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2013年4月

2013年4月29日 (月)

お笑い芸人さんと『薔薇族』

 ぼくはお笑い芸人が出ているテレビ番組はほとんど見ていない。ところがなぜか、吉本の芸人さんと、『薔薇族』はご縁があった。

 1999年の9月号、No.320の表紙は、シャンプーハット、ガレッジセール、アップダウン、ライセンスの面々が、裸で表紙に登場している。グラビア頁には、4コンビのあられもない写真が載っている。写真の提供は吉本興業、写真は伊藤文學とあるではないか。

 16年も前のことだから、ぼくは65歳、写真を撮り、4頁も記事まで書いているとは元気だった。その頃、日本テレビ系の深夜番組で、毎週火曜日の深夜、1時45分からの30分「吉本ばかな」というのがあったそうだ。

 お笑い芸人さんというのは、10数年という長い下積み生活があって、テレビに出られるようになるのは大変なことなのだ。ほとんどの人は、その間に消えてしまう。

 ぼくの書いた記事には、こんなことが書いてある。

「そこで彼らは考えたのだ。「有名になろう」と。そのためには「雑誌メディアを征服する」という途方もない計画を立てた。

 彼らが乗りこんだのは、まず『ザ・テレビジョン』だ。ところが知名度がない、全国ネットじゃないということで、お情けで小さい扱いになってしまった。

 なにを血迷ったのか、その次に訪ねたのが『ナース専科』。看護婦さんが読む雑誌だ。そこでもとりあげてくれたのが「伝言板」の頁。そして『TOKYO1週間』と、『週刊宝石』の編集部。ところが編集の人が、コンビの存在を知らない。あげくの果ては「ビッグになって、また来てください」と、すげない返事。

 そして最後に彼らがやってきたのは『薔薇族』編集部で、テレビに顔をさらしてもいいというのは、編集長のぼくだけ。狭い編集部に8人の男たちと、女性ひとり。それにディレクターや、カメラマンなど、スタッフが10人ばかり。もうライトの熱も交じりあって、男の匂いがムンムン。

『薔薇族』の表紙にのせてください!」と、彼らのお願いに、ぼくは即座に「いいですよ」と約束してしまった。

 それからすぐにロケバスに乗って、上北沢の松沢精神病院の裏手にあるスタジオに向かう。バスの中で「松沢行きだね」と言っても、関西の連中だから、そのギャグが通用しない。その存在を知らないのだから、どうにもならない。

 普通の民家がスタジオになっている。応接間もあれば、和室もあり、ベッド・ルームもある。そして調度品もそれなりのものが置かれている。

 スタッフのひとりが、どの子が一番いい男ですか?と、そっと耳うちするから、「カメラマンが一番魅力的だね」と、答えてしまった。(ぼくの男を見る目も、きたえられていた)

 からだもがっちりして、色も浅黒く、仕事に打ちこむ姿は美しい。第一、目がキラキラと輝いている。

 お笑いコンビたちも悪いわけではない。みんな若いし、「有名になろう」という意欲と芸人根性というか、そのへんの若者と違うバイタリティがあり、どんなことでも嫌がらないでチャレンジする逞しさを感じる。」

 皮肉なことに、雑誌の方は、どの雑誌も消えてしまって、彼らの方は、みんなテレビで活躍している。

「次長課長」の河本君も、有名になってしまったし、表紙に使った「カウカウ」の多田健二君もテレビに登場するようになった。彼らが有名になって、『薔薇族』の表紙になったことを誇りに思ってくれているだろうか?

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2013年4月27日 (土)

短歌はルールを守って表現すべきだ!

