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2014年3月

2014年3月31日 (月)

『薔薇族』の文通欄で出会い、20年も!

 3月19日の82歳の誕生日の前に、うれしいことがあった。
 前にも書いたことがあったかもしれないが、『薔薇族』の良き相棒だった藤田竜君が、『薔薇を散らせはしまい』(批評者刊)のあとがきにこんなことを書いてくれた。
 
「人を救った出版物は数知れずあろう。しかし、世に知られることなく、救われた当人も口にしないものとして『薔薇族』はあり、これからもそうであろう。
 それゆえに伊藤文学は一般的には評価されにくい。それでもいいではないか、と僕は思っている。もともと分かってくれる人だけに心を通じたいと始めたことなのだ。百人か千人か、あるいは何万の人か、『薔薇族』を見る前より、少しでも心が晴れれば、それだけでいいではないか。」
 
 今は亡き藤田竜君の残してくれた言葉を肝に銘じて、ぼくはブログの文章を書き続けている。
『薔薇族』の目玉は文通欄で、ネットなどない時代は、仲間を見つけるには、長い時間はかかったけれど、文通欄を使っていた。
 
「薔薇通信」欄を通じて仲間をみつけ、今でも一緒に暮らしている人もいるに違いない。「うれしいこと」というのは、そのことだ。
 
 野原くろ君という、『薔薇族』の誌上で、漫画やイラストを描き、表紙絵も描いてくれた人だ。『薔薇族』が廃刊してからは、『バディ』に仕事の場を移し、今でも漫画を描き続けている。
 
 その野原くろ君から、本と手紙が届いた。もう忘れてしまうくらいの年月が経っている。
 
「ご無沙汰しております。『薔薇族』では漫画や、イラストをたくさん描かせて頂き、本当にお世話になりました。
 昨年の夏に初めて『薔薇族』に掲載して頂いた作品を始め、初期の作品を集めた単行本を「カリガリ」というロックバンドのリーダー、桜井青さんのお誘いで、桜井さんのCD付きで発売させて頂きました。描き下ろしの作品も収録しています。
 
 同人誌として販売したため、一般の書店には並ばず、コミック・マーケットや、通信販売などでの販売だったのですが、完売することができました。
 
 もし『薔薇族』がなければ、この本も、こうして漫画を描いて生活することもなかったと思います。『薔薇族』で描き続けた、あの頃の経験のおかげで、現在もこの仕事を続けることができているのだと思います。
 
 未熟で拙い作品を掲載し続けてくださった伊藤編集長には、感謝してもしきれない気持ちです。本当にありがとうございました。
 
『薔薇族』の通信欄で知りあった、M・Iとは現在もずっとアパートで一緒に暮らしていますが、このたび札幌に中古住宅を購入し、ふたりで引っ越すことになりました。ぼく自身は東京に少し未練がありますが、彼の長年の希望がようやく実現したので、一緒について行くことに決めました。
 出発は3月15日の飛行機です。」
 
 出発前に会うことはできなかったが、札幌はM・I君の古里で、お母さんも元気で暮らしているそうだ。
 
『薔薇族』の文通欄で、20年も前に知り合って、ずっと一緒に暮らしている。この話を聞いたら、藤田竜くんも喜ぶに違いない。
 このふたりを取材するために、アパートにお邪魔したこともあった。部屋のなかがきれいに掃除されて、感じがよかったのを覚えている。
 
 このふたり、新潟のぼくの美術館にも来てくれた。M・I君のおじいさんの時代から使っていたという伊万里焼の大きな火鉢を送ってくれたので、ずっと庭においていた。いつまでも仲良く暮らしていてもらいたいものだ。

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2014年3月24日 (月)

同性愛に抵抗を感じる人が多いとは?

