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2013年7月

2013年7月29日 (月)

日本人なのになんで外来語を使うの?

 ぼくが世田谷学園に入学したのは、太平洋戦争敗戦の前の年の昭和19年のことだ。すでに敗戦の色濃く、連日のようにアメリカのB29の空襲で、勉強どころではなかった。

 ぼくはまったく英語が苦手だ。基礎を教わる段階で、勉強できなかったこともある。英語の時間に、誰かが、「敵国の言葉を勉強する必要があるのか」と、英語の教師の中島先生に質問したことがあった。

 中島先生って温厚な方だったが、烈火のごとく怒って、「こういう時代だからこそ、英語は必要なんだ」と、全員が平手打ちをくらってしまった。

 もっと英語を勉強しておけばよかったと思うものの、そのまま大学に入ってしまった。英語だけできないわけでなく、数学もまったくできない。国語だけはどうやらというわけで国文科に入ったが、勉強嫌いなぼくは、万葉集も、源氏物語も読まずに終わってしまった。

 最近、あっちを見ても、こっちを見ても横文字だらけ。デザイン的にかっこよく見えるからか。政治家の言葉の中にも、新聞、テレビもやたらと英語が使われる。なんとなくは分かるが、分からないときは、次男の嫁が英文科出身なので聞いている。

 そんなときに「外国語多く苦痛、NHKを提訴」という見出しの記事が、東京新聞に載った。

「テレビ番組で理解できない外国語が多く精神的苦痛を負ったとして、岐阜県可児市の元公務員で、「日本語を大切にする会」世話員の高橋鵬二さん(71)が、25日、NHKに対し百四十一万円の慰謝料を求める訴えを名古屋地裁に起こした。

 訴状によると、高橋さんはNHKと受信契約を結び、番組を見ているが、必要がない場合でも外国語が乱用されていると主張。

 例として「リスク」「ケア」「トラブル」「コンシェルジュ」などを挙げ、「不必要な精神的苦痛を与える」として、民法七○九条の不法行為に当たるとしている。

 高橋さんは「若い世代は分かるかもしれないが、年配者は、アスリートとか、コンプライアンスとか言われても分からない。質問状を出したが、回答がないので提訴に踏み切った」と説明した。

 原告代理人の宮田陸奥男弁護士は、「外国語の乱用は全ての報道機関に言えることだが、NHKは特に公共性が強く影響力がある。日本文化の在り方を社会に広く考えてほしいという趣旨もある」と述べた。(後略)」

 高橋さんの言うとおりだ。よくぞ問題を提起してくれた。日本人なのに、日本語を大事にしないなんてとんでもないことだ。

 英語を理解できない高齢者に、日本語の意味を付け加えてもらいたいものだ。

 ぼくのブログに書いている文章には、日本語のようになってしまっている外国語は使っているが、意味が分からない外国語は使っていない。第一「ブログ」ってなんのことか分からなかった。息子の嫁に聞いたら「日記」という意味のようだ。

 ぼくのブログに書いていることは、「日記」ではない。エッセイ(随筆・随想)というべきなのか。こんな見当違いなことを書き続けていいのだろうか。

 こんなに横文字が多いということは、日本人は欧米に対する劣等感があるからか、まだアメリカに占領されている意識があるからだろうか。とにかく必要以上に外来語が多すぎる。

 日本人なのだから、日本語ですべてのことを表現すべきなのではなかろうか。

 毎日のように使っている「パスモ」「コンビニ」なんて、意味が分からない。若い人、だれか教えて! 若いときに英語を勉強しておくべきだった。年は取りたくないものだ。

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2013年7月27日 (土)

生本まぐろの頭をゲット!