「夢は叶うもの」を実証してしまった、斎藤茂吉の歌碑と「文學の小路」の石柱を3月21日、盛大に除幕式を開いて。

 それも世田谷区からの補助もなく、相棒の林清孝さんと二人だけでだ。

 歌人、斎藤茂吉が、昭和22年11月、山形の疎開先から、世田谷の代田八幡宮のそばに越してきた。そして昭和25年、68歳のとき、新宿大京町に移るまでの3年間を代田の町で過ごされた。

 茂吉、最後の歌集『つきかげ』を何度も読んだ。「代田時代の歌人斎藤茂吉」を文章にしなければならなくなり、本を読まないぼくも読まなければならなくなったからだ。

 それと若い頃から交友があった『月刊WiLL』の編集長・花田紀凱さんからも依頼されて、5月超特大号に、原稿用紙15枚で「代沢緑道に建てた斎藤茂吉の歌碑」のタイトルで書かなければならない。

 ぼくが20歳か、21歳の頃、投稿した短歌が朝日新聞の「朝日歌壇」、選者は茂吉の弟子の結城哀草果選に選ばれている。茂吉を追悼する歌も選ばれているから、60年も前のことだ。

 ストリップ劇場で来し夜の街に透きとほる靴下をさげし店あり

 その頃、ぼくは浅草にあるストリップ劇場に足しげく通いつめていた。恋人がいなくてもやもやしていた時代だ。

 今どきの人は知らないだろうが、女性がはくナイロンの靴下が洋品店の店頭に現れ、丸い物干しにとめられて、包装されずに何足もぶら下げられているのが、なんともなまめかしく見えた。

 ぼくはこの時代のあと、現実に恋人ができてしまい、恋に狂ってしまったので、妄想して短歌を作ることもなくなり、あっさりと短歌をやめてしまった。

 最近、短歌のことが気になりはじめたときに、毎日新聞に大辻隆弘さんという方が「短歌月評」というコーナーに「規範の再確認」というタイトルで書かれているのに目がとまった。

「近代短歌の選歌集が二冊、新書として発行された。

 永田和宏著『近代秀歌』(岩波新書)と、岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘選『新・百人一首』(文春新書)である。

 二冊に共通するのは、明治以降に作られた短歌の規範を確認しようとする明確な意志である。

 ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも  斎藤茂吉

 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  北原白秋

 やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに  石川啄木

 二冊に共通して選ばれたこれらの歌は、いやしくも短歌に携わる者なら、誰もが知っておかねばならない遺産であろう。

 一九九○年以降、短歌会は規範を失った。「なんでもあり」「やった者勝ち」という社会の風潮は短歌の世界にも流入し、対話の基盤となるべき常識は見えがたくなった(後略)」

 スポーツでもルールがあり、それを守って戦うから面白いのだ。短歌も5・7・5・7・7のルールの中で表現することが大事で、「なんでもあり」という表現法は短歌ではない。

 万葉の時代から、短歌はそのルールを守って、多くの人が作ってきたのだから、大辻隆弘さんの言われるとおりだ。

 そのルールを守らない作品は、短詩と言うべきだろう。それにしても歩きながら、携帯電話を見ているような人には、短歌や、俳句は作れまい。他人の行動を観察し、あらゆるものを心のアンテナをはって見ていなければ茂吉のような短歌は作れないということだ。

 ★「月刊・WiLL」5月号、書店でお求めください!

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2013年4月22日 (月)

「かげろう」のような、はかない恋、少年愛者に幸せは! ―マイケルの「性的虐待」の文字に思う―

「マイケル・ジャクソンのファンでもない僕にとって、彼がどんなスキャンダルで、世間から非難されようが関係のないことだ。

 しかし、どの雑誌、テレビを見ても、「マイケル・性的虐待」の見出しなので、僕の心は穏やかではない。(中略)

『薔薇族』を22年間、出し続けてきて、いいか、悪いか判断しかねていることといえば少年愛のことだ。

 日本中の誰よりも少年愛の人と接触しているのは僕だと思う。結論から言えば、少年愛が悪か、善かというならば、どんなに偉い人でも結論を出せるものはない。もし、この世に神がいるならば、神に責任をとってもらうしかないからだ。

 誰が好き好んで少年を愛の対象になどするものか。これは生まれながら少年が好きなのだから、本人の意志では変えられない。いくら年をとっても同じことだ。(中略)

