美輪明宏さん、紅白に初出場!
ネットを触れないということが、どんなに情けないというか、悲しいというか、なんとも言えない気持ちにさせられてしまった。
美輪明宏さんが紅白歌合戦に出場というニュースをテレビで知った。
60数年歌い続けてきて、初出場というのはびっくりだが、美輪さんほどの大歌手が、紅白に出なかったというのは不思議な話ではある。
かつて「ヨイトマケの歌」がヒットしたとき、紅白出場の話があったが、立ち消えになったとか。歌詞の内容が問題だったのか、長すぎるということか。
週刊誌の『アサヒ芸能』の記者から、夜の8時までにコメントを送ってほしいと、メールを寄こしていたようだが、それが数日経ってから、一緒に住んでいる息子が教えてくれたのだから、もう締めきりに間に合わない。
なんで電話をかけてくれなかったのか。今の時代、すべてメールの方がすぐに相手に送れるのだから、記者にしてみてはメールでというのは当然のことだろう。
美輪さんに聞いた話だけど、『アサヒ芸能』が、美輪さんのことを最初にゲイだということを書いたと、うっすらと覚えていたので、コメントしてあげたかったのに残念だ。
40年も前だと、芸能人でゲイだとはっきりと公言できるような時代ではなかった。みんな隠していたからだ。美輪さんは勇気ある人だった。
大晦日のNHKホールで歌う美輪さん。なんの歌を歌うのか。歌詞を聞いて感動するような歌はない。
「ヨイトマケの歌」を熱唱してもらいたいものだ。シャンソンの歌は、いつでも聴けるから。
「ヨイトマケ」の光景を見て知っている人はかなり高齢の方だ。戦前はともかくとして戦後は昭和20年代ぐらいまでだったのか。
その後は機械化してしまったから、そんな光景は見られなくなってしまった。
家を建てる前に石などをうずめて、土台をこしらえる。そのとき、やぐらにかたい木のおもしをぶら下げて、それを7、8人の女性が太いつなで力を合わせて、上までひっぱりあげ、それをどすんとはなし、土台をかためるのだ。
「エンヤコーラ」と、おばさんたちが歌いながら、つなをひいたり、はなしたりをくり返すのだが、そのとき歌った歌までは、覚えていない。
おやじの稼ぎだけでは、何人もいる子供たちを養えないので、女たちも働いていたのだろう。その時代の貧しかったことを知っていないと、美輪さんの「ヨイトマケの歌」の本当の意味は分からない。
『薔薇族』を創刊して、4、5年たった頃、美輪さんは新宿厚生年金会館(今はない)の手前のQフラットビルの2階に「クラブ巴里」をオープンさせた。
今年、亡くなられてしまった直木賞作家でもあり、お金もうけの神さまと言われた邱永漢さんが建てたビルだ。
邱さんと美輪さんは、親交があり、オイルショックのあとで借り手のなかった、ビルの2階の部屋を最初に借りて、ピンクだらけのクラブをオープンさせた。
2番目に「巴里」のまん前に、「伊藤文学の談話室・祭」をオープンしたときからの美輪さんとの長いおつき合いだ。
美輪さんは1989年の9月号(No・200)の『薔薇族』創刊200号の記念号に「自殺した友よ いま一緒に乾杯しよう」という一文を寄せてくれた。
読み返してみたら、この中に、
「昭和32年にマスコミの脚光を浴びた私は、長年温めてきた言葉をインタビューで答えた。「私は男性が好きです」と。未だに忘れもしない『アサヒ芸能』であった。」
と書いているではないか。
くしくもその『アサヒ芸能』だけが、ぼくにコメントをと言ってきたのに、それに応えられなかったことを悔やむばかりだ。
美輪さん、わけもわからない歌手ばかりの紅白に、衣裳はヌードで歌いますと言ったわけがわかるような気がする。じっくりと聴きたいものだ。
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