 わが家では「毎日新聞」と「東京新聞」を購読している。新聞の折り込みチラシは、朝日と読売にはドサッと入っているが、毎日、東京には気の毒なくらい、チラシは入っていない。

 下北沢のスーパーに行くには、20分も歩かなければならないが、渋谷だと「淡島」の停留所まで歩いて3,4分、東急バスは3分おきにやってくる。バスに乗って10分ほどで終点の渋谷に着いてしまう。

 バスを降りると目の前のビルが「東急プラザ」その地下1階に「九鮮渋谷市場」がある。身体障害者手帳のおかげで、バスの料金も子ども料金の110円だ。

 80歳を過ぎたぼくには、性欲は無縁のものになっている。残る楽しみは食欲だけだ。ありがたいことに歯は丈夫で、ほとんどが自分のものなので、硬いものでも食べることができる。

 朝食は野菜を多く食べ、納豆、はんぺん、ちくわ、豆腐など、自分で買い求めて、ひとりで食べている。

 5月18日(火)の朝刊に珍しく「九鮮渋谷市場」のチラシが入って、「魚耕」魚屋さんが、15時から「生本まぐろ解体販売」をやるとあった。

 まぐろは大好きなので、早目に「東急プラザ」に行ってみた。渋谷はめまぐるしいぐらいに変わって、駅の反対側に「ヒカリエ」なんてでっかいビルが建った。一度だけ女房と訪れてみたが、若い人向きで年寄りの行くところではない。地下に食品売場もあるそうだが入ったことはない。

「東横デパート」の地下ののれん街は、すっかりリフォムされて広くなり、あらゆる食品が売られている。駅の真下ということもあり、新しもの好きが多いのか、のれん街に客をとられて、「東急プラザ」の地下の食品売場のお客は目に見えて減っている。

 この日もまぐろの解体ショウがあるというのに、大きなマグロが置かれている前に立つお客は20人ほどか。チラシを見たお客がもっと押しかけてもいいはずなのに。

 ぼくはこの食品売場で必ず買うものがある。それは「ちりめんじゃこ」で、年配のおばさんがたるの中に入った「ちりめんじゃこ」を一合ますに山盛りにして売っている。

 一合ますにいっぱいで、600円。ぼくは大根おろしの上にのせて、しょう油をかけて毎朝食べている。おばさんとも顔なじみになっているので、いつもおまけをしてくれる。

「ちりめんじゃこ」って、「核酸」が多くふくまれていて、身体にいいそうだ。「魚耕」のお魚は新鮮で安い。「東横のれん街」より、2、3割は安いのでは。

 以前、名物のおやじさんがいて、その呼び声は、売場中にひびき渡っていたが、身体を悪くしてやめられてしまったそうだ。

 今のおやじさんも、ぼくの顔をおぼえてくれているのはうれしい。

 まぐろの解体がはじまった。まず頭をきり落とす。それを頭上にさしあげて、「ほしい人は!」というが、グロテスクなので手をあげる人はいない。

 ぼくは以前も頭を買ったことがあって、大トロよりもおいしかったので、また手をあげて、千円で買うことができた。

 まぐろの目方を当てた人には、無料でひとさおもらえたが、ぼくは58キロと書いたが、62キロだそうで、二人の人が当ててしまった。

「東横のれん街」は、いわゆる名店が出店しているのだから、値段が高いのは当然だ。ぼくは庶民的な「東急プラザ」の地下の食品売場を応援している。肉でも、野菜でも安いから、渋谷へ出たら「東急プラザ」の地下の食品売場へ行こう!

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第21回「伊藤文学と語る会」

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7月27日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年7月22日 (月)

「コニカ」のCM撮影に!

 先妻の舞踊家、今は亡き伊藤ミカは、亡くなる前の年、1969年(昭和44年)が、一番活躍していた年だ。

 カメラの大手メーカーの「コニカ」に、CMのモデルとして抜擢されるまでになっていた。

 ミカが踊っている姿をカメラマンが激写しているところをテレビカメラが撮影する。なにしろ44年も前のことだから、どこで撮影したのだか、有名なカメラマンのお名前をまったく覚えていない。ぼくも現場に立ちあったことは間違いないのだが。

 CMの撮影って大変なんだなということは、多くのスタッフの人たちが参加していて動き回っていたことから覚えている。

 ミカの写真は多く残っているが、動いている映像はまったく残っていない。このCMもカラーでなくて、モノクロだったのかもしれない。プロレスが全盛時代だったが、その時間に「コニカ」のCMが入っていた。

