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2013年2月

2013年2月25日 (月)

「やせる生徒」と題する先生の投書!

 ぼくは女房と、息子夫婦と小学校5年生の男の子と、5人でマンションに住んでいる。孫はクラスでまん中へんの身長で、背が高いわけではない。孫に「君、体重はどのくらいあるの?」と聞いてみた。「42キロ」ということだった。

 戦後間もなくの昭和22年頃の「朝日新聞」の読者の投稿欄に(東京・小池藤五郎・教師)が「やせる生徒」と題して、投稿している。これも父の新聞切抜帳に貼りつけてあったものだ。

 ぼくは昭和13年頃、小学校に入学したが日中戦争が始まったあたりで、国内は平和そのものだったが、給食なんてものはなく、みんな母親が作ってくれた、弁当を持っていっていた。

 日米ついに開戦。昭和16年(1941)12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃して戦争に突入してしまった。最初の1、2年はよかったが、18年(1943)頃から、食糧不足になってきて、そして敗戦。戦後の食糧不足はひどかった。その頃の投稿だ。

「新制中学校の体重が、日々減っている。5月平均29.1キロ、6月28.5キロ、7月は27.5キロ。原因は遅配、第二に給食中止からきた栄養不足。

「ぼくを小学校へ落第させて下さい」と中学生は訴える。そのわけは「小学校には給食があります」である。

 新制中学校の多くは小学校に間借りしている。生徒の目には日々の献立表がはいり、香ばしい炊事場の香り、弟や妹が給食を喜ぶさまが耐えられぬみわくである。

 同じ屋根の下で、小学校は給食、中学生は匂いをかぐだけ、これが中学の大きな悩み。

 野球が流行して生徒は細っていく。「一番苦しいのは何か」と聞くと、「野球をやっているときは面白くて夢中ですが、やめたときは目まいがします。」と答える。

「面白さにつられて運動が過ぎるからよしなさい」というのだが、やっぱりやっている。

 建物よりも給食を。大都市の中学生は声をそろえて叫んでいる。

 女子の80%、男子の75%は酒をのんだことがある。煙草は男子の93%、女子の10%、女子の方には遠慮して手をあげない者があるらしい。

「君たちは小さいくせにどうしてのむの」の答えは「お腹が空いてたまらないからのんでみたのです」である。

 新制中学生を裸にして見るがいい。さらに7、8人の子供を持つ親の体重も考えてほしい。」

 戦後の中学生の体重は、今の子供の小学校2、3年と同じくらいではないか。いかに食物がなかったかということが分かる。

 小学生の給食だって、今の給食だと、おかわり自由だけど、戦後の小学生の給食ってどんなものが出されていたのか、たいした料理は出ていなかったのでは。

 ぼくのおふくろも、その頃の写真を見るとガリガリにやせていた。中学生のころ、親が弁当をもたせられなくて、昼食の時間、校庭の片隅ですわりこんでいた子が何人もいた。

 ぼくの弁当箱だって、大根とかがご飯の中に入っていて、食べる頃には片隅の方に寄ってしまっていた。

 そんな時代に育ってきたぼくは、外食するときは、ご飯を残すのはしのびないので、全部は食べられないなと思うと、店員に「ご飯を半分ぐらいにして下さい」と、頼むようにしている。

 炊飯器にこびりついている米つぶも、洗い流さないで、アミですくって小皿に入れて、窓の外のテラスに置いておくと、雀がきれいに食べてくれる。雪が降ってえさをみつけられない雀たちも助かっているに違いない。

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Bungakusan <今週の文学さん美輪明宏さんとの交流について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、美輪明宏さんとの交流についてうかがってみました。後半に、前回のプレゼント企画の結果発表もありますよ~。

 

 

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2013年2月23日 (土)

若い温情警察官は、今でもいるだろうか?