 太った子が好きであったり、やせているのがいいとか、いもみたいな子が好きだという人もいる。

 しかし、どっちにしても未成年者だから、自分で自分のことを決められない年頃の子供だ。その子供たちに手を出すことは、犯罪だということも分かる。

「性的虐待」いやな言葉だ。確かに少年を殺してしまう変質的な人間もいる。これはまさしく変質者で例外だ。女の好きな人の中にもいる。しかし、大多数の少年愛の人たちは、「性的虐待」などするものはいないだろう。

 マイケルの肩を持つつもりはないが、少年が好きなために、自分の農園に遊園地まで作って、子供たちを遊ばせ、楽しませている。そんなマイケルが少年を虐待するわけがない。

 少年愛は、少年を愛したい、かわいがりたいという願望だ。それなのに虐待するわけがない。

 少年が嫌がるのに無理にキスしたり、愛撫したりすることはよくない。ほとんどの少年愛の人たちは、空想するだけで、自分の理性で抑えている人たちだ。しかし、抑えきれなくて、行動に走ってしまう人もいることは事実だ。

 何十人という少年と接触し、写真を撮ったり、ビデオに撮ったりした、少年愛の読者に話を聞いたことがある。

 この人は少年にただの一度も、親にそのことを言われたことはないという。一度だけ親に言われて大騒ぎされたことがあったが、それは少年同士が、はち合わせしてしまって、やきもちを焼いて、その腹いせに親に言ってしまった、そのときだけだという。

 マイケルも個人的には、そうした少年の写真や、ビデオも持っていたかも知れない。

 運よく自分の好みの少年と仲良くなれたとしても、少年は年々変化してゆく。そうなると、もう自分の願望の対象ではなくなってしまうのだ。

 ある日、少年が自分の恋人ができたといって、連れてきたりすると、悲しくはなるけどその反面、ほっとすることもあるという。

 なんとも、はかない恋が、少年愛の人たちの宿命なのだ。決して実ることがない愛なのだ。だからこそ自分の理想の少年に出会い、少年の肌に直接触れたときのよろこびは、女を愛する人間には分からないほどのよろこびだろう。

 神よ、あなたはなんということをしてくれたのだ。このかげろうのような恋に幸せはくるのだろうか?」

 僕は1993年のNo.251号にこんなことを書いている。カトリックの神につかえる神父たちの多くが、少年に手を出しているという事実。神はどう思っているのだろうか。

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幻に終わってしまった稲垣征次展

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2013年4月20日 (土)

老いは誰にでも必ずやってくる!

 昨年の3月、80歳の誕生日に、友人が経営するバアで、パーティを開いたが、あっという間に1年が過ぎてしまった。

 ぼくには女房、息子たち、そして孫もいるけれど、40歳を過ぎても独身でいるゲイの人にとっては、老いへの不安は、身にしみて感じるのだろう。

 1993年の『薔薇族』251号に、福岡県の一読者が、こんな投稿を寄せている。

「去年の8月から入院していた父親が、今年の7月他界しました。本当にはかないものだと、つくづく思い知らされたものです。

 中学・高校時代、いや大人になってからも、まったくといっていいほど、顔を合わせても話ひとつしなかった父親、自分にとっては、ただけむたいだけの存在だった人、なのにやはり親子って不思議なものだと思います。死が間近になったとき、やっぱり肉親のことばかり思うのが、親子なんでしょうか?

 もっと、もっと親孝行すべきだったと思います。葬式後、身内が集まっての話の中で、すぐにとりあげられるのは、私の結婚についてです。

 40代いまだ独身。ましてや親元を遠く離れて暮らすひとり者を、年老いた母親、そして兄弟たちは必要以上に気にかけてくれます。

 とても嬉しいことなのに、その半面、そっとしておいてほしいと、願わずにはいられない日々。自分の性格をすべて話してしまったら、どんなに楽になることでしょう。

 もっと、もっと気楽に過ごしてゆけることだろうにと、思わずにはいられません。

 でも病気がちの母親に、そして兄弟たちには口がさけても、自分がゲイだということを話せません。気がついているのかも知れませんが。

 この年になってひとりぼっちは、本当に心底さびしいものです。若いときには誰でも、自分が年をとるなんて考えることもありませんでした。

 ましてや、中年のおじさんなんて、若い子から見れば、鳥肌が立つくらい、いやな存在なのかも知れません。

 でも、いつか誰にでも老いは必ずやってくるのです。人間はさびしく、弱い生きものだと思います。ましてや私のような者にとって、老いについてものすごく不安があり、その時をいかに充実した年代にしてゆくか、大きな問題だと思っています。

