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2013年8月

2013年8月31日 (土)

『薔薇族』ってありがたい雑誌だった!

 一緒に生活を共にしている次男の息子、小学6年生の野球少年だ。最近、身長もぐんぐん伸びてきて、もう少しで抜かれてしまう。足はぼくより大きくなってしまっている。

 最近、風呂に入っても裸を見せなくなってきた。からだのどこかに変化が出てきたからだろう。声変わりもしてきている。

『薔薇族』の読者には、いろんなひとがいた。

 1980年の1月号に、小学校の校医さんをやっている方が、「小学生に見る性のめざめ」というタイトルで投稿されている。

「毎年のことながら、今年も5月に4日ばかりかけて、千名あまりの小学校児童の内科検診を行なった。大変だけど、無邪気な子供たちに会うのは楽しい。

 全学年を通じて、検診で最近目立つのは、子供のくせに肥満体のものがふえてきたことだ。約40名のクラスにたいてい二人ぐらいはいるだろうか。昔は小学生というと、スリムで外からあばらの数えられるようなのが普通だった。

 もうひとつ、小学生のからだで特徴的なことは、女子は5年生くらいから、男子は少し遅れて、6年生ぐらいから背がぐんぐん伸び始めることである。これは第二次発育期とも呼ばれる。同時に女の子では、医師の前に立つ彼女の仕草にはじらいの表情がみられるようになる。男の子ではP部のふくらみが、目立って大きくなり、鼻の下にはうっすらとひげがはえてくる。(中略)

 手許の資料をみると、陰毛の発生は早い子は10歳から、おそい子は15歳からと記載されている。

 だから男の子もやはり、6年生ごろから、裸を恥ずかしがるようになる。うちの子もそうだった。6年生の夏、身長が母親を抜いたころから、一人だけで風呂へ入るようになり、湯から上がっても、厳重にタオルを腰に巻きつけて「武装」していたことを思い出す。

 女の子では「初潮」というはっきりした兆しがあるため、学校によっては時期は必ずしも一定ではないが、「生理」についての話を養護教諭が聞かせているようである。

 私のとこの小学校では、5年生の6月ごろ毎年行なっている。しかし、男の子にはこれといってやられていないのではなかろうか。

 男の子に聞かすべきか否かは議論の分かれるところであろう。あるいは、これは家庭教育に属することであるかもしれない。

 けれども男の子にしても、急激な身長の伸びや、成熟の徴候に、幼いなりに大いに戸惑いを感じているのではなかろうか。

 最近、小学校では女の先生がふえて、男の先生に受け持たれることは、むしろ珍しくなってきているが、身長のうえで先生を凌駕するような男っぽくなった生徒の担任が、女教師では無理のような感じもする。

 やはりきびきびした男の先生に担任を持ってもらいたい。そして性についてもあらたまった話でなく、日常の学校生活の中で、それとなく自然な形で教えてもらいたいというのが、校医としてでなく、人の子の親としての偽らざる気持ちである。(神奈川県・マウンテン)」

 このお医者さん、少年愛の人でなかったようで、結婚されて子供さんもいる。それでいて『薔薇族』の読者、考えてみれば不思議な話だ。33年も前の話だから、子供たちの発育ももっと早くなっているかもしれない。

 ぼくの場合大学生になってからオナニーをおぼえたなんて、戦後とはいえ考えられないが、子供の頃にオナニーを覚えたのなら、『薔薇族』を出そうという発想は湧かなかったろう。

 離婚するとたいがい女性が子供を連れていく。父親のいない男の子、母親では男の子の生理を教えにくいのでは。それにしても『薔薇族』ってありがたい雑誌だった。

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19世紀初頭のヨーロッパの絵はがき

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2013年8月24日 (土)

なんでこんなことを知っているの?