 最近、警察官の不祥事が多い。人殺しまでしてしまったなんていうことは、かつてなかったことだ。

 父の新聞切抜帳に、こんな心あたたまる警察官の記事が載っていた。朝日新聞の昭和22年(1947)7月31日の記事で「母を泣かす温情警察官・雨の夜道とぼとぼ、行くは買出し少年いたわり送る一里半」の見出しだ。

 太平洋戦争の日本の敗色が濃くなってきた頃から、戦後の数年間は、都会の人間にとっては、食べることに苦労した。

 コンビニでもスーパーでも、食料品が山のように並べられている時代に生きている人は、食べ物がまったくなかった時のことなど、想像することはできまい。

 ぼくも母親と一緒に、埼玉県の農家を訪ね、着物と交換で、じゃがいもや、さつまいもなどを買い出しに行ったものだ。

 戦後は闇米などをかついでくると、警察官に押収されてしまう。この記事の少年も、親せきの農家から、じゃがいも4貫目をもらって帰る途中の話だ。

「雨のしょぼ降る深夜の甲州街道を疲れ切った足取りの買出し少年が家路を急いでいた。
 ここしばらく続いた遅配(その頃は配給制度でわずかばかりの食糧品が、国からくばられていた)に、空き腹を抱えて試験勉強をしている兄を思うと、足の痛みなどは何でもなかった。

「もし、もし」

 交番の前までくると、ついに少年は呼びとめられた。「すみません」子供心にも、もう駄目だと観念した少年をその警官は、決して叱らなかった。

 そして、あと一里半もある少年の家まで、自転車で送ってくれると、そのまま立ち去った。

 親切な警官は表彰された。去る6日のことだった。午前1時頃、代々木署幡ヶ谷派出所、福田猛郎巡査(22)は、13、4歳の少年が雨の夜道をリュックを背に歩いてくるのに出食わした。

 会社員、後藤忠さん、3男、叔彦君(13)とて、埼玉県の親類から、じゃがいも4貫目を買っての帰りで、途中、電車に間に合わず新宿駅から、土砂降りの暗い甲州街道を歩いてきたものだった。

 まだ松原町の自宅へは、一里半もある。ずぶぬれの少年の肩に、リュックのひもがくいこんでぐったり疲れていた。

 法規をふりまわせば違反になるが、年端もゆかぬに可哀そうな。福田巡査はまず同情が先に立ち、自転車にじゃがいもぐるみ少年をのせると、土砂ぶりの雨もいとわず、自宅まで送り届け、名前も告げずに立ち去った。

 翌日、叔彦君の母親キミさんから、松本代々木署長にこんな手紙が届けられた。

 私の家は17歳をかしらに男6人、女ひとりの子供をかかえ、遅配にあえいでおります。しかし、子供たちは、お父さんぐらいの年配で、取締りにかかってはみっともないから、と決して父親を買出しにゆかせずに自分たちで出かけます。

 昨日は兄二人は試験勉強なので、叔彦が一人で出かけました。わが子が夜更けの甲州街道の雨の中を重い荷を背負って、とぼとぼ歩く姿を想像した親の心をお察し下さい。

 送って下さった若い眼鏡をかけたお巡りさんは、恐縮してお礼の言葉も出ないうちに、立ち去ってしまわれました。温かいお巡りさんのお情けに、せめてお名前だけでも……。

 かくて調査の結果、福田巡査の善行が判り警視庁で表彰されたのだった。」

 この少年、お元気ならば、ぼくと同じぐらいの年齢だろう。ひどい時代をよく生きのびてきたものだ。少年の姿が目の前に浮かんでくるようだ。

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2013年2月18日 (月)

戦争を超えた中国将校の愛情物語

 ぼくの父(平成3年9月8日、86歳で没)が残した、戦後、間もなくの昭和21年か2年頃の新聞スクラップ・ブックが見つかった。

 現在、日本と中国の関係は、険悪な状態にあるが、こんな人間同士の心あたたまる、愛情物語が朝日新聞の記事になっている。

「戦争を超えた中国の愛情・撃墜の遺族を慰む・戦場の誓い果す雷大佐」の見出しで。

「日本と中国が悪夢のような戦いを始めて間もなくのころ華北の上空で若い中国の空軍中尉機が、一機の日本軍九五式戦闘機をうち落とした。

 昭和12年の残暑もきびしい9月の21日の真昼だった。日本機はガソリンタンクを射抜かれ、それでもいく度か立ち直ろうとしたが、ついに広野の中に落ちて、火をふいた。空の戦いには哀傷があった。「いまうち落とした敵機の乗員にも妻子や、身寄りがあるに違いない」中国の将校は日本機の後を追ってそのそばに着陸すると、焼け残った飛行機の中には、恩賜、陸軍航空兵少佐、三輪寛ときざみつけた軍刀がころがっていた。

