうしたものは幸いなことにいない。
 小学生の頃、身体検査が定期的にあり、校医さんが聴診器を胸にあてたりして、健康状態を調べてくれる。その順番を上半身、裸になって並んで待つのだが、明らかにぼくの胸は他の子供と違っていた。
 身体の欠陥を気にしだしてから、身体検査は苦痛だった。体操の時間も、運動会もいやになるばかりだ。
 大学に入学してからは、身体検査のある日は休み、レントゲンの検査も一度も受けなかった。体育の時間はサボって一度も出たことがないのに、教師とは親しかったので、ちゃんと単位だけはくれた。

「全国漏斗胸っ子」の会まであって、重篤な遺伝病が隠れていることもあると、恐ろしいことまで書かれている。
 ぼくが子供の頃には、漏斗胸の治療法などなく、現在でも国内で積極的に取り組んでいる医療機関はまだ数カ所だというから、こんな記事が新聞に載ったのは、初めてのことだろう。

 なぜ、忘れていた漏斗胸の記事を気にして読んだかというと、大阪の橋本さんのことが頭に浮かんだからだ。同じ日の東京新聞は、「週刊朝日の連載中止をどうみる」とあり、連載を中止することによって、かえって部落差別へのタブー視を助長するのではと、危惧している。
 ノンフィクション作家の佐野眞一さんは、橋本さんの父親のことなどを調べあげて、「血筋の問題」として、あぶり出そうとした。
 ぼくの場合は、父親から身体の欠陥を受け継いだということだが、内面的にも頭脳にもなんらかの血の流れを受け継ぐものなのか?
 遺伝ということを実感として書いたが、橋本市長の問題は、ぼくには難しすぎる。これからの橋本さんの行動を見て判断するしかない。

 ぼくは連載を中止すべきだと書いてしまったが、佐野眞一さんは連載を続けて、悪意な文章でなく、橋本さんという人間の本性を解明し、血脈という問題を学問的にも分かりやすく証明してもらいたかった。

125

第14回「伊藤文学と語る会」

///////////////////////////////////////////////////////////////

12月15日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

///////////////////////////////////////////////////////////////

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »