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2013年3月

2013年3月30日 (土)

花魁道中などと浮かれていていいの?

 ぼくとときたまデートのお相手をしてくれるAさんが、お茶したときにぼくのブログを見てくれている人が、どんな内容に興味があるかを携帯電話で順位を教えてくれた。

 誰がこんなことを調べてくれているのかは知らないが、書き続けるために参考になるというものだ。

 なんと大正時代に吉原のお女郎さんをからだを張って生命がけで救い出し、救世軍で活躍した祖父の話だった。

 こんな話をブログで書く人などいないから若い人が興味を持ってくれたのだろうか。

 最近のNHKの番組で、吉原の話をとりあげたのを偶然に見ることができた。そこで働く女性の暗い部分は、つけたりみたいに描かれていて、華やかな廓が、江戸の文化の先端をいく、流行の発信地として紹介されていた。

 何千人もいた女性の中には、頭のいい人もいて、教養を身につけ、髪型とか、衣裳とかが江戸の庶民たちに影響を与えていたのだろう。

 日本の神道も、佛教も、女性がお金でからだを売ることをとりたてて悪としなかった。キリスト教が明治時代になって根をはってきてから、廓の女性を解放しようという動きが活発になってきた。

 とりわけ祖父、伊藤冨士雄が所属していた救世軍が廃娼運動の先鋒となって活躍していた。

 桜の季節になってくると、観光の目玉として「花魁道中」が、各地でくりひろげられる。
 話が長いので簡略に書くと、角海老という吉原で一流の廓の娼妓、白縫が、救世軍の祖父のところへ、廃業したいとかけこんだ。

 花魁道中なんて、大変な虐待だと、白縫は訴える。

「頭痛のする私の頭へ、入髪を滅茶苦茶に沢山して、何十本という櫛や笄をさすんですもの、たまったものじゃありません。その上に長い厚ぼったい着物を着せられ、大きな帯を前で結び、暑いときにどてらのようなものを着せられ、高さ一尺、重さ二貫目の三枚歯の下駄をはかせられ、仲の町の端から端まで、八文字をふんで歩かせられたのです。

 その道中は私にとっては大変な虐待でした。だんなはご自分の頭にあんな重いものをのせたことがございますか。だんなのはいている桐の下駄は、何もんめありますか。

 私は近頃、リューマチで、スリッパをはいてはしご段を昇り降りするさえ苦しいのに、二貫目の下駄をはかせられて、すっかり神経衰弱になってしまいました。それに持病の脚気が再発したのです。これでも虐待でないと、おっしゃるのですか。」

 この白縫は、その後、いろいろあって、めでたく自由廃業して、古里の広島に帰ったそうだ。

 白縫は治外法権という言葉をつかったり、その当時、昭憲皇太后陛下が亡くなられた御諒闇中ということをかつぎ出したりしたのは、彼女が古里の高等女学校を卒業していたからであった。

「やっぱり教育のお蔭だ。高等女学校を卒業していなかったら、二貫目の下駄で神経衰弱と脚気は起こらないよ」と、伊藤君は笑った。」と、『娼妓解放哀話』の中で、沖野岩三郎さんは書いている。

 東北の貧しい農家の娘たちが、廓に売られて女郎になったのだろうが、江戸時代だとなおさら、字も読めない女性たち、樓主の言いままになってしまった。これらの女性たちが悲惨な日々を送っていたことを考えれば、「花魁道中」などとうかれてはいられまい。

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右側が祖父、伊藤冨士雄

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下北沢での「おいらん道中」

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2013年3月25日 (月)

ネットのブログは、ぼくを若がえらせる!

 81歳にもなる、ぼくのような老人が、若い女性とデートができるなんて、夢のようだ。青春時代がよみがえってきたようで、胸がわくわくしてくる。

 2月17日(日)の午後、渋谷の東急プラザの5階にある、カフエ「SHALIMAR」で待ち合わせて、それから9階のレストラン街で食事をしておしゃべり。

 当然のように目上のものが、コーヒー代や、食事代を払うのが当たり前と思っている女性がほとんどだが、Aさんは逆に払ってくれる。こういう女性は珍しい。

 その日の午後3時から、六本木ヒルズのA/Dギャラリーで「宇野亜喜良展 さよならの城」が開かれ、サイン会があるので、その時間に合わせて、バスで六本木ヒルズに向かった。

 会場には本を買って、サインをしてもらう人が、ずらっと並んで待っていた。Aさんに本を買ってあげて、長い列の後ろに並んでもらったが、「伊藤さんですね」と、ひとりの男性から声をかけられてしまった。