 また仮とじのノートが一冊、妻子への便りも書きつけてあった。若い中国の将校は、お互いの祖国の戦いを超えて、その日本の将校のめい福を祈った。また生ある限り、いつの日かその家族たちに会いたいと思い、メモにはっきりとその氏名を書きつけたのだった。

 それから10年、その中国将校、雷炎均中尉の飛行服のポケットには、三輪飛行隊長の名前が抱かれ、いくたびか死地の中をとんだ。

 殊勲によって大尉になり、少佐になっても、そして終戦、中国在日航空参謀、雷大佐として、往年の若い士官は日本の土を踏んだ。

 そして早速、行なったことは、10年前、太原の広野で心に誓ったこと「三輪隊長の遺族を探して下さい。きっと苦しい暮らしをしているのではないでしょうか」あらゆる知り合いの日本人に頼んだ。

 がれきの街となった東京の姿に、今日の日本の困苦を見、わが手にかけた三輪隊長の家族の困難を思ったという大佐の真情はついにむくいられた。

 遺族は立川市錦町の立川寮というアパートの一室に居るとわかった。雷大佐はよろこび「見つかった、見つかった」と、代表部のだれかれに喜びを話し、また、それをわが事のように喜ぶ代表部の将校たち、悲惨だった日華戦争の歴史にも、消えず残ったこの中国将校たちの人間愛は、いま迫る生活苦に内職するという三輪戦闘飛行隊長の遺族たちだけでなく、日本人全体に対する中国の愛情ではないだろうか。

 雷大佐と中国代表部の常、王将校を乗せたジープは春風を切って立川にとんだ。こころづくしの手土産も一緒に、雷大佐のひざの上でおどっていた。汚れた戦災寮の一室、遺族と中国将校の話はつきない。

「よかった、よかった、10年前の暑い日、低空で襲ってきた5機の日本戦闘機だった、舞い上がった私の指揮する4機が闘った、私と三輪機の一騎打ちに私が残ったのだが、それからいつも思い続けてきた、よかった」と雷大佐が喜べば、「わざわざ、こんなにまでも……」と、富美子未亡人、二人の遺児は目をうるませた。

 お金も送られた。そして名残惜しげに手をふって帰る将校たちに、未亡人と遺児の手がいつまでもふられていた。」

 中国と日本は、おとなりの国だ。尖閣諸島の問題もあるが、こんな心やさしい中国人の話を読めば、お互いに理解しあって、仲良くしたい。ぼくのブログを中国の人も読んでいるようだから、こんな心あたたまる話を中国の人たちにも告げてもらいたいものだ。

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Bungakusan  <今週の文学さん薔薇族の目玉「文通欄」について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、かつて『薔薇族』の目玉コーナーだった「文通欄」についてうかがってみました。

 

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2013年2月16日 (土)

蚤と格闘した歌人の斎藤茂吉

 今時の若者は、蚤や虱という人の肌をさす、虫を見たことはないだろう。蚊だって、どこの家でも窓には、網戸がついているから、家の中では蚊を見ることも少なくなっている。

 昔はどこの家でも使っていた、緑色の渦巻きの蚊取り線香も、都会では売れなくなっているだろう。テレビで見たが、アフリカのどこかの国では蚊取り線香がヒット商品になり、なつかしい蚊帳も、現地の工場で作られ売れているそうだ。

 戦争中から戦後にかけては、石鹸が手に入らず、衣服が汚れたままだったし、アメリカ軍の空襲がひどくなってきて、ねまきに着がえることもできなかった。

 朝、ふとんをたたもうと、持ちあげると、蚤がぴょん、ぴょんとびはねる。大きさは2、3ミリぐらいなのに、2、30センチの高さまでジャンプするのだからすごい。それを指の先ですばやくつかまえてつぶす。それが毎日の仕事なのだ。

 虱は、もっとたちが悪い。おふくろが下着類を大きな鍋で、煮立てて殺したものだ。

 歌人の斎藤茂吉も、戦時中、山形の疎開先で、蚤には悩まされたようだ。息子の北杜夫さんの著書『茂吉晩年』(岩波書店刊)に、面白いことが書いてある。

「茂吉を悩ましたのは、5月に入ると、のみが出始めたことである。

「君、驚いたよ。もうのみが出た。それで昨夜は眠れなかったっす。難儀して看護婦さんに手伝ってもらって、夜半にやっと捕まったっす。ほれ、こいつだっす。」

 そして、枕元にある紙片の上のつぶされた蚤を示した。そのうち、茂吉は、捕まえた蚤を、縫針に串刺にして枕元に置くようになった。

 2、3匹を刺し通していることもあった。それを寝ながら目の上にかざして見、「この大きな奴は、今朝、捕って刺しておいたんだが、まだこうして生きてるっす。なかなか頑強で死なないもんだなっす。まさに恐るべき生命力だっす。」

