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2013年1月

2013年1月28日 (月)

第16回「伊藤文学と語る会」 ※場所が変わります

来る2月16日(土)、下北沢のカフエ「つゆ艸」にて、第16回「伊藤文学と語る会」を開催致します。

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2月16日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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Bungakusan  <今週の文学さん>日本初のゲイビデオについて
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、文学さんが日本で初めてゲイビデオを作ったということで、そのあたりの思い出についてうかがいました。

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2013年1月27日 (日)

よしもとばななさんの『もしもし下北沢』に登場したお店

 下北沢の街を登場させた、よしもとばななさんの本『もしもし下北沢』(毎日新聞社刊・定価・¥1500・税別・文庫本にもなっている。)に書かれているレトロな建物。

 よしもとさんも、この建物を愛していて、ビルに建てかわることを嘆いておられた。

 昭和12年に、おじいさんの時代に建てられた建物で、露崎さん夫婦も一階に住んでいて、カフエや、骨董屋さんなど、いろんな店が入っている楽しい建物で、四月になると桜の花が咲いて見事だった。

 よしもとさんは、こんなことを書いている。

「冬に入ってからの露崎館の明かりは、他の季節よりもいっそう温かい。

 今にも崩れおちそうな建物のすみずみに明かりがしみているような、冬の空気ににじんでいるような感じがする。私はレ・リヤンが属しているその建物が好きだった。人が住んでいるところにお店が同居している。その感覚は街かどを優しく覆っていた。古い窓ガラスも、音が響いてうるさい階段も、いつかのどこかに経験してだれもが知っている懐かしいものだ。

 住んでいるご夫婦のたたずまいも、桜の木も、色とりどりの看板も、もはやひとつの印象のかたまりになって、そのあたりの空気を支配していた。

 くもり空のどんよりとした日に、露先館の明かりを見ると胸がじわっと温まる感じがした。私はその古い建物の中で働いていることを四季のあらゆる時期を通して誇らしく思っていた。」

 数年前は和物の骨董屋をやっていたので、ぼくもいろんな物を買っていた。その頃はおばあさんも元気で店先に座っていると、それだけで絵になった。それがおばあさん、お父さん、お母さんが次々と亡くなって、子供のいない露崎夫婦だけが残り、老朽化した建物をこわして、7階建てのビルになってしまった。

152a_2  今、露崎さん夫婦は、一階でカフエ「つゆ艸」(つゆくさ)を経営している。露崎君は52歳だというのに、おじいさんから話を聞いていたのか、下北沢の古い街だったときのことをよく知っているので驚いた。

 ビジネス街では、250円の弁当屋が出現している時代に、コーヒー500円はちょっとと思うが、露崎夫婦とおしゃべりできることが、コーヒー代だと思う。ママの笑顔のとりこになっていて、カウンターに座っておしゃべりしていると、心がいやされる思いだ。

「カフエ・邪宗門」での「伊藤文学と語る会」を「カフエ・つゆ艸」に変えようと思う。

 下北沢の南口商店街を歩いてきて、「王将」の前を左に曲がるとすぐだ。駅から5分ぐらいだから、今度は来やすいのでは。

 日時・2月16日(土)午後2時から4時まで。

 会費はコーヒー代500円だけ。初めての方も、女性も、ぜひ気軽にお出かけください。

 155-0032 世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F
 TEL03-6805-5385 営業時間12:00~24:00 木曜定休

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もうレトロな建物は下北沢にはない。

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見事な花を咲かせた桜も切られてしまった。

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ひかえめな看板

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ママの笑顔に心がいやされる

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ひげがよく似合う露崎君

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Bungakusan  <今週の文学さん>日本初のゲイビデオについて
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、文学さんが日本で初めてゲイビデオを作ったということで、そのあたりの思い出についてうかがいました。


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2013年1月26日 (土)

人間、身についたものは忘れない!