 2014年、3月16日(日)の「東京新聞」朝刊の記事を読んで、少なからずショックを受けた。
 
「若い男性 草食化進む=20代8割 恋愛お金がかかる」の見出しだ。若い男性が草食化していることは、最近、よく言われていることなので、驚きもしないが、「同性愛に抵抗感がある」と、答えた男性が68.3%、女性は55.3%もいるということは意外だった。
 
 この調査は白元世論調査会が、3月1日、2日に実施した「結婚・恋愛観」に関する全国面接世論調査で分かったものだ。
 
 ぼくのブログを見てくれている人たちは、『薔薇族』が日本で最初に創刊された、同性愛の雑誌であるということは、手にとって読んだことはなくとも知っている人は多いと思う。ブログを見てくれている人は、「お同性愛に抵抗がある」なんて、答える人は少ないと信じている。
 
 同性愛というものを少しでも理解してもらおうと、長い間、努力を積み重ねてきたぼくとしては、この世論調査の結果には、納得出来ない。
 
 若い女性は男性よりも抵抗が少ないというのは、心理的に同性愛者と距離が近いからだ。異性愛の男性が、同性愛者に抵抗を持つのは、理屈ではなく、生理的にそう思うだけで、それほど強く感じているのではあるまい。なんとなくそう思うだけのことを、調査員にこたえてしまったのでは。
 
 今の世の中、正社員になれず、アルバイトで賃金も安い。暗い世の中だから前途に夢や希望が持ちにくい。恋愛などしていられないのだろう。
 
 確かにふところが寂しいと、性欲も起きないと思うが、かつてはお金があろうとなかろうと、女性と接したい気持ちは本能であって、おさえられるものではなかった。
 
 ぼくらの世代では、お金がないから恋愛はしないなんていう人はいなかった。情けない世の中になってしまったものだ。
 
 82歳にもなって現役ではなくなっているが、女性に対しての欲望は消えてはいない。街を歩いていると、女性に目が向いてしまう。
 こんな気持がなくなってしまったら、生きていてもなんにもならない。渋谷の道玄坂を登って、右に曲がったところに、今でもストリップ劇場が存在している。入ってみたい気持ちはまだまだあるが、シニア料金でも4500円もするので、東急プラザのち家の食品売り場で、お刺身や、生の牡蠣でも買ったほうがいいかと考えてしまう。
 
 ぼくは若い頃から、女性のちらっと見える胸の谷間に魅力を感じている。ブリジット・バルドーの「軽蔑」という、フランス映画の大きなポスターを大事にしている。その谷間は、セクシーで魅力的だ。
 
 警視庁の風紀係の係官がしゃべってくれた言葉が今でも耳に残っている。大股開きの女性のヌード写真集ばかりを出版している出版社への発言だ。
 
「本当のエロというのは、ちらっと見せることではないか」と。
 
 今の若い女性のヌードって、からだは美しいが、色気を感じない。それは普段から、短いスカートをはき、肌を露骨に出している洋服を着ているのだから、それを脱いだところで色気が出るわけがない。
 
 昔の女性は肌を見せるということは少なかった。だから着物の襟元から見える、首筋には、ぞくっとする色気を感じさせた。
 
 今の女性は男に求められれば、すぐにからだを許してしまう。昔はそこまでたどりつくのには、大変な時間がかかった。だからこそたどりついたときのよろこびは大きかった。
 
 時代が変わってしまったといえば、それまでだが……。

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2014年3月22日 (土)

柳行李をひとつ下げて

 毎週、木曜日、夜9時から「テレビ東京」の番組「和風総本家」と、10時からの「カンブリア宮殿」は、かかさず見ている。
 
 他局のお笑い芸人を使った番組は、見るに耐えない。今、一番個性的な番組を制作しているのは、「テレビ東京」だろう。
 
 先週の「和風総本家」で、柳行李を製作し、修理もしている職人が紹介されていた。柳行李を製作している職人は、現在では何人もいないそうだ。
 
 ぼくは柳行李には、忘れられない思い出がある。ぼくの母は、確か明治42年生まれ。平成10年の1月10日に、88歳で亡くなっている。
 
 母は救世軍の兵士でもあったので、葬儀は神田神保町の救世軍本営で、盛大に催すことができた。祭壇に飾られた、ぼくが撮った遺影と、その周りに白い菊の花が。その菊の花の中に柳行李が飾られていた。
 
 その柳行李は、母が15か16歳ごろ、古里の岩手県の「沼宮内」(森岡の先、弁当売が駅弁を売っていると、駅員が「うまくない、うまくない」と声をからすという笑い話がある小さな駅)から、また、山の中にバスで入ったところの村から、身よりもない東京に出てきた。
 
