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2014年5月

2014年5月31日 (土)

欲望ははてしがない!

『薔薇族』の読者の性行為の初体験は、男の兄弟からというのが多かった。35年も前の日本は、子供の数は今の時代に比べれば、多い時代。子供部屋を兄弟で使っていたとなると、お互いにいじりあったりすることになってしまう。
 
 この投稿は、大学2年と、いとこの小6の男の子の話だ。
 
「僕は東京のH大学に通う、 20歳の大学2年生。自分がこの世界の人間だということを知ったのは、中学の時、そうだ同級生の男の子を好きになってしまった時だ。それ以来その傾向がますます強くなり悩んでいた時、偶然『薔薇族』があることを知った。
 
 むろん18歳の夏の前までは、この本を読んだり、また好きなタイプの人(短髪のスポーツマンタイプの兄貴や弟)を見ては、胸をときめかせているだけの僕でした。しかし、 18歳の夏に初めて経験してしまった。
 
 しかも、相手は、好きになってはいけない小学6年生のいとこだった。嫌がるいとこを無理やり犯したのではと思いだろうがそうではなかった。
 
 いとこは目がぱっちりしていて、短髪で背が145センチくらいのとてもかわいい、見るからに幼い少年だ。
 そんな無邪気そうに見えるいとこが、テレビを見ている僕に、「ね、チュウしようよ」と言って、だきついてきたのだ。
 
 僕はおじさんに見られたら大変と、振り払おうとしたが、そんな大したことでもないから「してくれ」と言うんで、キスをした。
 さらにいとこは、キスだけにとどまらず「ねえ、オチンチン見せてよ。ちょっとでもいいから触らせて」と言い出した。
 
 その夜、一緒に寝ることになり、ぼくは再三に渡る彼の要求を断りきれず、オチンチンを見せ、触らせてしまった。次にいとこは「僕のも見せてあげるよ」と言って、パジャマをおろし、そしてパンツも下げ、かわいく誇らしげに勃ったものと、かわいいタマをぼくに見せた。
 
 それまで理性で必死に押し殺していた性欲が爆発した…。
 
 いとこも、かなりその気になって、幼いながらも興奮して、ぼくとのキスにも積極的に応じ、性器の擦り合いや、相互オナニーという行為にまで発展してしまった。
 
 彼はまだ6年生、しかも、体は小さいし、初めてやる行為ということで、射精はしなかったが、盛んに「ああ、とってもいい気持ちになる」と言っていた。
 
 僕はいくら理性を失ったとはいえ、幼く性知識に乏しい彼に、精液を放出することはできず、ぐっと押し殺し、寸前のところでやめてしまった。
 
 問題はそれからだ。その夏休みはそこまででおさまったが、去年の春休み、そして夏休みには、そんな行為では足らずに、キスの回数や性器をいじり合う回数も増え、ついには裸で抱き合ったり、尺八するまでに発展してしまった。
 
 いとこも多少は、その気があったのかもしれないが、あくまでも僕を大好きなお兄ちゃんとして、いろいろなことをしてみたい、見てみたい、と思っただけで、それ以上の意味はなかった。
 
 つまり愛しているなどという感情がなかったことは、今になってみればよく分かる。しかし、僕はそんないとこの気持ちも冷静に判断できずに、ブレーキの利かぬ馬車馬のように突っ走ってしまった。
 今になっては、とても後悔している。自分でまいた種、自分で刈り取らねばと思うものの、どうしたら良いか、悩んでいる」
 
 東京のHさんの投稿。その後、冷静に判断したのでは…。

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2014年5月26日 (月)

ホモと言われるたびに会社をやめて!