 と、感に堪えぬという口調で言った。(中略)

 茂吉は蚤を捕らえるにも極めて不器用であった。大石田でも、板垣さんはその様子をくわしく見ている。まず掛布団を静かにめくってゆく。蚤を見つけると、右手の人差し指を唇に持ってゆき湿りをつける。その間に蚤は跳ねてしまう。

 結局逃げられてしまうと、いまいましそうにチッと舌打ちをする。看護婦さんや、板垣さんに捕まえてもらうことが多かった。蚤のすばやさと、自分の不器用さを承知しているから、人がうまく捕らえると、大げさに讃めた。

「いや、うまい、うまい。君は名人だっす。」

 病が癒えたあとに次のような歌がある。

 わがために夜の蚤さへ捕らへたる看護婦去りて寂しくてならぬ

 蚤を針刺しにしたのも看護婦の千代であったらしい。のちの随筆では彼女に「ハリツケでございますよ」と語らしている。

「蚤がいつまで生きているか見るんだっす。もう3時間もなるんだから、あとどのくらい生きてるかなっす。」

 茂吉は蚤に悩まされてきたが、このようにごく好奇心が強かった。

 昭和の柿本人麿とも称せられた、大歌人の斎藤茂吉が、蚤と大格闘して、大騒ぎしている姿は、いかにもユーモラスだ。

 戦中から、戦後にかけて、ぼくも蚤や、虱には悩まされたが、ごきぶりとも出会えなくなった今の時代、いろんな虫たちに囲まれて生活していた時代の方が、心豊かだったような気がしてならないのだ。

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第16回「伊藤文学と語る会」

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2月16日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

 

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2013年2月11日 (月)

精神的なものが、人間のからだに作用する!

 まだ若い頃のことだ。女房を助手席に乗せて、第3京浜国道を横浜に向けて走っていた。突然、目眩がして、あぶなくハンドルをとられそうになってしまったが、なんとか側道に車を寄せて休みことなきをえた。

 そのときは無事に帰ってくることができたが、街中を走っているときは、普通に走れるのに、高速道路に入ると、恐怖感がよみがえるのか、手のひらにびっしょり汗をかいて、すいすいとは走れない。

 それを直すのには、かなり時間がかかった。ゆっくり走っている大型トラックの後ろについて走ったり、音楽を大音響で鳴らして走ったりもした。

 おそらく目眩がしたのは、血圧が高かったのではないだろうか。元に戻るのにどのくらいの時間が経ったのか、忘れてしまったがずいぶんと恐怖感から逃れるのに時間がかかったものだ。

 一昨年、女房の兄の命日に、お墓まいりのあと、姉と女房とを乗せて、レストランに入ろうと思って、バックしたときに、老人がよくやる、アクセルと、ブレーキをふみ違えて後ろにとまっていた、BMWに激突してしまった。

 そのときは食事をして、家に帰りついたのに、そのあと乗ろうとしたら、恐怖感がよみがえるのか、すぐにブレーキをふんでしまって走ることができなかった。

 それから車の運転は、やめていた。しかし、免許を更新するためには、自動車教習所で、高齢者の講習を受けなければならない。

 もう2年近くも車を運転したことがないのに、教官が助手席に座っていてくれるという安心感もあった。助手席にはブレーキがついていて、暴走したりすれば、教官が即座に車をとめてくれる。

 ハンドルを握ってアクセルをふんだら、教習所の中をすいすいと走れたではないか。教官から頭もぼけていないし、判断力もあるので「まだ、まだ乗れますよ」と、言ってもらったのに、同じ年の老人が喫茶店にとびこんで店内にいた人をひとり殺してしまったというニュース。

 それを見てしまったので、運転を再開するかしないか、いまだに迷っている。

 もうひとつ、精神的なものが、人間のからだに影響するという体験をした。

 人間年をとってくると、膀胱のしまりが悪くなって、夜中に何度もトイレに行かなければならなくなったり、逆に尿が出にくくなってくる、前立腺肥大という病気になってしまう。これは女性よりも男性に多い病気だ。

