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2013年1月21日 (月)

茂吉の歌碑と文學の小路の石柱が建つ!

「夢はかなうものだ」というものの思いついてから、すでに10数年の月日が流れている。

 バブルがはじけ、日本の経済は落ちこむばかり。それにネットや携帯電話が、急速に普及し、世の中、すっかり変わってしまった。

「本や、雑誌が売れない時代」になるとは予測ができなかった。『薔薇族』は廃刊に追いこまれ、ぼくは貧乏のどん底に。

 斎藤茂吉が猫柳を歌った歌。代田に住んでの3年ほどの間に、孫を連れて代田八幡宮の境内を散歩したり、代田川の桜並木の川沿いの道を歩いていた。

 もう諦めかかっていたときに、「代田川緑道保存の会」の代表を務める、林清孝さんと出会った。ちょびひげをはやした、からだのでっかい人だ。

 ボランティアで緑道の掃除を10数年も続け、世田谷区から表彰もされている。

 この人との出会いがあって、緑道に茂吉の歌碑を建てようという気持ちが、2人の間に一気に高まってきた。

 ぼくの仕事は、ぼくひとりの決断で決めて実現してきた。
 わが第二書房には、親父とぼくしかいない。それに父はぼくに仕事をまかせきりだったから、文芸路線からカジを切りかえ、小出版社が生き残るためにはこれしかないと、エロ本の出版、それから同性愛ものの出版へと押し進めてしまった。

 最近、姉から聞いた話だけど、文芸書ばかりを出版してきた父にとっては、あまりの方向転換に、にがにがしく思ってはいたそうだ。

 戦後、出版業を興した小出版社で、こんなに長く生き残ったのは第二書房しかないから、運がよかったとしか言いようがない。

 こんなにも早く歌碑の建設にこぎつけられたのは、林さんとぼくだけの二人で、決断し事を進めたからだ。大きな組織で会議をしていたら、お役所仕事になってしまって、いつまでたっても決められなかったのでは。

 世田谷区の土木公園課との交渉は林さんが。歌碑建設のための寄付お願いの文章は、ぼくが担当し、資金集めも。

 この不景気な時代に、建てられるわけがないと、みんな思っていた。
 それが林さんの古里、愛媛県の石屋さんにあった、高さ2米30センチ、重さ5トンもある自然石に、石屋の社長自らが、茂吉の作品をきざみこんでくれた。

 みんなの協力で資金も集まり、石屋さんの支払いもすみ、年あけには大きなトラックで緑道に運びこむ手はずになっている。

 代田川の緑道沿いの桜並木を近所に住んでいた文人たちが散策していたのは間違いない。茂吉は作品も残し、緑道を歩いてわが家にきたことは日記にも書かれ、ぼく自身が中学2年生のときに、代田の家まで送ったのだから。

 代田川が流れる高台に住んでいた、詩人の萩原朔太郎が緑道を歩いているのを見た人はいない。
作家の横光利一のことを昭和44年3月に世田谷区教育委員会が発行した『世田谷の文学』の中に、父が「ふるさと世田谷文学地図――世田谷文学散歩案内」の記事中に利一が散歩していたということを載せているではないか。

「近くの北沢八幡や、淡島の森厳寺や、代沢小などを散歩していた、長髪の和服姿が、いまも思い出されます。」と。

 桜並木のすぐそばのマンションに住んでいた鴎外の娘、森茉莉さんは着古した洋服を川に投げ捨てたと書いているから、一番多く歩いていただろう。

 こんなに多くの文人たちが住んでいた町は東京でも珍しいのでは。茂吉の歌碑のほかに「文學の小路」という石柱も建てる。

 桜の季節の頃までには、間違いなく歌碑は建つ。ぼくも林さんもそう長くは生きられないが、茂吉の歌碑と「文學の小路」は、長く世田谷の名所となるだろう。

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愛媛の石屋で東京に運ばれるのを待っている

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毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、あえて「百合」について訊いてみました。


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