 1971年、『薔薇族』を創刊してから、7,8年経った頃だったろうか、よき相棒の藤田竜君が、読者にたいして気に入らないことがあって、やってしまったことがあった。
 
 仕方がなくて、どこで知り合ったのか忘れてしまったし、名前も覚えていない、美大出の若者を編集に迎えたことがあった。
 
 何カ月もしないうちに、藤田竜君が戻ってきたが、その青年と竜さんはうまくいかずすぐに辞めてしまった。
 
 その青年が発案し、デザインしてくれたと思うが、トヨタのワゴン車の横っ腹に『薔薇族』と入れて、都内を走り回ったことがあった。
 
 その頃から『薔薇族』の知名度は高かったので、街中を走っていると、他の車から注目された。わざわざ側に寄ってきて、窓を開けて、タクシーの運転手さんに「がんばってください」と、呼びかけられたこともあった。
 
 この読者の投稿は、ぼくのことを見かけたときのことをかいている。
 
「10年前、僕は中学校を卒業して、東京のある会社で働いていた。楽しい仕事ではなかったが、毎日、トラックに乗って走るハイウェイから見る東京の街が好きだった。
 
 人も車もいっぱいで、つまらないことなどどこかへ飛んでいってしまい、楽しい気分になれる一時だったからだ。
 
 働き始めてから3年くらいたったころから、会社の人たちが僕のことをホモだ、オカマだと言い出した。
 なぜ、そんなことを言うのだろう? 男の人を好きになったこともないし、男の人と寝たこともないのに。
 僕は悩んだ。毎日そのことで頭がいっぱいだった。ハイウェイを走っていても、以前のように楽しい気分になることはなかった。
 
 そんなある日、いつものようにトラックに乗って走っていると、車に『薔薇族』と大きく書いてある車と出会った。変な車だなぁ、トルコ(ソープランドのこと)か、キャバレーの車かな。
 
 僕は珍しいものを見るような目で、その車を見ていた。すると、その車を運転していた人が僕に気づき、ニッコリ笑いながら、僕に向かって手を振りだした。
 変な車に変な奴―僕がそう思って見ていると、僕の車を運転していた同じ会社の人が、僕の顔をまじまじと見て「ホモが…。」と、一言だけ言った。気が弱くて喧嘩も弱い僕は、言い返すこともできなかった。(投稿者 練馬区のMKくんはまだ『薔薇族』を知らなかった。同乗者の会社の人の方が知っていて、「ホモが…。」とつぶやいたのだろう。あの時代だって、車の車体に商品の広告を大書きして、走っていた車はいくらもあっただろうが、こういう見方をされることはなかったに違いない。)
 
 僕をホモ、オカマとうわさする会社にいることが、できなくなり退社し、特別職国家公務員となった。
 そして5年間、新しい仕事場でも、ホモといううわさが流れだしたのです。なぜだろう。女みたいな言葉を話すわけでもないし、女みたいな仕草をするわけでもないのに、男性と関係さんは、たったの一回だけなのに…。
 
 お前はホモだと言われて10年たった。ホモとうわさされるたびに会社を辞めて、今は無職である。
 働こうと思えば、どんなことだってできる。しかし、ホモとうわさされるのが怖い。だからといって、ゲイバアなどで働くことはできない。どうしたらいいのか。誰か教えてください。」
 
 こういう人の話は、何度も聞いたことがある。まさか今の時代にはこんな人はいないだろう。遠い昔にはこんなことがあったのだ。
 

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2014年5月24日 (土)

『薔薇族』の読者は、M検に興味が!

 東京都の「花の中年課長」さんが、34年前の『薔薇族』の投稿欄に送ったものだ。
 
「小生、昭和11年生まれですから花の中年、日本最大の電器メーカーの課長ですが、この道だけは別、女房、子供はいるものの『薔薇族』フアン、時々買って、会社にも、家庭にも内緒で読んでいる。
 
 私が横須賀海兵団からの福井青年から聞いた話だが、素っ裸で全種目の身体検査受ける時、M検もケツ検も、幕やカーテンはなかったとか。
 
 特に横に並んで他人のM検を見ているうちに、勃ってしまう奴がいて、そういう男はM検の最中に、またはケツの穴に指を入れられたとき、射精してしまったそうだ。
 
 入隊して最初の6ヶ月は外出禁止。女っ気なし。女の顔も、体も全く見ないで、毎日オイッチニ、オイッチニをやっているのだから、マスぐらいではとても追いつかず、毎月1回の身体検査の時、M検の刺激−−とくにむかれ、しごかれたときの痛みで、完全に射精してしまうものが多いようだ。
 