 もう10年も前からだ。街の薬局でくすりを買ってのんでいたが、まったくよくならない。8年ぐらい前だったか、下北沢の南口の商店街から、少し横道に入ったビルの4階に「間宮泌尿器科クリニック」(TEL03-3422-6006)が開業した。

 院長の間宮先生は、開業する前は新宿の「東京医科大学病院」の泌尿器科にいた方だ。その先生が東京医大の整形外科の正岡利紀先生を紹介してくれ、左ひざに人工ひざを入れる手術をしてくれたので、現在の元気なぼくがいる。

 夜中に5回も、6回もトイレに行くのは、寒くなってきたのでつらい。小さな睡眠薬をひとつぶのんでねているが、それもだんだん効かなくなってくる。

 歌人の斎藤茂吉は、夜中にバケツを置いて用を足していたというが、今は「コ・ボレーヌ:という便利なシビンがある。それをベッドの下に置いてねたら、なんと睡眠薬も効きだし、夜中に2回、用を足すだけで朝になる。

 シビンをそばに置いた、安心感からか。精神的なものが、人間のからだに作用するという、実験をしてしまった。

 日本の景気も、みんながよくしたいという気持ちをもてばよくなるのでは……。

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こんな時もありました。また車に乗りたい!

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Bungakusan  <今週の文学さん>質疑応答
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、ニコニコ動画に寄せられた質問コメントの中から、いくつかをピックアップして、文学さんに回答していただきました。


第16回「伊藤文学と語る会」

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2月16日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年2月 9日 (土)

昭和20年代にすでにゲイ旅館が!

 ゲイ旅館の「竹の家」の話を志賀淳さんの残してくれた投稿から書くことができたが、ふと思い出したのは、大阪出身の松下芳雄さんのことだ。

 85歳の松下芳雄さん、今でも試写室に通って、映画を月に何本も見て、映画評を書いている、淀川長治さんのお弟子さんと言ってもいい人だ。

 電話をかけたら留守だったが、夜になって電話をくれた。ぼくも耳が遠くなってきているが、松下さんは大声を出さなければ話が聞きとれない。

 NHKののど自慢で全国優勝して、上京したのが、昭和33年のことなので、「竹の家」のことは知らなかった。

 昭和20年代から、30年代にかけて、大阪には、「さくら」という旅館と、「中島」というゲイ旅館があったというではないか。

 伏見憲明著『ゲイという「経験」』(ポット出版刊・¥2500+税)605頁ものぶ厚い本で、ゲイのことならなんでも分かるという貴重な本だ。この本にはゲイ旅館の最初は「竹の家」とあり、伏見君撮影の写真まで載っている。

「さくら」も「中島」も、経営者がゲイの人なので、自然とゲイの人が集まってきたということか。

 くわしい話は、「伊藤文学と語る会」に、松下さんを招いて聞こうと思う。これらの旅館で、若き日の有名な中村八大さんと出会ったという話も聞いた。

 志賀淳さんの話は続く。

「竹の家と目と鼻の先に、「武蔵」といういかめしい名の男色宿が……。ここは宿の外観といい、「竹の家」とは比較にならないほどシックで、なかなかに凝った建築です。

 上、下で30近い部屋が、全部個室になっていて、大部屋はなし。「竹の家」が連日押すな押すなの大繁盛なのに反して、こちらはまるで火の消えたように人気がない。

 清潔でシックで豪華な感じの「武蔵」に、この道の男たちが集まるだろうとかんがえるだろうが、実際はむしろその逆です。

 部屋の天井近くに、ランマを取りつけたり廊下の随所に生花を生けたりするなど、お客へのサービスという宿の熱意はよく分かるが、あんまり行儀がよすぎると、あぐらもかけないといった窮屈なムードです。

 決定的な欠点は個室ばかりなので、「武蔵」は既製のカップルが、二人でひっそりと品よく泊まりにくるところといったイメージができあがってしまったようです。

「竹の家」はひとりできて、相手を見つけるところ、「武蔵」は二人で泊まりにくるところです。
「竹の家」は掘ったて小屋のような野性的な雰囲気が、行動的な若者たちに、なんの気がねも遠慮もなく、自由でのびのびとした、SEXを謳歌させるのだとも言えます。」