 2011年の6月6日のことだった。6日というのは、女房の兄であり、わが第二書房の製本を一切ひき受けてくれていた、越後堂製本の社長だった小林忠さんが、ガンで亡くなられた命日だ。

 どれだけお世話になったか分からないほどの小林社長だったし、女房は経理の仕事を手伝っていて、そこで知り合って結婚したのだから、命日にお墓まいりはかかさなかった。

 その日も車をぼくが運転して、小石川の植物園の近くの小林さん宅に、未亡人を訪ね、茖荷谷の近くのお寺にお参りする。

 そのあと食事を三人でして、おしゃべるするのが楽しみだった。共同印刷のある通りは広い道で、桜の名所でもある。両側はコインを入れて駐められる駐車場になっている。

 丁度、イタリアン・レストランの前が空いていた。そこに駐めることにして、二人を下車させて、バックして入れようとしたが、ぼくは、もともとバックは苦手だ。後ろにはドイツ製の高級車が駐まっていた。あせっていたのか高齢者がよくやる、ブレーキとアクセルを踏み違えるという事故だ。

 ど~んと後ろの車にぶつけてしまった。後ろの車の持ち主もレストランで食事中だった。幸いなことに保険に入っていたから、すぐに警察と保険会社に電話をかけた。

 ぼくの車はたいした傷ではなかったが、後ろの車は高級車だ。なんとか保険会社がすべてを処理してくれて、事なきを得たが、百万円ぐらいかかったようだ。ぼくの車の修理代も17万ぐらいもらって助かったが、保険ってありがたいものだ。

 事故のあと車を運転して、わが家に帰ってきて、なにごともなく駐車場に入れた。それからのことだ。車に乗ったら、すぐにブレーキをふんでしまって、車が前にすすまない。車が故障したのかと思って、ずっと入会して長いことになる、JAFという事故をおこしたときに電話をかければ、すぐに駆けつけてくれるところに連絡した。

 すぐにきてくれて、車をよく点検してくれたが、異常はなかった。どうやら精神的なもののようで、恐怖感がよみがえるので、からだが自然に反応して、ブレーキをふんでしまうのだ。

 この時から、運転をやめてしまった。

 それから2年近くの歳月が流れてしまった。免許の期限がきれてしまうので、更新するためには「高齢者講習」を自動車学校で受けなければならない。

 3年前にも講習を受けているから、どんなことをやるのかは分かっている。教習所の中を運転して走るのだが、今回は2年近くも車に乗っていないのだから不安だった。

 いろんな検査を受けて、最後は教官が助手席に乗って走るのだ。ぼくは昭和39年7月に、今度、講習を受けている「上北沢自動車学校」で指導を受けて、免許を取ることができた。

 昭和39年(1964年)といえば、東京オリンピックが開催された年だ。教習所の指導がよかったのか、それから50年近く、たいした事故もおこさずに車に乗ってこれた。

 身についたものって、人間忘れないものだ。丁寧に指導してくれた、斎藤孝行教官が助手席に乗ってくれているので、安心して何事もなくすいすい走れるではないか。

 検査の結果も良好だし、斎藤さんに相談したら「まだまだ大丈夫、乗れますよ」と、太鼓判を押してくれたので、「よし、また乗るぞ」と自信が湧いてきた。

 経堂駅まで送ってくれるバスが出る時間を待っている間に、テレビのニュースを見ていたら、乗用車が喫茶店にとびこんだ映像が。翌日の読売新聞には、カラーで写真が。運転していたのは、ぼくと同じ80歳の老人。さてさて、どうしたらいいものだろうか?

(免許をこれからとる方、上北沢自動車学校がおすすめ。斎藤さんを訪ねて下さい。)

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Bungakusan  <今週の文学さん>「百合」について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、あえて「百合」について訊いてみました。


 

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2013年1月21日 (月)

茂吉の歌碑と文學の小路の石柱が建つ!