 だから自分の生き方をみなさん、今一度ふり返ってみてください。そして、どうか人の痛みとか、苦しみがわかる人間であってほしいと思います。」

 このような立場に、今現在おかれている人も多いと思う。先月の「伊藤文學と語る会」に、わざわざ九州から出席してくれた人も、同じような悩みを抱えている人でした。

 ぼくは手紙を読んで、よりよいアドバイスをしたいと思って、両親と一緒に住んでいるのか、兄弟はいるのか知らせてほしいと手紙を出したのですが、返事はありません。

 その人も、40を過ぎているようですが、ぼくは結婚しないほうがいいと思う。異性と結婚すれば、その人を不幸にしてしまう可能性が高いからだ。

 親孝行は両親に孫を見せるだけではない。他に方法はいくらでもある。両親のうちどちらかが残されても、ずっと面倒を見続けて、親孝行した人を何人も見ている。

 週末にはハッテン場に行って遊んでいるようだが、やはり特定の愛する男をみつけることが大事で、そうなれば生き方も変わってくるのでは。

 収入をみんな遊びに使ってしまう人が多いけれど、老いは必ずやってくるのだから、そのときのために貯えておくべきではないだろうか。

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2013年4月15日 (月)

雑誌作りは、お互いに素人で!

 1978年の1月に創刊した、東郷健さんの『THE KEN』を見つけ出した。『薔薇族』創刊後、7年後のことだ。

 創刊号を出すためには、いろんな苦労があるが、「編集後記」には、東郷さん、こんな苦労話を書いている。

「8月の末から、ザ・ケンを創刊するために何人もの人たちと、夜といわず朝未明まで討論したものであった。雑誌作りなど、この年齢になるまで、手伝いすらしたことがなく、構想はありながら、プロットに至るまで、何と二ヶ月もかかった。

 発売日は「特殊なホモ雑誌」との偏見で、印刷屋が次々と変更になり、ある人の尽力を得て、やっと創刊の運びになった。

 雑誌作りに手伝ってくれた人々は30名を越え、それが全て無料奉仕であった。(後略)」

 ぼくが創刊した『薔薇族』は、ずっと以前から仕事を出していた印刷所だし、製本所は女房の兄が経営している製本所だから、問題はなかった。

 まだまだ、この時代には世間の偏見があったことは確かだ。新宿の電鉄系のホテルで、出版記念パーティを開こうと思って訪ねたことがあったが、名刺を出したら断られてしまった。京王プラザホテルは、気持ちよく使わせてくれたので、その後、何度もパーティを催し、次男の結婚式も開くことができた。

 30名を越す人が編集の手助けをしたとあるが、『薔薇族』は、雑誌作りの名人の藤田竜さんと、2人だけで僅か数ヶ月で創刊号を出してしまった。

 驚いたことに『THE KEN』には、取次店(本の問屋)のコード番号が付いていない。営業をする人がいなくて、取次店とのコネがなく、書店に配本することができなかったのだろう。
「KEN創刊にあたって」と題して、東郷さんが巻頭に書いている言葉の中に、こんなことが書かれている。

「ホモ雑誌が、ホモ以外の人間によって、商業ベースで、我々が利益の対象として利用されることを、私は我慢できないし、最大の侮辱だと思うのです。」

 ぼくのこと、『薔薇族』のことをさしての言葉だ。その後も、東郷さんに批判されっぱなしだったが、かえって励みになった。

 その批判に対する反論は、長い『薔薇族』の歴史が答えていると思う。

「編集後記」に、編集部のNさんという方が「なんと言っても、創刊号の圧巻は、他の追随を許さない、ユニークでシリヤスなザ・ケン独自の小説群であります。」と。

 東郷さんが日頃のお付きあいがあって、親しくされていた、当時、大活躍されていた、カメラマンの金坂健二さん、関西学院大学の同級生だった団鬼六さん、脚本家の石森史郎さん、同郷の写真家、波賀九郎さん、詩人の諏訪優さん、イラストレーターの宮トオルさんなどが協力して参加している。