 M検は帝国海軍・陸軍の専売特許ではない。今でも自衛隊は厳しくやっている。(現在の自衛隊のことはわからない)
 
 私は昭和30年に関西にある、国立のK大学に入ったが、当時は全国の国立大学はすべて入学試験でM検をやっていた。
 
 当時の『蛍雪時代』の進学相談にのっていたし、旺文社の『大学受験案内』に、各大学の「身体検査科目」の横に、M検とはっきり書いた大学がなんと多かったか。
 
 私が中学の時、友人から聞いていたので、半ば恥ずかしく、半ば期待を持って、身体検査を受けた。(その後、売春禁止法が成立したからか、M検をやらなくなってしまった。)
 
 いよいよ私の番だ。私も半勃ちの状態、私もそうなので、ほとんどの人が包茎だったので安心した。
 医師は玉を握って、ぐりぐりやってから、いっぺんにぐいっと皮をむいて、風亀頭溝でとめ、さらにもう一段、上までむき上げると、皮をゆるめ、股間を左手で強く押しながら、右手で尿道を強く何回かしごいて、「よし」と言った。
 
 期待していた割には、あっけなかったが、恥ずかしさと、興奮を伴って、快いものだった。私の前で受けた男は、皮がむけたままで戻らないらしく、パンツの中で両手をもぞもぞとやっていたが、諦めて次の検査場へ向かったが、パンツはつっぱり、こすれて痛いらしく、満足に歩けないありさまだった。
 
 私はなるべくゆっくりパンツを履き、ひもを結んで、私の後ろ二、三人のM検の様子を横目で眺めて、眼科のほうへ行った。
 
 M検の目的は「娑婆っ気を落とす」ことかもしれない。そうでなければ、もっと人の目に触れないように、こっそりやればいいのだから…。
 
 自衛隊や、防衛大、商船大なども血液検査で足りるのに、素っ裸で他人に金玉を握らせるのは、やはり運命共同体として、団結させるためだと思う。
 そして、その伝統は今は大学や高校の運動部に連綿と連なり、上命下服、絶対服従の名のもとに、全裸、M検は上級生から下級生に対し行われているようだ。」
 
 韓国から日本に留学してる女性たちが、日本の男性は男らしくないと、テレビで語っていたが、韓国の男性は2年間の軍隊生活を送っているから、鍛えられているのだろう。
 
 韓国や、北朝鮮の軍隊では、M検なんてものがあるのだろうか。軍隊は性病を一番恐れていたから、M検があった。それにしても『薔薇族』の読者は、M検に興味が強かった。

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2014年5月19日 (月)

「母の詩集」「父の詩集」を出したひと

「母の詩集」を出した人は多いが、なぜか「父の詩集」を出した息子は少ないように思われる。
 ぼくも自分の父のことを思い出してみた。父親に連れられて旅行に行った記憶はない。
 大学生の時代から、 1人で出版の仕事をしていた父の使い走りをしていて、大学を出てからもずっとどこにも勤めずに過ごしてしまった。
 父親から仕事のことで教えてもらったことはない。なんとなく見よう見まねで覚えていただけだ。
 
 父親とじっくりしゃべったこともなかった。今、考えてみると、父に反抗することもなく仕事をこなしてきたのだから、親孝行な息子だった。
 ただ、 働いても給料くれないのには閉口した。いちどだけたまりかねて、渋谷の大盛堂書店の社長とカフエで出会い、就職を頼んだことがあった。
 
 コーヒーを飲み干してから、コーヒー茶碗にコップの水を入れ、それに砂糖入れて飲んだ社長。こんな社長の下では働けないと思った。
 案の定、大盛堂書店、従業員のストライキがあって大変だった。紀伊国屋書店などは次々と支店を増やしていったが、大盛堂書店は社員を育てられなかったのだろう。
 