『薔薇族』の1981年・6月号・No.101に、「第二書房の歴史」というタイトルで、驚くべき投書が載っていた。

「僕の大学での話をひとつお伝えしましょう。(都留市・T君からのものだ。小六の孫に調べてもらったら、山梨県の大月の近くの市のようだ)

 僕は「国語・国文学概論」という授業を受けていたのですが、その日は大正時代の佐藤春夫詩集や、堀口大学の訳で『月下の一群』を出版した第一書房の社長・長谷川巳之吉についての講義でした。(作家、松岡譲に関連してですが)教授が「現在、第二書房という出版社がありますが」と、言い出しました。

 僕は「ん、第二書房、どっかで聞いたような……あっ、そうだ」と、すぐにピーンと感じました。でも、教授が言っているのは、別の第二書房のことではないかと、考えてもみましたが、そんなことがあるわけはありません。

 そして、さらに教授は「伊藤祷一」(ぼくの父親。昭和4年から第一書房に入社。昭和19年、廃業するまでの15年間勤めていた)という人が、後に第一書房という社名を長谷川に無断で使い、長谷川は伊藤に抗議した。

 そして伊藤は、第一書房を第二書房と変えたのです」と話しました。当然ながら僕は「ん? え〜、やっぱり!」と思い、教授の話をいつになく、まじめに聞いたのです。

 しかし、まさか大学の授業で、『薔薇族』の発行所、第二書房の歴史を学ぶとは、考えてもみませんでした。

 やはり偉大な本を出版していると、出版社も偉大になるものですね。第二書房と伊藤一族ー尊敬しています。山梨県都留市・T」

 山梨の大学の学生さんだったのだろうか。

 第二書房は、戦後、昭和23年、父、祷一が株式会社として創立し、昭和37年1月に、なぜか『坂本繁二郎画談』を出版したときに「第一書房」の社名で出版した。

「なぜ、第二じゃいけないのですか?」と言われれば、第一にしたかったのだろう。

 長谷川巳之吉が、父に抗議したなんてことを知っていた教授がいたなんて、びっくりだ。

 父は生存中、よく「おれは新潟県人は嫌いだ」と、口にしていた。ぼくは新潟県の弥彦村の女性と再婚してしまったので、ちょっと気にしてはいたが、第一書房の社長の長谷川巳之吉さんのことを言っていたのかもしれない。長谷川さんは、確か新潟県の出雲崎の出身だ。

 九段の靖国神社に行く途中に、英国大使館があり、そこをもう少し進んだところに、第一書房のしゃれた社屋があった。父に連れられて行ったことがあったが、小学生のときだから、長谷川さんに会った記憶はない。

 河出書房新社から、2006年の8月に『美酒と革嚢—第一書房・長谷川巳之吉』という、定価5800円・438頁もの豪華本が、創業120周年記念出版として出版されている。著者は長谷川郁夫さんという方で、小沢書店の社長だった方だ。

 ぼくの父親が第一書房に15年も勤めていたから知っているものの、いくら西條八十や萩原朔太郎、佐藤春夫などの豪華本を出したり、戦時中、パール・バックの『大地』、ヒットラーの『わが闘争』、大川周明の『日本二千六百年史』を出した出版社といっても、よほどの古書好きでないと知らないだろう。

 父は15年勤続の記念に社長からもらった、大理石の佛像を残している。これが高価なものであれば、長谷川さんを尊敬するが、安物だったら、あまりいい人物ではなかったのではという、ぼくの勘が当たるかもしれない。

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佛像(天地22cm)

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『美酒と革嚢』(河出書房新社刊)
第一書房から戦前出版された豪華詩集。表紙革製。金ぱくで箔押しされている。現在、こんな豪華本は作れない。

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2013年8月19日 (月)

戦場に行った先きざきで兵士の明暗が!

 宇佐見三郎、ぼくの祖父、伊藤富士雄(吉原の女郎たちを千人も救い出した、廃娼運動の闘士)の妹の息子だから、叔父さんということになる。

 その叔父さんが、太平洋戦争中、従軍してシンガポール(当時は昭南島)にいた。三郎叔父さんは、すでにこの世にいないが、世田谷区立の新星中学校の校長を最後に教職を引退した。

 ぼくの先妻のミカが、世田谷区立池尻中学校(今は廃校になっている)の保健体育の教師になれたのは、この叔父のコネがあったからだろう。

 叔父は終戦後、戦地からひきあげてきて教師になったが、『戦争回顧・老兵のうたへる』という歌集を残していて、序文にこんなことを記している。

「終戦の日、私はシンガポールのテンガー飛行場の中の兵站(戦場の後方にあって、糧食・軍需品の供給、輸送などをとりあつかうところ)自動車184部隊にいた。

 まもなく島から北のジョホール州に撤退した。レンパン島に移駐するうわさもあったが、輸送隊の仕事のために、レンパン島へは送られなかったのは幸せであった。

 いつ帰れるかも知れない日をじっと待つより仕方がなかった。空襲で荒れ果てた東京、母と妻と四人の子どもはどうしているだろうか。昭和19年の暮れに最後の航空便を出したきり、音信不通だった。

