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2013年9月

2013年9月28日 (土)

血のつながりって不思議なもの

 わが伊藤家のご先祖さまのことが分かる資料(伯父の宇佐見三郎が、ぼくの父、祷一にくれた手紙)が見つかった。キリスト教を軍隊組織で布教する「救世軍」の大尉、祖父、伊藤冨士雄は、長野県松代の出身、その父の禄は、真田藩表御用人だったようだ。

「冨士雄は長男、らく、じゅん、豊喜、マサの二男三女の長兄であった。わたし(宇佐見三郎といい中学校の校長までした人。我が家の近所に住んでいた)の母マサは、末の妹としてかわいがってくれた。

 28歳でおっとに死別し、三人の男の子が残された。冨士雄さんは、忙しい中を救世軍の制服のまま、よく訪ねてくれた。

 わたしの長兄、初男が肺結核を患ったときは、救世軍中野の療養所に入院させてくれた。当時は肺病が一番恐れられた病気で、治療薬もなかった。

 家族への伝染を心配して入院させてくれたものと思っている。母の話では、冨士雄さんが初男の枕もとで、聖書のマタイの福音書の話をしてくれた。

「一羽のすずめが地に落ちても、イエスキリストの許しがなければ、天国に召されることはない……」

 冨士雄さんはひどくどもるくせがあった。彼の説教は実にゆっくりと、落ちついては話された。それだけに感銘深いということで、有名だったという。

 わたしは中学時代、兵隊のはく木綿の靴下をはいていた。それがあるとき、冨士雄さんからアメリカの毛の靴下をいただいた。そのあたたかいぬくもりに伯父の愛情を感じ、長く用いたことが思い出される。

 祖父、伊藤禄は、松代で漢学塾を開いた。毎夜、一里(4キロ)も遠いところから通ってくる門人に小林みつるがいた。小林は後に府立第三高女(現都立駒場高校)の校長を長く勤めた。今も駒場高校の校庭に小林校長(多分初代校長)の胸像が建っている。

 父の都合の悪いときは、娘のじゅんが代講した。伊藤禄は俳人でもあり、祷一さん(ぼくの父)から友の死を悼んで「あとさきとなりて、あわれや雁のこえ」の句があることを聞いた、号を麟趾といった。

 松代にある菩提寺に行き、また小学校長をした古老にも、祖父のことを聞いたが、何も得られなかった。

 菩提寺に門人の立てた祖父の碑があるという話だったが、見つけることはできなかった。長野市の図書館にも行ったが、手がかりはつかめなかった。

 祖父の禄は明治の瓦解で、藩主からいただいたお金を銀行に預けたが、銀行がつぶれてしまった。

 碓氷峠を下って利根川をまた船で下って、東京に出た。芝新銭座、攻玉社のとなりに居をかまえて、下宿屋を開いた。下宿人のひとりにわたし(三郎)の父、宇佐見源三がいて、わたしの母マサと結婚した。」

 ぼくも年齢を重ねると、ご先祖さまがどんな人だったのかということが気になってくる。

 世田谷学園の同級生だった、高橋民夫君(昨年亡くなってしまった)が、長野の戸倉に住んでいたので、車で松代に連れて行ってもらったが、菩提寺の名前も分からないのでは、こんなところから、東京に出てきたのかということを感じただけだ。

 今では宇佐見三郎さんの息子さん、娘さんとも、お付き合いはまったくなくなっている。ブログを見てくれる人にとって、伊藤家のご先祖さまの話など、どうでもいいことだと思うけれど、ブログってぼくが死んでも残るらしいので、なにかのごえんでつながるかも知れない。

 先妻の舞踊家ミカは、養女に行っていたので、「血」というものを真剣に考えていたようだ。血のつながりって、不思議なものだ。

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2013年9月23日 (月)

華麗なる恋の切なき終末… —映画『恋するベラーチェ』—

 60年代、70年代に青春時代を送った人には忘れられない人の名は数々あるだろう。ケネディ、プレスリー……。なかでもポップ・ピアニストとして、絶大な人気を誇ったリベラーチェは、繊細かつ絶妙なテクニックで忘れられない存在だ。

 リチャード・クレイダーマンなどの存在もあるけれど、何といっても目ばゆいばかりの豪華な衣裳、派手なパフォーマンスで、ステージを盛り上げた彼の名は、永遠に記憶されるに違いない。

 この映画はそのリベラーチェが成功を収めるまでのサクセス・ストーリーではなく、すでに絶頂期にあった一時期の秘められた私生活に焦点を当てている。しかもスティーヴン・ソダーバーグ監督、マイケル・ダグラス、マット・デイモンの競演という超一流のスタッフ、キャストが作り上げたという話題も見逃せない。