 ぼくが景気が良かった頃、渋谷の西武百貨店の西洋アンティークの売場で、いろんなものを買っていたが、その売場にいた人だった。今は森ビルに勤めているという。

 宇野さんが控室にいるというので、Aさんを列から呼んで控室に入り、先にサインをしてくれた。驚いたことに、詩人の谷川俊太郎さんもいてサインをしてくれた。

『さよならの城』に使った原画を展示しているのだが、その発行元の「芸術新聞社」の社長さんもいて、なんと35年も前に新宿2丁目で、ぼくと出会ったという。

 昨日のことも忘れてしまうぼくだから、35年も前に出会った人のことなど、覚えているわけがないのに、当時、『薔薇族』のカラー頁を印刷してくれていた、甲府の駅前にあった「サンニチ印刷」の話までされたので、出会ったことは間違いない。

 森ビルの人が、美術館で「会田誠展:天才でごめんなさい」をやっているから見てきたらと、入場券(1500円)を2枚頂いてしまった。

 100人を越す人が並んでいるのに、先にサインをしてもらったなんて、なにか悪いような。1階の中華料理店で食べた、おそばもおいしかった。

 次のデートは世田谷文学館での寺山修司展に行くことにしている。

 2月17日の語る会、ブログを熱心に見てくれている男性が、飛行機でわざわざ語る会に九州から出席してくれた。

 あとから手紙を頂いたが、それにはいろんな悩みを訴えているので、この人にはできるだけのアドバイスをしたいと思う。

 なかなか、みんなの前では悩みごとをしゃべれないだろうが、あとで電話でもかけてほしい。会に出てくるだけでも勇気がいる。最近は動画でしゃべっているので、ぼくがどんな人かは、よくわかるのでは。

 初めての出席者も多く、ひとりの女性は新潟の弥彦村の「ロマンの泉美術館」にも行っていて、たまたまいたぼくとおしゃべりして、「燕三条」の新幹線の駅まで、車で送り届けたというのに、ぼくはまったく覚えていない。こういうことは何度もあったので、忘れてしまってごめんなさい。

 カフエを出てから、駅前の居酒屋「大庄水産」で6人で食事をして、夕方までおしゃべりしてしまった。ここの店長、ぼくの顔を覚えてくれているのがうれしい。

 カフエ「つゆ艸」のある、ピュアロードで3月3日(日)午後1時からの100回目のフリーマーケットに、ぼくは「下北沢の今昔」と題して、おしゃべりすることになっている。北口に人力車が待っていた時代の話もだ。下北沢も変わったものだ。

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2013年3月23日 (土)

ぼくは人との「出会い」に、運が強かった!

 1955年(昭和30年)8月6日の仙台の七夕祭りに行く観光客を乗せた、超満員の夜汽車の中で出会った、日本女子体育大学の一年生の川島君子。

 叔父さん夫婦に子供がいなかったので、中学生のときに養女になっていた。それがぼくと出会い、恋に落ちてしまったので、家を追われ、スーツケースひとつを下げて、わが家にころがりこんできてしまった。

 日女体を卒業して、世田谷区立の中学校の教師となり、そのかたわら舞踊の道に入って、1960年代に「O嬢の物語」「愛奴」を舞踊化して、大きな話題を投げた。

 事故死(33歳で)するまでの15年間、いろんな出来事があったが、ミカとの出会いから、亡くなるまでの15年間を『裸の女房』(彩流社刊)という本にした。

 その本にサインをと望まれると、ぼくはいつも「ミカと出会ったことの幸せ」と記している。

 舞踏の道に入ってからのミカの進化は、めざましいものがあり、体型も一変し、亡くなる前年の活躍はすさまじかった。まさに疾風のように60年代を駆け抜けて行った、ミカという舞踊家の存在を忘れることはできない。

 ミカのグループ名を「伊藤ミカ ビザ―ル バレエ グループ」と名付けた。「ビザ―ル」とは、風変わりなという意味のようだ。

 マンガ家というよりも、画家といっていい方で、エッセイもよく書かれた富田英三さんという方と、出版の依頼に行って出会った。

 名古屋の生まれで、大阪の新聞社で記者生活を送り、アメリカにも長く住み、『3ドルアメリカ旅行』、画期的な『ゲイ』などの著書もある。

 富田さん、前衛的な若者を集めて「ビザ―ルの会」を立ち上げていたので、ぼくら夫婦も参加していた。

 富田さん、洋画の映画輸入会社の宣伝部長とも親しかったので、とにかくイベント好きで、映画の宣伝のためのイベントも数多く企画していた。

 一番話題になったのは、渋谷の教会の地下の「ジャン・ジャン」で催された、マルキドサド原作の映画「ジュスティーヌ」の宣伝のためのイベント。一般客の他に50名を越すマスコミが集まり、ミカの迫真の舞踊が大きな話題になって、各週刊誌のグラビア頁や、スポーツ紙をにぎわせた。