 志賀さんが「竹の家」の経営者にホモの旅館にふさわしく、ぱりっとしたデラックスなのに改築したら?」と質問したら、「そうやなあ、ほやけどここを建て直して部屋の造作をかえたら、お客は今ほどこんようになるんと違うか?」と、言ったそうだ。

 ラーメン屋でも、薄汚い店でお客がいっぱい入っていたのに、改築してきれいにしたらお客がこなくなってしまったという話を聞いたことがある。

 現在の「竹の家」は存続しているのかは不明だ。ネットで検索すれば分かるかも知れないが……。

 時代は変わってゲイホテルは、鉄筋7階建ての豪華で清潔で、すべてを完備したものになっているホテルもある。ゲイの世界は、どんな風に変わっていくのだろうか。

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カバアのイラストは三島剛

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Bungakusan  <今週の文学さん>「やらないか」山川純一について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、「やらないか」の『くそみそテクニック』でおなじみ「ヤマジュン」こと山川純一について訊いてみました。


第16回「伊藤文学と語る会」

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2月16日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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2013年2月 4日 (月)

日本で最初と言われたゲイホテル「竹の家物語」

 大阪で万博(昭和45年・1970年)が開かれたとき、海外からも多くのお客さんがやってきたが、その中には、ゲイの人たちもいたに違いない。

 口こみで伝わっていたのか、雑誌などで知られていたのかは知らないが、大阪にあるゲイ旅館「竹の家」は「グリーンハウス」と呼ばれ、万博の会場などに行かずに、「竹の家」に足繁く通っていた外人の話を聞いたことがある。

 いつ訪ねたのか、忘れてしまっているが、『薔薇族』創刊の頃から、ゲイのことを知らないぼくに、いろいろと教えてくれた、間宮浩さんという恩人のような方がいた。

 間宮さんに連れられて「竹の家」に行ったことがある。戦後、建てられた粗末な旅館で二階建てだったが、ベニヤ板で仕切られた部屋で、とにかくその匂いたるや、ものすごい臭さで、とても長くはいられなかった。多くの人の精液がとびちり、ふとんや壁にしみついているのだから……。

 志賀淳さんという、よく小説などを投稿してくれた方がいた。『男がくれたもの―僧侶とやくざと』(昭和48年刊)と、もう一冊『ごんぞうの男』と、単行本にして出版したこともある。

 その志賀淳さんが、『薔薇族』第27号(昭和50年4月1日発行)に、「竹の家物語=魂と肉体の安住の地」と題して投稿してくれている。

 この号は最初に風紀係に摘発されて、発禁処分を受けた号だ。写真ではなく、嵐万作さんの「男色西遊記」と、岩田大造さんの「体験告白記・野郎はいいぜ」の性描写が露骨で、わいせつだということだった。

 今、読み返してみて、ここまで書いていいのかと思うくらいの描写で、当時としては発禁も仕方がなかったのでは。その号に載っていたのが「竹の家物語」(昭和31、2年頃に創設)だ。これは日本で最初のゲイホテルというのが定説になっているので、記録しておくべきだろう。

「竹の家への道順ですが、阪急電車の梅田駅より地下鉄のアベノ行きで15分ばかり、動物園前下車。

 地上に出たところが丁度、飛田商店街の入口になります。狭い商店街をまっすぐに行くと、途中に電車の踏切りがあり、さらに50メートルばかり行くと、左手に喫茶店の「ニュープリンス」があり、少し行った右手に大きなパチンコ店があって、そこを右へ入った路地の奥が、竹の家旅館です。

 初めて訪れた人は、商店街の人に場所を訪ねても、さあと首をかしげられ、探すのに大変苦労するようです。

 イチゲン(初めての客)の人には、紫色の扉の玄関で、宿の男が一応警戒のそぶりを示すようですが、何か言ったら、「大丈夫、友達から聞いてきたんだから……」と言えば、すぐにOKです。

 宿には3時間単位の休憩と、終夜の泊まりとがあって、入口の下足番のオッサンが「どちらにしますか?」と、訪ねます。休憩は地元の近くの人たちに利用者が多いようです。

 今は着換室は全部ロッカーになり安全です。初めての人で大部屋のザコ寝が気がひけるというのなら、一応、個室(4畳半)をとって、旅館の中をあちこち見学して廻るのも、また面白いでしょう。

