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2013年4月 8日 (月)

美輪明宏さんの言葉は重い!

 平成元年9月1日発行の200号、この時、記念特大号とした。ぼくは「編集室から」にこんなことを書いている。

「尊敬する美輪明宏さんが、200号に寄せて原稿を書いてくれました。パルコ劇場でのリサイタルのあと、おからだの調子が悪いようで、それでも、僕のお願いに一生懸命書いてくれたのです。

『薔薇族』を創刊したばかりの頃、紫色のロールスロイスに乗って、薄汚い第二書房を訪れて、創刊号を買ってくれました。

 丁度、僕は留守でしたが、汚い部屋に上がってくれて、親父や、おふくろと気さくに話しこんで帰られたそうです。

 あとでおふくろから、その話を聞いてうれしかったのを覚えています。それから美輪さんは、新宿厚生年金会館のとなりのQフラットビルの2階に『巴里』というクラブを出されました。

 ピンク色のきらめくような店でした。そのあと刺激されて、僕も談話室『祭』を『巴里』の前に出したのでした。

 美輪さんとの友情は今も続いていて、リサイタルもいつも聞きにいき、『薔薇族』と大書した薔薇の花かごを贈っていますが、別になんとも思わない美輪さんはたいしたものです。」

 この頃の美輪さんは、体調がすぐれなかったようだ。リサイタルで一曲歌い終えると、後ろをむいて、せきをしていて痛々しかった。

 それが昨年の大晦日のNHK紅白歌合戦に最年長で出演して、「ヨイトマケの歌」を熱唱し、他の歌手たちを圧倒してしまった。その存在感は見事だった。

 美輪さん、ますますお元気で、リサイタルも、演劇もチケットは完売というからすごい。あの「ヨイトマケの歌」が、多くの人の心を感動させたからに違いない。

 200号に寄せてくれた、美輪さんの「自殺した友よ いま一緒に乾杯しよう」の文章を読めば、「隠花植物」と世間の人から思われ、自分たちもそう思っていた時代を乗りこえてこられた先駆者としての美輪さんを誇りに思うべきだろう。

「そのころ「ゲイバー」(という言葉さえなかった)と言えば、「ブランスヰック」と、神田(の前は日本橋)の「シレー」と上野の「市蝶」と新宿の「夜曲」くらいのもので、その後に新宿に「イプセン」新橋に「やなぎ」がやっとできた時代だった。

 だから、だいたいどの店の客も「隠れ切支丹」のように、ソソクサと息を殺して入り、出るときもボーイが表を確かめて、「今、いいですよ」と告げてから、客がサッと飛び出すという奇妙な光景がよく見られたものである。

 私は最初、「これはきっと犯罪者かなにかに違いない」と思っていたのだが、そのうちにそうではないことがだんだんとわかってきた。それはただ、世間体を気にしてのことだった。

事実、そのころは「男色」が会社にバレたら、たとえ有能であっても、即刻クビだった。今のゲイバーの状態からみれば隔世の感がある。

 ハッテン場も少なく、日比谷公園か、日活名画座(現在、新宿丸井が建っている場所にあった)くらいである。そのような数少ない場所で「隠花植物」さながら密やかに「愛」を探し求めて生息していたわけだが、私はそれをみていて「これではならない」と思ったのである。人間が人間を求め愛しているだけのことだ。愛の対象が、男であろうと女であろうと、人が人を愛するという図式に変わりはないのである。なにをためらう理由があろうかと思ったのだ。」

 美輪さんは、「週刊文春」「週刊新潮」ではない、「アサヒ芸能」の記者に初めて「私は男性が好きです」と。美輪さんの言葉をかみしめてほしい。

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コメント

初めてコメント致します。
美輪さんを私も好きで、紅白での『ヨイトマケの唄』、私も酔いしれました。あれがプロの歌であり、歌い手だよと頷きながら聞き惚れていました。

これから先生のブログを購読致します。私よりも一回りも二回りも上のみなさんが、どのようにゲイとして時代を生き抜いてきたか、とても興味があります。そこには、きっと若い世代が教えられる部分が多いに違いないと。

ですので、これから勉強させて頂きます。よろしくお願いいたします。

投稿: | 2013年4月10日 (水) 14時18分

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