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2014年1月

2014年1月27日 (月)

震災から立ち直った製紙工場の紙で!

『昭和・平成・日本アウトロー列伝』(2006年・宝島社刊)の中のひとりに選んでくれたことは、どんな勲章をもらうよりもありがたかった。
 
 長く生きていると、つらいことも多いが、いいこともある。だから生きていられるのだろう。『日経ビジネス』は週刊誌で、日本経済新聞社の子会社なのか、日経BP社から刊行されている、ビジネス誌だ。
 
 ぼくは一度もこの雑誌を手にしたことはない。書店には出ていなくて、定期で読者は購読しているようだ。
 
 メールでの依頼だったら、息子か、息子の嫁が紙焼きにでもしてくれなければ、ぼくは見ることはできない。
 
 幸いなことに女性編集者からの依頼は電話だった。元参議院議員で、自らゲイであることを世間に公表して選挙に出られた尾辻かな子さんのコメントを書いてほしいという依頼だった。
 
「2014・日本の主役」という特集を新年早々に発行するということで、今年、大活躍するであろう、各界から選び出された人たちに、それぞれコメントするという企画だ。
 
 各界から100人を選び出す仕事も大変な作業だろう。編集部員も沢山おられるようなので、会議を何度も開いて選び出したのか。
 
『薔薇族』だったら、相棒の藤田竜さんと、さっさと決めてしまっただろうが、また、エレビだした100人の人に、もっともふさわしいコメントをする人を選び出すのも大変だったのでは。
 
 それと100人の選ばれた人たちの写真を撮らなければならない。東京に住んでいる人だけではないのだから、カメラマンを各地に送り込まなければならない。大変な費用がかかるというものだ。
 
 尾辻かな子さん、「美しき日本のゲイ活動家」と、タイトルにある。大阪に住む方で、ぼくは一度もお目にかかったことはないが、見るからに美人で、聡明な方のようだ。
 
 短い文章で、的確にその人を言い表さなければならない。ぼくは長い文章は苦手だが、短い文章は長いこと書き続けているので、何百字と言われれば、その短い文章の中でコメントすることにはなれている。
 
 原稿用紙に書き、それも三とおり書いて郵送したが、女性の記者からおほめの言葉を頂いてしまった。
 
 100人に選ばれた人、内閣官房長官の菅義偉さん、文は竹中平蔵さん、トヨタ自動車社長の豊田章男さん、文はルー大柴さん。
 
 楽天会長兼社長の三木谷浩史さん、文は田原総一朗さん、日産自動車CEOのカルロス・ゴーンさん、文は出井伸之さんだ。
 
 苦労して撮ったのであろう、カメラがいい。写真を見ただけでも、その人の人柄がわかるというものだ。
 
『日経ビジネス編集長・山川龍雄さん』の巻頭言を読むと、「2011年3月11日の震災で、日本製紙の宮城・石巻工場を襲った津波の高さは3mにも達し、1階にあった大型機械やパルプ資材などを飲み込みました。
 屋根は大きな丸太で押しつぶされ、あとに残ったのは、瓦礫とヘドロの残骸。「もはや再稼働は困難」。関係者の誰しもが、そう考えた工場から、今年、日経ビジネスの新しい髪が供給されます。」と、書かれている。
 
 これはすごいことだ。日本の底力を感じずに入られない。山川編集長は、就任したのが東日本大震災が起きた、真っ只中でした、とある。
 
「今週の名言」の頁には、京セラの名誉会長・稲盛和夫さんが「私たちは皆、何かをなすために生を受けています。」と、記している。熱気あふれる『日経ビジネス』No.1723・定価690円、ぜひ、読んでほしい雑誌だ。

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2014年1月25日 (土)

世の中の人に忘れられないような!

