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2014年6月

2014年6月30日 (月)

死に損ないのくそじじい!

 2014年6月7日の「東京新聞」夕刊の小さな記事にショックを受けた。
「横浜の中三長崎被爆者へ暴言」という記事、なんとも言えない怒りと、悲しい気持ちにさせられた。
 
「修学旅行で5月に長崎を訪れた、横浜市の公立中3年の男子生徒数人が、爆心地周辺を案内していた被爆者で語り部の森口貢さん(77歳)に「死に損ない」などの暴言を吐き、森口さんが学校に抗議していたことが、7日にわかった。
 森口さんによると、被爆者らが5月27日、3年生109人をグループに分け、爆心地周辺の被曝遺構を案内。森口さんが山里小学校で説明し始めたところ、グループから離れて行動していた数人の生徒が「死に損ないのくそじじい」と大声で叫んだ。
 
 森口さんは注意したが、この数人は周りの生徒にも「拍手しろ」などと言って妨害、暴言を続けたという。」
 
 この中三の子供たちの親たちも、戦争を知らない。おじいさん、おばあさんは、戦争の体験はあるだろうが、孫たちに戦争の恐ろしさを語っていないのか。
 
「森口さんは取材に、「こんな経験は初めてで悲しい。戦後69年がたち、戦争の悲惨さがわからない社会の雰囲気の中で、子どもたちが育っているのではないか」と話してる。」
 
 82歳のぼくは終戦の時、中学1年生だから、戦争の悲惨さは身にしみて覚えている。
 今や戦争を体験していない人たちが政治家になり、学校の教師も戦争を知らずに、子供たちに教えているのだから、こうした子供たちが育っているのは、当然のことなのかもしれない。
 今の世の中、戦争への道へ少しずつ進んでいるように感じられる。
 
 中国は軍事力を強めているが、日本に対して戦争はしないだろう。一人っ子政策を取とっている中国。そんな一人っ子の息子を戦争で死なせたくないと親はおもっているに違いない。
 それに中国は国内にいろんな問題を抱えているから戦争などできまい。北朝鮮だって、食べるものに困っていては戦争を好むまい。
 
 世田谷中学の武器庫には、 38式というちゃちな小銃が、並べられていた。ぼくはそれを持つことはなかったが、上級生は教練で使ったのだろう。
 
 今、テレビに登場しているウクライナの親ロ派の男たちが手にしている、進化した小銃はかっこいい。テレビの画面で見ていると、そんな小銃を撃ちまくってみたいと思う若者もいるかもしれない。
 ぼくが戦時中、住んでいた世田谷の街は空襲は何度もあったが、下町のように死体がごろごろしているような悲惨な光景は、幸いにも見ていない。
 
 戦後9年目に父が出版した『歌集・廣島』朝日新聞の社会面トップで、紹介してくれたが、あまり売れなかったと記憶している。
 24万7千人の命が、一瞬にして消えた原爆の悲惨さ。長崎でも多くの人が亡くなっている。
 
 焼けただれ盲となりし幼子が母の名呼びて迷ひをれり
 
 一弾で幾十万の民殺すアメリカの非道この眼で見たり
 
 生きながら体に顔にウジが這い中学生は7日目に死す
 
 これでも「死に損ないのくそじじい」と叫ぶのか…

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2014年6月28日 (土)

文化勲章受賞の中西進さんが仲人

 上越新幹線の終着駅は「新潟」、そのひとつ手前「燕三条」という駅がある。そこから女房の故郷、弥彦村までタクシーで20分ほどだ。
 
 三条市は古くから刃物の街として栄えてきたが、中国でスプーンや、ナイフ、フォークなどが安価で作られるために、今では苦戦を強いられているようだ。
 
 その町の新聞が「三條新聞」、弥彦村での出来事も報じられているので、東京にいても村の様子を知ることができる。
 
 弥彦村に平成五年、「ロマンの泉美術館」をオープンした時から、展示品を変えたり、イベントを開いたりすると、大きく紹介してくれて、大変お世話になった。今でも一日遅れで、新聞を郵送してくれている。
 