 。大盛堂書店に勤めていたら、日本最初の同性愛誌『薔薇族』誕生しなかった。とんでもない父親だったけれど、先妻のミカが学業半ばで、養父母を捨てて、我が家に転がり込んできた時、父母も何も言わなかった。
 
「 父の詩集」の著者、池上和彦さんは、昭和22年生まれ、中央大学法学部卒業。弁護士の夢を捨て、公務員生活を定年まで勤められた方だ。
 
 何もいる兄弟の末っ子だから、母親に可愛がられたろうし、母親思いは当然のことだ。
 2006年8月発行の「母の詩集」(株)童話社刊・定価・本体¥1,200+税)は、「平成3年(1991年)秋、認知症と診断され、その当時、母は父と2人で暮らしていたが、翌4年春、私は両親と一緒に暮らすようになった。
 平成9年、母は消えるように息を引き取りました。その間の詩の数は、 190篇になりました。」とあとがきにある。
 
 それをまとめたのが「母の詩集」だ。
 
 いつ
 
 1人でトイレに行かれなくなったのはいつ
 1人で歩けなくなったのはいつ
 1人で食べられなくなったのはいつ
 1人で風呂に入れなくなったのはいつ
 どれもいつからと答えられない
 
 看病でも介護でもなく
 いっしょに暮らしているだけだったから
 
 日記のように書き綴った、母への思いも詠った詩は胸を打つ。天国の両親もどんなにか池上さんの心の優しさを幸せに感じていることか。
 
 「父の詩集」は、この春、㈱コールサック社から刊行されたばかり。書店でも、アマゾンでも扱ってくれるそうだ。ぜひ、読んでもらいたい。
 
 音量
 
 テレビは最大の音量にする
 最大の音量にしても内容に変わりないが
 父は最大の音量できく
 二階で私は最大の音量をきく
 
 ぼくの2人の息子、父親のことなど、何も考えていないだろう。歳はとりたくない。

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2014年5月17日 (土)

懸命に今日まで生きてきた!

 文芸春秋社の『オール読物』編集部の角田さんから、 「伊藤文学様 先月は取材をお受けいただきありがとうございました。記事の反響がありましたのでお送りします。」と添え書きがあり、『オール読物』4月号の記事を読んでの反響が送られてきた。
 
たった1通だけの反響の手紙だけど、何百通の手紙よりも重みがあり、嬉しかった。「 4月号の「『薔薇族』は不死鳥のごとく!」を一読。感慨深いものがあった。
 『薔薇族』創刊は、高校入学の時と重なるが、それ以来、毎号の発売を楽しみに、発売日には、私鉄で3つ先の駅まで行き、その都度、書店を変えて購入した。
 文通欄は利用したことはなかったが、小説、エッセイは何度か投稿し、採用されたことも青春の1ページであると、胸をはって言える。
「鷹宮雅人」というペンネームで、『薔薇族』に採用された小説は、「剃毛少年」「無毛少年」「黒い瞳の誘惑」の3篇だ。
 
 大学に入ってからいちどだけ、伊藤文学編集長と、電話で話をしたことがあるが、その時は名を告げなかった。
 懸命に今日まで生きてきた。思いは乱れ飛ぶ。青春の日は、二度と再び還らず。(和歌山県・匿名希望)」
 
 『オール読み物』編集部の角田さん。よくぞこの手紙を面倒くさがらずに回送してくれた。
 たった1通の手紙だけど、廃刊になって1年余、この手紙で何万人ものかつての読者が気持ちがつながったような気がする。
 最後の言葉、「懸命に今日まで生きてきた。思いは乱れ飛ぶ。青春の日は、二度と再び還らず。」は、ずしんと、僕の胸を打つ。
 
 高校生の時に『薔薇族』の創刊号を手にしたというのだから、この方、70歳を越えているだろう。
 ネットなど、僕と同じ男に触ったことも無い方に違いない。大学も出ておられるようだし、現在も『オール読物』を読まれているということは、かなりのインテリの方ではないかと想像する。
 地方に住んでいる.この時代の方は、女性と結婚しないわけにはいかなかった。「懸命に今日まで生きてきた。」この言葉は、長い年月の苦しみや、悩みがどれだけのものだったかということを考えさせられる。
 
