若い温情警察官は、今でもいるだろうか?
最近、警察官の不祥事が多い。人殺しまでしてしまったなんていうことは、かつてなかったことだ。
父の新聞切抜帳に、こんな心あたたまる警察官の記事が載っていた。朝日新聞の昭和22年(1947)7月31日の記事で「母を泣かす温情警察官・雨の夜道とぼとぼ、行くは買出し少年いたわり送る一里半」の見出しだ。
太平洋戦争の日本の敗色が濃くなってきた頃から、戦後の数年間は、都会の人間にとっては、食べることに苦労した。
コンビニでもスーパーでも、食料品が山のように並べられている時代に生きている人は、食べ物がまったくなかった時のことなど、想像することはできまい。
ぼくも母親と一緒に、埼玉県の農家を訪ね、着物と交換で、じゃがいもや、さつまいもなどを買い出しに行ったものだ。
戦後は闇米などをかついでくると、警察官に押収されてしまう。この記事の少年も、親せきの農家から、じゃがいも4貫目をもらって帰る途中の話だ。
「雨のしょぼ降る深夜の甲州街道を疲れ切った足取りの買出し少年が家路を急いでいた。
ここしばらく続いた遅配(その頃は配給制度でわずかばかりの食糧品が、国からくばられていた)に、空き腹を抱えて試験勉強をしている兄を思うと、足の痛みなどは何でもなかった。
「もし、もし」
交番の前までくると、ついに少年は呼びとめられた。「すみません」子供心にも、もう駄目だと観念した少年をその警官は、決して叱らなかった。
そして、あと一里半もある少年の家まで、自転車で送ってくれると、そのまま立ち去った。
親切な警官は表彰された。去る6日のことだった。午前1時頃、代々木署幡ヶ谷派出所、福田猛郎巡査(22)は、13、4歳の少年が雨の夜道をリュックを背に歩いてくるのに出食わした。
会社員、後藤忠さん、3男、叔彦君(13)とて、埼玉県の親類から、じゃがいも4貫目を買っての帰りで、途中、電車に間に合わず新宿駅から、土砂降りの暗い甲州街道を歩いてきたものだった。
まだ松原町の自宅へは、一里半もある。ずぶぬれの少年の肩に、リュックのひもがくいこんでぐったり疲れていた。
法規をふりまわせば違反になるが、年端もゆかぬに可哀そうな。福田巡査はまず同情が先に立ち、自転車にじゃがいもぐるみ少年をのせると、土砂ぶりの雨もいとわず、自宅まで送り届け、名前も告げずに立ち去った。
翌日、叔彦君の母親キミさんから、松本代々木署長にこんな手紙が届けられた。
私の家は17歳をかしらに男6人、女ひとりの子供をかかえ、遅配にあえいでおります。しかし、子供たちは、お父さんぐらいの年配で、取締りにかかってはみっともないから、と決して父親を買出しにゆかせずに自分たちで出かけます。
昨日は兄二人は試験勉強なので、叔彦が一人で出かけました。わが子が夜更けの甲州街道の雨の中を重い荷を背負って、とぼとぼ歩く姿を想像した親の心をお察し下さい。
送って下さった若い眼鏡をかけたお巡りさんは、恐縮してお礼の言葉も出ないうちに、立ち去ってしまわれました。温かいお巡りさんのお情けに、せめてお名前だけでも……。
かくて調査の結果、福田巡査の善行が判り警視庁で表彰されたのだった。」
この少年、お元気ならば、ぼくと同じぐらいの年齢だろう。ひどい時代をよく生きのびてきたものだ。少年の姿が目の前に浮かんでくるようだ。
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