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2013年2月18日 (月)

戦争を超えた中国将校の愛情物語

 ぼくの父(平成3年9月8日、86歳で没)が残した、戦後、間もなくの昭和21年か2年頃の新聞スクラップ・ブックが見つかった。

 現在、日本と中国の関係は、険悪な状態にあるが、こんな人間同士の心あたたまる、愛情物語が朝日新聞の記事になっている。

「戦争を超えた中国の愛情・撃墜の遺族を慰む・戦場の誓い果す雷大佐」の見出しで。

「日本と中国が悪夢のような戦いを始めて間もなくのころ華北の上空で若い中国の空軍中尉機が、一機の日本軍九五式戦闘機をうち落とした。

 昭和12年の残暑もきびしい9月の21日の真昼だった。日本機はガソリンタンクを射抜かれ、それでもいく度か立ち直ろうとしたが、ついに広野の中に落ちて、火をふいた。空の戦いには哀傷があった。「いまうち落とした敵機の乗員にも妻子や、身寄りがあるに違いない」中国の将校は日本機の後を追ってそのそばに着陸すると、焼け残った飛行機の中には、恩賜、陸軍航空兵少佐、三輪寛ときざみつけた軍刀がころがっていた。

 また仮とじのノートが一冊、妻子への便りも書きつけてあった。若い中国の将校は、お互いの祖国の戦いを超えて、その日本の将校のめい福を祈った。また生ある限り、いつの日かその家族たちに会いたいと思い、メモにはっきりとその氏名を書きつけたのだった。

 それから10年、その中国将校、雷炎均中尉の飛行服のポケットには、三輪飛行隊長の名前が抱かれ、いくたびか死地の中をとんだ。

 殊勲によって大尉になり、少佐になっても、そして終戦、中国在日航空参謀、雷大佐として、往年の若い士官は日本の土を踏んだ。

 そして早速、行なったことは、10年前、太原の広野で心に誓ったこと「三輪隊長の遺族を探して下さい。きっと苦しい暮らしをしているのではないでしょうか」あらゆる知り合いの日本人に頼んだ。

 がれきの街となった東京の姿に、今日の日本の困苦を見、わが手にかけた三輪隊長の家族の困難を思ったという大佐の真情はついにむくいられた。

 遺族は立川市錦町の立川寮というアパートの一室に居るとわかった。雷大佐はよろこび「見つかった、見つかった」と、代表部のだれかれに喜びを話し、また、それをわが事のように喜ぶ代表部の将校たち、悲惨だった日華戦争の歴史にも、消えず残ったこの中国将校たちの人間愛は、いま迫る生活苦に内職するという三輪戦闘飛行隊長の遺族たちだけでなく、日本人全体に対する中国の愛情ではないだろうか。

 雷大佐と中国代表部の常、王将校を乗せたジープは春風を切って立川にとんだ。こころづくしの手土産も一緒に、雷大佐のひざの上でおどっていた。汚れた戦災寮の一室、遺族と中国将校の話はつきない。

「よかった、よかった、10年前の暑い日、低空で襲ってきた5機の日本戦闘機だった、舞い上がった私の指揮する4機が闘った、私と三輪機の一騎打ちに私が残ったのだが、それからいつも思い続けてきた、よかった」と雷大佐が喜べば、「わざわざ、こんなにまでも……」と、富美子未亡人、二人の遺児は目をうるませた。

 お金も送られた。そして名残惜しげに手をふって帰る将校たちに、未亡人と遺児の手がいつまでもふられていた。」

 中国と日本は、おとなりの国だ。尖閣諸島の問題もあるが、こんな心やさしい中国人の話を読めば、お互いに理解しあって、仲良くしたい。ぼくのブログを中国の人も読んでいるようだから、こんな心あたたまる話を中国の人たちにも告げてもらいたいものだ。

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Bungakusan  <今週の文学さん薔薇族の目玉「文通欄」について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、かつて『薔薇族』の目玉コーナーだった「文通欄」についてうかがってみました。

 

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