「夢はかなうものだ」というものの思いついてから、すでに10数年の月日が流れている。

 バブルがはじけ、日本の経済は落ちこむばかり。それにネットや携帯電話が、急速に普及し、世の中、すっかり変わってしまった。

「本や、雑誌が売れない時代」になるとは予測ができなかった。『薔薇族』は廃刊に追いこまれ、ぼくは貧乏のどん底に。

 斎藤茂吉が猫柳を歌った歌。代田に住んでの3年ほどの間に、孫を連れて代田八幡宮の境内を散歩したり、代田川の桜並木の川沿いの道を歩いていた。

 もう諦めかかっていたときに、「代田川緑道保存の会」の代表を務める、林清孝さんと出会った。ちょびひげをはやした、からだのでっかい人だ。

 ボランティアで緑道の掃除を10数年も続け、世田谷区から表彰もされている。

 この人との出会いがあって、緑道に茂吉の歌碑を建てようという気持ちが、2人の間に一気に高まってきた。

 ぼくの仕事は、ぼくひとりの決断で決めて実現してきた。
 わが第二書房には、親父とぼくしかいない。それに父はぼくに仕事をまかせきりだったから、文芸路線からカジを切りかえ、小出版社が生き残るためにはこれしかないと、エロ本の出版、それから同性愛ものの出版へと押し進めてしまった。

 最近、姉から聞いた話だけど、文芸書ばかりを出版してきた父にとっては、あまりの方向転換に、にがにがしく思ってはいたそうだ。

 戦後、出版業を興した小出版社で、こんなに長く生き残ったのは第二書房しかないから、運がよかったとしか言いようがない。

 こんなにも早く歌碑の建設にこぎつけられたのは、林さんとぼくだけの二人で、決断し事を進めたからだ。大きな組織で会議をしていたら、お役所仕事になってしまって、いつまでたっても決められなかったのでは。

 世田谷区の土木公園課との交渉は林さんが。歌碑建設のための寄付お願いの文章は、ぼくが担当し、資金集めも。

 この不景気な時代に、建てられるわけがないと、みんな思っていた。
 それが林さんの古里、愛媛県の石屋さんにあった、高さ2米30センチ、重さ5トンもある自然石に、石屋の社長自らが、茂吉の作品をきざみこんでくれた。

 みんなの協力で資金も集まり、石屋さんの支払いもすみ、年あけには大きなトラックで緑道に運びこむ手はずになっている。

 代田川の緑道沿いの桜並木を近所に住んでいた文人たちが散策していたのは間違いない。茂吉は作品も残し、緑道を歩いてわが家にきたことは日記にも書かれ、ぼく自身が中学2年生のときに、代田の家まで送ったのだから。

 代田川が流れる高台に住んでいた、詩人の萩原朔太郎が緑道を歩いているのを見た人はいない。
作家の横光利一のことを昭和44年3月に世田谷区教育委員会が発行した『世田谷の文学』の中に、父が「ふるさと世田谷文学地図――世田谷文学散歩案内」の記事中に利一が散歩していたということを載せているではないか。

「近くの北沢八幡や、淡島の森厳寺や、代沢小などを散歩していた、長髪の和服姿が、いまも思い出されます。」と。

 桜並木のすぐそばのマンションに住んでいた鴎外の娘、森茉莉さんは着古した洋服を川に投げ捨てたと書いているから、一番多く歩いていただろう。

 こんなに多くの文人たちが住んでいた町は東京でも珍しいのでは。茂吉の歌碑のほかに「文學の小路」という石柱も建てる。

 桜の季節の頃までには、間違いなく歌碑は建つ。ぼくも林さんもそう長くは生きられないが、茂吉の歌碑と「文學の小路」は、長く世田谷の名所となるだろう。

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愛媛の石屋で東京に運ばれるのを待っている

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Bungakusan  <今週の文学さん>「百合」について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、あえて「百合」について訊いてみました。


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2013年1月19日 (土)

夢を描けば、夢は必ずかなう!