 正月のテレビを観ていたら、有名人の年賀状が紹介されていた。ぼくのところへお300通ぐらいの年賀状が届けられている。
 
 そうだ。ぼくだけが見ているのではなくて、多くの人に見てもらいたい。一枚一枚、もう一度見なおしてみた。
 
 残念ながら手書きのものは少ない。ほとんどがワープロで打たれたものばかりだ。その中から6枚ほど、多くの人に見てもらいたいと思うものを見つけだした。
 
 昨年、中国の上海から、ぼくのブログを読んでいて、カフエ「邪宗門」に尋ねてきた、若い雑誌記者と出会ったことがあった。
 
 驚くことに日本語ペラペラ、へんな訛りもない。その上、日本の本も読んでいる。
 
 有名なデザイナーであり、イラストレーターでもある、Uさんにインタビューしたいので紹介してほしいとのことだった。
 Uさんと親しかった、寺山修司くんのファンでもあり、青森に在る記念館にも足を運んでいるという。
 
 Uさんがインタビューを承知してくれたので、中国人の若者と、その友人のカメラマンを連れて、Uさんの仕事場にお邪魔した。
 
 Uさんの著書をほとんど読んでいて、質問もすべて用意されていた。2時間近くも質問に答えてくれた。ギャラもなかったのに、丁寧に答えてくれたUさんには頭がさがる思いだ。
 
 最後に聞いた質問が「こわいものってありますか?」だった。Uさんは「世間から忘れられることだ」と答えた。
 
 ぼくにしてもそうだ。かなりの仕事をしていた人でも、時の流れとともに忘れられてしまう人がほとんどだから……。
 
 それは年齢を重ねれば、しかたのないことなのかも。ぼくの名前は忘れられても、『薔薇族』の誌名は長く人々の心に残ると信じている。
 
 話が脱線してしまったが、6枚の年賀状だ。かつて『薔薇族』の表紙絵を描いてくれていた、甲秀樹君のもの。二人の少年が全裸で馬に乗っている。馬のオチンチンもちょこっと見せているところはさすが。そえがきに、演出家であり振付師でもあった、竹邑類さんの死を書いている。
 竹邑さんは、先妻の舞踊家、ミカをクラブ「スペースカプセル」のショウに紹介してくれた恩人でもある。
 
 富士山の写真は、世田谷学園の同級生でもある田中清君のものだ。全日本山岳写真展に毎年出展しているベテランだ。
 
 長い髪の平安朝の女性を描いたのは、新潟の燕市に住む三浦梨加さんの作品。毎年、仁科展に出品している方だ。
 
 清水紘治さんは俳優。子役時代からずっと俳優生活を続けられている。新潟の「ロマンの泉美術館」に招いて、恋の詩ばかりを朗読してもらったこともある。
 
 若き日の清水さんが登場する時代劇を見ているが、「初湯よし老いは千年先に来い」なんていう句を作られる年になってしまったのか。
 
 アルフォンス井上さん。澁澤龍彦さんんが命名したペンネームだと聞いたことがあったが、神戸に住む方だ。
 
 銅版画の世界では、日本一の作家といってもいいぐらい、数々の名作を生んでいる。
 
 青い馬の絵は、画家の到津伸子さんの作品だ。到津さんは巴里にアトリエをかまえて、多くの作品を残している。
 
 かつて渋谷の西武デパートで個展を開いたときに買い求めた作品など、数点をぼくは持っている。
 
 世の中の人に忘れられないように、いい仕事を残していきたいものだ。
 
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2014年1月24日 (金)

第26回「伊藤文学と語る会」

来る2月22日(土)、下北沢のカフエ「占茶」にて、第26回「伊藤文学と語る会」を開催致します。
日時・2月22日(土)午後12時~14時
場所・下北沢一番街、カフエ「占茶」
会費・各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600
初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。
世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階
電話・03ー3485ー8978

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2014年1月20日 (月)

刑事と知らずに恋してしまって!