 上京する人がいて、連れてきてくれたそうだが。
 
 当時、電話もなかっただろうし、どんな手段で、就職先と連絡をとっていたのだろうが。「甲子社書房」という、佛教書を出版していた、小さな出版社の社長の家に、女中(今のお手伝いさん)として、住み込みで働くことになったようだ。
 
 母の父は、飼っていた馬にけられて死んだと聞いたから、貧しい家に育ったのだろう。吉原などの「廓」に売られなかっただけよかった。
 
 戦時中、小学生の頃、母に連れられて、母の古里を尋ねたことがあったが、ひどいところだった。
 
 電気はあったかもしれないが、ガスや、水道なんてあるわけがない。川の水をかめにくんできてそれをのんでいた。
 
 トイレは平らにけずった丸太を2本渡してあって、そこで用をたす。落ちたら大変だ。紙なんてなくて、草の太い幹を鋭利な刃物ですぱっと切ったものが、かごの中に置いてある。それでおしりを拭き取るのだろう。
 
 東京に住んでいたって、その頃は今のようなトイレットペーパーなんてあるわけがない。雑誌や、新聞紙でおしりを拭いていたのだから。
 
 冬になって雪に埋もれてしまえば、小学校にも通えなかったかもしれない。母は小学校しか出ていないから、ろくに字も書けなかった。
 
 そこの出版社に勤めていた、父と出会って結婚したということだ。
 父は母のことを馬鹿にして、好き勝手なことをしていたが、母は辛抱するしかなかったのだろう。
 
 ぼくの姉と、妹ふたり、4人兄妹を育てて、食べ物のない戦時中を生き抜いたのは、母の辛抱強さがあったからだ。
 
 ぼくが成人して、父の出版の仕事を手伝うようになったが、食べさせて、小遣いを少しやっておけばいいという考えからか、給料などもらったことがなかった。
 
 母にも計算ができないからという理由からか、一日に千円しか渡さなかったから、近所の人の和服をぬったりして、お金を稼いでいた。
 
 72歳で父が脳軟化症で倒れてからは、母なしでは父は生きていけなくなり、それからは母の天下だった。一度も行ったことがなかった母の古里にも行ったようだ。
 
 母が残した古い柳行李は、ぼくの宝物だ。

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2014年3月17日 (月)

ベッドからころがり落ちてしまった!

 ぼくの部屋は、6畳で仕事部屋兼寝室だ。壁面には、軍帽、美術館で飾っていた絵画などが、ところ狭しと並んでいる。
 
 昨年の12月に『ぼくどうして涙がでるの』を復刊した折に、日活(株)の社員の佐藤美玲さんが、49年も前の映画のポスターを探して送ってくれた。
 
 電話の声しか聞いたことがないが、名前のとおり、鈴のように美しく、優しい声の女性だった。感激したぼくは、ヨーロッパの古い絵はがきなどをお礼に送ってあげた。
 
 年が変わって、石原裕次郎さんのカレンダーを送ってくれた。通販でぼくは裕次郎さんの「カバーソング・コレクション」全5巻のCDを買い求め、寝る前にベッドの中で聴いている。
 
 昭和の時代にヒットした曲を裕次郎さんが歌っている。「小樽のひとよ」「くちなしの花」「シクラメンのかほり」など。ヒットした歌って、曲もいいが、なによりも詞がいい。
 
 裕次郎さんの歌声は、甘く、やさしく、心にしみる。さすが昭和の大スターだ。他人の歌を自分のものにしてしまっている。
 
 朝起きて、ベッドの上にあがって、カーテンを開けた。壁に飾っている、フリーマーケットで300円で買った、くまだか犬だか分からないぬいぐるみの人形と、いつだったか道路を歩いていたら「ご自由にお持ちください」と書いてあり、ダンボールの中におもちゃやぬいぐるみなどが入っていた。
 