 晩年、ぼくも親しくさせてもらった、九州の作家、福島次郎さんも、「天草の小島にて」というすばらしい短編小説を寄せている。

 これだけの多彩な協力者がいたにもかかわらず、なんともやぼったい雑誌になってしまったのはなぜだろう。

 ぼくも東郷さんも、同じように雑誌作りでは、まったくの素人だった。ぼくの場合、藤田竜さんという、雑誌作りの名人ともいえるような人に出会ったことの幸運があった。

 八十一年も生きてきて、人間には「運」というものがあると、つくづくと『THE KEN』の頁をめくっていて感じさせられる。

 野球の「侍ジャパン」の山本浩二監督、さんざん悪口を言われていたのに、大会3連覇が現実を帯びてきたら、「超強運コージ」と。しかし、人生果たして運だけだろうか?

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2013年4月13日 (土)

オシャレな雑誌は僕にはむかない!

「ラブオイル校長」と、ぼくのあだ名は本人が知らないうちに、ネット上では有名になってしまっている。よろこぶべきか、悲しむべきか。でも、悪い気はしていない。

『薔薇族』は姿を消してしまったが、「ラブオイル」は、消耗品であるだけに、発売してから、すでに30年近い年月が経っているのに、今でも愛用されていて、しぶとく売れている。

 大手のゲイ・ホテルの会長さんが「ラブオイル」が、いろいろなものを使ってみたが一番いいと、ホテルでずっと売ってくれているのだからありがたいことだ。

「ラブオイル校長」と名付けられてしまったのは、ビデオ会社の監督に頼まれて、校長の役を引き受けてしまったからだ。

 修学旅行に行く高校生を送り出すシーンだけを誰かが、ネット上で見れるようにしたのが、話題になってしまった。

「ラブオイル」は、平成2年(1990年)発行所・株式会社インファス 発売元・株式会社流行通信社から発売されていた、オシャレな雑誌『STUDIO VOICE』
.vol.178に、ぼくは原稿を依頼されて載せている。23年も前のことで、すでにこの雑誌は消えている。

「MEDIA SUPER COLUMN 知る人ぞ知る名雑誌、名番組60」の中の23番目に登場している。「たぎる思いをダイレクトに伝える妖しいメディア・ラブ・オイル」という見出しで。

「この世の中には、なんだバカバカしいと言われてしまうかもしれないけど、涙が出るほど必要なものがある。

 もう4~5年前のことだった。こんなもの売れないでしょうかと言って、ある人が持ちこんできたものがある。早速、見本に置いていったものを風呂に入ったときに使ってみた。その心地良さ。若かりし時のあの感動が、しびれるようによびがえってきた。

「これは絶対売れるぞ!」

 ぼおーっとした頭にも、そうひらめくものがあった。思えば、かれこれ20年前、日本で最初のゲイ・マガジン『薔薇族』を創刊した、その時のひらめきもオナニーからだった。

 学生時代、オナニーにこって、日夜、悩んだことがあったが、それが今になって役に立っている。すべてのひらめきの元はオナニーからということになる。(中略)

 ところで僕が、なぜこれを「メディア」としてとらえたかと言うと、理由はカンタン、これこそまさに人と人とのコミュニケイションの媒介物に他ならないからだ。

 しかも、この場合、印刷物や、電波と異なり、双方向のコミュニケイションである。男と男、あるいは男と女が(もちろん女と女でもいい)この薄いオイルの膜を通して、「愛」という名の熱い情報を伝え合う。この潤滑油を通過した、お互いの気持ちは、2倍にも3倍にも増幅されて伝わってゆく。もう、立派なメディアとしか言いようがないと思う。こじつけでしょうか? そう思う人はだまされたと思って、一度試してみてください。」