 富田さん亡きあとにぼくが数えきれないほどイベントを催したのは、富田さんとの出会いがあって、大いに影響されてのことだろう。

 1971年(昭和46年)に、日本で最初に創刊した同性愛誌『薔薇族』、ぼくの呼びかけで出会った藤田竜君、雑誌作りの名人ともいえる才人だった。

 藤田竜君と出会わなかったら『薔薇族』を35年も出し続けることはできなかったし、ゲイ文化の歴史に残るような雑誌にはならなかったろう。

 人との出会いって不思議なめぐり合わせだ。雑誌を出そうと思いたって、僅か数ヶ月で創刊号を出してしまったのだから…。

 ゲイの人でも雑誌を出そうと思った人も、何人かはいたと思うが、せいぜい会員制の雑誌を出すのが精一杯だった。

 父が戦後、間もなくの昭和23年に、株式会社・第二書房を設立していて、社員はぼくしかいないけれど、取次店(本の問屋)8社と、すでに取引があったからこそ、『薔薇族』を全国の書店に配本することができた。

 内藤ルネさんと数年後に出会い、それから多くのすぐれた才能の持ち主との出会いがあって、『薔薇族』は、ゲイの歴史に残る雑誌になった。ぼくは人との出会いに、運が強かったと、81年の生涯をふり返って、しみじみと感じている。

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弥生美術館で、ルネさんと。

第17回「伊藤文学と語る会」

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3月23日(土)午後1時~3時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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2013年3月18日 (月)

喫茶店で生き残るには?

 「喫茶店文化の復権」と題して、生活情報部次長・高橋直彦さんが、2月7日の読売新聞の朝刊に、小さなコラムを書いている。

「確かにコーヒー一杯で何時間もねばられたらたまらない。店主の高齢化も進んでいる。総務省の調査によると、1981年に約15万4000軒あった喫茶店は、約30年間で半減した。

 セルフ式カフエに押され、喫茶店は衰退の一途かと思いきや、その魅力が近年、見直されているという。

 飲食チェーンが「純喫茶」世代の中高年向けにゆったりとした座席で、くつろげる店を拡充したり、女性スタッフが丁寧に応対するサービスを取り入れたり。」

 これは「ルノアール」のような大手のチェーン店を持つ、喫茶店の傾向だろう。ぼくが利用している個人経営の喫茶店では、お客はへるばかりで、とても復権しているとは思えない。

「邪宗門」と梅ヶ丘の駅前にある二階の「ノアノア」そして今度「伊藤文学と語る会」をひらく喫茶店「つゆ艸」は、ご自分のお店で、いずれも使用人を使わず、ご夫婦できりもりしている。