 四歳のときからピアニストとしての英才を発揮、クラシックから転向、黒のタキシードでは、舞台映えしないと、きらめくようなラメのスーツや、身長の三倍近い毛皮のロング・コート、そして独特のジョークで客席を湧かせ、見事に頂点に登り詰めたリベラーチェ。そのリベラーチェの前に、偶然現れたハンサムな若者スコットは、ゲイ・バアで知り合った振付師の紹介だった。

 一目で惹かれ合う二人。信頼を深め身の回りのすべてをスコットに委せるようになり、スコットもまた貧しい暮らしから、壮麗な大邸宅で、至上の愛に浸る歓びに酔いしれるようになる。

 しかし、頂点に上れば後は下りの道しかないわけで、老いを恐れるリベラーチェは、若返りの手術を受け、スコットもまた若き日のリベラーチェそっくりに整形するように命じられる。だが軟禁同様の毎日に、スコットは不満を感じるようになる。そんなスコットに対し、「今の生活ができりょうになったのは誰のおかげ?」と、リベラーチェ。 

 少しずつすき間風が吹き始める二人。浮気、麻薬? に手を出すようになったスコットは、リベラーチェから贈られた高価な宝石類などを売り始め、やがて破局の危機が……。

 とにかく、これほどぜいたくなゲイ映画は見たことはない。さすがハリウッド。ロス、ラスベガスに移り変わるステージの背景もさることながら、愛とは何か? 信じ合うとはどういうことか? 人それぞれに価値観は違っても、結局、求め合い、結ばれることを願うのが人間本来の姿と知らされる。

 濃厚なベッドシーンなどはないけれど、深く深く沁み入るような愛の感情が、デリケートに表現される。

 いつもながら驚かされるのは、ハリウッドのメイク・テクニック。ラスト近く、エイズに倒れたリベラーチェの姿に息を吞む。最後の最後まで、性別を超えた愛のメッセージ。知られたくない、だけど……。どうしようもない本能のうずきが哀しい。大監督、名優の「勇気」に拍手!(松下芳雄)

 松下芳雄さんは、なんと85歳。淀川長治さんのお弟子さんでもある映画評論家。『薔薇族』誌上で、小説、イラスト、エッセイ、そして映画評論と、大活躍してくれた功労者だ。

 今でも月に15本から、20本もの映画の試写を見続けていてお元気だ。映画なんて最近ほとんど見ていないぼくが、誘われて渋谷にある試写室に連れて行ってもらった。

 ぼくは何組かのゲイのカップルを見てきたが、この映画はゲイのみにくい面、またすぐれた面を赤裸々に描き出していて、ぼくには面白かったが、ノンケの男性には、その心理は理解できないのでは。むしろ女性の方が理解して見てくれるのでは。

 11月1日(金)から「新宿ピカデリー」他全国で配給・東北新社。

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2013年9月21日 (土)

ブログのお蔭で、50年ぶりの出会いが!

 ネットの普及によって、ぼくの雑誌『薔薇族』は、廃刊に追いこまれてしまったが、今のぼくはネットにブログを書き続けることで生き甲斐を見出している。

 9月1日、下北沢の喫茶店「占茶」で待ち合わせて、昭和27年(1952年)に駒沢大学の国文科の同期生だった、神尾小次郎君の娘と夫と孫とに出会った。

 伊豆七島の中の小さな島、神津島に、神尾君は10年間も、中学校の教師として勤めていた。

 神尾君、22年も前に70歳で他界されているが、奥さんは92歳で元気だそうだ。

 この出会いのきっかけを作ってくれた人は、神尾君の教え子で、島に住む65歳の清水姫美江さん、その娘さんは島を去って東京で生活している。その娘さんの由紀子さんが、ぼくのブログに「神津島へ、エメラルドの海を越えて!」と書いたのをみつけて、カフエ「占茶」での「伊藤文学と語る会」に出席してくれたのだ。

 そんなことがあって、51年も前に神尾君が中学の先生をしている神津島に何度も訪れるようになったのだが、急に神尾君の家族のことが気になって、思いきって電話をかけてみた。

 当時、旺文社から発行されていた『時』という雑誌に、「カメラルポ・島の教育に捧げた青春=神津島の十年選手、神尾先生」の見出しで、神尾君の島での生活ぶりが紹介されている。

