花魁道中などと浮かれていていいの?
ぼくとときたまデートのお相手をしてくれるAさんが、お茶したときにぼくのブログを見てくれている人が、どんな内容に興味があるかを携帯電話で順位を教えてくれた。
誰がこんなことを調べてくれているのかは知らないが、書き続けるために参考になるというものだ。
なんと大正時代に吉原のお女郎さんをからだを張って生命がけで救い出し、救世軍で活躍した祖父の話だった。
こんな話をブログで書く人などいないから若い人が興味を持ってくれたのだろうか。
最近のNHKの番組で、吉原の話をとりあげたのを偶然に見ることができた。そこで働く女性の暗い部分は、つけたりみたいに描かれていて、華やかな廓が、江戸の文化の先端をいく、流行の発信地として紹介されていた。
何千人もいた女性の中には、頭のいい人もいて、教養を身につけ、髪型とか、衣裳とかが江戸の庶民たちに影響を与えていたのだろう。
日本の神道も、佛教も、女性がお金でからだを売ることをとりたてて悪としなかった。キリスト教が明治時代になって根をはってきてから、廓の女性を解放しようという動きが活発になってきた。
とりわけ祖父、伊藤冨士雄が所属していた救世軍が廃娼運動の先鋒となって活躍していた。
桜の季節になってくると、観光の目玉として「花魁道中」が、各地でくりひろげられる。
話が長いので簡略に書くと、角海老という吉原で一流の廓の娼妓、白縫が、救世軍の祖父のところへ、廃業したいとかけこんだ。
花魁道中なんて、大変な虐待だと、白縫は訴える。
「頭痛のする私の頭へ、入髪を滅茶苦茶に沢山して、何十本という櫛や笄をさすんですもの、たまったものじゃありません。その上に長い厚ぼったい着物を着せられ、大きな帯を前で結び、暑いときにどてらのようなものを着せられ、高さ一尺、重さ二貫目の三枚歯の下駄をはかせられ、仲の町の端から端まで、八文字をふんで歩かせられたのです。
その道中は私にとっては大変な虐待でした。だんなはご自分の頭にあんな重いものをのせたことがございますか。だんなのはいている桐の下駄は、何もんめありますか。
私は近頃、リューマチで、スリッパをはいてはしご段を昇り降りするさえ苦しいのに、二貫目の下駄をはかせられて、すっかり神経衰弱になってしまいました。それに持病の脚気が再発したのです。これでも虐待でないと、おっしゃるのですか。」
この白縫は、その後、いろいろあって、めでたく自由廃業して、古里の広島に帰ったそうだ。
白縫は治外法権という言葉をつかったり、その当時、昭憲皇太后陛下が亡くなられた御諒闇中ということをかつぎ出したりしたのは、彼女が古里の高等女学校を卒業していたからであった。
「やっぱり教育のお蔭だ。高等女学校を卒業していなかったら、二貫目の下駄で神経衰弱と脚気は起こらないよ」と、伊藤君は笑った。」と、『娼妓解放哀話』の中で、沖野岩三郎さんは書いている。
東北の貧しい農家の娘たちが、廓に売られて女郎になったのだろうが、江戸時代だとなおさら、字も読めない女性たち、樓主の言いままになってしまった。これらの女性たちが悲惨な日々を送っていたことを考えれば、「花魁道中」などとうかれてはいられまい。
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コメント
興味深いです。薔薇族時代の話もおもしろいですが、今回のようなゲイ文化に関係ないもっと昔の話など、文学さんにしか書けないお話がたくさんあって、毎回本当に楽しみにしています。
投稿: オレンジ | 2013年3月30日 (土) 03時45分