 出征当時の四人の子も、今、それぞれに家庭を持って、孫が九人いて、平和な家庭生活を楽しんでいる。今年の正月には長男の家に一族十九人が集まって祝うことができた。

 子や孫たちに戦争の体験だけはさせたくないと思っている。」

 従軍中に作った歌を残すことによって、「戦争だけは体験させたくない」という思いを残したかったのだろう。

 ぼくの親父の弟は、ニューギニアに行かされ、飢えとマラリアなどで、どんな悲惨な死にかたをしたのかも分からない。遺骨も石ころがひとつ入っていただけだった。

 南方といっても過ごしやすいところもあったのだろう。三郎叔父さんは幸せだったのか、あまり悲惨な歌はない。

 性病にかかりし兵は三角の青きスタンプ額に押されぬ

 いつ帰る日もわからずてわが戦友はぴー屋(慰安所)に行きて童貞を捨つ

 日本の女性なのか、韓国の女性なのかは分からないが、慰安婦を連れて行ったのだろう。そうでなければ性病がはやるわけがない。

 高射砲次々打つも砲弾は敵機に届かず弾幕を布く

 東京でも高射砲を打っても、高いところを飛んでいる米軍機には届かなかった。

 敵兵の上陸もせぬに降伏とは信じられぬとマライ人言ふ


 わが隊の創立記念の日マライ人涙流して歌ひてくれぬ


 出航日なんで知りしか中国人われらの帰国を見送りてくれぬ

 日本兵と現地の人たちと親しい交流があったのだろう。いい思いで日本兵を見てくれていた、現地の人がいたことはうれしい。

 戦場の行った先々で、兵隊たちの明暗が分かれたということだろう。

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これは戦前の軍隊生活の一コマ

第22回「伊藤文学と語る会」

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8月24日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年8月17日 (土)

「突撃一番」という名のコンドーム

「雑学倶楽部」での大先輩、事務局長だった小野常徳さんのエッセイ集に、面白い話が載っていた。

 なにしろ、この方は警視庁の風紀係に長く勤めていた方だから、世間の裏話をよく知っていた。「敗戦直後の頃、私は警視庁で公衆衛生関係を担当していた。食物を始め生活必需物資さえ、すべてなかった時代だったから、コンドームのような「不要不急品」は大払底だった。

 世界の戦史をひもとくと、戦勝国にしろ、敗戦国にしろ、性病は大流行したと記されている。日本とてその例外ではない。それを防ぐ手軽なコンドームは街から姿を消していた。

 何しろ公定価格では、一個七銭二厘のそれが、闇市では七、八十倍の五円から八円も闇値がついたが、それでさえなかなか手に入らない。

 あの頃は「生めよ殖せよ!」の多産奨励が国の方針だったから、コンドームを避妊に用いることは御法度、専ら性病予防で、需要は低下していたのを、もっけの幸いと増産し軍に納入していた。

『突撃一番』と名付けられ陸軍専用、海軍用は別の指定工場の品物で、そこでも「星」と「錨」は、対抗意識を燃やし、それぞれ原料の生ゴム獲得に狂奔していた。『突撃一番』は戦地での将兵慰安所での「突撃」用に使われたのだが、それにもかかわらず、中国大陸で兵隊の間に淋病が広まった。

 軍医に調べさせたところ、患者たちは「命令どおり『突撃一番』を用いました」と異口同音。やっと判明した原因は、コンドームの先の「精液だまり」の突起を、童貞兵たちはその意味が分からず、無理に突起までを先端にはめ、乱暴に運動したので、忽ち先が破れ淋菌が侵入してしまった。

 真相が分かった軍の関係者は「それじゃその突起部分をなくしてしまえ」と結論を出し、以後軍用のコンドームは坊主頭型に改められた。この坊主頭型は30年ほどたった、1965年頃からリバイバルされ、今度は「トップレス」と呼ばれている。

 私がその大量隠匿品を発見した。発見するや否や、大胆にも私は「この品物すべてを警視庁が買いとる」と、とっさに考えて品物を押さえてしまった。

 数えてみると百八万個もあり、もちろん公定価格で翌日ひきとり、品物が手に入らず困っていた、都内の赤線業者を役所に集め、公定価格で放出してしまった。

 闇値で売れば五百三十万円も、利益がでるところだが、取り締まりのご本家が、そんな闇商売はできない。

 上司に相談もせずに『突撃一番』を大量に買い占め、始末書をとられると覚悟はしていたが、警視総監からは「時宜を得た処置であった」と、おほめに預かり、金五百円也のごほうびを戴いた。