 昭和の柿本人麿、歌聖とも称せられた歌人、斎藤茂吉は昭和28年(1953)2月25日、71歳でこの世を去った。

 それから69年の歳月が流れ、多くのお弟子さんも、この世にいない。茂吉に出会えたのは、中学二年生のときのぼくと、姉ぐらいしかいないのではないか。

 山形県大石田の疎開先から戻り、長男の茂太さんが神経科の診療所を開業していた、代田の家に茂吉夫婦が帰京してきたのは、昭和22年(1947)のことだ。

 その頃、ぼくの父、祷一は、第一書房時代の仲間だった、斎藤春雄さんが戦後すぐに斎藤書店を興し、緑道沿いの高台に事務所兼自宅があったのを手伝っていた。

 斎藤書店で茂吉の『童馬漫語』と『童牛漫語』を出版することになり、父が手がけていた。

 茂吉が65歳の頃だ。
 環7などなかった静かな住宅街を抜けて、桜並木の代田側ぞい(当時は川が流れていて、ふなや鯉や、どじょうなどもいた)の道を歩いて、斎藤書店に寄り、足をのばして代沢小学校のそばのわが家へも風呂敷包みを下げて、よく訪れていた。

 茂吉は丹念に日記を書き続けているが、カタカナまじりで、簡単なものだ。孫の茂一がよほどかわいかったのだろう。孫と散歩したり、遊ぶのが楽しみだったようだ。

 12月23日には、「夕食の時、電灯ツカズ難渋シタガ、直グ床中ニモグリ込ンダ」
 戦後の時代、よく停電したものだ。

 昭和23年の2月13日 金曜 クモリ
「午前中、茂太ノ患者2人(伊藤祷一夫人ノ紹介モアッタ)今日ハ大ニ勉強シヨウトシタガ駄目デアッタ 今日ハ茂太ノ患者合セテ3人 夜ヤヤ冷」

 当時の茂太さんの患者さんの来院は少なかったのだろう。ぼくの母がとなりの家の奥さんが頭がおかしくなったので連れて行ったのが、茂吉はうれしかったのかも。今の時代のようにストレスがたまって、ウツ病になる人なんていなかった。

「4月11日 日曜 ヤヤスズシイ クモリ 夜 風邪ヒク 夜 ヤヤ寒
 斎藤書店ヲ訪フ、留守 伊藤祷一氏訪フ 留守」

 この時だったのか、姉が腹痛で二階で寝込んでいた。母は茂吉が医者だというのを知っていたので、茂吉に診てもらいたいと、お願いした。

 茂吉は地下たびをぬいで、二階で寝ている姉のお腹をさすって、診てくれた。現役の医者をやめて何年も経っている。それに茂吉は神経科の医者だ。

 お腹をさわったぐらいでは、なんの病気か分からないのは当然だが、茂吉って面白い人だ。姉の話だと、茂吉の手のひらはザラザラしていたそうだ。結局は盲腸炎で外科に入院して手術を受けたのだが、手おくれで腹膜炎になっていた。

 晩年の歌集『つきかげ』の中に、こんなユーモラスな歌がある。

 

税務署へ届けに行かむ道すがら馬に逢ひたりああ馬のかほ

 姉のお腹をさすってくれた茂吉と、馬の歌と重なるものがあるではないか。茂吉は昭和25年(1950)11月、新宿区大京町に移られたが、代田に住んだ3年ほどにも多くの作品を残している。

 

代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ

 ぼくは長い間、この作品の歌碑を建てて、残したいと夢みてきた。夢を描けば、必ずかなうものなのだ。(つづく)

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代田の茂吉旧居

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Bungakusan <今週の文学さん>愛の潤滑液「ラブオイル」について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、『薔薇族』発のオリジナルローション「ラブオイル」についてうかがいました。


第15回「伊藤文学と語る会」

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1月19日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年1月15日 (火)

カンパを頂いた方へ!

歌人、斎藤茂吉の歌碑建設のためのカンパをお願いしてきましたが、ブログを見てくれた方々に、ご支援頂き感謝しています。

櫻の季節には必ず完成させますので、これからもご支援のほど、よろしく。

伊藤文学

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Bungakusan <今週の文学さん>愛の潤滑液「ラブオイル」について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、『薔薇族』発のオリジナルローション「ラブオイル」についてうかがいました。


第15回「伊藤文学と語る会」

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1月19日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年1月14日 (月)

現代の『女の防波堤』は、基地をなくすしかない!