「無題録」というコラム欄に、4月14日の新聞が面白いことが書かれていた。
 
「結婚情報誌『ゼクシィ』の調査によると、最近の結婚式の99%は、仲人を立てないスタイルなのだという。
 仲人のいる結婚式は、ニホンウナギ同様、絶滅危惧種らしい。仲人を立てない理由は、「特に必要性を感じない」「形式にこだわりたくない」「いろいろと面倒」「頼める人がいない」「予算の都合で」などだった。
 
 以前は仲人が結納から結婚式まで、両家の間を取り持ってくれた。見合い結婚が全盛の頃は、縁談の段階から仲人が世話を焼いた。
 結婚後も夫婦仲が深刻な状態になると、間に入って諫めてくれるのが仲人だ。近年、離婚が多いのは、仲人がいないことも理由の1つではないだろうか。(後略)」
 
 ぼくと久美子との仲人は、昨年の暮れに高倉健さんらとともに文化勲章を受賞された、万葉集研究の権威、中西進さんご夫妻だ。
 確か『薔薇族』を創刊した前年、昭和45年(1970年)で、ぼくが38歳、久美子が28歳の時で、新宿厚生年金会館で挙式した。
 それから40数年、仲良く? 暮らしているが、仲人の中西進さんは、4人も子どもさんがいるのに離婚、その後、2度目のチャーミングな奥さんと再婚された。
 
 15年ほど前に、ぼくの次男が結婚。新宿の京王プラザホテルで、盛大な披露宴を催したが、京都からご夫妻で出席してくれて、スピーチもしてくれた。
 奥さんが料理を中西さんの口に運んだりしていた、仲睦まじい光景を今でも覚えている。その若い奥さんが文化勲章を受賞する2年ほど前に、亡くなられてしまった。
 
 2014年の5月10日、二重橋前の東京会館隣の東京スカイルームで、中西進さんの文化勲章受賞を祝う会が開かれた。
 しばらくぶりにスーツを着て、ぼくも出席したが、全員着席のスタイル、料理は自分で運んできて、自分の席で食べる。誰が企画したのか、会場がよくない。天井が低くて細長い会場で、 200人の出席者だから、身動きできず、隣の人に話しかけるしかない。
 
 僕は無類のパーティー好きで、今までどれだけのパーティを開いたことか。記録を残しておけば、パーティーの回数ではギネスブックに認定されたかもしれない。
 友人、知人たちが出席してよかった、楽しかったと思って帰られるように気を遣ったものだ。
 
 中西さんの隣に座っている、着物姿の品の良い女性、娘さんかと思ったら、なんと3度目の奥さんだと知ってびっくり。
 中西さんはぼくより年上の85歳、奥さんは50代の方だ。中西さんは体型が学生時代から変わらない。この辺に理由があるのだろう。中西さんは女性に関しても、勲章ものといえるのでは……。

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2014年6月21日 (土)

ノンケのぼくは、どんな読者でも受け入れる!

 二代目の『薔薇族』編集長の竜超君が、こんなことを書いているのを読んだことがある。
 
「伊藤さんが『薔薇族』を成功することができたのは、藤田竜さんという、雑誌づくりの名人に出会えたから」と。
 
 確かに親父の後を継いで、出版の仕事を長い間してきたが、第二書房は単行本専門の出版社で、短歌雑誌の『コスモス』を発行したことが合ったが、これは親父1人の仕事で、雑誌作りの経験はなかった。
 
「竜さんと出会わなかったら」
 
 今まで竜超君にそんなこと言われなければ、考えたこともなかった。ぼくひとりで『薔薇族』を創刊したら、どんな雑誌になっていたのか、何十年も前のことだから、想像することもできない。
 
 いまさらそんなことを考えたところで、 どうにもなるものではない。
 その人が持っている「運」みたいなものは確かにある。単行本の「あとがき」に「雑誌を出したい」と書いたら、間宮浩さんから、手紙をもらって、間宮さんのマンションに出向き、そこで藤田竜さんとも会うことができた。
 
  お二人ともSM雑誌『風俗奇譚』に原稿書いていた人だ。この雑誌は男女のSMの雑誌で、男性同性愛の記事は、ごくわずかだった。
 2人は不満をこの雑誌にもっていたので、協力したいと思ったのだろう。
 『薔薇族』の成功は、雑誌を正規のルート「トーハン」「日販」などの取次店(本の問屋)に扱ってもらい、全国の書店に配本してもらうようにできたからだ。
 