 下北沢の北口にある二階の「占茶」も、ご夫婦でやっていて、家賃を払っているお店だが、奥さんの占いの収入で成り立っているようだ。

 茶沢通りに面した「エクスリブリス」は、家賃で借りているが、ご夫婦だけで、ここも使用人はいない。

 ご主人はコーヒー豆に精通していて、コーヒー豆の産地にまで足を運び、コーヒー豆にはうるさい人だ。

 このお店はコーヒー豆を販売していて、コーヒー豆だけを買いにくるお客が多いのには驚かされる。若い人でもコーヒーが好きで自宅でコーヒーをいれている人も多いようだ。

 セルフサービスのお店では、店員とおしゃべりすることはできないし、ましてやとなりに座っている人に声をかけるのは難しい。

 コーヒー一杯200円と、500円の違いは、カフエの経営者のご夫婦と、おしゃべりする楽しみ代といっていいだろう。

「つゆ艸」のママとは、カウンターの席に座って、おしゃべりすることによって、心がいやされる。そして笑顔がいい。ママの笑顔を見ると、いやなことも忘れてしまう。

「邪宗門」のマスターは、コーヒー一杯で何時間どころか、一日中座っていた、森鴎外の長女の森茉莉さんを嫌な顔などしないで許していた。

 それが今になって、森茉莉さんのフアンが全国から訪ねてくるし、中国からも訪ねてくるのだからすごいことだ。

 となりに座ったお客さんに声をかけることもできる。

 このブログを更新してくれている、猪口コルネ君も、なんと「邪宗門」で声をかけて知り合った若者だ。

 高橋さんは、こんなことも書いている。

「海外でも日本の喫茶店は注目の的。機械式の抽出が主流の米国で、日本で一般的なハンドドリップ式を取り入れる店が増えているとか。

 店主が客の前でコーヒーをいれ、一対一でもてなす。評判も上々で、アニメに続いて日本の喫茶店文化が「クール・ジャパン」の一翼を担うかも知れない。」

 喫茶代の世帯当たりの支出が、全国で最も多いのは岐阜県だそうだ。それがなんでかは理由が不明だが、ぼくはこの気に入っている5軒のカフエに、毎日のように通いたいが、それができないとは情けない。自宅では通販で買っている、一杯19円のコーヒーでがまんしているのだから…。

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カフエ「つゆ艸」の入口

第17回「伊藤文学と語る会」

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3月23日(土)午後1時~3時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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2013年3月16日 (土)

同性婚の問題を考える!

 欧米では、すでに同性結婚を法律で認めている国もある。ロスでは認められていないが、10数年前、男同士で一緒に暮らしている人の家を訪ねたことがある。それはアメリカのロサンゼルスでのことだ。

 有名な鉄板焼の店で働いている日本人で、相手は航空会社の社員のアメリカ人だ。二人で働いているので、不動産も持っていて、そう簡単に別れられないから、二人の間できびしいルールを作って守っているそうだ。

 オバマ大統領も2期目の就任演説で、同性婚の問題を提起したが、日本の政治家は、誰ひとり声をあげた人はいない。

 ぼくは残された時間を同性婚の問題を訴えていこうと思ったことがあったが、なぜか踏みきれないものがあった。

 日本中でどのくらいの人が、一緒に住んでいるだろうか。調べることは不可能だが、意外と少ないのでは。文通欄で知り合い同棲していて、一緒に訪ねてきた人も、何組もいたが…。

 外人のお金持ちと一緒に住んでいた、有名なカメラマンがいた。男の写真に高価な骨董品を背景に使ってすばらしい写真を撮っていたが、その人が亡くなったあと、外人がすべてを持ち去って、残されたものは、ふだん使っていた食器類だけだったとさびしい話を聞いたことがある。

 若い方を養子にして、財産を残すようにしているカップルも日本では多いのではないか。

 23年も前の『薔薇族』の投稿欄にこんな投稿が載っていた。「同棲の破局」と題してだ。同性婚の問題の答えのようにも思える。

「男と男、好いて好かれて、これから一生、愛し合って生きてゆこうと誓い合って始まる同棲も、一緒に暮らしてみると、お互いに相手のアラが目につきだしてくる。

 男と女がSEXすれば、子供が生まれる。そしてお互いにわがままを言い、無理を言っても、ふたりの仲には、子供はカスガイとしての役目をしてくれるので助かるけれど、男と男では、いくら愛し合っていても、どんなに激しいSEXをくり返しても、子供が生まれることはない。だからこわれはじめると、ガタガタとくずれ落ちるのもはやい。

 お互いに浮気をしてみたらということで、夜の巷へくり出して男をハントしてSEXをする。確かにマンネリになった者同士には、ちょっとした刺激になって、ふたりの愛をいっそう高めることもあるだろう。

 しかし、どちらかが本気に浮気の相手に惚れたとき、破局がおとずれてくるのは、当たり前である。

 人間にはアキル性質がある。日本料理ばかりではアキて、西洋料理や、中国料理も食べたくなって食べてみたら、これが案外とおいしくて病みつきになることすらあることは、誰もが経験ずみのことだ。

 さて、別れるとなると、これがまた大変だ。男と男の仲、さぞかしサッパリしていると思ったら大きな間違いである。

 両方が同時に相手にのめりこんだ場合は問題はないけど、どちらか片方が、まだ未練たっぷりのときは、相手を納得させるのに手こずる。

 一口に同棲と言っても、いろいろなケースがあるけど、とどのつまりは男と男なのである。ふたりの仲につながっているものは、愛情というつかみどころのない代物だから、そう愛情が冷めてきたときが大切で、どちらかが相手を許してあげる広い心を持っていれば、話は簡単であるけれど、相手が少しでも未練のあるとき、そんな話を持ち出したら、火に油をそそぐようなものだ。

 一度でも愛した相手である。心変わりしたといって、相手を根こそぎくつがえすような手段はとらないでほしい。それが人間同士のつき合いというものだろう。」

 日本で同性婚が法的に成立する見込みは、残念な話だが、まずないと、ぼくは思っている。

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第17回「伊藤文学と語る会」

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3月23日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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2013年3月11日 (月)

月刊『文藝春秋』より『薔薇族』のほうが分厚い!