 コンドームは自由販売品になったのは、昭和二十四年のことである。」

 小野常徳さん亡きあと、コンドームを製作している会社の人を「雑学倶楽部」で招いて話を聞いたことがあった。

 日本のコンドームは、世界一優秀で、薄くて、そして丈夫ということだった。確か『薔薇族』が廃刊になる直前、ゲイ関係の広告しかとれなかったのに、初めて裏表紙にコンドームの広告が載って、大よろこびしたのを覚えている。

 エイズの流行を押さえるためには、コンドームをどうしてもつけなければならないから、需要が増えた。

 それと同時にコンドームを着用したときにぬる「ラブオイル」も売れはじめていた。

 進駐軍が野外で売春婦と性したときに使って捨てた、コンドームを洗って売られているという記事を読んだこともあった。コンドームは貴重品だったのだ。

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イラスト・長谷川サダオ

第22回「伊藤文学と語る会」

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8月24日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年8月12日 (月)

いつの世でも、性欲ほど厄介なものはない!

 ぼくは「雑学倶楽部」という会の会員になっている。最初は「夫婦交換」の雑誌の社長にすすめられて入会した。

 月に一度ほど会合があり、講師を招いて30分ほどの講演を聞き、そのあと懇親会になる。もう30年ぐらいの会員だから、事務局長も何人か変わっている。

 警視庁の風紀係に長く勤めておられた方で昭和33年に売春防止法が施行される直前に8ミリカメラで、都内の赤線地帯を撮影され貴重な映像を残された方だ。

 ぼくの女房と、事務局長の小野常徳さんの奥さんと気があっていたので、仲良くさせてもらった。

 その小野さんの残した、豆本のエッセイ集があり、面白いエッセイが載っている。「空閨用特殊兵器」と題するものだ。

「大東亜戦争も半ばを過ぎたころ、日本軍は各戦場で転身、また転身と言えば聞こえはいいが、正確には退却の連続で、旗色が日に日に悪くなっていたころ、名誉ある出征軍人の妻の不貞(当時は姦通とも言った)事件や、戦争未亡人の風紀問題が、厳重きわまりないニュース統制のさなかでも、こそこそとささやかれるようになった。(中略)

 根本原因は彼女たちの空閨(夫、または妻のいないひとりの寝室のこと)にある。つまり欲求不満を何とかしてやれば、簡単にケリがつく、と発想したまでは良かったのだが、根が荒っぽい軍人のこと、その方法と言うのが積極的と言うより蛮勇と称した方がいいような猛進ぶりだった。

 極秘裏に陸軍軍医学校へ依頼したのが、前代未聞の「女性用特殊兵器」の試作である。開発担当者は首をひねるばかりの最中、ある軍医がハタとひざをたたき、うまいことを提案した。

 警視庁が昭和8年、ワイセツ物件として摘発し、その現品を参考品として秘蔵していた特殊器具のことを思い出した。

 軍のお声がかりで、有無を言わさずそれを借り出してきて、それに技術的改良を加えることにした。

 警視庁の秘蔵品は「セックス・オブ・セックス」と言う、エボナイト製の張り形に、バイブレーターの微妙な振動を伝えるシロモノで、いまなら大人のオモチャ屋で、どこでも手に入るおなじみの女性用具だ。

 軍医学校の担当者は知恵を絞って改良し、パワーアップのためのニューモデルが見事に完成、試作品第一号として憲兵司令部に持ち込んだ。大喜びの司令部では「さすがに!」と、その優秀な出来に感心したまでは良かったが。

 量産計画と配布方法と言う段階で、単細胞の憲兵たちは、とんでもないミスに気づき、一同がっくり。

 資材不足の時局下でも、陸軍の威光でマスプロはなんとでもなるが、この優秀な「空閨用特殊兵器」を一体どんな風にして需要者に配ればいいのか?