「神津島、人口約二千五百人。学校は小学校と中学校しかない。中学校を出ると男の子は漁師、女の子は農業につく。

 神津島に神尾先生は、十年前赴任してきた。鳥もかよわぬ神津島に、新婚の奥さんと、名刺一枚を頼りに絶海の孤島にやってきた神尾先生だった——」とある。

 その頃から島も大きく変わっているようだ。港も二つできて、大きな船が停泊できるし、飛行場もあり、調布からとんでくることができる。ところが島では働く場がないから、中学校を卒業すると、若者はみんな東京に出てしまう。そのため人口も千七百人ぐらいにへっているそうだ。

 中学校、小学校の生徒もへり、この島も年寄りばかりになっている。一時は島ブームがあって、観光客が押し寄せたことがあったが、今ではそれもへっているようだ。

 神尾君は『時』に「神津島にかけた青春」と題して、一文を寄せている。

「月日の経つにしたがい、村人の素朴な情にあつい、心根にしばしばそうぐうしたが、他人の私のために親身もおよばぬ親切心は、やっぱりこうした大自然の美から生まれてくるのではなかろうかと、考えさせられた。(中略)

 郷土愛のない人間ほど哀れなものはない。

 私が口ぐせのように話していたことを彼らは実行しようとしているのだ。

 私の十年の生活の中で自慢し誇れる唯一のものは、卒業して実社会で働く教え子たちが、こころやすく訪れてきては、愛情の問題、結婚それから村作りの話などを自由に語り合えることだ。

 神津島にかけた青春——私は幸せものだ。」

 と神尾君は結んでいる。先生っていいな、教え子たちが、みんな島の指導者になって、島の発展につくしているそうだ。

 50年の歳月が流れてしまったけれど、元気なうちになんとか島を訪れたいと思ってはいるのだが……。

 神尾君の娘さんも、ご主人も日大の芸術学部出身で、それぞれが自由な生き方をしている。

 ブログのお蔭で、50年ぶりの出会いができた。これからはどんな出会いがあるだろうか。

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旺文社刊『時』に載った神尾君の記事

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公衆トイレの壁面はゲイの告知板!

 1969年(昭和44年)という年に、全国の大学は紛争に明け暮れていた。米宇宙船アポロ11号が月面に着陸した年でもあった。

 1966年(昭和41年)には、わが第二書房が今までの刊行物から、まったく方向転換した。秋山正美著『ひとりぼっちの性生活』のシリーズ。それがきっかけとなって、『レスビアンテクニック』『ホモテクニック』と同性愛物の出版に移っていった。

 農上輝樹さんという方が、持ち込んできた原稿で、この手の出版の最初になった『薔薇の告白=女を愛さない男たち』は、忘れられない出版物だ。

 ご自分がモデルになってカバーを飾った。それを撮影したのは、19歳の女性カメラマンだった。

 小さい出版社が生きのこるには、エロ本しかないと、ぼくは考えて、『ナイト・ブックス』と名付け、新書判で日に一冊ずつ出し続けた。なんと60冊にもなった。

 ゲイの人が読む『薔薇の告白』の後ろのページに、女好きの人に読ませる『ナイト・ブックス』の広告を載せていたのだから、その頃のぼくはまだゲイの人たちのことを理解していなかった。

 昭和46年(1971年)の3月には、『続・薔薇の告白』も出していて、これも装幀はぼく自身が手がけている。

 このゲイの農上輝樹さんをキャバレエに接待したら、途中でトイレに行くと席を立ったまま戻ってこなかった。こんな失敗も、そのうちしなくはなったが。

『続・薔薇の告白』の中に、「落書ホモの生態」という章がある。当時のゲイの人たちにとって、トレイの壁面が告知版の役目を果たしていたので、それぞれの思いをぶちまけている。それを農上さんは集めてきたのだ。

「学校のH・R君

 きみのファロスをなめたい

 ういういしいきみの顔をみるたびに

 わしの胸は熱い欲情でうずく

 わしは今日もここで自らを汚す

 なんて形の良い尻なんだ

 汝の幻影に向かい

 汝の名を呻きながら

 わしは今日も自らを汚す (拓殖大学トイレ)

 われを過ぎて憂愁の都へ

 われを過ぎて永劫の憂苦へ

 われを過ぎて亡滅の民の中へ

 いっさいの望みを捨てよ

 汝らここに入る者 (地獄の門)

 おれはこの章句を『薔薇』という雑誌の中で知った。ホモの絶望と孤独の心情を、これほどまでに言い当てている言葉を知らない。恐ろしいほどだ。 (都電権田原通りの公衆トイレ)