「芸者、ダンサー多数求む!! 進駐軍接待婦大募集!! 昭和の唐人お吉よ来れ!! 日本女性の防波堤たらんとする、女性を求む!! 衣食住は当協会負担。面談即決!! 特殊慰安施設協会」

135  大看板が焼け残った東京のお店の前に張り出された。

 その看板を見て応募した女性、田中貴美子さんが、体験を描いた手記を出版した。それが、わが第二書房から、昭和32年8月5日に第1刷として出された『女の防波堤』(定価250円)だ。

 そして忽ち第5刷まで増刷されたところで、発禁処分になってしまった。

 その帯のキャッチフレーズには、こんな文字が……。恐らくぼくが考えたものだろう。

「半官半民の売春会社R・A・Aに応募し、みずから肉体の防波堤となった、少女の赤裸々な体験手記」

 当時、「週刊新潮」が売れに売れていた時代で、5頁もの特集を組んでくれたのだからヒットしないわけがない。
 
 警視庁は社交、遊技にかかわるすべての業界のリーダーを集めて協議し、「あくまで民間の事業にせよ」として、国家が関与した証拠を残さないことだった。
 
 業者側出資5千万円、政府側保証5千万円、あわせて1億円の資本金を持つ、政府と民間共同の赤線会社が創立されたのだ。

 進駐してくるアメリカ兵は、フィリッピンにいた陸軍第8軍と、横須賀から上陸した第3艦隊など、2万人で東日本を占領、9月末には増援部隊を加えて、11万人に達した。
 
 マニラや沖縄にいて、日本への進駐を目前にひかえたアメリカ兵たちの間で、「進駐地には女の用意がしてあるらしい」とささやかれていたという。

 従軍するアメリカの記者の証言らしいが、日本に兵隊より先に乗り込んだのが新聞記者だったから、日本の情報の伝達者も記者だったのではないか。
 
 いずれにせよ、兵士たちは「芸者ガールが抱ける」という幻想のとりこになっていたようだ。

『女の防波堤』には、こんなことが書いてある。「大森海岸の小町園、見晴らしに乗り込んだ昭和のお吉たちは、全員167名の大部隊でありました。

 

 私たちのお店である小町園は、18室もある大きな料亭で、93人。見晴らしには74人がそれぞれ別れました。

 

 大森三業組合が協会に出資の形で、この両店を提供したのだそうです。ひのき造りの豪華な建物ですから、私たち焼け出されの女たちは「あら、すごいわね。こんな家に住めるんなら、少々つらくとも辛抱するわ」と、みんな上機嫌です。」

 こんな甘いものではなかった。生命がけの戦争が終わって、飢えた野獣のような若いアメリカ兵だ。どんなことになるのか、想像ができる。

 横浜は東京よりも早く進駐軍と対面し、すぐに性慰安所をかまえている。焼け残ったアパートに娼婦を集めた。そこへ押しよせてきたアメリカ兵は百数十人。それを14人の娼婦が受け持った。

 数は日ましに増え、ひとりの娼婦が一日に70人も相手にした。殺人まで起きたので、アパートは一週間で閉鎖される。

 それは娼婦が黒人兵を嫌ったところ、怒った黒人兵が娼婦を銃殺。、今度はかけつけた進駐軍のMP(軍隊の中の警察)が、その黒人を射殺というから、人種差別はひどかったようだ。

 当時の日本人は、みんな飢えていた。栄養失調寸前の若い女性に、屈強な兵士の相手をさせたのだから、正気の沙汰ではなかった。

『女の防波堤』は、新東宝で映画化もされたが、今読んでみてワイセツなところなどない。お国がお金を出して、赤線会社をつくったことを国民にしらせたくなかったのだろう。

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Bungakusan <今週の文学さん>愛の潤滑液「ラブオイル」について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、『薔薇族』発のオリジナルローション「ラブオイル」についてうかがいました。


第15回「伊藤文学と語る会」

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1月19日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年1月12日 (土)

官民共同出資で進駐軍相手の売春会社を!

