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2013年6月24日 (月)

ぼくの青春を乗せて走ってくれたラビット!

 ぼくの青春が目の前に。1960年ごろ、東京タワーが完成した年だ。半世紀も前に乗り回していた、富士重工製作のスクーター、ラビットがまだ現役で走っているなんて。

 大分痛んではいるが、まだ乗っている人がいるらしい。代沢小学校の裏手の歩道上に、ときどき置かれている。座席がボロボロに破れてしまっているのか、ビニールがまきつけられていて、もはや骨董品と言っていいだろう。

 当時でも10何万かして高かったので、親父がなかなか買ってくれなかった。

 昭和20年代は、取次店(本の問屋)から注文がくると、風呂敷包みをかついで、都電で渋谷から須田町行に乗って、神田にある取次店まで運んでいた。角川書店の先代の創業者も注文は同じように風呂敷包みをかついで届けていたそうだ。

 そのうち自転車を購入して、荷台に箱をつけて注文の本を運び、一時間以上かかったが、若かったからできた。

 下北沢北口の鳥羽屋書店の親父さんも自転車で、仕入れに神田村に出かけていたので、よく出会った。

 そのうちスクーターの運転免許を取得して、スクーターでの神田通いが始まった。当時は車道にレールがひかれ、都電が走っていたから、雨が降り出すとすべってころびそうになったものだ。

 当時は車も少なかったし、どこに駐めても駐車違反にされることもない。それにヘルメットなんてかぶる法律もなかった。

 護国寺に向かう道路の左側には、講談社のビルがあり、その並びにキングレコードの社屋もあった。駒大時代の友人、長田暁二君がディレクターをしていたので、なんの前ぶれもなくよく立ち寄った。

 文芸部のロビーには専属の歌手や、作曲家、作詞家が雑談していて、いろんな人に出会うことができた。長田君はいつもレコードをどかっと持たせてくれた。玄関に守衛なんていなかったから自由に入ることが出来た、いい時代だった。

 先妻のミカが世田谷区立の松沢中学の体育の教師になってからは、桜上水にあった校舎までよく送って行った。

 当時は座席にまたがって座ることなどしないで、横座りだが、よくぞ事故など起こさなかったものだ。

 冬の寒いときは、ぼくは皮ジャンを来ていたから寒くはなかったが、スカート姿で足がむき出しのミカは寒かったようだ。

 スクーターも何台もかえたが、この写真のスクーターは年代が新しいものだ。そのうちミカは自動車の免許をとって、マツダの軽自動車に乗るようになっていた。ぼくは相変わらずスクーター。後ろに乗せる女性もまだ当時、19歳だった東京女子医大の心臓病棟の看護婦さんに変わっていた。看護婦さんって、勤務時間が不規則なので、彼氏をみつけにくかったようだ。携帯電話なんてなかった時代、どうやって看護婦さんと連絡をとっていたのか、忘れてしまったが、ベッドで寝ている妹が、橋渡しをしてくれたのだろう。

 人のいないところをえらんで、スクーターを走らせていたが、上野にもよく行った。ミカの方も、いすずの真っ赤なスポーツカーになり、助手席には松沢中学の国語の教師が乗っていた。

 新宿に行ってみたいという妹をスクーターに乗せて行ったこともあった。病院にも守衛なんていなかったからできたことだ。

 看護婦さんと、ミカが新宿のカフエで対決しているところへ、かけつけたことがあった。看護婦さんは、あっさりと身をひいてくれた。ミカがその後、妊娠してお腹が大きくなってしまったので、あわててぼくは免許をとった。ラビットは楽しい、苦い思いを乗せて走ってくれた忘れられないスクーターだった。

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