 まさか出征軍人の留守宅、または遺族宅を戸別訪問し、「このようなものをお宅ではご入用でしょうか?」とご用聞きして廻るわけにもいかない。

 そうかといって、予め注文書付きカタログを郵送、希望者に現品郵送というかたちにしても、結局は同じことになろう。

 今ごろの厚かましいオバサンたちと違い、しとやかな、しかも名誉ある帝国軍人の妻のだれが本音を吐くものか。そんな次第で、この迷案は日の目を見ずにオジャン。

 残念ながら、この試作品の現物はおろか、設計図も写真も残っていない。」

 それにしても小野常徳さんが秘蔵していた、エッチなコレクションは、どこに行ってしまったのか。いつの世でも人間の性欲ほど、厄介なものはない。

 

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軍隊生活のひとこま

第22回「伊藤文学と語る会」

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8月24日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

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2013年8月10日 (土)

昭和20年、8月15日という日

 8月15日、終戦記念日。日本がアメリカなどの連合軍に無条件降伏した日だ。今の若者にとっては、68年も前のことだから、どこの国と戦争して負けたのかも知らないのも当然のことだろう。

 8月15日の正午のラジオで、「重大な放送がある」ということは、子供心にも知っていた。

 どこでどのようにして、天皇陛下の話を聞いたのか、はっきりと覚えていないし、ラジオが今のラジオと違って性能が悪いオンボロラジオだ。陛下のお言葉は、独特のしゃべり方だから、よく分からなかった。

 ただ、近所の人たちの話で、日本が戦争に負けたということは感じとれた。世田谷学園に講師の先生で、樋口清之先生(のちに国学院大学の教授になられ、考古学でも有名な方で、カッパブックスから『梅干と日本人』というベストセラーも出されている)が、どこから情報を得られているのか、日本は負けると授業のときにしゃべっていた。

 原子爆弾というものがあって、マッチ箱ひとつで、すべてを破壊してしまうものをアメリカは持っているという話もしてくれた。

 学校で教わったことって、みんな忘れてしまっているが、樋口先生の話は面白く、ピラミッドの石はどのようにして積み上げたのかとか、大阪城の石垣は、どのようにして運んだのかとか、興味深い話をしてくれたので、記憶に残っている。

 日本は神国で絶対に戦争に負けないと、教え込まれていたから、負けたということは信じられなかった。

 正宗白鳥という作家は、こんなことを書いている。

「私の家のラジオは不完全で、明瞭に聞き取れないのであるが、私は耳の穴に全神経を集中して、そこに伝わってくる音声の意味を捉えようとした。しかし、私には耳を疑うように理解しかねる感じがした。

「戦争はすみましたのですね」と、隣家の婦人は、まなざしに心の喜びをもらして言った。「そうでしょうか」と、私はラジオが悪いため、私の聞き間違いではないかと思ったりした。

 滅多に東京へ出たことのない私は、天下の形勢は暗かったので、戦争がどんな経過をとっているのやら、真相はよく分かっていなかった。」

 上司小剣という作家の方は、こう書いている。

「来るべきところへ来たなと思った。そうして、これがもう一年、半年早かったら原子爆弾は広島・長崎に投下されなかったと涙ぐんだ。しかし、かりにもう一年おそかったら、(アメリカ軍が本土に上陸してきたから)われわれは生きていられなかったであろうと、聖恩に感謝もした。

 あえて先見の明を誇るわけでないが、私はかなり前から、今日あるのを知って、それをひそかに人に語ったこともあるが、もちろん同感の人もあったけれど、なかにはとんでもないことをいう、けしからなんと怒りだす人もいた。」

 谷崎精二という作家は。

「戦況が日々不利になり、国内の戦力も次第に消耗しつつあることは、各方面から伝えられた。いよいよ日本が力つきて、無条件降伏をするという情報は、正式に発表される五、六日前に新聞社関係から僕の耳に入った。

「やれやれ、これでやっと助かったか」

 終戦の情報を得て、僕が第一に感じたのはそうした気持ちであった。必ずしも僕一個の命が助かったのを喜ぶのではなく、日本の文化も、民衆も、収集がつかないまでに破壊殲滅されずにすんだのを喜ぶ気持ちだった。」

「終戦」を日本人それぞれが、いろんな思いをもったことだろう。もう戦争はすべきでないということだけは、すべての日本人が感じたに違いないのだ。

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イラスト・長谷川サダオ

第22回「伊藤文学と語る会」

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8月24日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

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本当のエロって、ちらっと!