 そのときの写真を6枚ほど見つけだしたので、ブログに残しておきたいと思う。ミカが踊っているバックに、多くの照明器具が置かれているが、カメラのCMだけに、光の当て具合に神経を使っているのだろう。

 ミカが着ている衣裳は、なんと新宿のキャバレーのホステスをやっていたときにぼくと知り合った女性が仕立ててくれたものだ。

 離婚をしてしまって、幼児を抱えてキャバレーで働いていた人だ。洋裁学校を出ていて、仕立はお手のものだった。

 別に美人でもないし、セクシーでもない、どこにでもいるような女性だが、気立ての良い人だった。家も近いのでときどき会っていた。

 子どもを連れてくることもあった。お名前も忘れてしまったが、衣裳を作ってほしいとお願いしたら、気安く作ってくれたのが、この衣裳だ。

 今の時代、CMに起用されるダンサーはいくらでもいるが、44年前、舞踊家がCMに起用されたのは、ミカが最初かもしれない。

 このCM、ミカが事故死してからも、しばらくの間、放映されていたので、ちょっと見ているのはつらかった。

 写真で見る限りでも、躍動感がにじみでてくるようだ。33歳での事故死は、あまりにも早すぎた。せめて、あと4、5年生きていれば、もっといろんなことにチャレンジしていただろうに……。

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第21回「伊藤文学と語る会」

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7月27日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

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2013年7月20日 (土)

かわいい看板娘に誘われて

 ぼくは一日に一度は下北沢の街に出ることにしている。家にばかりいると足が弱ってしまうからだ。

 今住んでいるマンションは、代沢3丁目で阿川さんという、江戸時代から続いている名主が建てたもので、その赤門と称する立派な門は、文化財になっている。

 渋谷に出るには、淡島の停留所が歩いて3、4分、東急バスに乗って買い物に出ることが多くなってしまった。下北沢の街には歩いて25分もかかるが、足は下北沢の街に自然に向かってしまう。

 南口の代沢郵便局、先代の局長さんは、世田谷学園の一級下の後輩、お兄さんは駒沢大学の一級上の先輩だった。

「伊藤文学と語る会」で知り合った、着物を着た女性と、渋谷のカフエでおしゃべりしたが、なんとぼくの祖父、廃娼運動で活躍した伊藤富士雄のことをブログで読んで知っていた人だ。

 和紙の名刺には、「吉原遊郭・花魁の歴史・真実を伝える会・薄雲会・会長・橘京」とあるではないか。こんな方と出会えるなんて、ネットってありがたいものだ。

 もちろん、話ははずんでしまったが、着物姿の女性と向きあって、おしゃべりすることなんて、初体験なので、緊張してリラックスした自然な姿を撮れなかった。写真を引き伸ばして、手紙と共に封筒に入れて、切手を90円分貼ったが、不安だったので郵便局の窓口で重さを量ってもらった。

 局長の息子さんが窓口にいたので、お父さんのことを聞いたら、4月から東京女子医大病院に入院していて、食事がとれずやせてしまっているそうだ。

 ぼくと同じ昭和7年生まれとか。だんだん顔見知りの年寄りの知人がいなくなってしまう。
 カフエ「つゆ艸」に寄ろうと思ったら、12時を過ぎているのに、まだ扉がしまったままだ。

 いつか女房と二人で住んでいた下北沢マンション、芝信用金庫にとられてしまったが、その前にガラスばりの建物ができた。誰も借りる人がいなくて、長いこと空いたままだったが、やっと地下はライブハウス、二階は「art Reg cafe」になっている。

 目のくりっとした、かわいい女の子がチラシをまいていたので入ってみた。茶沢通りに面していて、ぼくの住んでいた下北沢マンションが目の前、「代沢5丁目」の停留所の真ん前だ。