 少年が好きだった人と、小説の題名から想像すると、その苦しみが倍増される。この方、ひょっとしたら教師だったかもしれない。
 それにしてもよくぞ「匿名希望」とはいうものの投稿してくれた。僕のブログを読んでのコメントも書いてくれる人は少ない。
 
 これはぼくだけのことではないだろう。メールなんて便利な物を利用する人がほとんどなのだから、電話もかけないし、まして、手紙を書く人がいないのは当然のことだ。
 
 ぼくは携帯電話も持っていないから、ぼくのブログを読んで、コメントを書いたとしても読んでいないと思うかもしれないが、毎日のように訪れる憩の場、カフエ「つゆ艸」の由美さんが見せてくれている。
 
 身内のものは面倒くさがって、そんなことをしてくれないが、他人様の方が、年寄りを面倒みてくれる。ありがたいことだ。
 
 4月の「伊藤文学と語る会」に静岡から出席してくれた、81歳の男性がいた。他に3人の女性の初出席。初めて出席してくれる人がいると嬉しい。
 本当のところ、もう何年も続けているので、しゃべるネタがなくなっている。ところが静岡から出てきた、 1人暮らしの男性。
 戦後、樺太から引き上げてきてからの苦労話。2時間が彼の独演会になってしまった。1人で住んでいたら、しゃべる相手もいないのだろう。全部吐き出すしまったということだ。

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2014年5月12日 (月)

他人に見られていることで!

 日本発の同性愛誌『薔薇族』を創刊した頃は、異性愛者と結婚しないわけにいかなかった。
 この投稿者もそうだが、苦労して夫婦生活を続けていた。
 
「私、43歳。妻53歳。結婚して10年になるが子供はいない。10歳も年上の妻は母親のようによく世話をしてくれるけど、セックスに関しては結婚当初から淡白で、特にこの2、3年前ごろから、年齢的にも関係があるのか、性交を避けるよになってきた。
 
 私の方はまだまだ旺盛で、妻がそのようだから、もっぱら千ズリで補填している。嫌がる妻を相手にするよりは、むしろこの方が快適だ。千ズリは妻公認だから、彼女の面前でも、おおっぴらにやってしまう。
 
 あるいはまた妻の手で、亀頭をしごいてもらうことも、しばしばである。いちど、妻の肛門に迫ってみたら、ひどい剣幕で拒否され、フェラチオなんぞは、とんでもないことだ。
 
 千ズリは手を変えて、丸めたこんにゃくをはめてしごくのもいいが、野菜のナスを肛門に突っ込み、抜いたり、さしたりしながら、ペニスを千ずるのが最高だ。しかし、これは妻には公開していない。
 
 いちど、実物を受け入れてみたい気持ちがないこともないが、相手を求めるのが怖いようで、せめて男性ヌードの写真でもあれば幸せなのだが……。
 
 私の家の隣は空き地だが、スクラップ置き場になっていて、その隣に一軒の家がある。そのに二階が予備校生の若者の居間のようだ。
 
 夏のある日。
 
 妻は会社にいっていない。私は物置小屋を修理するために会社を休んだ。暑い日盛りと闘いながら、やっと修理を終えた午後。家に入ると全裸になり、戸を開け放して、風を迎え入れ、横に寝転んで涼をとる。
 それは次の行動のセンズリを楽しむまえの休息でもあるのだった。用意しておいた、なすに手を伸ばす。
 
 その時すでに私のものは、硬く、硬く、そり返って、青筋を立てて脈打っている。私は起き直り、なすにクリーム(この時代「ラブオイル」は売っていなかった。ぼくもクリームを塗った記憶がある)を塗ろうと鏡台の引き出しに手を触れようとすると、鏡に向かいの二階の窓に立っている、若者の姿が映っているではないか。
 