 京都に住む鞍嶽三馬さんに、ホテル「英都」のルポをお願いしていた頃、ぼくは完成間近の歌舞伎町のホテル「大番本館」に、社長のNさんを訪ねた。
 
 作業服にヘルメット姿で、工事現場から出てこられた姿は、土建屋の社長さんという感じで、大きなギョロッとした目、いかにもゴツイ出で立ちの中でも、どこかやさしがにじみ出ている人だった。
 
 近くの喫茶店で、お話を伺ったが、歌舞伎町のど真ん中に、6階建てのビルを建て、それも土地を買収してのことだから、大変なことだ。
 
「ぼくはこの世界の人間だから、儲けようと思ってやっているのではない。これだけのお金を掛けたら利子だけでも大変なんですよ」
 
 ホモなんていう言葉がなかった時代(昭和20年代から30年代)に、社長は上野のI旅館に勤めていたそうだ。
 
 ある日、その旅館が警視庁の本庁から、直接の手入れがあって、40数名のお客さん、全員が逮捕されるという事件があった。
 
 草創期の人たちは、いろんな苦労を重ねていた。警察に連行された、40数名のお客さん、調書を取られただろうが、会社に知られやしないか、またケンコンしている人たちもいたろうから、どんなにびくついたことだろうか。
 
 この上野の旅館でも、手入れのかなり前から、何人もの刑事が潜入して調べていたそうだ。その中の一人の年配の刑事をある青年が、猛烈に恋してしまっていた。刑事だということを知らずにだ。
 
 情が移ったというのか、手入れの当日も、その青年は旅館に来ていたが、その年配の刑事の命令で、「個室から絶対に出るな」ということで、ふるえながら個室にとじこもっていた。
 
 窓から裸で逃げた二人のお客と、年配の刑事と知らずに恋してしまった青年だけが、逮捕されなかった。
 
 なんともほのぼのした話ではないか。
 
 N社長は「大番本館」を建てるにあたって、旅館の許可と、サウナの許可と、簡易宿泊所の許可と、とれるものは全てとったそうだ。
 
 それは過去の苦い経験から、絶対に二度と、このような思いをお客さんにさせてはならないという強い気持ちからだった。
 
 N社長の話を聞きながら、感無量だった。
 
 一見、天国のように見えるほど、旅館やサウナなどが乱立するようになって、何の心配もなくお客さんは足を踏み入れているが、草創期にはこんなこともあったということを、少しは思い起こしてほしい。
 
 アメリカでさえ、ニューヨークのゲイバアにたびたびの取締当局の手入れがあって、それに反抗して警官に意志を投げて抵抗したことが、ゲイパワーの始まりになった。
 
『薔薇族』も、創刊して数年後、4回も発禁処分を受けたけれど、それに負けずに出し続けたから、今日があるということだ。
 
 しかし、草創期に活躍した人たちも、ほとんどこの世にいない。N社長も数年前に亡くなられている。
 
 毎日のように訪れている、下北沢南口のカフエ「つゆ艸」で、昭和20年に生まれたという方と出会った。その頃の男はみんな兵隊にとられていなかったから、20年生まれという人は少ないだろう。その人のお父さんが体の弱い人だったので、兵隊に取られなかったから、彼が生まれたということだ。
 
 今の世の中、戦争を体験していない人が大多数を占めている。政治家もみなそうだ。戦争の悲惨さを知らない人たち、また戦争をしようなんていう人も、少しずつ増えてきているような気配もある。
 
 なんとしても、戦争だけはしてはいけないのだ。

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2014年1月18日 (土)

ぼくにしかできないことが、まだある?