『薔薇族』の創刊号を出した、1971年よりも、20年以上も前に、非合法の会員制で出版していた『アドニス』『薔薇』『同好』などがあったが、会員は少なかった。
 大阪市の浪速区に事務所を置く、毛利晴一さんが主催する『同好』『清心』は、ひとときは、1500人もの会員を集めていた。
『同好』のことは、ブログに何度か書いているが、人間的に立派な人で、多くの会員に慕われていた方だ。
『清心』の5号に、毛利さんは、こんなことを書いている。
 
「ある会員が私に、先生、こんなお仕事を10年以上もやってこられたのだから、面白いこともあったでしょうから、それをまとめて出版されたらいかがですか。
 日本広しといえども、 これだけ長い間、同好者に接してきた方はいないのだから、内容豊富でよく売れると思いますよ。
 長い間のことですから、それは苦しいこともたくさんありました。
 よく考えてみると、同好者の性格からくる浅知恵といいますか、色事に対する人間の弱さ、異常体質からくる、異常性格と、それに常識不足と言えば失礼ですが、つまり自己流の物の考え方からくる、迷惑といったようなことが多いのです。
 
 我々の間では、あまり気にしていないことでも、一般の人から見れば、とんでもないといったようなことが多いのです。
 同好者が映画館で相手を求めたり、公衆便所で探したりする動作を、一般人がその場面に出会ますと、まるっきり気狂い沙汰としか考えないでしょう。」
 
 藤田竜君が、『薔薇族』が創刊して5年目に「アホは地獄に落ちて、うんと苦しめ!」という記事を書いて、数ヶ月、編集の仕事をやめてしまったことがあった。
 毛利さんも、藤田竜さんも、心ないアホな読者にやりきれなかったのだろう。お二人ともそれはゲイだったからで、ノンケのぼくはどんな読者でも受け入れてしまったから、長く続けることができたのだろうと思っている。

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2014年6月16日 (月)

22歳、若い軍医と当番兵の話

 こんな人権無視の野蛮な行為が行われていたなんて。戦争は個人の人権など、全く無視されてしまう。戦争って恐ろしい。
 ぼくが中学1年生の時に、世田谷学園には、地方から召集されてきた兵隊たちが駐留していた
 廊下の窓ごしから、この「M検」の光景を覗き見してしまった、ショックな体験があるだけに、「M検」の話は、なまなましく思い出される。
 
「この日もあいも変わらぬ同じようなM検に、軍医はそろそろ倦怠を覚え始めていた。だが、何番目かの兵隊を見たときだった。軍医は思わず身震いした。
 へその下から股間にかけて、黒黒と密生している体毛、その中から顔を見せている、太くたくましい男のシンボル。この日、初めて目にするすばらしいしろものに、思わず軍医は、手をのばし、ぐいと引き寄せた。そして二、三回、手荒に検査すると、みるみるうちに反応を見せて、軍医の手の中で、男のいぶきすら、匂ってくるかと思われた。
 
 軍医は感動し、顔を上げて兵隊をみた。そして、 あっと驚きの声を漏らした。なんとその兵隊は、軍医が官舎でこき使っている、自分の当番兵(上官の世話する係)の小島二等兵ではないか。
 
 軍医に見つめられ、小島当番兵の顔は、朱に染まった。目のやり場に困っているような初々しさに、軍医は抱き締めてやりたいほどの愛しさを覚えた。
「本日より軍医殿の当番を命じられました。」
 つい最近そう申告した初年兵らしい、真剣そのものの小島に、だれが、このような素晴らしい肉体を予想できただろうか。
 こんな当番兵と、毎日、一緒にいられる、かつてない喜びに、軍医の胸ははずんだ。
 