 2012年11月27日(火)の「読売新聞」夕刊によると、沖縄で10月に集団強姦致傷容疑で、兵士2人が逮捕されるなど、不祥事が相次いでいるので、在日米軍司令部などが、26日、日本各地にある基地の海軍兵に飲酒を禁止する通達を出していた。
 
 時間は午後10時から、翌午前8時にかけてで、基地の内外を問わず飲酒を禁じるという。
 
 広い基地の中で、何不自由なく日々を送っているアメリカの兵士たち。戦後、長い年月が経っているが、いまだに占領軍という気持ちが残っているのではなかろうか。

 戦後、まもなくの話だ。北杜夫さんの著書「茂吉晩年」を読むと、茂吉はこんな話をしたという。

「日本に占領軍がまもなく上陸する。そうなると、自然これを相手にする娼婦が必要になる。これが設置されぬと大変だ。
 
 長崎あたりの娼婦は、外人相手に慣れているが、そうでない土地の娼婦には、特別に外人相手の方法の教育をしておかねばならない。
 
 商売の女がいないと、一般家庭の婦人がとんでもない被害を受けるようになるから、日本の政府は早くこの対策を講じねばならぬ。」
と、歌人の斎藤茂吉は真剣に語ったそうだ。

134  ぼくの友人の白川充さん。講談社に定年まで勤めて、退職後は文筆活動を続けられ、2007年8月に展望社から『昭和平成ニッポン性風俗史――売春の60年』(¥2000+税)を豊富な資料で検証した、力作を出版されている。

 その本によると、茂吉が心配したとおりのことが、くわしく書かれ、おどろかされた。

 広島、長崎と原爆が投下され、日本は連合軍に対して無条件降伏したが、被災死体の処理に追われている頃、同じく焼け野原の東京では、政府関係者が、アメリカ主体の占領軍兵士のため、性慰安を提供しようと画策していた。

 戦争に性の問題はつきものだ。殺し合う兵士の荒廃したこころは、進駐した土地、占領した土地で性の暴力となって破裂する。
 
 征服された土地や、国の女性たちが、兵士によってレイプされることは、古代から当然のように続けられてきた。

 太平洋戦争で日本軍も、中国大陸などで現地の女性たちを犯す行為に走った。
 
 敗戦国、日本が無条件降伏した翌日、いち早く考えたのが、この進駐軍用「性の慰安所」だった。
 
 日本人は戦時下で、「敵は鬼畜米兵」と、軍部から頭に叩き込まれた。アメリカやイギリスは人間ではなく、鬼畜のごとき存在と教えられたのだ。
 
 その鬼畜が進駐軍として日本に上陸すれば「男は収容所送り、女は強姦されっぱなし」と言った風評が日本中をかけめぐった。

 軍人内閣に代わって、敗戦処理を担当することになった東久邇内閣が内務大臣、近衛文麿の進言で、進駐軍兵士の性処理施設を準備したのは、当然といえば当然だった。兵士の性衝動の荒々しさは、日本軍の例でも分かっている。

 大義名分は「一般女子の性を守るため」である。幸か不幸か、日本には公娼制度が残っていて、兵士の相手をする娼婦がそろえられるだろうの前提もあった。しかし、国中が焼野原と化し、ボロボロになった敗戦国では、計画どおりにいかず、さまざまの悲劇を生んだ。

 東京は3月10日の大空襲で、焼野原となり、娼婦たちも多数が死んでいる。田舎へ帰っていた女性も多い。終戦の時点で東京にいた娼婦は千人たらずだった。そうなれば広告をして、公募するしかなかった。

 進駐軍の中にはゲイの兵隊もいたに違いない。ゲイの兵隊への対策、これは記録がない。ゲイのアメリカ兵は、どんな行動に出たのだろうか? (つづく)

第15回「伊藤文学と語る会」

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1月19日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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Bungakusan <今週の文学さん>紅白歌合戦―美輪明宏の感想
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、去年末の紅白歌合戦(美輪明宏『ヨイトマケの唄』)について感想をうかがいました。

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2013年1月 7日 (月)

第15回「伊藤文学と語る会」

来る1月19日(土)、下北沢「邪宗門」にて、第15回「伊藤文学と語る会」を開催致します。

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1月19日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「邪宗門」
住所:東京都世田谷区代田1丁目31-1 TEL03-3410-7858

