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2013年4月27日 (土)

短歌はルールを守って表現すべきだ!

「夢は叶うもの」を実証してしまった、斎藤茂吉の歌碑と「文學の小路」の石柱を3月21日、盛大に除幕式を開いて。

 それも世田谷区からの補助もなく、相棒の林清孝さんと二人だけでだ。

 歌人、斎藤茂吉が、昭和22年11月、山形の疎開先から、世田谷の代田八幡宮のそばに越してきた。そして昭和25年、68歳のとき、新宿大京町に移るまでの3年間を代田の町で過ごされた。

 茂吉、最後の歌集『つきかげ』を何度も読んだ。「代田時代の歌人斎藤茂吉」を文章にしなければならなくなり、本を読まないぼくも読まなければならなくなったからだ。

 それと若い頃から交友があった『月刊WiLL』の編集長・花田紀凱さんからも依頼されて、5月超特大号に、原稿用紙15枚で「代沢緑道に建てた斎藤茂吉の歌碑」のタイトルで書かなければならない。

 ぼくが20歳か、21歳の頃、投稿した短歌が朝日新聞の「朝日歌壇」、選者は茂吉の弟子の結城哀草果選に選ばれている。茂吉を追悼する歌も選ばれているから、60年も前のことだ。

 ストリップ劇場で来し夜の街に透きとほる靴下をさげし店あり

 その頃、ぼくは浅草にあるストリップ劇場に足しげく通いつめていた。恋人がいなくてもやもやしていた時代だ。

 今どきの人は知らないだろうが、女性がはくナイロンの靴下が洋品店の店頭に現れ、丸い物干しにとめられて、包装されずに何足もぶら下げられているのが、なんともなまめかしく見えた。

 ぼくはこの時代のあと、現実に恋人ができてしまい、恋に狂ってしまったので、妄想して短歌を作ることもなくなり、あっさりと短歌をやめてしまった。

 最近、短歌のことが気になりはじめたときに、毎日新聞に大辻隆弘さんという方が「短歌月評」というコーナーに「規範の再確認」というタイトルで書かれているのに目がとまった。

「近代短歌の選歌集が二冊、新書として発行された。

 永田和宏著『近代秀歌』(岩波新書)と、岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘選『新・百人一首』(文春新書)である。

 二冊に共通するのは、明治以降に作られた短歌の規範を確認しようとする明確な意志である。

 ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも  斎藤茂吉

 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  北原白秋

 やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに  石川啄木

 二冊に共通して選ばれたこれらの歌は、いやしくも短歌に携わる者なら、誰もが知っておかねばならない遺産であろう。

 一九九○年以降、短歌会は規範を失った。「なんでもあり」「やった者勝ち」という社会の風潮は短歌の世界にも流入し、対話の基盤となるべき常識は見えがたくなった(後略)」

 スポーツでもルールがあり、それを守って戦うから面白いのだ。短歌も5・7・5・7・7のルールの中で表現することが大事で、「なんでもあり」という表現法は短歌ではない。

 万葉の時代から、短歌はそのルールを守って、多くの人が作ってきたのだから、大辻隆弘さんの言われるとおりだ。

 そのルールを守らない作品は、短詩と言うべきだろう。それにしても歩きながら、携帯電話を見ているような人には、短歌や、俳句は作れまい。他人の行動を観察し、あらゆるものを心のアンテナをはって見ていなければ茂吉のような短歌は作れないということだ。

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