 ネットや、携帯電話なんてものが、この世に存在しなかった時代、頭の悪いぼくのような人間でも、行動力と、決断力があればなんでもできた。
 
 58年前、新聞、雑誌がおどろくべき力を持っていたので、その力を借りて、ぼくの処女作というべき『ぼくどうして涙がでるの』は、日活で映画化され、ベストセラーにもすることができた。
 
 1971年には、日本で最初の同性愛誌『薔薇族』を創刊、日本初の男性ヌード写真集「脱いだ男たち」「少年たち」と、同性愛者向けの単行本も次から次へと刊行した。
 
 ぼくのこれからの発想は、すべてマスターベーションからだったが、今の時代、ネットを使えない人間は、急に目が見えなくなってしまった人と同じだ。目が見えなくたって、立派な仕事をしている人は、いくらでもいるのだから、このたとえはまずいが、すぐに考えつかないのでかんべんしてほしい。
 
 なんでこんなことを書きだしたのかというと、2014年・1月7日(火)の東京新聞に、「25歳ネット界カリスマ=自分の物語紡ごう」という記事を読んだからだ。
 
 中1の夏に高知の海で、飛び込みをして、消波ブロックに激突、頚椎を損傷した。動くのは首から上と、両上腕部だけ。高校に進学したが、将来に希望を持てずにいた。
 
 将来に希望が持てずにいたときに、たどりついた答えがネットで情報を売ることだった。
 
 この青年、半身不随でありながら、17歳で1億円を売り上げた業界のカリスマだ。口にくわえた割り箸で、パソコンを操作している佐和大輔くんの写真が載っている。
 
 82歳でなにか新しいことをやろうとしても、ネットを操作できなければ、なにもできない。
 
 割り箸を口にくわえて、パソコンを操作する。手で絵が描けなくたって、足で描いている人もいたっけ。
 
 年をとったからといって、パソコンを操作することを勉強すればいいのかもしれないが、ぼくにはどう考えたってできる話ではない。
 
 他人様の書いた本を全く読まない、卒論を書けずに、お情けで卒業証書をいただいたようなぼくには、無理な話だ。
 
『薔薇族』だって、雑誌づくりの経験がまったくなかったぼくに、出会った雑誌づくりの名人の藤田竜さんの助けを借りて出し続けることができた。
 
「無償の愛」と、美輪明宏さんはよく言われる。ぼくも意識したわけではないけれど、心臓病の人たちのために、頑張っていた時代も、同性愛の人たちに、少しでも心の支えになればと雑誌を続けて出してきた。
 
 毎月、下北沢北口のカフエ「占茶」での「伊藤文学と語る会」でも、「占茶」のママが「伊藤さんのコーヒー代ぐらい、集まった人からいただいたら」と、助言してくれるが、ぼくは集まってくれた人たちから、逆に、若いパワーをもらっているので、できることならみんなのコーヒー代くらい払ってあげたいぐらいだ。
 
 大晦日のNHK紅白歌合戦を見たが、照明技術の進歩は目覚ましいものがある。すべてコンピュータで操作しているのだろうが、先妻のミカが踊っていた、1960年代は、照明は手作業だった。
 
 ヒット曲を作り出せない構造になってしまった、歌謡曲・演歌の世界はもう終わりかもしれない。サブちゃんが、紅白は今年限りと宣言するのも当然のことだ。
 
 コンピュータ時代が生み出した若者の音楽は、ぼくには理解できない。しかし、今でも原稿用紙に書いて、郵便で送って、ブログを更新してもらっているぼくのような人間でも、まだやれることがあるに違いない。ぼくにしかできないことを今年は見つけ出していくつもりだ。

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2014年1月13日 (月)

悪口言われて、うれしいなんて!

『薔薇族』No・110・82年3月号。
 今から32年も前のことだ。タモリの「笑っていいとも」が、テレビに登場し、下北沢駅前に「本多劇場」がオープンしている。
 
 日本が元気だった頃で、ゲイ界も大きく変わってきて、新宿歌舞伎町にはゲイホテル「大判新宿店」が、はなばなしくオープンし、大阪では、ホテル「英都」がオープンした。
 
『薔薇族』では、「薔薇戦争・東西乱交大合戦」と銘打ち、関西在住でルポを度々寄せてくれている、鞍嶽三馬さんにホテル「英都」を、新宿「大番」には、小林幸太君にルポをお願いした。
 