 文藝春秋社の月刊『文藝春秋』よりも、『薔薇族』のほうが頁数が多いぞと、自慢していたことがある。

 丁度、『薔薇族』が300号の記念号を出した、1998年頃のことで、なんと頁数が568頁という分厚さだ。そのうち222頁が、広告頁だった。

 それが数年して、崖からころげ落ちるように、売れなくなって、381号で廃刊に追いこまれてしまったのだから、恐ろしい時代の変化だ。

 302号の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。

「300号達成おめでとうございます。私は25年前頃、ふと『薔薇族』という雑誌を上野駅地下街の本屋で、手にとって驚いたのを昨日のことのようにおぼえています。

 当時は薄い雑誌で、隔月発行だったと思います。毎号の発売日を楽しみにしていました。今と違って少しでも陰毛が写っていると、発禁になったりして、大変な雑誌だったというのが当時の印象です。

 小説や投稿文などを心ときめかせながら読みました。その頃はまだ水面下で、男の世界は日陰の身、300号の内容を見ると、隔世の感があります。

 事情があって、約20年ばかり『薔薇族』を読むことなく、離れて暮らしていましたが、再び300号から購読することにしました。

 心境の変化というより、もともと私の心の中に男への憧憬があって、再噴出したのだと思います。

 1971年に創刊し、続行されて立派な雑誌になり、読者に支持された伊藤文学さんの姿勢に拍手をおくります。

 苦い経験や、いやな思い出はうんとありました。それらの体験を土台にして、今後は楽しく、自分の好きなことのみに熱中しようと思っています。節度と良識をもって、生きていきたいと思っています。(中略)

 300号記念号は、何千人かの読者が、いつもの号より買ってくれたようです。これはスタッフのがんばりもさることながら、『週刊文春』12月4日号に掲載された「薔薇族創刊300号は、発禁4回、始末書20数回・名物編集長が告白」の見出しで載った記事のおかげも大きいと思っています。

 この見出しは、東京の新聞では全5段、地方新聞には半5段の広告が載り、電車の中吊り広告にも載ったのだから、大変な宣伝効果でした。

 ショッキングな見出しだったけれど、それだけに効果は大きいものがありました。この『週刊文春』の記事を読んで、しばらくぶりに戻ってきてくれた読者も多かったようです。」

 先日、『週刊文春』の若い記者が、美輪明宏さんのことで話を聞きにきましたが、木俣さんという記者の人は、今、どうしていますかと聞いたら、局長に出世されているとのことでした。

 もう廃刊になってから8年もの歳月が過ぎているのだから、今、ぼくのブログを読んでくれている人たち、ほとんどの人が『薔薇族』を手にしたことはないに違いない。

 ぼくのブログを毎週土曜日に訪ねてきて、前に渡してあった原稿のゲラを見せてくれ、また新しい原稿を渡すという作業を続けているが、猪口コルネ君に感謝のしようがない。

 今度は動画で毎週1回、見られるようにしてくれているが、これが好評で「ラブオイル校長」のぼくのあだ名は有名になり、多くの人が見てくれているようだ。

 細かいところまで見ているようで、着ている衣裳も毎週かえなければならない。「なんで台所で撮影しているの?」なんていう人もいるけれど、狭い部屋だから仕方がないのだよ。

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Bungakusan  <今週の文学さん>元祖BL? 森茉莉について
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。今回は、森鴎外の長女にして耽美小説の先駆者・森茉莉と文学さんとの交流についてうかがいました。


 

 

第17回「伊藤文学と語る会」

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3月23日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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2013年3月 9日 (土)

夢が叶って茂吉の歌碑が建つ!

「代田川緑道保存の会」の代表、林清孝さんに依頼されて、「代田川せせらぎ物語」に、「歌人、斎藤茂吉の歌碑を造るのが夢」という文章を寄せた。

 ついこの間のように思っていたが、その時から5年もの歳月が流れている。そうなると林清孝さんに出会ったのは、それよりも一、二年前ということになる。

 歌碑を建てようという話が、二人の間であったのは、昨年のいつ頃だったのか思い出せないが、そんなに古い話ではない。

『薔薇族』を創刊したときに出会った藤田竜さん、ぼくは相棒に恵まれている。竜さんとまったく性格が正反対だったが、林さんとも同じようだった。だからうまくいって、話がとんとんと進められたのだ。