 全学の学友諸君 ひよるなよォ 屁をひるなよォ 臭えぞォ

 学友よ 革マル同盟へ来れ(そのとなりに)カクマスもドーゾ! (早稲田大学トイレ)

 ああ、この暗く果てしない空よ! ここまで耐えて生きてきた。ただ耐えて、耐えて耐えるばかりの人生だった。どうせここまで耐えて生きてきたんなら、あともう少し生きよう。死なないでもう少し耐えるだけの生き方だったけど、どうせいままで耐えてきたなら、あともう少し生きよう。恥にも、怒りにも、恐れにも、耐えて。

 農上輝樹さん、大学の図書館に勤めているらしいと聞いたことがあったけれど、頭のいいナゾのオジさんだった。『薔薇族』の大きな功労者だったことは間違いない。

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伊藤文学が自らデザインしたカバア

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2013年9月19日 (木)

第23回「伊藤文学と語る会」

来る9月28日(土)、下北沢のカフエ「占茶」にて、第23回「伊藤文学と語る会」を開催致します。

日時・9月28日(土)午後12時~14時
場所・下北沢一番街、カフエ「占茶」
会費・各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600

初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。

世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階
電話・03ー3485ー8978

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2013年9月16日 (月)

婦人会まで見学した軍隊のM検!

 なんで『薔薇族』の読者って、こんなに軍隊の「M検」に興味があるのだろうか? バックナンバーをめくっていくと、「M検」に関する記事が何度も出てくる。

 1988年の1月号No180に投稿されている「われわれの興味をそそってやまないM検とは? 婦人会の前で、冠状溝までむき上げられた」を読んでみると、この人は戦後の生まれで、ご自分の体験ではない。

 読者にとって多数の若者がオチンチンを他人にいじくりまわされるという行為に、興奮し、想像をたくましくするのだろう。

 ぼくは中学1年生のときに窓越しに、M検の現場を目撃している。もう敗戦が色濃くなってきていた、終戦の前の年に世田谷中学に入学したが、2年生以上は工場などに行かされて、1年生しか残っていない。

 若い兵隊はいなくて、年をとって肉体も貧弱な兵隊が招集されて、学内に宿泊していた。全員が素裸にされて、「M検」をされているところを目撃してしまったときのことをよく覚えている。今どきの人には考えられない野蛮な行為だ。

「兵隊になる最初の徴兵検査は単なる肉体検査というだけではなく、兵隊(兵隊は自分の意志で動いてはならない)となるための儀式でもあり、「しゃばっけ」を抜き、兵隊であることを肉体に叩き込む場でもあったという。

 毎日新聞社刊『写真昭和三十年史』には、大勢のそれこそ一糸まとわぬ壮丁が一列に並ばされている後ろ姿の写真がある。並んだ裸の尻は壮観である。

「しゃばっけ」とは、羞恥心に代表される。二十歳といえば、まだ隠したい最中である。命令一下、さまざまなポーズをとらされる壮丁の羞恥は、M検において最高潮に達する。

 なにしろ親にも見せないところを何の容赦もなくむんずとつかまれて、数回しぼるようにしごかれたあげく、むきあげられるのだという。

 露出している者もさらに冠状溝までむきあげられるというから、包茎の者には大変なことだろう。ちなみに徴兵検査では六割がまだ包茎だったという。少年のように堅く包まれていて、日本男児のシンボルたるそれを羞恥に縮ませている者には、「活を入れる」と称し、意地悪な検査官なら、むかないかわりに、先端の敏感な部分を刺激して、「ホラ、ホラ、まだだめだ。まだ先が出てこんぞ!」とやる。意志に反して立つと「勘違いしていい気になるな!」と、なぐられる。

 そんな羞恥に、あとの者は「もうすぐ自分もあのようにされるのか」と思うと、気が気ではないという。

 なお、徴兵検査は婦人会が見学に来たそうで、羞恥にからだがほてるという。また地方によっては、最初から最後まで、身長も体重もすべてフリチンのブラブラで行なったということであり、『絵とき日本陸軍』(三恵書房)には、広い講堂の中で全裸で体重測定を受ける者や、次の順番を待つ者など、羞恥の検査場風景の絵も出ている。なお岩波文庫50『戦争と日本人』が復刻された。この中に徴兵検査の写真があり、全裸で並んだ壮丁の一人だけ前向きで、性器まで見えるということで、知る人ぞ知る伝説的な貴重な写真であるので、ぜひ見られたい。

 とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」、つまりお国のものであって、婦人会の前でも隠せないということになる。

 日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」

 この投稿者、M検を想像し、カキまくって書いたに違いない。

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2013年9月14日 (土)

孤立している老人たちに幸せを!