 鞍嶽三馬さん(ペンネーム)は、東京に住んでいた頃は、レコード店を経営していたが、見事に倒産、京都に移られた。
 
 この人、多芸多才な方で、文章を書き、イラストも上手、それにすばらしい感性の持ち主で、デザインも手がける人だった。どれだけ『薔薇族』の誌上を賑わせてくれていたことか。
 
 その才能が認められて、京都に本社があるネクタイ製造の大手、「菱屋」に活動の場を移したのだ。
 
 社長に認められて、「菱屋」が経営する「ネクタイ美術館」の館長にまでなられた方だ。ネクタイが売れなくなってきて、「菱屋」は倒産してしまったが……。
 
 鞍嶽三馬さん、その後も工房を開いて、帽子や小物を製作している。オリジナルのネクタイを何本も送ってくれた。
 
 今年は午年だというので、コレクションしている古い絵葉書の中から探したが、ウマの絵ってない。鞍嶽さんが送ってくれた、ネクタイに馬の絵が描かれているのを見つけて、今年の年賀状に使い、12月7日に銀座のキャバレー「白いばら」での「ぼくどうして涙がでるの」の出版を祝う会に、そのネクタイを結んで、しばらくぶりにスーツを着て出たのだ。
 
 そのことを鞍嶽さんに知らせたら、またオリジナルのネクタイを、手紙を添えてくれた。
 
「ぼくどうして笑っちゃうの? ごめんね。でも笑っちゃった。
 
 ウン十年前の処女作が、50年後、年増の厚化粧をして、出版だなんて、イケズウズウシい。阿川佐和子のオバちゃん、だまくらかして、でも、そのくらい厚かましくなければ、80年も生きられないか!
 
 でかした文学氏、再デビューおめでとう。
 お祝いに金ぼかしの自作のネクタイ、ご収納ください。お元気で!
 
 一度、酒が飲みたいですね。生きているうちに……。バイ。」
 
「ぼくどうして笑っちゃうの」とは、さすがだね。うまい。ここで怒ってはいけないのだ。ゲイの中には、こうしたユーモアのある人ってかつてはいたんだな。
 
 この手紙を読んで、藤田竜さん、内藤ルネさんのこと思い出したけど、ずいぶん二人にはひどいことを言われたっけ。それをじっとぼくは耐えてきたから、『薔薇族』は、長く続けることができた。
 
 竜さんも年をとり、カドが取れてきて、ぼくのことをホメてくれるようになったけど、それはあまりうれしくはなかった。
 
 まだ新宿2丁目にゲイバアが、2、30軒しかなかった頃、「ぱる」というお店にクロちゃんという店員さんがいた。
 
 この人、お客が扉を開けて入ってくると、「あ〜ら、ブスいらっしゃい」と、声をかける。お客もやり返す。このやりとりが面白かった。
 
 もう、こんなお店は2丁目にないだろう。しばらくぶりに悪口を言われて、うれしかった。もうこんな人もいなくなると思うと、寂しくなってくる。

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2014年1月11日 (土)

10年間の結婚生活で、一度も満足しなかった!

『薔薇族』を創刊して数年が過ぎたころの話だ。1970年代って、ある年齢になれば、ゲイであっても異性と結婚しないわけにはいかなかった。
 
 そのころ、ぼくはこんなことを書いている。
 
「昨年の暮れごろだったろうか。ある奥さんから電話がかかってきた。ご主人が大事にしていて、押入れの奥深く、ダンボールの箱にいれてあった『薔薇族』や、写真集などを偶然にも見つけ出してしまったというのだ。
 
 小さな子供が二人いるという30代の奥さんだった。ご主人は教職にあるということで、その奥さんと電話で長いこと話し合った。子供の遊んでいる騒ぎ声が、受話器のむこうに聞こえていた。
 