 この特集の見出しにある「知るものだけが楽しめる、隠れた名雑誌、名テレビ番組、そして有象無象のメディアの数々。

 各界のモニター60人がいま、プライヴェートに受信している気になるメディア情報を、一挙に公開。」とあるから、(中略)と書いてけずってしまった前半のところは、ぼくが書いたものだが、後半の文章は、理屈っぽくていつもの僕の文章じゃないような。こんな偉そうなこと書くわけがない。

 編集者にチエをつけられて書いた、こじつけというよりも、デッチアゲのような文章だ。僕は分かりやすい文章しか書けない。オシャレな雑誌には向かなかったようだ。

★新宿で「ラブオイル」を売っているお店。ネットで検索してください。
・FREEMAN新宿店
・CHECK新宿店

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2013年4月 8日 (月)

美輪明宏さんの言葉は重い!

 平成元年9月1日発行の200号、この時、記念特大号とした。ぼくは「編集室から」にこんなことを書いている。

「尊敬する美輪明宏さんが、200号に寄せて原稿を書いてくれました。パルコ劇場でのリサイタルのあと、おからだの調子が悪いようで、それでも、僕のお願いに一生懸命書いてくれたのです。

『薔薇族』を創刊したばかりの頃、紫色のロールスロイスに乗って、薄汚い第二書房を訪れて、創刊号を買ってくれました。

 丁度、僕は留守でしたが、汚い部屋に上がってくれて、親父や、おふくろと気さくに話しこんで帰られたそうです。

 あとでおふくろから、その話を聞いてうれしかったのを覚えています。それから美輪さんは、新宿厚生年金会館のとなりのQフラットビルの2階に『巴里』というクラブを出されました。

 ピンク色のきらめくような店でした。そのあと刺激されて、僕も談話室『祭』を『巴里』の前に出したのでした。

 美輪さんとの友情は今も続いていて、リサイタルもいつも聞きにいき、『薔薇族』と大書した薔薇の花かごを贈っていますが、別になんとも思わない美輪さんはたいしたものです。」

 この頃の美輪さんは、体調がすぐれなかったようだ。リサイタルで一曲歌い終えると、後ろをむいて、せきをしていて痛々しかった。

 それが昨年の大晦日のNHK紅白歌合戦に最年長で出演して、「ヨイトマケの歌」を熱唱し、他の歌手たちを圧倒してしまった。その存在感は見事だった。

 美輪さん、ますますお元気で、リサイタルも、演劇もチケットは完売というからすごい。あの「ヨイトマケの歌」が、多くの人の心を感動させたからに違いない。

 200号に寄せてくれた、美輪さんの「自殺した友よ いま一緒に乾杯しよう」の文章を読めば、「隠花植物」と世間の人から思われ、自分たちもそう思っていた時代を乗りこえてこられた先駆者としての美輪さんを誇りに思うべきだろう。

「そのころ「ゲイバー」(という言葉さえなかった)と言えば、「ブランスヰック」と、神田(の前は日本橋)の「シレー」と上野の「市蝶」と新宿の「夜曲」くらいのもので、その後に新宿に「イプセン」新橋に「やなぎ」がやっとできた時代だった。

 だから、だいたいどの店の客も「隠れ切支丹」のように、ソソクサと息を殺して入り、出るときもボーイが表を確かめて、「今、いいですよ」と告げてから、客がサッと飛び出すという奇妙な光景がよく見られたものである。

 私は最初、「これはきっと犯罪者かなにかに違いない」と思っていたのだが、そのうちにそうではないことがだんだんとわかってきた。それはただ、世間体を気にしてのことだった。

事実、そのころは「男色」が会社にバレたら、たとえ有能であっても、即刻クビだった。今のゲイバーの状態からみれば隔世の感がある。

 ハッテン場も少なく、日比谷公園か、日活名画座(現在、新宿丸井が建っている場所にあった)くらいである。そのような数少ない場所で「隠花植物」さながら密やかに「愛」を探し求めて生息していたわけだが、私はそれをみていて「これではならない」と思ったのである。人間が人間を求め愛しているだけのことだ。愛の対象が、男であろうと女であろうと、人が人を愛するという図式に変わりはないのである。なにをためらう理由があろうかと思ったのだ。」