 今の若者たちに、敗戦後の状態がどんなだったかを知る資料がみつかった。『昭和大雑誌・戦後篇』(流動出版株式会社刊・昭和53年10月刊)

 その中に『週刊朝日』(25年8月13日号)の記事が載っている。「この五年の跡をさぐる。変われば変わる世相のさまざま」の見出しで。

「昭和20年8月6日、広島に原爆投下、8月15日降伏終戦—あの日から満5年の歳月が流れ去った。

 かえりみれば、日本民族が苦しみ嘆き溜息をつきながら、前途にただ一つ、自由な平和国家の希望を求めてたどりきた、五年の長いぬかるみの道であった。

 無謀な戦争、敗戦、惨たる焦点に生き残って飢餓、インフレ、住宅難、犯罪の洪水、かえりみて、この五年の生活が苦しくなかったという人は、同胞の犠牲を食った数少ない人だけであろう。

 終戦五年、ようやく表面の傷はふさがってもまだ、父を失った孤児の涙は乾かず夫を奪われた未亡人の嘆きは消えない。

 だが平和は近づいた? 今、われわれの眼前にひろがる黒雲、北鮮軍の南鮮侵入、一衣帯水の挑戦をおおう戦火だ。」

 1950年(昭和25年)6月25日、午前4時、38度線で戦闘勃発。北朝鮮、韓国に宣戦布告。38度線を11カ所で越境、進撃開始。

 ソウルは北鮮により占領され、南の方にまで追いつめられた。中国も北鮮に加担したというのだから、ひどい話だ。死者100万、避難民550万というから、韓国は大打撃を受けたわけだ。アメリカ、国連軍が韓国に味方しなかったらどうなっていたのだろうか。

 日本は血を流さずに、戦争の特需景気で経済が立ち直ったというのだから、韓国の人たちを悪くは言えまい。それにしても北朝鮮って恐るべき国だ。

 戦後の面白い話が載っている。

「アメリカの進駐軍がはじめて熊本に入ったときである。町外れを二人のアメリカ兵が歩いていると、田んぼの中で若い女が着物の裾をはしょり、赤いコシマキをちらつかせながら仕事をしていた。

 兵隊はコシマキにうっとりしてしまった。というのはこの兵隊たちは日本にきて、二、三週間にしかならなかったので、コシマキを特別なキモノの一種類かと思い込んでいたからである。

 二人はその女のそばに行き、手まねで、キモノの下にまいてあるワンダフルなコシマキを買いたいと申しこんだ。娘はもちろん逃げだした。兵隊は追いかけた。娘は両親にどうしようかと相談した。

 父親は言った。「シカタがない。戦争に負けたのだ。お前のコシマキが買いたいと言うなら、売らなければなるまい」

 そこで娘は別の座敷に行って、二、三分すると出てきた。二人の兵隊は法外な代金を日本金で払って、コシマキを風になびかせながら、うれしそうに道を歩いていった。」

 アメリカ兵のすべてが、うえた野獣のような男たちばかりではなかった。そうであったなら、赤いコシマキをちらつかせていた女性を手ごめにし、強姦してコシマキを持ち去っただろうが、ちゃんとお金を出して買いとったというのだから、いい話ではないか。

『薔薇族』を刊行していたころ、エロ本ばかりを出版している社の社長が集って、「出版問題懇話会」を作り、毎月、出版クラブで会合し、いろんな情報を知らせあっていた。

 警視庁の風紀係の係官を招いたことがあった。その係官が言った言葉に、「本当のエロというのは、女性がちらっとみせるコシマキに感じるのでは」と、言ったことが、今更ながら思い出された。(つづく)

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第22回「伊藤文学と語る会」

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8月24日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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2013年8月 8日 (木)

「ラブオイル校長 大いに語る会」を!

 タイのバンコックのホテルで、若くして自らの生命を絶ってしまった長谷川サダオ君。『薔薇族』のために彼が才能をどれだけそそいでくれたことか。

 毎月、毎月、書店などからいろんな面白い変わった資料を集めてきて、時代によってタイトルは変わったが、「男切抜帳」「男町美術館」などは他誌には観られない特異な読み物で、読者をよろこばせてくれた。

 長谷川サダオ君が、わが社で販売している「愛の潤滑液ラブオイル」を面白おかしく効用をイラスト入りで紹介してくれている。これを読めば、よし、おれも使ってみようという気分にさせられるのは間違いない。