 500円ランチを売物にしていて、舞台もあり、演奏会もできるようになっている。お客も100人は入れそうだ。

 パーティ好きなぼくは、また、むらむらと何かパーティを開こうと考えだしていた。下北沢には100人からの人を収容できるお店は少ない。ここなら駅から5分ぐらいのところだから集まりやすいだろう。

 会場費はとらなくて、10万円を最低保証してくれればということなので、そのうちパーティを企画してみようと思う。

 古着の「シカゴ」にも寄ってみて、アロハシャツを探してみたが、ハワイで作られたものは、みんな4、5千円で手が出ない。千円台、二千円台のものは韓国製、中国製のものばかり。これではユニクロで買った方がいいのかなと……。

 昨夜は息子夫婦と孫は、神宮球場に野球見物に行ってしまった。女房と珍しく北口駅前の居酒屋「大庄水産」で食事をすることに。この間、世田谷学園の同期会もここでやったので、店長も若い女の子も顔を覚えていてくれて、満席だったのに二階の個室を用意してくれた。ぼくはお茶だけなのに、女房は生ビールを3杯。ぼくはそのぶん腹いっぱい食べました。

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第21回「伊藤文学と語る会」

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7月27日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

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2013年7月15日 (月)

投げ込み寺の住職から聞いた悲惨な話

 地下鉄「三輪駅」のすぐ近くの「浄閑寺」は、徳川時代からの吉原遊郭の娼妓の亡骸を葬った寺だ。そこの住職から『ときの声』の著者、吉屋信子さんは、悲惨な話を聞き出している。

 住職も亡くなられていると思うので、この話はどうしても残しておきたいものだ。

「遊女は外へ自由に出ることかなわず、主人のきびしい監視下に全く自由は束縛されていた。しかし自由は拘束され、主人や客から商品視されながらも、太夫とか全盛の遊女たちは、絢爛豪華な生活を送っていた。ただし、これは特殊な例であり、大半はみじめな毎日を過ごしていたのである。

 遊女が死ぬと、その亡骸は三輪浄閑寺で無縁仏として葬るのが普通であった。そのため浄閑寺には(投げ込み寺)の異名があったが、そこの過去帳を見ると二十代で死亡した遊女が非常に多い。二十代の若さで病死した遊女たちが多かったというのは、その生活が悲惨であったことを物語っている。満足できぬ粗食で酷使されていたからこそ、若くして病没の傾向がみられた。

「なにしろ地震も火事も娼妓の逃亡をふせぐために大門の木戸を閉めてとじ込めたのでしたから」

 私刑類纂(るいさん・宮武骸骨編)のなかに、遊女二人が腰巻ひとつの裸体で髪をふりみだし、後手になわでしばり上げられて、天井のはりに釣り上げられ、やりてばばあの長きせるの折檻を受ける凄惨な絵図がある。

 それを裏書するのが(世事見聞録)の一説――(遊女出奔せんと欲して窓を破り、屋根を伝い土壕をもぐり、堤を越え、堀をわたりなどするとて、訳もなく引き戻され、このときの仕置きは別して強勢なることにて)で想像してただ慄然。

「病気をしても回復の見込みが薄く、もう商売に使えぬとなると、そりゃひどいもので、薬どころか食事もやらんで、なかにはまだ息のあるうちに寺へ投げ込みに運んだ話もありますからな。

 昔は安女郎は米だわらに包んで投げ込んだといいますが、私の子供のころは、粗末なたるのような棺に入れられて、夜になるとそっと運ばれてきたものです。昼のうちに寺男が掘っておいた穴へ埋めて、土をかぶせるだけの土まんじゅうがあちこちにできましてね。
 あとで骨になったのをあちこち寺で掘り出して、無縁仏の供養塔の下に集めて経をあげたものです。

 ここの墓地に(新吉原総霊塔)を建立。その下に無縁仏の娼妓の遺骨が約二万五千葬ってあります。」

 ぼくの祖父、伊藤富士雄が、吉原の娼妓の生活と、刑務所に収容されている囚人たちと比較していたが、囚人たちは衣服は支給され、粗末とはいっても三度の食事も与えられ、夜は決まった時間にねることができる。