 ぼくはぜったいに別れるなんて、言ってはいけないということ、子供にとって両親がちゃんとしていることが、一番大事だということを力説した。そしてあなたをだまして、結婚したんじゃないということも。
 
 それからときどきかかってくる奥さんからの電話に、ぼくは時間をかけてしゃべってあげた。
 
 日本テレビの「お昼のワイドショウ」で、「夫の秘密を見た! もう愛せない私、30歳」という、この奥さんによく似たケースの話が持ちこまれて、ぼくも出演して話をすることになった。
 
「夫は本当は女性が好きじゃないのに、私と結婚したのは、自分をカクレミノに使ったんじゃないか」というのが、奥さんの言い分だった。同性愛を理解するにしても、自分があまりにもみじめすぎるということだった。
 
 ご主人を問いつめれば、離婚に追い込まれるだろうし、秘密を知ってしまって、それを自分の胸のうちにしまっておくということも苦しいだろう。
 
 別れたほうがいいという意見が圧倒的に多かった。
 
 その奥さんもテレビを見たらしかった。そのあくる日、奥さんから電話がぼくにかかってきた。(この時代、個人情報なんてうるさいことを言わなかったから、テレビ局はすぐにぼくの電話番号を教えてくれた。)
 
 ぜひ、ぼくに会いたいという。
 
 30歳そこそこだというのに、ちょっとフケた感じだった。それよりも気になったのは、顔にケンがあることだった。にこっと笑ったときには、とってもかわいい顔をするのに。
 
 海が見える丘の上の公園で話を聞いた。まるっきりのおじょうさん育ちで、ご主人が初めてだという奥さんにとって、性生活ってそんなものと、最初は思っていたそうだ。
 
 ホルモンのバランスがくずれて、入院したこともあったそうだが、自然の摂理の不思議さを感じずにはいられなかった。
 
 トイレの中に『薔薇族』を持って入って、読んでいるご主人。電気をつけずに真っ暗ななかでしか、セックスをしないご主人。10年間の結婚生活の中で、一度も満足しなかったという奥さんの言葉に、自然にきざまれた、眉間のしわの深さを感じずにはいられなかった。
 
 もう知ってしまったのだから、かえって打ちあけてほしい。だからといって、嫌いになってしまうことはないと思うから、そういう奥さんは、分かってくれているようだった。」
 
 ぼくの立場上、ご主人の方に味方をしなければいけないのだが、奥さんのほうから相談されてしまうと、実際のところ困ってしまった。
 
 この時代のゲイの人たち、努力して女性とセックスして、子供をつくっていたのだからつらかったに違いない。
 
 女性の方も処女のままで結婚するのだからそんなものと思っていたのかも知れない。今の時代、いやならすぐに別れてしまうのだから、遠い昔の話になってしまったのかも。
 
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2014年1月 6日 (月)

『薔薇族』創刊前の時代のこと

 昭和44年12月に刊行した『薔薇の告白』農上輝樹著・第二書房刊を本棚の中から取り出して、パラパラとめくっていたら、「異端の出版社・第二書房・ブックガイド」が出てきた。
 
『薔薇族』を創刊したのが、昭和46年(1971年)だから、それよりも2年も前のことで、ぼくがひとりでこつこつと「ナイト・ブックス」と名づけて、エロ本を出し続けていた頃のことだ。
 
 なんとゲイの読者が読む本『薔薇の告白』の奥付のあとに『ひとりぼっちの性生活』『ホモテクニック』の広告は載っているが、そのあとは、ずらっと「ナイト・ブックス」の広告が、60冊も並んでいる。
 
 これらは女好きの男の人に読んでもらう本なのに。この頃のぼくはゲイの人たちのことをよく理解していなかったということか。藤田竜くんと出会ったのは、それから2年後のことだったから……。
 
 ぼくひとりで、ゲイの人向けの本を出し始めていて、少しずつゲイの人たちの気持ちを理解し始めていた。
 
 このブックガイドは、『薔薇族』創刊前の貴重な資料かもしれないので、後の世の人のために、ブログに載せて残しておきたいと思う。デザイン、キャッチフレーズ、すべてぼくひとりで製作したものだ。
 
『薔薇族』の誌名も『薔薇』となっている。「族」を付け足したのは、『薔薇』はすでに商標登録されていて、使えなかったからだ。今となっては、これらの本は古書店で見つけるしかない。
 
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2014年1月 4日 (土)

自分の死を自分でみつめる!