「ラブオイル」の真っ赤な目立つケースのデザインを考えてくれたのが、嵐万作さんだ。この方は絵も描くし、小説も書くしで器用な人だった。どれだけ『薔薇族』のために働いてくれたことか。思い出はつきない。嵐万作さんも自ら生命を絶って、この世にいないとは、なんということだ。

 しかし、嵐万作さんデザインの「ラブオイル」のケースが、30年以上も多くの人に愛用されてきたということは、ありがたいことだ。

 大きなホテルや、ポルノショップで手に入れることができるが、今度初めて下北沢の「ワンラブ・ブックス」で販売することになった(〒155−0031 世田谷区北沢2−1−3 TEL03−3411−8302) 

 下北沢の南口商店街を4、5分歩くと、右側に「餃子の王将」があり、その前を左に曲がると、4、5軒目の店だ。

 ぼくのアンティークのお宝を並べて安価で大放出するので、ぜひ、お求めいただければ幸いだ。

 8月の最後の日曜日、25日、1時〜3時まで、「ラブオイル校長、大いに語る会」を開く。会費2千円。女性も大歓迎。ぜひ、気楽にお出かけください。

 地方の方からの「ラブオイル」のご注文は、〒155−0032 世田谷区代沢3−9−5−202 伊藤文学まで、100円切手を10枚入れて、80円切手を貼っておくって下さい。送料共です。すぐに送ります。

ラブオイル校長 大いに語る会
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日時:8月25日(日)午後1時~3時
場所:下北沢「ワンラブ・ブックス」
  (〒155-0031 世田谷区北沢2-1-3  TEL03-3411-8302)
会費:2000円

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!

参加予約の必要はありません。
お気軽なご参加を、お待ちしております。

店内では、文学さん放出のアンティークのほか、山川純一の原画、

「ラブオイル」も販売しています!

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2013年8月 5日 (月)

紳士的だったアメリカ兵?

 間もなく8月15日の終戦記念日がやってくる。昭和20年(1945年)のことだから、68年も前のことだ。

 ぼくが中学2年生、13歳のときだから、太平洋戦争のときのことを記憶している人は少なくなってきているからこそ、若い人たちに戦後の状況を知っておいてもらいたい。

 進駐軍の若い兵隊たちに、日本の女性たちが強姦されてしまうのではないかと、まず心配された。

「戦争終結の天皇陛下のお言葉が出ると間もなく、町を浴衣がけで歩く女性もちらほらみえだした。と、涙にくれる軍部から、直ちにきついお達しがでたのである。曰く「脱ぐな心の防空服」——と。

 防空服装は灯火管制以上に重要であり、特に婦女子の場合は慎重に考えなければならぬ。

 戦後われわれが遭遇するであろう社会相は実に深刻なのだ。やがて敵兵が上陸して、現実に街頭でわれわれと相見えるということを考えれば、婦女子の服装はいかにすべきかは明らかだ。しっかりした剛健な服装は持続されなければならない。

 続いて「外国兵近づくとも毅然、冷静に扱え」という警保局の注意事項には次のようなのが並んでいる。

1・特に婦女子は日本婦人として、自覚をもって、外国軍人に隙を見せるようなことはいけない。

1・婦女子は淫らな服装をせぬこと。また人前で胸をあらわしたりすることは禁物である。

1・外国軍人が「ハロー」とか、「ヘイ」とか、あるいは片言まじりの日本語で呼びかけても、婦女子は相手にならず、さくること。

 連合軍が東京に進駐してきたのは、9月8日であったが、その前、二、三日というものは、新聞という新聞は筆をそろえて、「大和撫子」の身をあれこれと心配している。

 婦女子は外国兵と接触しないよう注意すること。ケバケバしい服装はさけ、できるだけ地味なみだしなみと、しっかりした行動を堅持すること。また女子の一人歩きや、夜間外出は禁物、昼間でも家を空けるときや、婦女子のみの留守番の場合は特に厳重にすること。

 米国兵の習慣として、その土地土地の品物を記念品として持ち帰るため、種々の物品を好奇心から強奪することがあるから注意すること。時計やその他の貴重品はしまっておくこと。