 それに比べたら娼妓たちの生活は悲惨と言わずにはいられない。囚人たちは病気になれば治療を受けられるが、娼妓たちはそれも許されない。

 新吉原の初期の遊女の揚代は上級太夫格が銀で七十四匁(一両は銀六十三匁、金四分)だから一両一分は消費する。その金額は当時の米価二石一斗に当る。等級下った遊女も金一分であった。

 業者はもうかったが、その生きた商品の女を仕入れる身代金は、年季十年間、極上が百両の相場で、多くはそれ以下に値切られ、女どれいはいっさいの人権をはくだつされる。その金額の大半は斡旋人の手数料と抱主の支度金にとられて、娘を売った親元へ入る金はごく僅かだったとは。

 なんとも哀れな話ではないか。

第21回「伊藤文学と語る会」

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7月27日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
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2013年7月13日 (土)

「売春は下水道のごとく必要」とは。

 作家の吉屋信子さんが亡くなったのは、昭和48年(1973年)享年77歳だということをあとで知った。この年はぼくの妹、紀子が、心臓手術の甲斐なく、32歳で亡くなった年でもある。もう40年も前のことだから、吉屋信子さんのことを知っている人は少ないだろう。

 大阪市長の橋本さんの慰安婦の問題発言で、橋本さんを非難する人が多かったが、『ときの声』を読んで、よく考えてほしいものだ。

 吉屋さん、今生きておられたら、今の世の中を嘆かれるに違いない。

 戦時中の慰安婦についての資料などいっさい公表されるわけがない。戦地の報道記者も、こと慰安婦についての原稿は書けなかった。

 吉屋さんは西口克己著の『廓』から引用されているが、驚くべきことが書かれている。

「慰安婦たちを戦地に伴う引率者の男たちは将校待遇の軍要員だったとある。

 引率される彼女たちは第一に(お国のため)と説かれたろうし、また戦地へ行ってからの生活はむしろ甘い気楽なものと嘘も言われていた。

 このお国のための慰安婦挺身隊に応じたのは遊廓の娼妓、或いは娼妓上がり、安芸妓、身を崩した女給たちで編成されていた。その引率者は一人で24、5人を抱える。女一人につき平均五千円を前借りとして渡す。ざっと十二万円の資本でそれだけの女が抱えられる。 現地での収入は女と半分けという契約だったが、内地では妓楼の経営費のほかに税金がかかるが、その恐ろしい税務署も戦地へは追いかけてこない。

 抱主の負担になる女たちのあちらでの食費も女子挺身隊とあらば軍要員用の缶詰類がふんだんに配給されるから食費も無用である。

 引率者すなわち抱主は、こうした好条件で勇躍前線へ出かけたのだった。

 慰安部隊は、軍輸送船で敵の潜水艦の出没する危険水域を越えて、トラック諸島の一つの熱砂の上に上陸する。

 さすがの彼女たちも内地では想像もつかない壮絶な売春のいとなみが日夜続いた。

 翌年、アメリカ空軍がマーシャル群島に大空襲を行い、上陸占領した。

 日に日に切迫するこの情勢下に、将校用の愛妓と、かねて主計将校たちを自家薬籠中のものとしていた抱主たちは、輸送船や空母艦の船底にもぐりこんで送還された。あとに残されたのは、哀れな一部の慰安婦たちだった。抱主たちは稼がせた女たちを置きすてて、もうけた金だけをふところにしてみな逃げ去った。

 やがて島の慰安所は空襲で次から次へと炎上する。残された慰安婦たちは、密林のなかの崖を利用した洞穴のような急造の防空壕へ押し入れられる。一少尉は部下に命じた。
「黙って始末するんだ。あいつらは素人娘でなくて商売女だ。敵が上陸してきたら何をするか知れたもんじゃない。国辱だ。わかったな」