 世田谷区の土木公園課との折衝は、林さんがあたったが、気が短くて怒りっぽい林さんはいらいらしたに違いない。

 お役人というのは、まず心配することは、大きな石碑を置いて、地震がおき、倒れてけが人が出たらと考える。

 設置の正式の許可をもらうのに、どれだけの時間がかかったことか。昔は桜並木が続き川が流れて、水も美しかったが、昭和3、40年頃から、川の両岸に住む人が急増して、ごみを捨てたりしたものだから、悪臭がただようどぶ川になってしまった。

 昭和40年代になって、下水道が整備され、その上を緑道として、再生された水を流す美しいせせらぎになっている。

 区は少しずつ工事を進め、巨費を投じ、環七から淡島まで、緑道となって区民の散歩道になった。

 お役人は保身を考える。何か事故が起きて訴えられたら大変と、大丈夫だと判断するまでに時間がかかる。次に心配したのは、コンクリートで固められたトンネルに下水を流しているのだが、その上に大きな石を置いて、コンクリートを痛めやしないかと心配する。下水は都の水道局の管轄で、その許可をとるのに時間がかかった。

 正式に許可が下りたのは、歌碑が設置されてからのことだ。その上、設置期限は三年間とある。それは管理上の問題で、ぼくの寿命かと思ったら、また三年経って期限を更新するのだという。

「お役所仕事」とは、よく言ったものだ。何を決めるのにも時間がかかるということだ。

 3月21日(木)午前11時から、12時まで、「斎藤茂吉歌碑と「文學の小路」の石碑完成除幕式を開催するので、ぜひ、ブログを見てくれている人も参加してほしい。

 代田川緑道、つるが丘橋のたもとで、世田谷区代田1丁目43番地・梅丘通りのスーパー「信濃屋」の前を入ったところだ。

 ネットで検索してきてほしい。

 斎藤茂吉は昭和22年に、長男が診療所を開いていた代田の家に、山形の疎開先から戻ってきた。そして新宿大京町に移るまでの3年間を代田で過ごしている。

 疎開先で肋膜炎にかかり3ヶ月ほど、病床にいたので足が弱っていた。

 ぼくの父が茂吉の著書の『童牛漫語』を手がけていたので、茂吉はゲラ刷を風呂敷に包んで、わが家にも立ち寄っていた。そのことは日記にかかれている。

 ぼくが世田谷学園の中学2年生の頃だった。茂吉は62歳、地下足袋をはいて、わが家を訪ねてきたが、荷物が重そうなので、ぼくに茂吉の家まで送っていけと父に言われてしまった。

 腰は曲がり、よたよたしていたが、眼光だけはするどい人だったということを覚えている。何をしゃべったのかは忘れてしまった。

 没後60年、今や茂吉と出会った人は、ぼくしかいないのではと、自慢にしている。

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Bungakusan  <今週の文学さん>質疑応答3
毎週『薔薇族』初代編集長・伊藤文学さんに、ちょこっとインタビューする「今週の文学さん」。
今回は、視聴者からいただいた質問、①『薔薇族』の編集長がノンケであることに対する当事者の反応と、②「性的指向」と「性的嗜好」の境界についてこたえていただきました。


第17回「伊藤文学と語る会」

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3月23日(土)午後2時~4時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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30歳過ぎてひとりで暮らしていたとしても

 30歳を過ぎても結婚しないでいる独身の男性がいたとしたら「あの人、へんじゃないの」と言われてしまった時代があった。

 これは23年前の『薔薇族』の「編集室から」に投稿されたものだ。今の時代、独身でいたとしても、まわりからとやかく言われなくなってしまった。いろんな事情で、男も女も独身という人が、あまりにも多くなってしまったからだ。

「今年の5月、都心ならどこの駅前にも必ずある、某大型チェーンの喫茶店を辞めた、翌月のことでした。

 手先を動かすことが好きで、18歳の頃から、ずっとこの業界で生きてきました。といっても一軒の店に長くいたわけではなく、3年くらいで店を変わっていきました。

 原因はやっぱり人間関係です。私的部分で全く女っ気のないことをいつの間にか、うわさされているのです。

 無視したり、とぼけたりしても、結局はうわさに押しつぶされる感じで、昇進も捨ててやめてしまうということを何度かくり返してきました。

 逃げることはないと、言われそうですが、他人の中傷というのは本当に残酷なものです。とても居られるものではありません。それでも最後の店で、10年近くも辛抱できたのは、『薔薇族』の存在と、年齢という問題が頭にあったからでしょうか。

