戦場に行った先きざきで兵士の明暗が!
宇佐見三郎、ぼくの祖父、伊藤富士雄(吉原の女郎たちを千人も救い出した、廃娼運動の闘士)の妹の息子だから、叔父さんということになる。
その叔父さんが、太平洋戦争中、従軍してシンガポール(当時は昭南島)にいた。三郎叔父さんは、すでにこの世にいないが、世田谷区立の新星中学校の校長を最後に教職を引退した。
ぼくの先妻のミカが、世田谷区立池尻中学校(今は廃校になっている)の保健体育の教師になれたのは、この叔父のコネがあったからだろう。
叔父は終戦後、戦地からひきあげてきて教師になったが、『戦争回顧・老兵のうたへる』という歌集を残していて、序文にこんなことを記している。
「終戦の日、私はシンガポールのテンガー飛行場の中の兵站(戦場の後方にあって、糧食・軍需品の供給、輸送などをとりあつかうところ)自動車184部隊にいた。
まもなく島から北のジョホール州に撤退した。レンパン島に移駐するうわさもあったが、輸送隊の仕事のために、レンパン島へは送られなかったのは幸せであった。
いつ帰れるかも知れない日をじっと待つより仕方がなかった。空襲で荒れ果てた東京、母と妻と四人の子どもはどうしているだろうか。昭和19年の暮れに最後の航空便を出したきり、音信不通だった。
出征当時の四人の子も、今、それぞれに家庭を持って、孫が九人いて、平和な家庭生活を楽しんでいる。今年の正月には長男の家に一族十九人が集まって祝うことができた。
子や孫たちに戦争の体験だけはさせたくないと思っている。」
従軍中に作った歌を残すことによって、「戦争だけは体験させたくない」という思いを残したかったのだろう。
ぼくの親父の弟は、ニューギニアに行かされ、飢えとマラリアなどで、どんな悲惨な死にかたをしたのかも分からない。遺骨も石ころがひとつ入っていただけだった。
南方といっても過ごしやすいところもあったのだろう。三郎叔父さんは幸せだったのか、あまり悲惨な歌はない。
性病にかかりし兵は三角の青きスタンプ額に押されぬ
いつ帰る日もわからずてわが戦友はぴー屋(慰安所)に行きて童貞を捨つ
日本の女性なのか、韓国の女性なのかは分からないが、慰安婦を連れて行ったのだろう。そうでなければ性病がはやるわけがない。
高射砲次々打つも砲弾は敵機に届かず弾幕を布く
東京でも高射砲を打っても、高いところを飛んでいる米軍機には届かなかった。
敵兵の上陸もせぬに降伏とは信じられぬとマライ人言ふ
わが隊の創立記念の日マライ人涙流して歌ひてくれぬ
出航日なんで知りしか中国人われらの帰国を見送りてくれぬ
日本兵と現地の人たちと親しい交流があったのだろう。いい思いで日本兵を見てくれていた、現地の人がいたことはうれしい。
戦場の行った先々で、兵隊たちの明暗が分かれたということだろう。
第22回「伊藤文学と語る会」
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8月24日(土)午後12時~14時 ※途中参加・中途退出自由。
会場:下北沢一番街、カフエ「占茶」
住所:世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978
会費:各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600
初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。
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