 女たちはみんな銃殺されてしまった。なんとも悲惨な話ではないか。韓国の慰安婦たちもどんなひどいめに会っていたことか。戦争は人間を異常にする。おそろしいことだ。

 過去数百年の1589年(天正17年)豊臣秀吉時代の大阪で「柳町遊廓」を日本の集娼制度の免許地に創始して以来の公認売春は、およそ四世紀にわたる「婦女売買」によって成立したこの国の「公娼制度」、戦後は赤線によって継続されたのが、昭和33年の売春禁止法によってやっと絶滅した。

 それは自らの手で成し遂げたのではなく、占領軍の命令によってとは。憲法もそうだが、真剣に考えなければならない問題ではなかろうか。

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救世軍の慈善活動

第21回「伊藤文学と語る会」

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7月27日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
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2013年7月 8日 (月)

吉屋信子の『ときの声』

 昭和39年11月6日から昭和40年4月29日(1964年~1965年)に「読売新聞に連載された、作家、吉屋信子さんのノンフィクション小説といえる「ときの声」は、救世軍の広報誌をタイトルにしたものだ。

 1964年というと、東京オリンピックが開催された年で、今から49年も前のことだ。

 ネットを見れないぼくは、吉屋信子さんがいつ生まれて、いつ亡くなったのかを調べようがないが、姉が読んでいた少女雑誌を読んだ記憶がある。

 代表作は「花物語」で、女性同士の淡い恋物語が描かれていたのでは。第二書房から刊行した内藤ルネさんと本間真夫さん(ペンネーム・藤田竜)が企画編集した『薔薇の小部屋』1978年秋の号で、「特集・おもいでの少女小説」の中に、田辺聖子さんが「少女小説に夢中だったころ」に、吉屋信子さんが救世軍の廃娼運動に情熱を燃やして書いた小説の答えともなることが書かれていた。

「吉屋信子は、上流社会の令嬢の生活も書くが、ごく庶民の貧しい家の少女達も主人公にとりあげた。どんな境遇の少女たちにも共通しているのは、邪心のない、可憐で、しかも、あたたかな、少女らしいはにかみを失わない性格である。

 有為転変の運命に翻弄されながら、少女たちはやがて周囲の人の光となり、慰めとなる存在になってゆく。

 私は吉屋信子の少女小説によって、少女の誇り、女性の尊厳を教えられた気がする。吉屋さんは、清潔なキリスト的理念を背骨とし、古い戦前の日本の男尊女卑思想に敢然とたちむかった人だ。だから少女小説にも、女であることの誇り、自負、自重を志たかくうたいあげていた。それは男を下にさげすんでみるものでなく、どこまでもやさしく、心広く思いやりゆたかな「永遠の女性」的イメージをそなえたものなのであった。私はそのヒロインたちに魅せられた。」

 吉屋信子さんは、この小説の終わりにこんなことを記している。「この(ときの声)を書くについては、さまざまの資料のなかに、筆者は埋もれて、たくさんの人に会って話を聞かせていただいた。そのなかでいちばん求めて、たやすく得られなかったのは、元の(遊廓業者)に会って話してもらうことだった。」と。

 ひとつの小説を書きあげるのに、作家というものは、多くの資料をみつけだし、古書店に通い、吉原の文献を探し、大変な努力をして書きあげる。ぼくの祖父、伊藤冨士雄も救世軍の廃娼運動のスターとしてその中に書き残されていることはありがたいことだ。

 祖父が直接話したことを書き記した『娼妓解放哀話』(沖野岩三郎著、中央公論社刊行)ぼくはこの本をネタ本として、吉原のことをブログで書いてきたが、吉屋信子さんも、この本を参考にされている。この本は昭和5年に刊行された本で、すべての漢字にルビがふられているが、昔の人が書かれた文章なので読みづらい。

 吉屋さんの『ときの声』は、読売新聞に連載されたものだから、誰にでも分かるように書かれているというものの、読みきるのは大変だ。

 興味をもった方は、おそらく文庫にもなっていると思うので読んでもらいたいものだ。
 この小説の書きだしに、吉屋さんは、こんなことを書いている。

「地下鉄、三輪駅にほど近い古びた門の塀の脇に白ペンキの塗り板が掲げられ(慈光学園)と記している。

 この寺が浄閑寺で、徳川時代からの吉原遊廓の娼妓のなきがらを葬ったところで、遊女の悲惨な生活に触れた部分に記載される寺である。」

 ぼくは浄閑寺を訪ねたことがないが、元気なうちにお参りしたいものだ。

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救世軍の広報誌「ときのこえ」

第21回「伊藤文学と語る会」

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7月27日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

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2013年7月 6日 (土)

松岡正剛さんって、すごい人だ!