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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Bungakusan <今週の文学さん>紅白歌合戦―美輪明宏の感想
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、去年末の紅白歌合戦(美輪明宏『ヨイトマケの唄』)について感想をうかがいました。

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『貧乏暇あり・札幌古本屋日記』

 西暦2013年(平成25年)新しい年を迎えました。まったくネットを触ったことがないぼくが、息子の嫁が最初で、それから3人もの協力者のお蔭で、8年もブログを書き続けてこられたということは、奇蹟としか言いようがありません。本年もよろしく。

 もう1年を越して、ぼくの手足のように支えてくれている猪口コルネ君は、若くて有能、それにわが家のすぐ近くに住んでいる。

 ぼくに関する書評や、コメントがネット上にのっていると、紙焼きにして見せてくれるありがたい人だ。

『薔薇族』の誌上では、創刊して間もなくから「伊藤文學のひとりごと」という2頁のコーナーを作って、廃刊になるまで書き続けてきた。

 小説のような長い文章は、頭の悪いぼくにはとても書けないが、学生時代に短歌を作っていたので、短くまとめることにはなれているのかも知れない。

 原稿用紙4枚、それを週に2編書くということなど、なんでもないようだけど、これを書き続けるということは、思ったより大変なことなのだ。

 ブログを書いている人の数って、どのくらいいるのか、他人さまの書いたものを読むことができないぼくには知るよしもない。

 一昨年の9月、ぼくのブログを読んでくれているという、札幌市豊平区に住む、須賀裕子さんという方から手紙をもらったことがある。

 ブログに書いたものを集めて、彩流社から出版した「やらないか! 『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論」を読んでくれての手紙だ。

「御礼状を早くと心せきながら、あまりの面白さと興味深さに、ついつい何度も読み返し、読み返しして、こんなに遅くなってしまいました。(中略)

 救世軍の廃娼運動につくした、お祖父様の血が伊藤さんに受け継がれていることに驚き、また感動いたしました。(中略)

 まだまだ多くの方との交流や、秘話を心におさめていらっしゃることと存じます。今後とも興味深いエピソードを折にふれて御披露頂けたらと期待しております。」

 その後、何度かの手紙のやりとりがあって、須賀さんが、古書店を経営していることを知ったので、閉館した「ロマンの泉美術館」の残った絵葉書をお客さんにプレゼントしてあげたらと送ってあげたことがあった。

 宅配便で「論創社」の今井さんという方から、『貧乏暇あり――札幌古本屋日記』(定価・本体¥1800+税)335頁もある分厚い本が送られてきた。

 著者は須賀章雅さん。須賀裕子さんのご主人だということは、すぐに納得できた。

 本の発行日が2012年12月30日発行とある。遠い昔の話だが、ぼくが単行本を出していた頃は、年末ぎりぎりに本を出すのをさけたものだ。それは本の取次店(問屋)が忙しいものだから、書店への配本がいい加減になるからだ。

 あとがきを読むと、湯たんぽでしのぎつつ書いたようだが、「ブログ日記が編集者さんの目に留まり、半ば諦めかけておりましたが、著書上梓の運びとなりました。」

 出版社の編集者の目に留まって本になる。こんなラッキーなことってあるのだろうか。ぼくの場合、持ち込みなのだから、運のいい人っているものだ。

『貧乏暇あり』とは、うまいタイトルをつけたものだ。まだ、あとがきしか読んでいないが、このご主人を支えている須賀裕子さんという人、すごい女性だということが、伝わってくるようだ。

 現在のぼくも『貧乏暇あり』。ぼくのブログを、どなたか目に留めてくれるか?

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須雅屋の古本暗黒世界
http://d.hatena.ne.jp/nekomatagi/

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Bungakusan <今週の文学さん>紅白歌合戦―美輪明宏の感想
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、去年末の紅白歌合戦(美輪明宏『ヨイトマケの唄』)について感想をうかがいました。

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2013年1月 5日 (土)

『アドニス』は『薔薇族』の原点だ!