「年はいくつだ、お前」
「はい、22であります」
「俺と同年だ。仕事は何をやっていた?」
「風呂屋の三助(銭湯で、風呂をたいたり、客の体を洗ったりすることを仕事とした男)をやっておりました」
「女遊びの経験はあるな」
 照れて返事をしない当番に、
「遠慮するな、お前のMを見れば、わかることだ。さ、もっと、そばへ寄れ。命令だ」
 そばへ引き寄せ、からだに手を伸ばした。
「あっ!」
 身を引こうとする当番に、
「命令だ、足を開け」
 軍医は一喝した。
 
 足を開く当番兵の体に、軍医は手を伸ばし、むずと、つかんだが、硬い兵隊ズボンが感触の妨げとなった。
「じゃまだ。裸になれ」
 軍医の命令で、当番兵は仕方なく、ふんどし1本の裸体となった。
「うん、見事だ!」
 軍医はあらためて感動し、しばし、杯を口にふくむのを忘れたほどだった。真っ白いふんどしは、Mのかたちをくっきり見せて、盛り上がり、豊かな体毛は、前袋から両側に、黒黒とはみ出している。
 
「そばへ寄れ。酌をするのだ」
 小島はふんどし一本のまま、そばにかしこまって酌をした。酒の肴に当番兵のふんどし姿は、なによりの楽しみとなった。
 
 さらに、いま一つの楽しみは、当番兵と一緒に宿舎の風呂に入ることだった。仕事が三助だっただけに、彼の流しは上手で、軍医はそれこそ天国に遊ぶ思いがした。」
 
 まだまだ面白い話が続いているが、この辺でやめておこう。22歳、今の若者は子供だが、戦前の若者は大人だった。将校と兵隊、その差は想像もつかない位の隔たりがあった。貴重な話ではないか。

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2014年6月14日 (土)

「M検」をする軍医の目で!

「M検」(軍隊で定期的に、軍医が兵隊たちを丸裸にして並ばせ、おちんちんを絞って、性病に感染しているかを検査すること。「娑婆」から、軍隊という特殊な世界に入ったことを兵隊たちに自覚させる儀式でもある)
 何度もぼくのブログで「M検」のことを紹介したが、ほとんどは「M検」をされる側が書いたものだった。ところが小説の形をとってはいるが、「M検」をする側の軍医のことが描かれたものもある。
 
「男の世界・傑作復刻集」という雑誌を見つけ出した。いつ発行されたのか、どこの出版社で出したものか、何も記されていない。
 10篇の小説が載っていて、『風俗奇譚』昭和38年7月号・ 9月号・昭和39年4月号・ 6月号より抜粋とある。
 
 昭和38なんていうと、 1963年だから、今から51年も前の話で、アメリカのケネディ大統領が暗殺された年のことだ。
 日本では「高校3年生」「美しい十代」「こんにちは赤ちゃん」がヒットした時代だから、遠い昔の話だ。
 
 「かわいい当番兵」と題する小説で、作者は松下とおるという方だ。長い小説なので面白いところを2度に分けて紹介しよう。
 
「昭和18年、N医大をすると、すぐに召集され、北満の国境近い. 一三○五四部隊の軍医として派遣された。その当時は緊張し月一回のM検の日ともなれば、羞恥と期待に胸が震えたものである。」
 
 医大を卒業して、すぐに軍医となったとあるが、すでに将校になっていたのだろう。軍隊というところは、上下の区別が厳しいところだから、若くても位が上なら、年上の兵隊は絶対服従の世界だ。
 
「あと何人、残っているのだろうか。M検で疲れた手首を押さえ、塚田軍医は目を上げた。
 広い検査場には、まだ100名近い兵隊の裸像が、うごめいていた。あと、まだ100人、期待していためぼしいしろものにぶつからず、軍医は、いくらか投げやりな気持ちになっていた。
 
 軍医はあごをしゃくり、目の前の兵隊をうながした。促された兵隊は、幾分緊張し、直立の姿勢のまま前に立つと、下腹をいくらか近づけた。
 一糸まとわぬ裸体である。黒黒とした体毛の中に、さすがに緊張してか、男のしるしが萎縮している。そんな兵隊に出会うと、軍医は妙に嗜虐的になってくるのである。手を伸ばすと、兵隊の体をぐっと握りしめ、前へ引き寄せた。
 