 美輪さんは、「週刊文春」「週刊新潮」ではない、「アサヒ芸能」の記者に初めて「私は男性が好きです」と。美輪さんの言葉をかみしめてほしい。

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2013年4月 6日 (土)

年とって笑いの種にされるとは

 関西では『番傘』という川柳の雑誌があって、その主宰者は岸本水府という方で、亡くなられているが、ぼくの父は岸本さんに師事して、川柳を作っていた。
 父の作る川柳は、ただ笑いを誘うだけではなく、芸術性をねらった句だ。

 

人生は旅その旅で逢った人

 父は無類の女好きで、多くの女性と付き合いがあって、母を苦しめていたが、父が亡くなったあと、遺品を片付けたら、山のように女性からの手紙が出てきた。
 人生の途中で、父と出会った女性たちからの手紙だろう。 

 長生きをすればどこかでまた逢える

 父が住んでいた市ヶ谷の近くに、成女学園という女学校がある。そこの女性が父の初恋の人だったようだが、かなり年をとってからその女性を探しあてたようだ。
 ぼくも初恋の人だった女性と、再会したことがあり、この句の通りだった。

 

国境を飛んで蝶々は撃たれない

 北朝鮮と韓国、同じ民族でひとつの国だったのに、不幸なことに38度線で、お互いににらみあっている。

 

酌量の余地なし少年AとB

 僅かなお金をとるために、女性をナイフでさし殺してしまった、二人の少年。人を殺したらどういうことになるのか、考えなかったのだろうか。哀れな話だ。

 

私の金私が借りて利子がつき

 家を建てかえたとき、銀行に自分の金があるのに、それで払ってしまうと、税金が高くつくのか、そのへんのからくりは、ぼくには分からないが、お金があるのに、銀行から借りて建築業者に払う。父は納得がいかず税務署長に論文のような長い手紙を出したようだ。
 とにかく変わった父だった。

 

結婚を迫る女の目が怖い

 ぼくら兄妹と母に慰謝料を払うから、結婚してくれと、女に父は迫られたようだ。離婚していたら、ぼくらはどんなことになっていただろうか。

 

笑ってる写真にみんな泣かされる

 葬式のときに祭壇にかざられる写真のことだ。この句のことを知っていたので、ぼくはほほえんでいる父の遺影をかざったが、みんな泣いてくれたかどうか。

 父は多くの川柳を残していたが、本当は亡きあと句集を作るべきだったのかも知れない。ぼくらを捨てて、母と離婚しようなどと一瞬でも考えていた父を許せない。ぼくが撮ったほほえんでいる遺影を祭壇にかざっただけで、かんべんしてもらうか。

 川柳にもいろいろある。「ニッポン全国、笑いの輪が広がっています。たちまち25万部突破! ぜひ、皆さんで腹をかかえてください」と帯に大書きしてある、ポプラ社刊の『シルバー川柳 誕生日のローソク吹いて立ちくらみ』が、本が売れないという時代に、マスコミにもとりあげられて、本当に売れている。(定価・本体952円・税別)

 ぼくもシルバーと言われる世代、この原稿を書き終えたら、「高齢者講習終了証明書」をもって、車の免許の更新に行くつもりだ。

 年寄りを笑いのねたにするとはけしからんが、その通りだから、笑ってすますしかない。好きで年とったわけではないのに。

 起きたけど寝るまでとくに用もなし

 時代劇の「鬼平犯科帳」「剣客商売」「暴れん坊将軍」を見て、一日終わってしまう日もあるから、その通りだ。

 

遺影用笑いすぎだと却下され

 ぼくが撮った父の遺影、ほほえんでいるぐらいがいいので、笑いすぎだと、「香典返せ!」と、客が怒りだすぜ。却下されるの当たり前だ。

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2013年4月 2日 (火)

ここに決めた! 第18回「伊藤文学と語る会」

ここに決めた! 下北沢から三分、駅も変わったが「伊藤文学と語る会」の会場も変わった。マスターもママもゲイの理解者。貸切にしてくれるので、落ち着いて話ができるぞ!