『薔薇族』が廃刊になってから、後をひきついで復刊したいという出版社が現れたとき、ぼくは若い層をねらわずに、高齢者に的を絞るべきだと言った記憶がある。

 それが現実になってきたようだ。2013年7月31日の毎日新聞夕刊の「特集ワイド」が『「熟年の性」ブーム過激に 探り当てた「売れる新ジャンル」 ハウツーより読み物として』と、「熟年の性」ブームをとりあげている。

「週刊現代」「週刊ポスト」が競って取り上げているのが「熟年の性」の問題だ。「若者はスマホに夢中で雑誌を読もうとしない。そっちは半ばあきらめて、かつてのおじさんたちに読み続けてもらえるよう配慮し始めたのではないか。

 読者とともに雑誌も老いてきたということでしょう」と、国際文化研究センター教授の井上さんが語っている。

 週刊誌の狙いは、60代、70代で、ぎりぎり80歳までのようだ。ぼくは81歳だから、すでにこのわくからはずれてしまっているのは情けない。

 ちょっと話がはずれてしまうが、『薔薇族』の読者だった人たちも、今では70歳、80歳を越えているに違いない。

 都会に住んでいる人は、ゲイバアやハッテン場にもいけるだろうが、地方に住んでいるひとり暮らしの読者のことが心配だ。

 山口県周南市金峰の民家から、男女5人の遺体が見つかった連続殺人・放火事件で、被害者一人に対する殺人容疑などで逮捕された同じ集落の無職、保見光成容疑者(63)のことをマスコミも、心理学の先生も、彼の心の奥底に持つ、本質的なものに触れている方は一人もいない。

 ましてや警察の人たちは、外見からしか人を見ないから触れるわけはない。ただ、ぼくが彼を同性愛者的な素質を持った人だと断定してしまうことは大きな問題がある。

 同性愛者だから異常な事件をおこしてしまったと思われては困る。たまたま彼がいろんなことが重なり追い込まれておこしてしまったということだ。

 彼は5人兄妹の末っ子で、上の3人が女性だということ。おそらく母親に溺愛されて育ったに違いない。年老いた両親を看病し、父亡きあと、母親にもつくしたと思う。

 その母親亡きあと、彼はまわりの人たちとなじめず孤立していった。『薔薇族』の読者は被害妄想の強い人が多いようだった。「悪いうわさを流されて頭にきた」と、5人を襲った理由について話しているそうだが、集落の他の住民から疎外され、小さないざこざが、だんだん彼の頭の中で大きくなっていったのだろう。

 彼の家の玄関に飾ってある、いくつものオブジェのようなもの、これは女好きの男にはできないことだ。美意識と感性を持っている。

 家も自分で建てたようだが、これも変わっている。それと硝子戸に貼られた文字も面白いし、書かれた文章もなかなかセンスがいい。

 十何人しか住んでいない集落で、みんな高齢者ばかりでは、彼と話があうわけがない。ネットもおそらく使えなかったろう。

 彼の部屋の中がどんなになっていたのか。調度品、本など、彼の趣味が分かれば、もっと彼の心の奥底をのぞけるのだが。

 どこもかしこも高齢者ばかりになってしまって、一日中テレビばかり観て、誰ともしゃべらずに一日を過ごしている人が、たくさんいるのでは。本当は心のやさしい男だったに違いない。彼は今の社会の犠牲者であると言えるのではないか。

 ソルボンヌさんのマンガのネタにされても、ぼくはまだまだ幸せ者かもしれない。

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2013年9月 9日 (月)

ぼくは死を恐れない!

「O嬢の物語」「愛奴」の舞踊化と、クラブ「スペースカプセル」でのショウ「静かの海の恐怖」。渋谷の「ジャンジャン」での「マルキド・サドのジュステーヌ」の映画の宣伝のためのショウなど、次々とマスコミに話題を提供し続けてきた。その先妻の舞踊家、伊藤ミカの突然の事故死は、多くの新聞、週刊誌に報じられた。

 1970年(昭和45年)の1月31日号の「週刊女性」は、1頁を使い、「前衛舞踊家・伊藤ミカさんが風呂で中毒死! 夫、伊藤文学氏「葬式のあと口笛でも吹きたいような気持ちだった」変わった夫婦だが……」の見出し。

 なんとも不謹慎ともとれるが、本当のことだった。1970年(昭和45年)1月11日の早朝、浴槽の中でガス風呂の不完全燃焼で中毒死した。

 告別式は代々幡斎場で、13日の午後2時から行なわれた。突然のことなどで、友人、知人に電話をかけて知らせたが、多くの人が参列してくれた。

「愛奴」の舞台で使った、棺桶のふたが人間の顔をしている、大きな棺桶。部屋の中に存在していた。通常の棺桶は、顔の部分がのぞいて見えるようになっているが、この棺桶はふたをしめてしまえば、見ることはできない。