 兵隊の口から、かすかな驚きの声が出たようである。じろり、軍医が見上げると、兵隊は畏怖の情を面に出して、かしこまった。
 
 軍医は手荒にしごいた。馬か牛並みの扱いである。
 異常なしとわかると、冷酷に兵隊を突き放す。兵隊は頭を下げ、惨めな肉体を隠すようにして、裸像の群れに隠れていった。
 
 黒黒と密生した体毛に覆われた下腹、盛り上がった胸、太い首、人を食ったようにびくともしないつらだましい。そんな兵隊にぶつかると、軍医も挑戦的になり、二、三回ですむところを、五、六回、力いっぱいしごいてみせる。その部分が変色するまで、なぶり続ける。
 
 また、入ってきたばかりの初年兵で、たくましいわりに、おさなげな色が残ってる男にぶつかると、愛撫するように、優しくいたわることもあった。
 これ全て軍医の特権で、相手が兵隊で、無抵抗なことも、軍医の征服感を、いやが上にも膨らましたものだ」(つづくしねしね)

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2014年6月 9日 (月)

お役人、保身のために古木切り

 我が家から淡島通りに行く途中に、ケヤキがそびえ立っている。その木に北沢公園管理事務所の張り紙がかけられていた。
 
「お知らせ・このケヤキは材質腐朽菌に侵されていて、健全に育つ見込みがありません。今後、台風などの強風により、倒伏及び枝が折れたりするおそれがあるので、近日中に伐採いたします。また伐採後は、植栽をする予定です。北沢公園管理事務所」
 
 たかと思った。去年だったか同じように張り紙されていたので、切らないで欲しいと、世田谷区長に手紙を出して、直訴したが無駄だった。
 確か世田谷区の樹木のシンボルは、ケヤキだったと思う。戦前、ぼくの子供の頃は、ケヤキの大木があちこちにそびえ立っていたが、家がどんどん建って、ケヤキは切り倒されてしまった。
 
 ぼくが住んでいるマンションの大家さんは、徳川時代からの名主さんで、立派な赤門だけが残され、ケヤキの大木も何本か残されている。
 
 とにかくお役人というものは、保身のために自分の任期中に、何事もなく過ごしたいと誰もが思っている人たちだ。
 
 それは2013年の4月に、代田川のほとりに、歌人、斎藤茂吉の歌碑を林清孝さんと二人で、区の援助もなく建てることができたが、その時区のお役人と接することになった。
 高さ2メートル半の大きな歌碑を立てるということで、お役人がまず心配したのは、地震が起きたときに、歌碑が倒れてけが人が出やしないかということだ。
 
 歌碑が倒れるような大地震が起きたら、全ての建物が倒れてしまうだろうに。そのことで1年近くも決断を下せなかったお役人。
 次の心配は、以前は川だったのを暗渠にして、下水を流している。表面から5メートルもあるところに、土を盛ってあるというのに、コンクリートの壁が壊れやしないかという、 お役人の心配だ。
 
 その下水を管理しているのは、 区ではなく都の水道局だ。そこにお伺いを立てるのだから、また長い月日がかかってしまった。
 お役人というのは、全てがこの調子だから、決断するまでには、長い月日がかかってしまう。
 
 今日、桜並木を歩いてみたら、ケヤキだけではない、何本もの桜の木にも同じようなふだが下がっていた。
 ぼくが生まれたのは昭和7年の3月だ。その頃、父が撮った写真が残っているが、松崎さんというお金持ちが桜の木を寄付したそうだ。
 植木されたばかりの細い桜の木が、丸太で倒れないように支えられている写真だ。
 
 ソメイヨシノという桜の寿命は、7,80年といわれているから、ぼくの寿命と同じで、弱ってきていることは間違いない。それでも懸命に生きて、毎年、春になれば花を咲かせているものを切り倒してしまうとは許せない。
 
 また新たに植えれば良いとはいうものの100年近い年月がかかるというものだ。
 情けないことに、他人の事など全く考えない人間ばかりになってしまっている。今の世の中、さくらやきやきが切り倒されることなんか、なんとも思っていないだろう。
 
 公園事務所にも予算があって、それを使い切らないと、来年度、予算が増えないから仕方がないことかも。
 
 それに造園業の人たちも仕事が減っているから、桜やケヤキを切り倒してまた新しい木を植えなければ困るのだろう。お役人って幸せな人達だ。

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2014年6月 7日 (土)

夢のような時代から、どん底へ!