 その中に、北海道のおみやげ品だと思うが、熊よけのすずが目に入った。すずの部分の絵は手彩色だ。安物ではない。それなりの値段がしただろう。
 
 ちょっと飾っている位置が悪いので、画鋲を直した瞬間、もろにベッドからころげ落ちてしまった。
 
 ぼくより2歳年上の姉が、去年の暮に部屋の中で、つまずいてころげ、手首を骨折したという話を聞いたばかりだ。
 
 ころがり方がよかったのか、手足はなんでもない。頭をうったが、コンクリートの壁でなくて、扉は薄いベニヤ貼りだったので、コブもできなかった。
 
 腰を強打したが、押せば痛いけれど、たいしたことはなかった。永六輔さんもころんで大怪我をしたようだが、老人がころぶのは一番こわい。寝込んでしまったりしたら、歩けなくなってしまうからだ。
 
 ベッドの上は、ふわふわしているから、一瞬よろけてしまったのだろう。ぼくはありがたいことに、杖なしでいつも歩いているのだから、これからは用心してころばないようにしなくては。
 
 カフエ「つゆ艸」のご主人に、腰を打つと、翌日から痛くなるとおどかされたが、だんだん、痛みもなくなってきている。
 ぼくはどんなときでも、打たれ強い人間なのかもしれない。

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2014年3月15日 (土)

15歳の少年からの手紙

「私は30代後半の今日まで、ずっと少年を愛し続けてきた。少年愛者は君たちが法的にいう未成年者であるので、立場上責任があるだけに悩みはより深刻なんだ。
 
 いくら好きでたまらない少年がいても、そこに性が介在するだけに法的(社会的)な罪悪感が生じ、声すらかけられないでいる。また少年愛者は年をとると共に、悲哀も深まる。なぜなら少年との差が広がれば広がるほど、少年との関係がますますできにくくなるからだ。
 
 少年愛者は、その肉体と同等に精神を愛するし大事にする。そのへんがこの世界に多いセックス・ワンステップの人たちとは違うところだ。
 
 過日も博多に出かけたとき、公園でスケッチをしている中学生数人と出会った。私が絵を描くことを仕事としているので、いろいろと助言をしたが、みんな素直で無邪気で、別に私を怪しむでもなく、すぐに打ちとけてくれた。
 
 なかでもとくにアドバイスを積極的に申しでるおとなしそうな少年に、すごく心をひかれ、絵の助言をしながら、彼の中学生活のこと、将来のことなどを聞いたりしているうちに、3時間があっという間にすぎてしまった。
 
 他の用事できたので、仕方なく心を少年たちに残して、そこを立ち去ったが、そのときみんなが「ありがとうございました」と言ってくれたことが、とてもうれしく、今でも耳に残っている。
 
 少年を愛する大人って、どんな人なんだろうと思っていると思うが、少年愛者は少年の無邪気、素直さに救いを求めているのだ。少年から甘え慕われ、頼られているときが、一番心が満たされるのだ。
 
 こんなことは滅多にないことだが、『薔薇族』の文通欄を通じて、15歳の高校生、ノブヒロ君から写真同封の手紙が届いた。
 
「思いきって勇気を出して手紙を出した。ぼくは一人っ子で、なんでも話せる兄が欲しい。断りの手紙でもいいから返事をほしい」といった、切実な手紙だった。
 
 このときの喜びは筆舌に尽くしがたく、早速、浮足立つ思いで、相手が少年であることをよくふまえた上での返事を出した。
 しかし、10日を過ぎても返事がない。ひょっとしたらと思っていたら、案の定、少年の母親から私が出した手紙と、写真を同封した手紙がきた。
 
 内容は、あなたの手紙を読んだ。私どもとしては、ひとり息子であるので、今後、一切手紙など出さぬようにお願いする。息子には手紙を見せていない。といったものだ。
 
 私はがっかりしたというよりも、むしろこの母親に憤りを感じた。これが一般的な母親なのであろうが、息子にきた手紙をいくら保護者とはいえ、独断で読み、かつ返送し、それで息子の問題を解決しようとしている母親。
 
 だからといって母親を説得しても理解してもらうことは不可能だし、かえって結果は悪くなる。
 
 でも私としては、ノブヒロ君、君自身からでた欲求に対する切なる勇気ある行為(手紙を出したこと)に対する大人への不信感の方が大事。なんとかして彼に連絡をと、電話帳であたりをつけ、やっと彼に連絡をとることができた。
 
 でも私との電話応対で、母親に気づかれてはと思い、簡単に返事を出したが、母親に読まれ、そのまま返送された。詳しくはあとで話すので、君の方から電話を必ずかけるように頼んだ。しかし、電話は少年からかかってこなかった。(後略)(福岡県・少年愛者)」
 
 今の時代、少年愛者は声をあげられない。36年も前の少年愛者がどんなことを考えていたのか、紹介していきたいと思う。

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2014年3月10日 (月)

今どきの子どもも感動させた!