 平成18年1月10日(7年前)に、幻冬舎アウトロー文庫として、『薔薇族』編集長(571円)が刊行された折に、松岡正剛さんが、ブログで長文の紹介記事を書いてくれ、おほめの言葉をいただいた。

 ぼくはネットを見れないので、そのことをまったく知らなかったが、猪口コルネ君が、ぼくのブログを更新してくれるようになって、紙焼にして見せてくれた。読んでうれしかったことがあった。

 その松岡正剛さんと、34年も前に接点があったことなど、まったく忘れていた。あらためて松岡正剛さんに感謝したいものだ。

「だけどぼくはね、バイセクシュアルというのはあまり信じない。そんなの信じていたらバカらしくて、雑誌出していないですよ。

 本当に男が好きで、世間の偏見に苦しんだ、女が好きな人から虐げられているから、一生懸命やっている。編集部を訪ねてくる人は、たいがい自分はバイセクシュアルだと言うけれど、それは見栄ですね。一時的には、どっちでもという人がいるかもしれないが、人間どっちかに必ずなると思う。

 内藤ルネさんと、本間真夫さんが編集して、少女雑誌『薔薇の小部屋』を出したことがある。少女雑誌を読んでいる人って、意外と男が多い。ホモの人は男であって、女性的な繊細さを持っているから、美意識が高い。芸術家だからホモというより、ホモの人が芸術家に向いている。

 ルネさんのマンションを訪ねたときに、江戸時代に造られた、そばちょこでお茶を出されて、これはすばらしいと思ったときから、ぼくは古いもののとりこになってしまった。

 どんな偉い人でも、人に言えない何かしら悩みを持っている。ある大会社の社長さんを訪ねたとき、部屋に本がいっぱい並んでいて、その裏側に『薔薇族』が、家人にみつからないように隠してあるのを見たときに、この人もかとびっくりしたことがあった。その社長は、偶然、新宿の路上で出会った青年を会社に入れて、責任ある仕事につけているということだ。

 その青年はホモでもないのに面倒をみて、女性と結婚までさせ、大事にしている。普通では考えられないような、つながりもあるようだ。

 戦時中、ホモの人の将軍がいて、部下の参謀に自分の好みの男を置いたという話も聞いたことがある。別に一緒に寝なくても、一種の欲望のはけ口として、愛情で教育するような、相手のためなら命を投げ出してもという、同士愛的なものもあった。

 ヤクザの人の世界とか、運動部のシゴキにも多分に、そういうニュアンスがあるのかもしれない。

 ぼくは雑誌を出しても、動物的欲望を満足させるためっていうのはいやだ。読者の人たちも友情以上の、一生つき合えるような関係になってほしいと思う。」

 34年前は、「ゲイ」という呼び名はなく「ホモ」と呼んでいたが、今、読んでみると違和感を感じる。

 寺山修司君を見つけだして、世に出した推理小説家でもあり、『短歌研究』の編集長だった中井英夫さんも「堕天使としての同性愛者・流刑地にて」という一文をこの雑誌に寄稿している。

 その中に『薔薇族』に載せていた、楯四郎さん(NHKのアナウンサーで、早大の国文科出身、多くの小説や、エッセイを残してくれた人)の小説を「舌を巻く構成力で、まさに男色文化は花盛り」と書いてくれている。楯四郎さんの小説集は、単行本にもしたが、アメリカでも翻訳された。プロの作家にほめられて、今は亡き楯さんもよろこんでいるに違いない。
 34年も前に、こんな雑誌を出した松岡正剛さんってすごい人だ。

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第21回「伊藤文学と語る会」

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7月27日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年7月 2日 (火)

第21回「伊藤文学と語る会」

来る7月27日(土)、下北沢のカフエ「占茶」にて、第21回「伊藤文学と語る会」を開催致します。

日時・7月27日(土)午後12時~14時
場所・下北沢一番街、カフエ「占茶」
会費・各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階
電話・03ー3485ー8978

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2013年7月 1日 (月)

『薔薇族』を堂々と買うことが君の革命!