 まだある。アメリカの風俗紹介のうちに、「誤解招く娘の笑顔、粋な素足も挑発的」という記事であるが、そこでは

1・ウインクされても、男の前で笑う女は万事御意のままという意思表示になる。

1・顔を赤くしたり、ドギマギしてはいけない。どこ吹く風とうけ流すがよい。

 というぐあいに書いてある。五年後の今日、このことを聞いて「伝説のようになつかしいわ」と言った女性がいたので、あえて「昭和の伝説」としてとりあげてみた。」

 進駐軍が日本に上陸してきて、こんなに心配し注意していた結果はどうなったのだろうか。

 わが家の近所にも通訳をしていた夫婦が住んでいたので、アメリカ兵がジープに乗って数人で訪ねてきていたが、子供たちにはガムやチョコレートをくれた。

 野蛮なけだもののような兵隊は、ごく一部の人たちで、大多数の兵隊たちは紳士的だったのではなかろうか。女性には親切だったのでは。

 

 とにかく貧しかったから、食べるために女性の方から、アメリカ兵に接近していったのではなかろうか。いつの世でも女性はたくましいものだ。

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ギブ・ミー・チョコレート
毎日ムック『戦後50年』より

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2013年8月 3日 (土)

戦争くらい格好悪くて、みじめなものはない!

 カフエ『邪宗門』のまん前に、『東横パラータ』という小さな劇場がある。確か「東演」という劇団は、八田元夫さんという方が創始者で、古い劇団だ。

 昭和23年に駒沢大学に入学した頃は、新劇がブームになっていて、全校生が700人ぐらいしかいない学園に劇団が5つもあり、ぼくが所属する文芸部でも、「実験演劇集団」なるものを結成していた。

「新劇祭」まで催したのだから、演劇への熱意はすさまじいものがあった。その頃、阿佐ヶ谷だったかにあった、八田元夫さんの稽古場を訪ねて講演までお願いした思い出がある。

 下北沢に「劇団・風の子」の稽古場があった。ご兄弟で主宰していたが、同期生の池田茂雄君が、座員だったので、主宰者のお二人(名前を忘れてしまった。今は亡くなられている)がよく駒大に訪ねてこられたので親しくさせてもらっていた。

「劇団風の子」は創立60周年になるそうで「邪宗門」を訪れたおりに記念公演で「子供が少国民といわれたころ=銀次郎とハルの場合」を「東演パラータ」でやっていた。

 二日間だけの公演で見ることができなかったが、チラシだけを頂いて読んでみた。

 制作にあたってとあり「創立者たちの子供時代は戦争一色、もちろん彼らは「少国民だったのです。しかし、それはもう「戦争」の体験のない50代、60代の世代によって語らなければなりません。

 人間は、あれほどの戦争をなぜ起こしてしまったのか、可能にしてしまったのは何だったのかを「戦争悲体験者」の私たち自身が知り、そして戦後獲得した価値が風化してしまわないように、過去に尋ねながら、語りつぎたいと思います。

 そんな思いでつくる小さなお芝居が、ささやかでも、これからの子どもたちにとって、未来を生きるための「羅針盤」になれば幸いです。」

 戦争を経験した人間が少なくなってきた今、戦争のおそろしさを後の時代の人たちに語りついでいかなければという思いに強くさせられる。

 劇団の主宰者と思われる、ぼくと同じ年代の山中恒さんが、「今、戦争を考える手がかりに」と題して書かれている。長い文章なので最後の部分だけを引用させて頂く。

「戦争くらい格好悪くて、みじめなものはありません。いざ戦争となったら、的を格好良く殺す前に殺されることもあるのです。

 戦争は国と国が全力を挙げて戦うものですから、個人の生活や事情など問題にされません。国民が傷つこうと、死のうと関係ないのです。その結果、アジア、太平洋戦争で多くの人命が失われましたが、その人たちは格好よく殺されたのでしょうか?

 このお芝居が少しでも戦争のことを考える手がかりになることを願っております。」

 観客からの声も紹介されている。

「私は40代後半です。戦争を知らない世代です。そんな私がこの劇を見て改めて戦争の悲しさ、滑稽さに思いを馳せました。

 子どもさんももちろん見て、感じ、心に残る作品だと思いますが、私たち世代にもたくさん見てもらいたいと思いました。」

 この作品は全国で公演されているようなので機会をみつけてぜひ見てもらいたいものだ。

 劇中の用語解説がいくつも書かれている。ぼくにとっては知らない用語はないけれど、若い世代には解説しないと理解できないだろう。「少国民」「皇軍」「B29」など。

 参議院選挙、自民党だけに勝たしていいものか。真剣に考えなければ。戦争への足音が聞こえてくるようなので……。

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第22回「伊藤文学と語る会」

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8月24日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

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