ぼくは死を恐れない!
「O嬢の物語」「愛奴」の舞踊化と、クラブ「スペースカプセル」でのショウ「静かの海の恐怖」。渋谷の「ジャンジャン」での「マルキド・サドのジュステーヌ」の映画の宣伝のためのショウなど、次々とマスコミに話題を提供し続けてきた。その先妻の舞踊家、伊藤ミカの突然の事故死は、多くの新聞、週刊誌に報じられた。
1970年(昭和45年)の1月31日号の「週刊女性」は、1頁を使い、「前衛舞踊家・伊藤ミカさんが風呂で中毒死! 夫、伊藤文学氏「葬式のあと口笛でも吹きたいような気持ちだった」変わった夫婦だが……」の見出し。
なんとも不謹慎ともとれるが、本当のことだった。1970年(昭和45年)1月11日の早朝、浴槽の中でガス風呂の不完全燃焼で中毒死した。
告別式は代々幡斎場で、13日の午後2時から行なわれた。突然のことなどで、友人、知人に電話をかけて知らせたが、多くの人が参列してくれた。
「愛奴」の舞台で使った、棺桶のふたが人間の顔をしている、大きな棺桶。部屋の中に存在していた。通常の棺桶は、顔の部分がのぞいて見えるようになっているが、この棺桶はふたをしめてしまえば、見ることはできない。
その頃、幼稚園児だった五歳の息子は、ママの死顔を見ていない。ぼくの母が息子の世話をしていて、その日もいつものように幼稚園に連れて行った。
ぼくがあちこちに電話をかけていたので、母親が死んだことを知っていたのだろう。息子を連れて行った母が、先生に亡くなったことを報告しようとしたら、自分のことはできると言って、「先生、ママは死にました。死んだものは帰ってこないから、ぼくは悲しまない」と言ったそうだ。
今でも多摩墓地にみんなでお墓まいりに行っても息子は手を合わせておがむことはしない。ぼくはそれでいいと思うし、息子の行為をほめてやりたい。
大きな棺桶をお弟子さんたちがかついで、葬祭場から静かに焼場まで運んだが、それはミカのリサイタルを見ているような劇的なシーンだった。
それこそ口笛を吹きたいような気分だった。風呂場で座禅を組んでミカは死んでいたが、ぼくは涙など流さなかった。息子の言うように死んだものは帰ってこないからだ。
常日頃から「踊ることが、生きること」と、睡眠中も脚をあげて踊っていたミカ。
1960年を疾風のように走りぬけ、33歳という短い生涯を終えた、舞踊ひと筋に生きたミカは幸せだった。なにも涙を流すことなどあるわけがない。
父親は71歳で倒れるまで、一銭もぼくに給料をくれなかった。父とぼくだけの出版社、『薔薇族』を創刊するまでは、人をやとわずに二人だけで本を出し続けた。
父とぼくとあまりしゃべった記憶はない。出版の仕事も何ひとつ教わることはなかったが、自然に覚えてしまった。
父が女に狂いだして、家に帰らなくなることがあっても、ひとりで月に一冊は必ず出し続けたのだから、今考えてみるとすごいことだった。
今でも夢を見ると、本を作っている夢が多い。ネットなんてなかった時代、いい時代に出版の仕事を続けることができて幸せだった。
父が死んでも、母が死んでも、ぼくは涙を流すことはなかった。それは中学も大学も曹洞宗が経営する世田谷学園、駒沢大学と、宗教的な雰囲気の中にいたから、そんな気持ちになったのだろうか。
やはり妹が東京女子医大の心臓病棟に長いこと入院していたので、そこで多くの人の死と向き合ったからか。地獄も極楽も信じないし、死んだら土にもどるだけだと思っている。ぼくは「死」をまったく恐れていない。
ミカの楽屋を応援に訪れた、「紀伊国屋書店」の創業者、田辺茂一さんと漫画家の富田英三さん。右端がミカ。
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