 その頃、幼稚園児だった五歳の息子は、ママの死顔を見ていない。ぼくの母が息子の世話をしていて、その日もいつものように幼稚園に連れて行った。

 ぼくがあちこちに電話をかけていたので、母親が死んだことを知っていたのだろう。息子を連れて行った母が、先生に亡くなったことを報告しようとしたら、自分のことはできると言って、「先生、ママは死にました。死んだものは帰ってこないから、ぼくは悲しまない」と言ったそうだ。

 今でも多摩墓地にみんなでお墓まいりに行っても息子は手を合わせておがむことはしない。ぼくはそれでいいと思うし、息子の行為をほめてやりたい。

 大きな棺桶をお弟子さんたちがかついで、葬祭場から静かに焼場まで運んだが、それはミカのリサイタルを見ているような劇的なシーンだった。

 それこそ口笛を吹きたいような気分だった。風呂場で座禅を組んでミカは死んでいたが、ぼくは涙など流さなかった。息子の言うように死んだものは帰ってこないからだ。

 常日頃から「踊ることが、生きること」と、睡眠中も脚をあげて踊っていたミカ。

 1960年を疾風のように走りぬけ、33歳という短い生涯を終えた、舞踊ひと筋に生きたミカは幸せだった。なにも涙を流すことなどあるわけがない。

 父親は71歳で倒れるまで、一銭もぼくに給料をくれなかった。父とぼくだけの出版社、『薔薇族』を創刊するまでは、人をやとわずに二人だけで本を出し続けた。

 父とぼくとあまりしゃべった記憶はない。出版の仕事も何ひとつ教わることはなかったが、自然に覚えてしまった。

 父が女に狂いだして、家に帰らなくなることがあっても、ひとりで月に一冊は必ず出し続けたのだから、今考えてみるとすごいことだった。

 今でも夢を見ると、本を作っている夢が多い。ネットなんてなかった時代、いい時代に出版の仕事を続けることができて幸せだった。

 父が死んでも、母が死んでも、ぼくは涙を流すことはなかった。それは中学も大学も曹洞宗が経営する世田谷学園、駒沢大学と、宗教的な雰囲気の中にいたから、そんな気持ちになったのだろうか。

 やはり妹が東京女子医大の心臓病棟に長いこと入院していたので、そこで多くの人の死と向き合ったからか。地獄も極楽も信じないし、死んだら土にもどるだけだと思っている。ぼくは「死」をまったく恐れていない。

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ミカの楽屋を応援に訪れた、「紀伊国屋書店」の創業者、田辺茂一さんと漫画家の富田英三さん。右端がミカ。

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2013年9月 7日 (土)

50年、70年も前に記憶を呼び戻すのって!

 ネットを触ったことのない、ぼくにとっては、自分では見れないのだから、実感として湧くわけがない。ただただ協力してくれている、猪口コルネ君に感謝している。

 ネットの威力ってすごい。81歳のぼくを突然、50年前、70年前にひき戻してしまうのだから、記憶を取り戻すのが大変だ。

 駒沢大学にぼくが在校中の学生数は、700人足らず。国文科の同期生は、15、6人。ほとんどが地方から出てきている学生で、東京の人間はほとんどいない。

 卒業してから2、30年経った頃だったろうか。世話好きのぼくは東京に住んでいる卒業生を集めて会を作ろうと考えた。

 その頃は名簿があったので、東京在住の卒業生に案内状を発送した。確かお茶の水の会場だったが、何人ぐらい集まったのか、あまりよくは覚えていない。

 伊豆七島の中の神津島も東京都に属する。東京都神津島だから、なんとなく案内状を出してしまった。そうしたら会場に真っ黒に日に焼けた同期の神尾小次郎君が、漁船に乗せてもらって、一晩走り続けて出席してくれたのだ。

 神尾君は海軍に志願していて、終戦後、大学に入り直した人だ。学生服なんてなかった時代だから、海軍の軍服を着ていたのを思い出す。

 神尾君、神津島に一校だけある中学校の教員を10年間も勤めた人だ。そんなに島に長くいる先生はいないから、島民に信頼されて、都から視察にくるお偉いさんなどを案内する役もやっていたようだ。