136  古本業界の雑誌で『彷書月刊』という雑誌が去年まであった。

 古本なんてほとんど読んだことがないぼくは、この雑誌を知らなかった。編集・発行人の田村治芳さんという方が訪ねてこられて、原稿を二度ほど書いたことがある。

 田村さんは、平成23年の1月に亡くなられて、雑誌も廃刊になってしまった。

「アドニス会」というゲイの会員制の雑誌『アドニス』が刊行されたのは、昭和27年9月(1952年)で、10年ほど不定期で出され、63号で警察の手入れを受けて、廃刊になっている。

 その『彷書月刊』が、2006年2月発行の3月号に「特集・アドニスの杯」とあり、堂本正樹さん、伏見憲明さん、本多正一さんなどが執筆していて、ゲイの戦後の歴史を知る上の貴重な資料だ。

 ぼくは「『アドニス』は『薔薇族』の原点だ!――同性愛文学に思うこと」と題して書いている。

「『アドニス』は、ここの編集者の手によって誕生したと言われる『人間探究』の8月号が、ぼくの手許にあって、「特集・同性愛は現代病か」と題して、31頁もの特集が組まれている。

 

 その見出しには「普通人なら顔をそむけるか、ぶべつの色を示すであろう同性愛も、同性愛者にとっては人生の無上の快楽であり、それだけに、その満たされざる時の苦悶は、正にこの世の地獄だ。この地獄の苦悶を直視することも、我々の人間探究に於ける責務であろう」とある。(昭和28年8月号・第35号)

(編集者の中にゲイの人がいたと思う。ノンケの人では、この見出しはつけられない。この雑誌から『アドニス』が生まれたのは、編集者のゲイの人の力だったのでは。)

 同性愛者向けの雑誌などなかった時代で、世間の人も、同性愛者は異常であり、変態であると思い、当事者も自らを性倒錯者と思いこんでいた時代のことだ。

 このような雑誌に同性愛の記事が載ると、地方でひっそりと暮らしている同性愛者は、むさぼるように買い求めて読んだのであろう。

 同性愛の記事を載せると、読者からの反響も大きく、売れゆきもよかったに違いない。
 
『アドニス』50号(1959年刊)記念号に『人間探究』の編集者であり、『アドニス』を会員制で創刊させた、上月竜之介さんが創刊の頃の思い出を寄せている。

「当時『人間探究』の編集にたずさわっていた私が、この会誌を出そうと思い立ったとき、別に成算もなかったし、ましてこれほど長続きしようとも考えもしなかった。(中略)

 

 会誌を出そうと思うようになった直接の動機は、ひんぱんに舞いこむ同性愛者の孤独を訴える投書であった。」

 息をひそめるようにして生きていた読者は、わらをもつかむような気持ちで『アドニス』の誕生を待ちわびたに違いない。

 上月竜之介さんという方が、ご自身が同性愛者だったのかということは分からない。

 同性愛の記事を載せることによって寄せられる同性愛者からの手紙を読んで、編集者としての気持ちが動かされたのかも知れない。

 15号ぐらい続けて、作品社という出版社の田中貞夫さんにバトンタッチしている。健康上の理由からとされているが、本当のところは分からない。(中略)

『薔薇族』が創刊されたのは、1971年、昭和46年。それよりも20年近くも前に、こうした雑誌を発行した、先人の努力をほめたい。

『アドニス』は、『薔薇族』の原点だった。商業誌として日本で最初に創刊できたこと、これはぼくの運の強さだったと言える。そうとしか考えつかないのでは。

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2013年1月 4日 (金)

ヤフーオークションに限定品出品のおしらせ

更新担当の猪口です。

いつもご覧いただきありがとうございます。

 

伊藤文学氏の委託で、下記2点の品をオークションに出品しています。

Oc1

「ヤマジュン本+フィギュア」

Oc2

「アンティークのコカコーラトレイ(漆・日本製)」

 

ご興味のある方は、ぜひ、下記オークションページをご覧ください。

ヤマジュン本+フィギュア

アンティークのコカコーラトレイ


おしらせでした。

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