 夏休みの若者はブリーフ1枚。ブリーフの中心を盛り上げた若さが、一気に私をときめかせる。若者が見ていることを意識しながら、私はなすを肛門に押し込む。
 苦痛を感じたのは一時で、肛門はなすを吸い込んだ。抜いてはまた押しこむ。この様子に若者が気がつかないはずがない。若者は視線をこちらに向けたと同時に、カーテンをさっと引き寄せた。しかし、カーテンの隙間から、こちらを見ているのは、はっきりとわかる。
 
 私は肛門のなすの抜き差しを繰り返しながら、右手でセンズリにかかった。若者に見られていることが、いっそう、性感を仰ぎ立てるのだ。
 おそらく若者もペニスを立てているに違いない。私は千ズリの手を次第に速度早める。汗がタラタラ流れてきた。
 
 亀頭をしごく手が、いよいよ走る。息も荒くなってきて、とうとう到達。(広島県・谷あなる)」
 
 今の時代、大人のおもちゃの店に行けば、なすなんて使わなくても、危険を伴わない道具を売っている。女性が官能小説を読む時代、女性も1人で楽しんでいるに違いない。ますます子供が少ない時代になっていく!

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2014年5月10日 (土)

東京オリンピックまで生きるぞ!

 ぼくは世田谷学園の同期会のお節介役を20数年もひとりで引き受けている。最初の頃は5、60人集まって、賑やかだったが、年を経るごとに少なくなってきて、2014年、4月19日に、下北沢北口の居酒屋「大庄水産」での同期会は、ぼくを含めて8名という寂しさだ。
 
 ぼくは生来、人集めが好きで、どれだけパーティを開いたか、わからないくらい。会場を見つけて予約し、往復はがきに印刷して案内状を出す。宛名は全部手書き、そして必ず添え書きをして、出席を促す。これは好きだからやれることだ。
 
 世田谷学園に入学したのが、昭和19年(1944年)終戦の年の前年の4月、学校には2年生から上は、すべて軍需工場などに行って、学校には1年生しかいなかった。
 
 東京は連日のようなB29の空襲で、焼野原になっていた。校舎の天井はすべてはがされている。それは焼夷弾が屋根をぶち抜き、天井で燃えるように工夫されていたからだ。
 天井がないのだから、隣の教室の声が筒抜け。勉強どころではなかった。空いた教室には、地方から駆り出されてきた兵隊が止まっていた。
 
 そして昭和20年8月15日、終戦。退役した少尉か、中尉の将校が、学生たちに軍事教練をして、校長よりも威張りくさっていた。
 教官室に置かれた書類や、本などを庭に掘られた防空壕に投げ込み、火をつけて燃やした。
 
 戦争は終わったものの、着るものも、食べるものもない。海軍兵学校の教師をやっていた先生は、海軍の服を着ていたし、スーツを着ていた先生は少なかった。
 
 学校の周りは焼けてしまったが、校舎は寮生たちが焼夷弾を消し止めて無事だった。
 
 こんな大きな日本の変革期に、学んだということは、かつてなかったことだろう。同期生といっても、4年から大学の予科に入学したもの、5年で卒業したもの、新制度になって高校3年まで行って大学に入ったものと、複雑だ。
 
 ぼくのように4年から大学に入ったものは受験勉強なんてしていなかったが、高校3年まで残った学生は、いい大学に入学している。
 ぼくをのぞいて同期生は、東大を出て大学教授になっているし、銀行員、お役人と、みんな優秀な人たちだ。偏差値なんてものがない時代、頭の悪いものも、いいものもいたから、個性的な人間が多かった。
 
 教師もなぜか有能な方が多かった。のちに国学院大学の教授になり、考古学の権威で、ベストセラーも出された樋口清之先生が講師として教壇に立っていた。
 日本が負けると言うことも、早くにしゃべっていて、原子爆弾のことも教えてくれた。
 
 国語の先生は、国学院大学出で、八の字のヒゲを生やした、おっかない先生だった。三田先生(あだ名はサンタ)、学校退職されてから、飯田橋の東京大神宮の神主をされていた。なぜかぼくのことをかわいがってくれた先生だ。
 