 神尾君に島に来ないかと誘われて、島を訪れたのが最初で、すっかりエメラルドの海に囲まれた島が気に入って何度も訪れるようになった。

 神尾君は東京に帰ってから70歳で亡くなられている。それが驚いたのは、7月の下北沢のカフエ「占茶」での「伊藤文学と語る会」に出席してくれた女性が、神津島の出身で、65歳になるお母さんが、神尾君の教え子だということだ。

 娘さんがぼくが神津島と神尾君のことをブログに書いたのをみつけて、親にも知らせ、出席してくれたのだ。

 神尾君の住所を古い名簿から探し出し、おそるおそる電話をかけたら、お孫さんだという娘さんが電話に出てくれた。神尾君の奥さんは93歳でお元気だそうだ。

 数日して神尾君の娘さんから電話がかかってきた。娘さんは2、3歳のときだったそうで、ぼくのことを覚えているわけがないが、母親からぼくのことを聞いていて、何でも知っていた。美輪明宏さんの大ファンだということだ。

 次の語る会に、娘さんと孫と二人で出席してくれるという。そのとき旺文社から当時発行されていた『時』という雑誌の記者が島を訪れて記事にしたが、その雑誌を持ってきて見せてくれるという。ぼくもその雑誌を大事にしていたが、何度か引っ越したので今は見つからない。

 神津島から魚の干物を送ってくれた。神尾君の教育のおかげで、今でも短歌や、、詩を作っているそうだ。

 70年前に記憶を呼び戻すのは、これまた大変だ。終戦の年に代沢小学校を卒業したのだが、一年から六年まで一緒のクラスだった、塩谷信幸君、お父さんも近所で医院を開業していたが、塩谷君は優等生、ぼくは背が一番小さくて一番前の列で、劣等生。

 塩谷君は東大医学部を出て、北里大学の教授になられた人だ。奇蹟というかサンフランシスコでのゲイパレードにオープンカーで行進しているぼくを見たという。この秋、涼しくなったら70年ぶりに会うことに。何を話したらいいことやら……。

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神津島の海は美しかった

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2013年9月 5日 (木)

書評にならない書評?

『ゲイの誕生』匠 雅音(たくみ・まさね)著のあとがきには、こんなことが書いてある。

「数多くの出版社に上梓を断られ続けていた折、彩流社の河野和憲さんに本書が拾われたのは幸運だった。感謝しています。」
 ぼくの著書『裸の女房』『やらないか』も数社に断られ、河野君が拾ってくれた。河野君は早稲田大学出の有能な編集者で、断った出版社編集部社員の見る目がなかったということだ。
 その河野君が企画して、芳林堂高田馬場店で、9月19日(木)19:00〜20:30 FIビル8階で、匠 雅音『ゲイの誕生』彩流社・出版記念トークセッション「ひと・家族・共同体」が開かれる。
 パネラーは著者の匠 雅音さんとぼくだ。河野君に頼まれて安請け合いしてしまったが、タイトルの「ひと・家族・共同体」とあり、河野君が考えたのだろうが、ぼくにはなんのことかよくわからない。
 サブタイトルは「同性愛者が歩んだ歴史」とあり、これは理解できるが、帯に書かれた「歴史を知り、理論的基盤をつくり、自己の存在証明を確立せよ!」これは難しい。
 本を買ってくれるだろうゲイの読者を考えてのキャッチフレーズだろうが、ゲイの人ってあまり自分たちのことを知ろうとはしない。
 かつて「ホモのホモ知らず」という言葉があった。それは自分の好みの男のことしか考えていないからだ。
 
 ぼくはこの本を買ってくれる読者は、女性だと思う。先日、渋谷の試写室で、11月1日から、新宿ピカデリーほかの映画館で全国ロードショーされる、マイケル・ダグラスとマット・デイモン主演の「恋するリベラーチェ」を見せてもらった。50人ほどしか座れない座席に半分ぐらいしか見ている人はいなかったが、永六輔さんと同席して見ることができた。
 
 ゲイの夫婦の話で、こんなにゲイのいい面、悪い面を赤裸々に描いた映画はなかったのでは。この夫婦の心理を、理解できるのは女性ではないかと思った。
 
 永六輔さん、ラジオ番組から降板するというニュースが流れた日だ。つえをついてやっと歩き帰っていく姿は痛々しかった。そんな永さんは、この映画をどうしても見たかったのだろう。
『ゲイの誕生』の著者の匠さん、この本を書き上げるために、多くの文献を集め、それを熟読してまとめあげる。ぼくにはとってもできない作業だ。
 