 36歳での転職はどうしたって不利だし、それなりにあった収入や、実力で得た地位も捨てがたいものがありました。

 ところがです。今年4月のこと、それまで張りつめていたものが、突然ぷっつり切れたのです。

 私はいったい何をやっているんだ。このままじゃいけないって。そのとたん、失業の恐さも、老後の不安も充分に承知のうえで、あっさりと店を辞めてしまったのです。

 目の前に昇進が待っているのに、思いきったことをしたものです。こうしてペンをとっている今でも、不安とあせりで胸がしめつけられる思いでいるという事実を分かって頂けるでしょうか。

 失業保険もないまま、丸3ヶ月のプー太郎生活。貯金の残りもあとわずかでとても不安です。

 いえ、決して遊んでいたわけではありません。猛暑のなかネクタイをしめ、雨の日にはひざまでびしょぬれになりながら、あちこち面接にも歩いてみたのです。

 なぜ、独身でいるのか?

 結婚しない理由は?

 これでもかといわんばかりの質問の雨を降らせたあげく、後日返事をという言葉で、その場をしのぎ、あげくは不合格の通知です。

 いっそのこと、独身お断りという貼紙をしてほしい。私はゲイだから、ホモだから結婚しないと、言える人がいるものですか。

 世の中、結婚が社会人の条件なんでしょうか。36歳で独身だと信用ないんでしょうかね」

 もう、この男性、元気だとしたら60歳を越えているだろうが、どうしているのか心配だ。この時代、喫茶店が人を必要としていたから、やめてもまた勤められたのだろうが、今はそうはいくまい。

 この男性、被害妄想的なところがあると思うが、こういう男性が少なからずいたことは確かだ。今でもいるのではないだろうか。

 オバマ大統領が、2期目の就任演説で、同性愛者の権利擁護を打ち出した。これは選挙の時に票につながるからだろうが、日本の代議士で同性愛について触れた人は、だれひとりいない。

 票につながるように、みんな団結しなければ、いつまでたってもゲイの世界に進歩はないのでは。

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2013年3月 4日 (月)

刑務所の中での男の世界

 刑務所の看守を10数年も務めていた、兵庫県の中年の人からの『薔薇族』への投稿。36年も前の話だけど、残しておきたい話だ。

「私は近畿地方のある刑務所に看守として、10数年間勤務していました。

 ペニスに玉を入れるのは、所内の規律違反として、きびしく取り締まっています。一月に一度は「玉検」と呼ばれる検査を行い、入所のとき入れていた玉以外に、増えていれば、懲罰の対象として罰を受けるので、昔みたいに入所中に入れるのは、大幅に減少しています。

 さて、玉検の様子とは、見事な刺青を入れた大男たちが、入浴終了後、一列に素裸のまま、一人ずつ職員の前に出ます。職員は一人、一人の大、小のペニスを手でとり、皮をむいて表裏などを検査し、入所時いれていた玉数とを照らし合わせていきます。

 中には30個ほども玉を入れている者もいます。そんな者にかぎっては、小さなペニスの所持者です。

 大Pのものには、玉は不必要のようです。数十名のペニスを検査し、持物こそ千差マン別と、つくづく感じます。

 また所内でのホモ行為は、鶏姦行為と呼んでいます。ホモの前歴のある者は、夜間(個室)の独居房に寝起きし、一般雑居房(6名ぐらい収容)では、一年間を通じて、一、二軒の鶏姦行為が発見されるだけで、ほとんどホモ行為は行われていません。だけどオナニーは、通常よく行われているようで、激しいものは毎日のようです。

 とくに多いのは、いずこも同じで日曜、祭日の前の晩がピークです。所内の収容者のオナニーは、意外と明るく、コソコソせずに、人間の生理現象で、当たり前という顔で行っています。

 このように世間での知識と、刑務所内での本当の世界とは、大分違うと思います。

 最後に、私がおどろいたことのひとつをのべます。それはペニスの先(亀頭)に刺青をした者を初めてみたときです。

 最初はなんであんなところが黒いのだろうと、思っていましたが、よく見たところ、人間の一番敏感な部分に、カニの刺青とか、梅の花とかを、赤黒くはっきりと彫ってあるのです。

 最初は面白半分に入れるのでしょうが、立派に絵になっている者は、忍耐力の素晴らしい者といえるでしょう。また、他の収容者より、優越感を味わうということも言えると思います。