 侯爵フランツ・フォン・バイロスは、19世紀末から20世紀のはじめに、ウィーンとミュンヘンで活躍して、 58歳でその生涯をとじた異端の挿絵画家だ。
 挿絵画家というよりウィーン的な装飾画家といった方がいいかもしれない。
 画家バイロスの名前を知っている人は、日本では少ないだろう。日本ではビアズレーのほうが有名で知っている人は多い。
 
 今から23年前の1991年、平成3年の3月に読売新聞社から刊行された『アール・ヌーボー/アール・デコ』の第5集に、ぼくは「イカール追想―人との出会い、モノとの出会い」の記事を書かせてもらっている。
 
 同じ号に神戸在住の美術研究科、山本芳樹さん(数年前に亡くなられている)の「ウィーンの装飾画家・侯爵フランツ・フォン・バイロス」の記事が載っている。
 そんなご縁で上京された時に、山本さんと出会い、親しくお付き合いさせていただいた。平成3年というと、日本はまだ景気のいい時代だった。
 
 読売新聞社から「よみうりカラームックシリーズ」として、豪華な雑誌が次々と刊行され、「西洋骨董」というタイトルでも刊行されていた。
 
 高価なガレー、ドームなどのガラス製品、家具などが売れていた時代だから、高価な広告料だったと思うが、多くの骨董店の広告を載せられたから、このような豪華な雑誌を出せたのだ。
 
 今の不景気が続く時代に、この雑誌を開くと夢のような気がする。下北沢の親しい骨董店のご主人が、もうあんな時代は、二度と来ないだろうと、しみじみ語っていた。
 ぼくも夢の世界に生きて、今ではどん底の世界を味わっているのだから、なんていっていいのかわからない。
 
 わずかな年金が2カ月おきにもらえる。今度の支給日が6月15日。それまでつながらなくて、昨日、新百合ヶ丘に住む姉に、借用書を書いて、お金を借りてきた。
 
 お寿司をご馳走になり、カフエでコーヒーとケーキを食べ、食品店でおみやげ物まで買って持たせてくれた。
 
 女房の田舎からは、兄がおいしいお米を送ってくれた。兄妹って本当にありがたいものだ。
 友人、知人に金を貸してくれと頼んで、こころよく貸してくれる人っているだろうか。
 
 もうなくなってしまった、中学、大学時代からの友人、お寺の住職で、劇団を主催して、演出家として活躍したが、借金をするのが上手な人だった。
 別れた奥さんと電話で話をすることが、時々あるが、住職という肩書きが、相手を信用させるのだという。
 
 僕が貸した25万円の名刺に書いた、借用書が残っているが、お金を借りるのって、 1つの才能だろう。
 仕事を頼んでいた、小さな印刷屋の親父が銀行が閉まる少し前にたずねてきて、貸してもらえなければビルの屋上から飛び降りるようなことを言われ、女房は350万円貸してあげたこともあった。もちろん返ってこないが。
 
 バイロスの作品が、ぼくの手元に残っていて、銀座の「ヴァニラ画廊」で、6月16日から、6月28日まで、展示、即売会が開かれる。入場料は500円だ。
 
 バイロスのことをもっと紹介しなければいけないのに、とんでもない借金の話になってしまった。
 話はぼくが借金をしなくても、バイロスの作品が少しでも売れてくれれば、助かるというだけの情けない話だ。4

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2014年6月 5日 (木)

第30回「伊藤文学と語る会」

来る6月28日(土)、下北沢のカフエ「占茶」にて、第30回「伊藤文学と語る会」開催致します。
 
日時・6月28日(土)午後12時~14時
場所・下北沢一番街、カフエ「占茶」
会費・各自が飲食した分だけ。
コーヒー¥380、ハヤシライス¥600
初めての方、女性の方、ご年配の方、お一人様、大歓迎! お気軽なご参加を、お待ちしております。
 
世田谷区北沢2ー34ー11 リアンビル2階 電話・03ー3485ー8978

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