 こうした本は、現在の出版界では出す出版社はないから、ゲイの歩んだ苦難を知る貴重な本であることは間違いない。
 まず、ぼくのブログを読んでくれている全国の人たち。近所の図書館に行って、こんないい本があるので、仕入れてくださいと頼んでほしい。もちろん、手許に買って読んでもらえればいいけれど。
 ぼくのことを書いてくれている、くだりがある。戸籍研究者の佐藤文明さんの文だ。ぼくが経営していた、新宿の「伊藤文学の談話室」でのことらしい。
「1980年12月のはじめ、ぼくは新宿のとあるスナックにいた。
 その店の客はまっぷたつに分かれていた。半分はいかにも学生で、まだ高校生にしか見えぬ者もいる。彼らは互いにスズメのようにしゃべっては笑い転げている。残りの半分は、働き盛りを過ぎ、安定した余裕を感じさせる中年。ドカッと腰を下ろし、言葉もなくグラスを傾けている。目だけがときどき若者たちの上をはうだけだ。」
 
 さて、トークショッション、どんなことになるのだろうか?

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2013年9月 2日 (月)

孤独にうち勝つ何か!

 34年も前の話だけど、今の方が孤独な高齢者が増えているのでは。

「ぼくはひとり暮らしを始めて、もう10年にもなります。すでに両親はなく、姉兄らとの付き合いもなく、近所の人とも容易に友人とはなれず、寂しい日々を送ってきました。

 なんとか仲間をみつけようと、勇気を出して京都のハッテン場に通いはじめて4年にもなります。

 公園で誰ともわからず、犬や猫のようにセックスすることは、いまわしいばかりで、いつも悩み続けてきました。けれども友をみつけるのも、愛をさがすのも、そこは手っ取り早く、狭い京都で同じような顔ぶれの中で、雑談で時を過ごしていたようです。

 それでもぼくだけは違う、犬や猫のようではなくと、知り合った人とは、かなりの個人的な付き合いを重ねてきました。心をうちとけて何もかも話し合える友人を求めて、多くの人と知り合いになれたけど、今はむなしさだけが残っています。

 すべてとは言えないが、ホモの世界はウソで塗り固められた世界で、くさった世界です。若い人、それもぼくとそれほど年齢も違わないのに、付き合ったら小遣いをもらったり、品物を買ってもらって当然と思っている人がいます。すべての貸借りもルーズで、そのことを指摘したら反感を持ち、悪口を言った人もいました。

 この世界の愛情とは、一緒に旅行をしたり、何かを買ってやらなければ、続かないのでしょうか。男が男の世話になる、いわゆる旦那を持つことを自慢している人もいて、なんともいやしい人格かと思います。

 先日、ぼくにいんねんをつけ、傘でなぐりかかってきた男がいました。この男には以前にも、わけの分からない言いがかりをつけられ、あまりしゃべらなかったのですが、その日も無視したことが気に入らず、暴力をふるったことは気ちがいざたです。この男には人間らしさ、良心があるのかと、自分の痛みよりも哀れに思えてきました。その男が仲間と嬌声をあげて、ふざけあっているさまを見て、自分もこの世界にいる人間として、恥ずかしく背筋が凍る思いでした。

 また何が気に入らないのか、公園で人々に石を投げつけたりの乱暴をする人がいます。その人を敬遠したばかりに、いまだにぼくにからんだりの嫌がらせが続いています。

 その男の大きく肩をいからせて歩くさまは、本当に哀れで滑稽です。数えあげればいとまがないほどの根も葉もないうその中傷、悪口を吹聴してまわる人たち。まやかしのその場限りの座興はおぞましく、もうたくさんです。

 強いものには媚び、弱い人間を痛めつけて天下をとったような気持ちのあいつら、本当に嫌な世界です。

 これから果たしてずっと公園に行かずに過ごす自信はありません。孤独、それは永遠で堪えがたいのですが、これからは孤独に打ち勝つ何かを探して生きていくつもりです。(京都・孤独)」

 家の中にとじこもっているのはつらい。思いきってハッテン場にいけば、さまざまの人が集まってきている。

 どこの世界にも、嫌な人はいる。ハッテン場で長く付き合える仲間をみつけだすのは難しいものかも知れない。

 ハッテン場にくる人は、はじめっから欲望のはけ口としてきているのだから、その中から心を許せる仲間を見つけ出すのは無理なのかも。

 お金がかかるけれど、バアに行けばじっくり話もできるし、お酒をのみながら、相手のことを観察できるのでは。

 孤独に打ち勝つ何かを探す。ぼくにもよく分からないけれど、積極的に行動するしかないだろう。

208
19世紀初頭のヨーロッパの絵はがき

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