 刑務所内の男だけの世界、それは「男の体臭」「汗くささ」「甘酸っぱさ」をミックスしたような香りの閉ざされた社会のようです。」

 ぼくもペニスに刺青をした男を見たことがありました。カメラマンの波賀九郎さんは、サジストでしたから、そのモデルになった逞しい男は、極度のマゾシストだったので、波賀さんは、この男をしばりあげて、よく写真を撮っていました。

 刺青師に実際に彫っているところを見せてもらったことがあったが、女好きのヤクザの人は痛がるそうだが、ゲイの人の中でもマゾヒストの人が刺青を彫ってもらうことが多く、痛いのを耐えることが快感なので、ぐっと痛みを耐えているそうだ。

 アソコに玉をはめこむということは、それによって女性をよろこばせるためだと思うが、Pの大きい人は、そんなことをする必要がなく、小さい人が玉を入れているということか。

 確か玉の材料は、歯ブラシの柄を刑務所内でひまだから、こすって、こすって玉にして、はめこむのだから、考えただけでも痛そうだ。今は大人のオモチャ屋に行けば、そんな痛いことをしなくてもすむものを売っている。人間の欲望って果てしないだけに、おそろしい。

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2013年3月 3日 (日)

第17回「伊藤文学と語る会」

来る3月23日(土)、下北沢のカフエ「つゆ艸」にて、第17回「伊藤文学と語る会」を開催致します。

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3月23日(土)午後13時~15時(予定) ※途中参加・中途退出自由。
会費なし(コーヒー代の実費のみ)
会場:下北沢 カフエ「つゆ艸」
住所:世田谷区代沢5-32-13 露崎ビル1F TEL 03-6805-5385

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初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年3月 2日 (土)

自衛隊のままでいい、国防軍なんてとんでもない!

 これも父の切抜帳に貼ってあった写真だ。昭和16年9月1日(1941)太平洋戦争が勃発する何ヶ月か前に、なんの雑誌に載ったのかは不明だが、それから数年後に、日本の大都市は焼け野原になってしまった。

 まさかそんな状態になるとは、この人たちは想像もできなかったろう。写真のタイトルも「待機」とあるから、まだ、せっぱつまった感じはなく、のんびりとしている。

 撮影は片岡奈甫介さん、福島市の方で、(時局写真大懸賞人賞作)とある。防火用水(どこの家の前にも置いてあった)に腰かけて、赤ちゃんにお乳を与えている若い母親。今では見られない光景だ。

150a 「超非常時を迎えて、防空訓練はいよいよ真剣だ。
 ようやく敵機を撃退して、この間にと赤ちゃんにお乳をやる。

「あっ、空襲だ!」

 鉄かぶとの坊やが、右手を空にかざして、大声で叫んだ。

「おどろかしちゃ駄目よ、赤ちゃんが眠りかけているから」

 おとなりのおばさんが小さくにらんだ。
 防空訓練、次の警報を待機している街の一風景」

「備えあれば、うれいなし」とは、現実にはうまくいかなかったが、こんなときもあったとは。

「模型飛行機」と題する写真。東京工芸社(東京市)の撮影だ。ぼくも子供の頃、よく模型飛行機を作って、とばしたものだ。

 雑誌に少年飛行兵になるための体重とか、身長がかかれていて、その頃の子供にとっては将来の目的は軍人になるしかなかった。しかし、背が小さくて、やせているぼくには、どの条件もあてはまらなかった。

150b 「今、国民学校(小学校のこと)では、工作の時間に、さかんに模型飛行機を作らしている。プロペラの調子はよいか、翼の加減はどうか、ほほえみながら熱心に製作している。

 がぜん! 子供達の興味と注意は、空に向けられてゆく。あっぱれ、少年航空兵の夢を描いているものも沢山いる。

 空を忘れて近代の国防はない。世界無比の空軍を完成するには、こうして少国民に、航空の思想と、知識をしっかりと植えつけていくことが、もっとも大切なことである。
 9月20日は、空の記念日である。」

 世田谷学園に入学した1年生のとき、朝礼で壇上にあがった上級生が予科練に入学するのを毎日のように送ったものだ。

 終戦になってからの予科練帰りの学生たちが、心がすさんで不良少年になり、やくざになってしまったものもいた。

 日本は二度と戦争などしてもらいたくない。シリアの人たちの傷ついた姿が現実とは。こんなに悲惨なことはない。自衛隊で充分だ。国防軍などと呼ぶようになったら、また、戦争をなんて考える人間も出てくるかも知れない。

 日本と中国と戦ったら、どっちが勝つかなんて記事にする雑誌なんてとんでもないことだ。売らんかなかも知れないが、情けない話で、やめてもらいたいものだ。

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