 ぼくと妹の紀子(みちこ)との共著『ぼくどうして涙がでるの』は、昭和40年(1965年)今から49年も前に、第二書房から出版された。
 
 当時の「朝日新聞」の力は偉大で、記事になるや、ものすごい反響で、ついに昭和40年秋の芸術祭参加作品として、日活で映画化されてヒットし、本もベストセラーとなり、心臓を病む人々の心の支えともなった。
 
 スペースシャワーネットワーク社から48年ぶりに、編集部の岩崎梓さんの熱意で、昨年の12月に復刻されて発売された。
 
 しかし、時代は代わりネットの時代、本を読む人は少なくなり、以前のようには売れないが、いいものはいい。読んでくれた人は感動し、涙を流してくれている。
 
 2月28日(金)の夜、40年の歴史を持つ「雑学倶楽部」から、出版賞が贈られ、岩崎さんに表彰状と賞金、そして花束が贈られた。
 受付でサイン本がすべて売りきれてしまった。骨を折って本にしてくれた、岩崎さんに少しは恩を返せたということだろうか。ぼくもうれしかった。
 
 孫が代沢小学校の6年生、先生に頼まれて授業の始まる前の10分間、ぼくに『ぼくどうして涙がでるの』を子どもたちに朗読して話をする時間を与えてくれた。
 
 ぼくはこの本に登場する、妹と同室だった5歳の坊や、和ちゃんが手術室に運ばれていくくだりを読むことにした。
 
 妹が入院していた東京女子医大の心臓病棟401号室には、患者から患者へ、言い伝えられるジンクスがあった。
 
 手術室に運ばれていく手押し車の上で、患者が涙を流したり、見送るものが泣いたりするとその患者が死ぬというものだ。そんなジンクスが生まれるほど、当時の心臓手術は大変で、医師から成功率は5分5分とか、4分6分とか宣告されたものだ。事実、妹が入院しているときに、何人も亡くなった人がいた。
 現在はすべてが進歩して、成功率は9割だそうだが……。
 
 和ちゃんは手術室に運ばれていくときに、ジンクスのことを知っていて、懸命に涙をこらえていたが、自然に涙がぽろぽろと頬をぬらすので、「ぼくどうして涙がでるの、教えてよ看護婦さんと聞いた、弱々しい最後の言葉をタイトルとしてつけたのだ。
 
 阿川佐和子さんが、推薦文に「答えられない。だから私も涙が止まらない」と、書いてくれた。
 
「伊藤ちゃん、松井ちゃん、松永ちゃん、水野ちゃん、4人のうち、だれかぼくとかわって……」
 悲痛な和ちゃんの叫び声だった。
 
 麻酔薬が、和ちゃんの細い腕にぶすりとさされた。そして白い着物を着せられた。大きすぎて、足が引っかかってしまうほどだった。
 お父さんがベッドから和ちゃんを抱き上げて、手押し車にのせようとしたが、しっかりお父さんの腕をつかんで、なかなかはなれなかった。
 
 みんなが車にかけよって、かぶさるように和ちゃんの顔に目をそそぐ。
「ぼくどうして涙がでるの、おしえてよ看護婦さん」
 毛布をかけようとしている看護婦さんに聞いたが、だれも答えることはできなかった。和ちゃんは涙をこらえて歯をかみしめていた。それでも、いくつも、いくつも美しい宝石のような涙が頬をつたわって落ちた。
 
 お母さんが目頭を押さえて泣いた。みんな泣いた。静かに手押し車は動き出した。」
 
 このまま、和ちゃんは元のベッドに戻ってくることはなかった。
 小6の子どもたちの胸にぼくの話がひびいただろうか。
 
 女の子が学校から帰って、母親に涙をこらえて聞いた話を報告したそうだ。図書室に置いてもらった本も、ひっぱりだこでみんなが読んでいると、先生が電話をかけてくれた。
 
 アマゾンに注文して、ぜひ、読んでほしい。読まなければ感動もしないし、涙もでないのだから。

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2014年3月 8日 (土)

妻に隠しとおすという努力!