日時・4月20日(土)午後2時~4時
場所・下北沢一番街、カフエ「占茶」
会費・各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

★女性も安心してこられるお店です。

世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階

電話・03ー3485ー8978

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2013年4月 1日 (月)

宗教によって人間の考え方が違ってしまう

 外国人でキリスト教徒のモルフイさんという人が明治の終わり頃、公娼廃止、女郎の自由廃業の運動をはじめたとき、日本の社会の一般の人たちは、この運動に同情しなかった。

 

それは当時の日本人のすべてが、娼妓の実情を知らないで、娼妓という稼業は、きれいな着物を着て、おいしいものを食べて、面白い歌でも唄って、極楽のような生活をしているものだと思っていたからだ。

 吉原、中の町の不夜城は、立派な建物で、そこに出てくる傾城(けいせい・遊女のこと)は、美しくて義侠心があって、「まあまあ待ってくださんせ」と言えば、どんな荒くれ男も
抜いた刀をさやにおさめるという有様。

 美しい着物を着て、遊んで暮らすことにあこがれた一般人もいたが、現実は大違いで、苦界に陥って、もがいても、あがいてももうおっつかないのだ。

 そんな事実を知らない、一般の人は、娼妓を解放する、救い出すといっても、むしろ不思議に思ったに違いない。

 吉原京町二丁目、山本屋の勝山という遊女が、ちょっと風変わりな髪のゆい方をすれば、たちまち全国にそれが流行したのも、娼妓の生活をうらやんだからだ。

 西暦1609年(慶長14年)9月30日に、千葉県の海岸、岩和田に流れついた、ドン・ロドリゴという、前フィリッピン総督が、徳川家康の歓待を受けて、日本に滞在中に見聞した報告書には、「日本人には飲酒の悪癖がある。これより更に他の大きな悪事がある。それは自分の妻ひとりで満足しないで、多くの女を手に入れようとする。ときには百人を超えるものさえいる。

 しかし、婦人についての裁判沙汰は起こらない、公娼が京都だけでも5万人もいて、専属の医者がいて、性病にかかったものは隔離するから、誰でもその特別区画に入ることができて、これが問題を起こすことはない」と。

 二年ののちにロドリゴの歓待を謝すために訪れた、ピスカイノがスペイン本国に報告した文中に「世界に於いて、もっとも劣悪なものは、日本人は金銭のために、娘や、妻を売ることである」と言っている。

 1775年6月に日本を訪れた、スエーデン人のツンベルグは、その紀行文にこんなことを書いている。

「どんなに小さい村でも、大都会にでも、公開の遊女屋がある。日本人は旅人に対して親切で、ゆきとどいた接待をするから、その旅人に対して、美しい遊女屋を設けている。

 日本人はこの設備を決して不道徳だとは感じないのだ。ヨーロッパ人は、この国にくると、自分の国の先見も、宗教もふり捨てて日本流になってしまう。

 日本人はこの遊女屋に出入することを少しも恥としない。この遊女屋は法律によって保護されているからだ。高位高官の人も、遊女屋にきて客を接待する。

 淫欲の強い国民で、ぜんぜん羞恥の念がかけているのだと言い得る。」

 日本人の多くが考えていた娼妓と、西洋人の考えていた娼妓とは、その見方が非常に違っている。日本固有の神道でも、佛教でも、公娼制度を恥辱とも不道徳とも考えていなかった。

 西欧人が日本の公娼制度を不思議がり、不道徳よばわりするのは、彼らの祖先からのキリスト教の考え方である。明治年間に日本で廃娼を叫び出したのも、キリスト教徒からだった。

 昭和33年に売春防止法が施行されるまで公娼制度が続いたのも不思議だが、どこの国だってからだを売る女性も、男性もいる。人間の欲望って恐ろしい。

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