 24歳のとき結婚式を東京大神宮で、あげたが、三田先生のはからいで、特別に費用を安く上げることができた。
 その三田先生、渋谷のパチンコ店に勤めていて、同期生の志村くんと、ばったり顔を合わせてしまったと言う。神主さんをやめられてからのことだろうか。お互いにびっくりしたそうだ。
 
 とにかくひどい時代を生き抜いてきた仲間たちだから、まだまだ若い人に負けないぞという元気さだ。
 再び開催される東京オリンピックまでは、なんとしても生きようと、みんなで誓い合った。

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2014年5月 9日 (金)

第29回「伊藤文学と語る会」

来る5月31日(土)、下北沢のカフエ「占茶」にて、第29回「伊藤文学と語る会」開催致します。
 
日時・5月31日(土)午後12時~14時
場所・下北沢一番街、カフエ「占茶」
会費・各自が飲食した分だけ。
コーヒー¥380、ハヤシライス¥600
初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎! お気軽なご参加を、お待ちしております。
 
世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978

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2014年5月 5日 (月)

うさばらしができる話相手を!

 作曲家の古賀政男さん、母のことを語るときに涙を流していたのを思い出す。ぼくにはそんな涙ながらに母を語るエピソードはない。
 太平洋戦争中、そして食べ物がなかった戦後の時代を子供4人を育ててくれたのだから、母は大変な苦労をしたに違いない。
 
 岩手県の山奥から上京して出てきて、小学校しか出ていない無学の母を、父は馬鹿にして女中扱いにしていた。
 
 ぼくにはブログに書くような、母への思いは少ないが、すぐ下の妹が母のことをエッセイに書いている。
 年寄りばかりが集まっているエッセイ塾に妹は参加していた。主催者の先生も高齢で亡くなられてしまって、今は解散してしまっている。
 
『葦の会』と称していたようだが、会員の書いたエッセイをまとめて、年に1回、1冊の本にしていた。
 その中に妹が母のことを書いた「母の浮世床」というタイトルのエッセイがあった。母がいつも通っていた、近所の美容院の「イメージハウス」の女主人と、母との交流が描かれている。
 
「美容室で母は髪を整えてもらいながら、主に父のことを色々と、しゃべっていたようだ。
 昔父が応接間でお客様と話をしているところへ、母がお茶を出しに入る。すると父はすぐに「引っ込んでいろ」と、合図をして追いやったらしい。
 父のことだから粗相があってはいけないとか、器量が良くないということで、人前にはあまり出したくないとでも考えたのだろうか。母はそれを美容師にもらしていた。
 
「ひどいじゃありませんか、ねえ。お茶をお出しするあいだくらいねえ」
 
 母は一方的に美容師に訴えるように語ったらしい。
 昭和30年代の初めごろ生活費として、いちにち千円しか渡されなかったことなどを。父は終戦後から小さな出版社をやっていたが、大して儲かっていなかったようだ。
 それでも直接注文で入金があるとすぐ母に、「早く銀行に行って入れてこい」と怒鳴る。母はちびた下駄をつっかけて、片道10分余りもかかって、駅の長い階段を上り下りし、銀行に駆けつける。それでもなかなか新しい下駄を買って欲しいとは言い出せなかったようだ。
 母は洗いざらい正直にしゃべって気が晴れたに違いない。
 
 この美容師さんは、母の葬式にまで顔を出してくれた。
 母の死後、私はこの美容室へ何度も通った。母のようにこの美容師さんには、心から何でも話せたからだ。仕事のこと、趣味のこと、自分を取り巻く諸々のこと。彼女には母のことを書いた、エッセイ「母」も読んでもらった。彼女と話していると、私の知らない母の顔も見えてくる。話の中で母が生き返ってきた。」
 
 人間、憂さ晴らしができる話し相手が必要だ。ぼくには下北沢南口のカフエ「つゆ艸」のママ、由美さんがいる。
 カウンターに三人にしか座れない。午後1時に店を開け、夕方6時からはイタリア料理の若者に店を貸している。
 
 木曜日は定休日だが、ありがたいことに平日は、ほとんど客が入ってこない。カウンターに座って由美さんを独占だ。
 女房にもしゃべれないことを由美さんには話している。由美さんの笑顔がなんとも言えずかわいい。ところがぼくと同じような、年配の客が2人いて、恋敵のようなものか。
 カフエ「つゆ艸」は、僕の心の癒し場所だ。

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2014年5月 3日 (土)

ヤマジュンの「くそみそテクニック」のようにハードではないけれど!