『遊ち組「ホモエロス」』という、1979年9月9日、工作社から発行された雑誌を見つけ出した。

 松岡正剛さんが構成している。今から34年も前のこと、ぼくが47歳のときだ。よくぞゲイの執筆者ばかりを集めたものだと感心させられる。やたらと気どった雑誌で、書いていることも、ぼくには難しい。

「十二菊華しゃべり噺」というコーナーにはおすぎとピーコ、東郷健、竹宮恵子などが執筆していて、その中に忘れてしまっていたが「ホモであることは、何でもない自然なことなんです。ホモ宣言は、見えない敵に対する革命ですね。」というタイトルで、ぼくも書いている。 

 今、読んでみても間違ったことは言っていないが、あまり進歩はみられない。

「『薔薇族』を出したのは、同性愛の美学とか、三島由紀夫が好きだからというんじゃない。ホモであることは、男が女を好きなのと同じで、何でもない自然のことなのに、世の中の人がとやかくいう。そういう偏見に憤りを感じたから出したのだ。ホモの人自身が後ろめたさを持っていて、ホモであることを隠そうとする。かなり有名な方でも、周囲の人は知っているのに、自分ではそうと知られたくないんですね。

 会社でうわさされて、いたたまれずに辞めてしまうとか、人知れずコンプレックスをもつとか、とにかくホモであることがマイナスのイメージなのだ。

 札幌まで2、3時間、汽車に乗って、買いに行ったという読者の学生がいた。しかも、変装までしてですよ。ぼくはね、明るいところで堂々と読めるような雑誌を作りたい。でなければ敗北だと思う。自分のお金で買うんだし、悪いことをしているわけじゃない。『薔薇族』を買うことが、ひとつの君自身の革命なんだと言いたい。一生、後ろめたい気持ちをもって終わったって、何も楽しいことはないのだから。

 ホモの世界の中で、お互いに悪く言い合うことがあるけれど、これはおかしいと思う。女装している人や、フケ専、外専の人のことを軽べつするものもいる。

 みんなそれぞれ好みがあるんだから、誰を好きになったってかまわないと思うけれど、狭い中でも偏見がある。誰かが認められると、みんなで引きずりおろそうとすることもある。まだ、敵が見えていないのかも。

 アメリカのように、官憲がホモを弾圧するとか、ホモだからクビになったとか、問題がはっきりしていれば、それに向かって闘えばいいけれど、日本ではそういう敵が見えない。だから何に向かって闘っていいのかわからない。

 偏見は見えない敵ですよ。それだけに難しい。ひとり、ひとり説得していくしかない。最初は、一、二年で世の中の偏見をなくすなんて思ったこともあったが、それは無理でした。このごろは、気長に一生かけてやろうと思っている。

 でも、世の中、少しずつ変わってきましたね。今の若い人たちは、ホモだからといって偏見はない。親に言ってしまう人も多くなってきた。

 日本はマスコミが発達しているから、ホモについての知識を一般の人に与えてしまえば、変な目で見られなくてすむ。女性は少女マンガの影響で、とくにその傾向がありますね。

 ホモの友だちがいたとしても、告白されても、自分の亭主がホモだといっても、そういう知識があるから驚かなくなっている。

 それと世の中、全体が女っぽくなってきていて、どこからどこまでがホモという、根拠があるわけじゃないから、男もいい、女もいいという中途半端な人も増えてきた。」

 長い文章なので、続きはこのあとで。

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