 今のぼくは3、40年前のテレビ時代劇に、完全にはまりこんでいる。小学校6年生の孫は、マンガばかり観ていて、冬休みになってしまうと、テレビを占領されてしまう。
 
 時代劇を観ていると、侍の切腹シーンがよくでてくる。作家の三島由紀夫さんは、切腹マニアで有名で「憂国」などの作品を書き映画にもなった。
 
 1983年ごろ、ぼくは三島由紀夫さんが名前を伏せて書いたと言われてる「愛の処刑」を映画化してしまった。
 
 その頃の『薔薇族』の読者の中にも、切腹に興味をもっている人が、わずかにだがいて、切腹をテーマにした小説を書いている人もいた。
 
 切腹に興味を持っている方から、映画化した時におひとりだけにてがみを頂いたことがある。
 
「切腹の何にかくまで惹かれるのかと申しますと、自分の死を自分で見つめながら、自分の手で、自分の腹を切ってゆく、よほどの覚悟がなければできない、その精神と行為のいさぎよさに、なんとも言えぬ美を感じるのです。
 
 忠義、義理、情、面目など、さまざまな理由で、前途春秋に富む若者が、心ならずも死ななければならぬ立場に追い込まれ、覚悟を決めて、自ら腹を切るという、いろいろないさぎよい場面につきない美を見続けているのです。(最近はあまりいさぎよい人のいない世の中だけに、よけいにいさぎよさに惹かれるのでしょうか?)
 
 もちろん、本当に腹を切れば、そのような絵空事の美しさとは、ぜんぜん違う凄まじいものとはわかっていても、やはり絵というか、私の脳裏に描かれる切腹は、心を引きつけて離さない、恐ろしいほどの美として私をとらえています。
 
 子供の頃から切腹に関心があり、以来、その思いは年代によって強弱はあっても、ずっと消えることなく、現在も続いております。
 
 このことは私の心のなかだけ秘めていることで、親にも妻子にも、誰にも明かしたことはありません。
 
 世間では、私はごくあたりまえの常識的な人間です。ですからこの心の秘密は死ぬまで誰にも明かさずに、済ますつもりで今日までおりました。私が買いためた本とか、描きためた絵などは、ある時期が来たら、ひそかに処分するつもりでした。
 
 40数年にして、初めて伊藤さんひとりに、私の心のなかをお話してしまいました。」
 
 たしかこの方は東北に住んでおられた方だと記憶していますが、もう生きているはずはない。
 
 ぼくは同性愛は異常ではないということを言い続けてきた。ところが映画『愛の処刑』では、異常であることがすばらしいことのように思えてくる。異常であれば異常であるほど、この映画は光り輝いてくる。
 
 この原稿は2013年の大晦日の日に書いている。ぼくはちょっと後悔していることがある。ぼくが創刊した『薔薇族』のことだ。
 
 7、8年前、印刷代が払えなくなってきて、印刷所が突然、手を引いてしまった。確か381号が最後だったか。
 
 いさぎよくここで廃刊にすべきだったのだ。そのあと、ぼくの手を離れて続けられている。
 
 今は2代目の竜超君が、季刊で出してくれていて、409号になる。ぼくはまったく竜君の出している『薔薇族』には、口出ししていない。
 
 2014年、年が改まったところで、才人、竜超君、誌名を変えて新しい自分の雑誌を出していくべきではないだろうか。

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