 ぼくはまったくスポーツとはえんがない。運動会の前日は、雨になればいいと、願っていたくらいだ。
 読者の中の運動部に所属していた若者の性行動は興味がある。これは1970年代の若者の投稿で、今から40年以上も前の話。
 
 この時代の人って、文章を書くのが好きだったのか、どの投稿も長文だから、全文を紹介するわけにはいかない。
 
「中学生のとき、俺は運動部に入った。バスケットだ。ある日、更衣室の棚の中に、サポーターが置き忘れてあるのを見つけた。
 
 俺は何もなかったように、その上に自分の衣類を乗せ、誰のだかわからない、サポーターも一緒に家に持ち帰った。
 自分の部屋で早速、裸になり、そのサポーターをはいてみたら、俺の尻より大きいやつのらしく、少しゆるかった。俺は勝手にとなりのクラスの前から、いい男だなと思っていたやつの顔を思い浮かべて、自分のものをもてあそんでいたら、射精してしまった。
 これが俺のマスのかきはじめだ。
 
 高校は男子校だった。今、考えればチャンスはいくらでもあったろうが、そのときはホモ行為ということが、世の中にあるということさえ、よく知らなかった。もちろん『薔薇族』という雑誌があることさえ知らなかった。もっと早く、この本の存在を知っていたら、俺の人生は、また変わっていたかもしれない。
 
 高校を卒業し、無事にある大学に入学できたが、二年になるとなんだか気が抜けたようで、俺はその年の5月頃、暇をみつけては湘南の海へ行った。
 ただひとりで砂浜にねころび、サーフィンなんてやっているやつを眺めたりして、ひとときを過ごしていた。
 
 脱衣所で服を着替えていると、俺より少し年上の男が後ろから入ってきた。彼の方はあっという間にオールヌードになった。
 俺は形のいい尻なんかに見とれて、ジュニアを大きくさせてしまっていたのだが、その状態を彼に見られて恥ずかしかった。
 
 しばらく泳いで疲れ、砂浜で少し体を休めてから、海の家で衣服を着ようと、脱衣所に入ったら、すでに誰かがいて、カーテンの向こうでシャワーを浴びていた。
 俺もそのカーテンの中に入ったら、そこにいたのはさきほどの彼だった。さっき大きくなっていたのを見られたと思い、格好わるいから後ろをむいてシャワーを浴びていたら、なにか視線を感じる。
 
 振り向くと彼が笑っていた。俺はすぐに視線を逸らして、また後ろを向いたが、背中から彼に抱きつかれてしまった。
 彼のものはすでに固くなっていて、俺の尻を強く刺激した。
 
 しばらく後ろから抱きつかれたままだったが、それから胸と胸を合わせて、お互いに強く抱きしめ合った。
 その後のことを期待する人もいるかもしれないけど、なにもなかった。なぜかと言うと脱衣所に新しい人が入ってきたからだ。
 でもその頃は、見ず知らずの男と抱き合ったということで、自分がどんどん深みに落ちて行くような気がした。
 
 無理してのめり込むことはないと、俺は思う。結果として現在の俺は、ご清潔なものだ。
 これからどうなるかは、わからないが、なるようになるのだ。あまり考えない。」
 
 東京に住む、谷町淳さん。自制心の強い人だ。いろんな読者がいたが、みんなどんな人生を歩んだのだろうか。
 
 どぎつい文章よりも、なにかほのぼのとするものが、伝わってくるようだ。

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