『薔薇族』の読者の投稿欄「人生薔薇模様」は、タイトルどおりで、当時の読者のさまざまな生き方がにじみ出ている。
 
「ぼくは30歳。妻と子どもが早く寝静まった夜や、外出した日には、必ず結婚前からの性癖の血が疼きだす。
 
 ショートパンツ、野球部時代のユニフォーム、ジャンパーなど、どれも性に目覚めた頃の青春のシンボルとしてなつかしい。
 
 先日、つめえりの学生服を着てみたら、なんとか自分のからだに合ったが、ユニフォームを着たら、ウエストや腰がピチピチ。水泳パンツは超ビキニのサイズに小さくなっていた。
 
 社会人になっても身長はあまり伸びないが、力仕事をしてきたために、肉づきが増してきたからだ。
 
 思い出の衣類は処分するには未練があり、孤独な自慰の媒体として、いつもしまっておいてあるのだ。
 
 14年ほど前、グローブの皮の匂いと、思春期の汗の匂いに包まれた、野球部の更衣室の中で、まだ坊主刈り頭のぼくは、尊敬と憧れの先輩にからだで自慰を教えられた。
 
 先輩に対して「嫌らしい」という抵抗はなく、悪ふざけながら明るいムードの中で、先輩の全てを知ったような親しみを感じた。
 
 奥手なぼくに、いろいろと教える先輩も結構楽しんでいるようだった。今でも外で素朴で体格のいい少年を見かけると、心が落ち着かなくなってくる。
 
 夢精しか知らなかったぼくは、自分の手で意識的に射精をする快感が、新鮮で強烈に脳に焼きついている。それからは自慰をしてからでないと、勉強に手がつかないという習慣がついてしまった。これは誰もがくぐる「青春の門」なのだろうか。
 
 先輩とぼくは、更衣室にふたりだけ残って、ジャンパーの上からシュルシュルとからだをなで合ったり、折りまげたカッターシャツのそでの厚みまで汗でしめらせて、半ムケのペニスをこすり合ったり、学生服の金ボタンが擦れ合って、ちぎれてしまったこともあった。
 
 面倒くさがりやのぼくは、今まで長髪にしたことはあまりなく、ひたいの汗どめのため鉢巻をし、夏はランニング姿で仕事をしている。
 
 ぼくの妻はこれといった欠点はなく、ぼくの親と同居してくれて、よくつくして面倒をみてくれている。ぼくを一家の柱として、完全に信頼し、ものの考え方も、ぼくと適合している。
 
 この世の中、ほぼ男女半々の人口で成り立っている。だから一生を独身で異性を知らなくては、半分の人生しか分からない。そのためには観念ではなく、異性と一緒に生活をしてみなくては、ほんとうのところは分からない。
 
 社会的に一人前になるための自己成長の条件、それが結婚ではないかと考えている。
 
 ぼくは夫婦愛を大切にしたい。セックスは愛のプロセスであって目的ではない。この言葉は、わがままを抑え、前向きな夫婦生活のキャリアのある者なら、誰でもうなずける事実だろう。
 
 われわれは妻とのセックスに対する良心の呵責にこだわらない。おおらかさが必要だ。家庭の破壊とならないように、自分の性癖をあくまで隠し通す努力をしている。
 
 ぼくは『薔薇族』を買うと、いったんは勤務先のロッカーの中に保管し、数冊たまると古本屋に行って売り、処分することにしている。」
 
 愛知県のQさんからの投稿だが、地方に住んでいるから、このような生活が送れているのだろう。男が好きだということを隠し通す。この人のこれからの人生は長い。大変な努力が必要だろう。

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2014年3月 3日 (月)

もう一度、肩を並べて歩きたかった!