 1階は個室ばかり6部屋ほどで、2階は階段のとっつきに、16畳と、12畳ほどの大部屋と奥まった所に、10畳ばかりの大部屋。その間に廊下を距って、6畳ばかりの中部屋が二つ。

 建物は古い木造で、内部の造作が雑然として汚く、風情のないことにかけては天下一品。」

 大阪出身で『薔薇族』に、イラスト・小説・映画評などを書いて支え続けてくれた、現在、85歳になる松下芳雄さんに電話してみたら、なんと昭和20年代に、「さくら旅館」「中島旅館」というゲイ旅館が存在したという定説をくつがえす証言を聞くことができた。この話は次に……。

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発禁になった1975年4月号

144b
ワイセツと指摘された作品「野郎はいいぜ」

144c
嵐万作の力作「男色西遊記」
この作品もワイセツと!

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Bungakusan  <今週の文学さん>「やらないか」山川純一について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、「やらないか」の『くそみそテクニック』でおなじみ「ヤマジュン」こと山川純一について訊いてみました。


第16回「伊藤文学と語る会」

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2月16日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
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2013年2月 2日 (土)

大きなアンティークの机に向かって書いてはいるが!

 文芸書の出版をずっと続けてきた父が、面白くないと思っただろうが、小出版社が生き残るためには、エロ本しかないと、一気に方向転換してしまった。

 その最初の本が、武野藤介さんの『わいだん読本』(昭和37年 西暦1962年)だ。父は小出版社が経費を削減するには、著者に支払う印税しかないと考えていた。

 初刷を5千部刷ったとしても、奥付には3千部とするという方法だ。父のこのやり方には、ぼくは納得できなかった。

「NIGHT BOOKS」は、著者に支払う印税を買取制にしてしまった。「5万円しか払えませんが、よろしいでしょうか」と、最初から切り出したのだ。

 その頃、2流、3流の週刊誌や、月刊誌に連載している著者が多かった。すでに雑誌社から稿料をもらっているので、単行本になって、少しでも稿料をもらえたらいいと、承諾してくれた。 

 武野藤介(本名・真寿太)さんは、早稲田大学を中退し、新聞記者生活を経て作家生活に入り、小説、随筆、とくにコントを得意としていた。 

 井の頭線の吉祥寺に近いところに住んでおられて、よくお邪魔したものだ。序文にこんなことを書かれている。

「私は少年時代から「本」が好きで、愛書家というよりは乱読家であるが、今でも私は手当たり次第になんでも読む。その乱読の結晶がこの本だと言える。

 話題にとぼしく、また話題の欲しい人は遠慮なく、この本からそれぞれのお好みによって、ご自分の「話」のような顔をして吹聴されてよろしかろう。」

 武野さんのように、本好きでいろんな本を読んでいれば、今の時代であればブログを書くのにネタ切れということはないだろう。

 悲しい話だが、本をまったくといって読まないぼくにとっては、正直な話、ネタ切れになることがある。

 こんな何十年も前に出版した本の中から、自分の話のように書かなければならないとは。このシリーズを60数冊も毎月一冊ずつ出し続けたので、わが社の経営も楽になったのだから、忘れることのできない本だ。

 早速、武野さんのコントをひとつ。「左団扇」という話だ。

「チェホフの手記に「私は早く年をとりたいと思う。そしておおきな机に座ってみたい」と書いているが、これは老境の安定生活を願望したものにちがいない。

 医者だったチェホフは、その職業のかたわら、小説や戯曲を書かなければならなかったので、その多忙な生活にやりきれなかったのだろう。

 この二重生活が嫌で、年をとったら文筆一本に、大きな机の前に落ちつきたいと思ったのだ。そんなことが想像される。

 日本語では、そんな老境の安定生活を「左団扇」というのである。

 ルナアルも、その日記に、「私は早く年をとりたいと思う。そして私が抱いて寝たがっていると感じさせないで、美しい若い女の顔を眺めながら、さし向かいで座っていたい」

 と、そういう意味のことを書いている。この私なども、ちょうど今、そんな老境なので、ルナアルのこの気持ちが分かるような気がしてならぬ。

 セックスの飽満したあとに迎えたこの老境は、これも一種の「左団扇」ではないかと思っている。」

 英国アンティークの、弁護士や、学者が使ったと思われる、大きな机に向かってぼくはこの原稿を書いているが、「左団扇」どころか、どん底生活とは、なんということか。

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第16回「伊藤文学と語る会」

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2月16日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

 

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