『薔薇族』には、「人生薔薇模様」という頁があった。それは読者の投稿欄で、毎号載せきれないほど投稿が多く、それも長文のものが多かった。
 
 いろんな悩みや、体験談が書かれているが、ワープロなんてない時代だから、びんせんや原稿用紙にびっしりと自筆で書かれている。
 
 これは埼玉県所沢市の高校生からの投稿だ。
 
「大学の合格発表も終わり、4月から大学生となるうれしさでいっぱいの今日このごろだ。
 
 実はぼく、今から1年10ヶ月前、高校1年のとき、同じ高校3年生の先輩、A・Mさんと付き合っていた。
 
 朝の通学のとき彼を駅で見かけて、かっこいい人だと、男のぼくでも思ったりしていた。1年生からは、3年生はまるで雲の上の人で、声をかけることなんてできません。まして声をかけられることは、一種の今日でもあった。
 
 そんなある日、ぼくにとって恐ろしいことが起こってしまう。
 
 いつものようにぼくは友人のSと一緒に、電車に乗っていた。それが電車の揺れで、ぼくはA先輩の足を踏んでしまった。
 ぼくはあわてて「どうもすみません。ごめんなさい」と、ペコペコ頭を下げたのだが、A先輩はひとこと「あとで俺の部屋に来い」と……。
 
 A先輩は柔道部だ。友人のSは他人事のように、「健二、もう命がなくなるぞ」と、からかった。学校でぼくはSに頼んだ。「頼むから、一緒に行ってくれよ」と。
 
 行かないわけには行かず、ぼくはひとりで柔道部の部室に行った。部室にはA先輩しかいなかった。
 
 中に入ると先輩は、「お前、いつも所沢から乗る健二だろう。俺、前からお前に目をつけていたんだ。足を踏んだことは勘弁してやるから、俺の弟分になれ!」
 
 ぼくは恐ろしくて、さからえなかったから、先輩にくっついていた。学校では金魚のフンのようで、学校から帰ると、先輩の家に遊びに行ったり、宿題を見てもらったりした。
 
 そのときは、なぜ先輩がこんなに優しくしてくれるのか、わからなかった。もちろん『薔薇族』の存在さえも知らなかった。
 
 そんなある日、先輩にいきなりキスされてしまった。いやだったけれど、先輩が恐かったから、さからえなかった。
 
 それからぼくはもう、先輩と付き合うこと、また会うことさえやめてしまった。彼がきたならしくみえて……。
 
 それから半年後、先輩は卒業してしまった。ぼくが2年生の夏休み、先輩から手紙が舞いこんだ。
 
「俺が悪かった。何も知らない健二にあんなことをしてごめん。でも、この広い世の中には、俺のように男が男を好きになる人種がいることも知ってほしい。俺は今、大学で柔道に打ち込んでいる。君のことを忘れるために。ここに『薔薇族』を一冊送る。見たくなかったら捨ててもいい」
 
 ぼくはそのとき、初めて『薔薇族』を手にした。そして、ぼくも先輩のようにホモかな? と思ったりもした。
 
 じつは先輩に捧げるこんな詩を書いた。彼もきっとこの『薔薇族』を毎号読んでいると思う。直接、話ができたらと思うが、もう過去のことだし、それに彼には新しい恋人がいるようなので……。だから片隅にでもいいから、この詩をのせてほしい。
 
「昨日、あなたに似た人を見ました。忘れたはずなのに、心がときめいて、そして、初めて気がつきました。あなたを愛していたんだと」(長いので以下略)
 
 A先輩も、健二くんも、純な気持ちの持ち主だったんでは。ほほえましい。無理やり、手ごめにしてなんてことをしなかった。いい思い出としてふたりの心のなかに残っているのでは。

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2014年3月 1日 (土)

第27回「伊藤文学と語る会」

来る3月29日(土)、下北沢のカフエ「占茶」にて、第27回「伊藤文学と語る会」を開催致します。
日時・3月29日(土)午後12時~14時
場所・下北沢一番街、カフエ「占茶」
会費・各自が飲食した分だけ。コーヒー¥380、ハヤシライス¥600
初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎!
お気軽なご参加を、お待ちしております。
世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階
電話・03ー3485ー8978

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